第十三章 夢と現の狭間(第三話)
清志郎は澄の笑顔と他愛ない会話に誘われ、美しい草花が広がる庭園へと足を踏み入れた。
藤棚の下で休息しようとしたその瞬間、足がもつれ、澄を庇いながら倒れ込んでしまう。
甘い香りと触れ合う体温が、理性の境界線を危うく揺さぶる。
眩しい――。
夏のように強烈な日差しではないのに、久々に外へ出た清志郎の目には、世界がひどく白く映った。
徐々に目が慣れてくると、空の青さが鮮やかに心に染み渡る。
部屋の障子越しに見ていた切り取られたような景色とはまるで違う。
少し歩けば、少し顔を上げれば、そのたびに風景が変わっていく。
風を全身で感じ、屋敷周辺の林からは小鳥たちのさえずりが心地よく響いてくる。
世界はこんなにも美しいものだったか――そのことに清志郎は強く胸を打たれた。
「無理しないでね。ゆっくりでいいのよ」
清志郎は、澄が見守る中、屋敷の壁や柱に手をつきながら、風間が自慢する庭のある場所へ向かおうとしている。
「大丈夫。思ったより歩けそうだ」
「そう?なら、よかったわ。薬草の他に綺麗な花も咲いてるの。素敵なところよ」
「へぇ、それは楽しみだ」
清志郎が笑うと、澄もくすりと笑い返した。
「ねぇ、花や薬草には詳しい?」
「えぇっ?詳しくはないよ。人並なんじゃないかなぁ」
「じゃあ、きっと驚くわよ。清志郎さんの知らない草花が、たくさんあると思うわ」
「そういう、澄さんは詳しいのか?」
「どうでしょう?でも、風間医院のものは殆どわかるわ」
「風間医院のものはってことは、先生か新太に聞いたんだろ?」
「ふふっ、ばれた?」
二人は心から楽しそうに笑い声を響かせた。
いつの間にか、二人の会話に堅さが消えていた。
昨日と同じく、また一歩、心の距離が縮まったようだった。
「それにしても、風間医院は立派だなぁ」
(名家や金持ちの御用達か。母上もこんな場所で診てもらえれば……)
胸の奥で、古い痛みがうずいた。
今更考えても、どうしようもないことなのに、どうしても考えずにはいられない。
「どうしたの?もしかして、お腹が痛む?」
足を止めてしまった清志郎に、澄が心配そうに声を掛ける。
「いや、風間医院の大きさに驚いていただけさ。平気、平気」
実際、痛みは予想以上に和らいでおり、回復が着実に進んでいることを、改めて肌で感じた。
「お庭についたら、一旦休憩しましょう。頑張って、もう少しよ」
澄のその一言が、まるで背中を優しく押してくれたかのようだった。
昨晩は絶望の淵に沈んでいたというのに――清志郎は、自分の心が青空のように澄み渡っていくのを感じた。
「ほら、ここよ。素敵でしょ!」
澄が急に清志郎の腕を取り、「早く、早く!」と引っ張った。
「おっとっと。危ないよ、澄さん。……あ」
清志郎の目に飛び込んできたのは、色とりどりの花々が咲き誇る庭だった。
白や黄色の水仙が春風に揺れ、紫と橙のビオラが小さな花を寄せ合って咲いている。
足元には、青い粒を並べたようなムスカリが地面を彩り、頭上では黄金色のミモザがふわりと枝を垂らしていた。
その合間には薬草が整然と植えられ、その美しさと実用性が見事に調和していた。
「わぁ……すごいな」
思わず声が漏れる。
ここに至るまでの一歩一歩が、報われるような光景だった。
「初めて見たな、こんな庭……」
庭の奥には藤棚があり、青々とした葉が陽を受けて風に揺れている。
まだ花房は垂れておらず、硬いつぼみが枝先に小さく並んでいた。
やがて訪れる満開の季節を待っているかのように、その下には木の長椅子が置かれ、腰を下ろして春の日差しを楽しめるようになっていた。
「ここなら、気持ちよく休めそうでしょ?」
澄の笑顔と庭の明るさに包まれ、清志郎の胸の奥に染みついていた暗い影が、少しずつ薄れていくのを感じた。
「ここからは、掴まるものがないわよ。はい、掴まって」
澄は清志郎の正面に立ち、両手を差し出し、藤棚の長椅子まで歩くよう促した。
清志郎は、少し頬を染め戸惑う。
「す、澄さん、後ろ向きに歩ける?」
「心配ご無用よ。さぁ、藤棚まで頑張るのよ」
「わかったよ」
これは歩くための訓練だからと自分に言い聞かせて、照れくさそうにしながらも、澄の両手をそっと握る。
気持ちは有難いが、正直、澄の細腕で、自分を支えられるとは思えない。
これは、自力でしっかり歩くしかない。
(澄さんを転ばすわけにはいかないからな……なるほど、これは、いい訓練になりそうだ)
自力で歩く距離が長くなるにつれ、腹に鈍い痛みを感じ始めた。
耐えられないほどではないが、ずっと寝たきりで少量の粥しか口にしていないせいか、体力の衰えをはっきりと実感していた。
気を抜けば足が震え、つまづきそうになる。
息を切らしながらも慎重に足を運び、なんとか藤棚までたどり着くことができた。
「頑張ったわね、清志郎さん。さ、そこに座って。休みましょう」
「ああ、ありがとう」
清志郎は、ほぼ自力で歩けたことで、深い達成感に満たされていた。
ところが、その達成感が、張り詰めていた脚の力をふっと緩ませてしまったのかもしれない。
次の一歩を踏み出そうとした足がもつれ、ぐらりと視界が傾いた。
「あっ!」
「危ない!」
澄の悲鳴と同時に、清志郎は無意識に澄を庇うように腕を伸ばし、自分の方が下になるように倒れ込んだ。
「……っ!」
硬い地面に背中を打ちつけた痛みと、脇腹に走った痛みに顔を歪める。
だが、その痛み以上に胸を締めつけたのは――澄が自分の胸に倒れ込み、潤んだ瞳でこちらを見つめていたことだった。
「……」
「……」
艶やかで柔らかな澄の髪が、清志郎の頬をくすぐる。
庭に咲き乱れている花々のような、ほのかな甘い香りがした。
吐息が触れそうな距離――互いの体温が重なり合い、心臓の鼓動がいやに大きく響く。
清志郎は思わず息を呑む。
澄は何も言わず、ただ、息を潜めるように見つめ返してくる。
あと少し――ほんのわずかに顔を傾ければ、唇が触れてしまう。
胸の鼓動が破裂しそうに鳴り響き、理性が悲鳴を上げた。
(だめだ……!だめだ!だめだ!だめだ!)
清志郎は必死に理性を繋ぎとめ、力を振り絞って体を起こした。
「す、すまない……大丈夫か?怪我してない?」
「え、ええ、私は平気よ」
澄はわずかに頬を染めたが、すぐに表情を引き締めると、何事もなかったかのように立ち上がった。
「あなたこそ……」
その優しさが、かえって胸を締め付ける。
「お、俺は……平気さ」
――危なかった。
ほんの一瞬で、心の境界線を踏み越えるところだった。
胸が、まだ激しく鳴っている。
これが何を意味するのか、清志郎自身が一番よくわかっていた。




