第十二章 禁域より来たる女神(第一話)
清志郎が姿を消して五日。
残された者たちは、最後の望みを胸に、村人さえ畏れて近づかぬ禁足地へと足を踏み入れる。
踏み越えた瞬間から、二人を待つのは静寂か、それとも……。
「り、龍之介……やっぱりやめよう。いくら何でも、ここはまずい」
湿った土と腐葉土の匂いが立ち込める中、宗真の声は恐怖に震えていた。
「ここは禁足地だ。幼い頃から、絶対に足を踏み入れるなと言われてきた……村の掟のようなものなんだ!」
「ここしか残されておらぬと、そう言ったのはお主ではないか!」
清志郎が姿を消して、今日で五日。
もはや、この禁足地以外に探すあてはない。
龍之介は苛立ちを隠そうともせず、低く唸るように言った。
言い争う二人の前には「この先、入るべからず」と墨書された古びた立て札と、侵入者を拒むかのように縄が張られている。
「そ、そうだが……。しかし、ここには本当に何かいる気がするんだ。幼い頃、他の子供らと悪ふざけで入ろうとしたとき、住職に見つかってな。普段は温厚なあの住職が、血相を変えて私たちを怒鳴りつけたんだ。後にも先にも、あんなに厳しいお叱りを受けたのは、あの時だけだ」
「ほう。そのとき住職は、なぜ入ったらいかんのか、教えてはくれなかったのか?」
「そのときは……大人になったら、教えてやると……」
「もう充分、大人ではないか!なぜ詳しく聞いておかんかったのだ!」
龍之介の呆れたような言葉に、宗真の中で、何かが弾けた。
思えば、この村の大人たちは、いつもそうだった。
“そのうちわかる”――そう言って、誰も答えようとはしなかった。
まるで、その話題自体が禁忌であるかのように。
これまで感じたことのない深い不信感が、黒い渦のように宗真の胸中に広がり始めた。
「……もしかして私たち、何か大事なことを隠されてきたのか……?」
宗真の呟きは、まるで彼をあざ笑うかのような木々のざわめきに吸い込まれて消えた。
「私たちは、禁足地の理由も知らずに……ただ、この村の掟に……従ってきた?」
その言葉に、龍之介は答えなかった。
いや、答えられなかった。
彼もまた、同じ疑念を抱いていたからだ。
「宗真、儂は行く。もし、これがお前の言う通り何かを呼び起こし、村に災いが降りかかったなら、すべての責めは儂が負う。腹を斬る覚悟はできている」
龍之介は、ためらうことなく縄に手をかけた。
「……待て、龍之介。私も行こう」
静かな覚悟を決めた宗真の顔を見て、龍之介は不敵に口の端を上げた。
「そうこなくてはな!」
二人は同時に、縄で仕切られた境界線を越えた。
その瞬間、ざわめいていた木々の音が、まるで何かに気づいたかのように静まり返った。
杉林の奥深く、湿った腐葉土が、草履に吸い付く感触が心地悪い。
龍之介と宗真は、互いに言葉を交わすことなく、静かに歩みを進めていた。
周囲は薄暗く、木々の隙間から漏れる光は、まるで何かが潜んでいるかのような影を作り出している。
「……妙だと思わんか、宗真」
不意にに龍之介が立ち止まり、囁くように言った。
「音が、せん」
「確かに……静かすぎるな」
宗真も耳を澄ますが、聞こえるのは自身の心臓の音ばかり。
鳥も、虫も、風さえも息を潜めていた。
沈黙は、まるで見えない何者かが、二人を監視しているような錯覚を生む。
「龍之介、あれは!」
宗真が指差した先、木々の隙間から何かの建物の影が覗いていた。
龍之介は、自然と速足になり、宗真も遅れまいと、その後に続いた。
鬱蒼とした木々の間を抜けた先、ふいに視界が開けた。
そして、その中央に――時間が止まったかのような古びた神社が佇んでいた。
「こ、こんな場所に社が……?禁足地だとしか聞いてないぞ!」
宗真は信じられない思いで目を見開く。
鳥居、掃き清められた玉砂利、真新しい注連縄。
どれも風雨に晒されているはずなのに、不思議なほど人の手が入っている。
拝殿には、まだ新しい供え物の痕跡まであった。
誰かが手入れをしているのだ。
今も、定期的に。
「禁足地とは名ばかりか。綺麗なものじゃな。一体、何の神を祀る社だ?」
龍之介の言葉に、宗真の額にじっとりと汗が滲む。
村の寄合衆――とりわけ父である住職への信頼が、足元から崩れていくようだった。
知られざる一面を突きつけられ、宗真の心は激しく乱れる。
(父上は、一体何を隠しているんだ?)
一方、龍之介は警戒を解かず、鋭い視線で社殿を睨みつけた。
「ま、待て……まさか、監禁、なんて……」
(そんなことがあってたまるものか!)
しかし、今の宗真には、その可能性を完全に否定するだけの自信がなかった。
「おい、宗真。これ……血の跡じゃないか!」
龍之介の険しい声に振り返ると、社の柱に手をかけた彼が、そこに付着した黒い染みを指していた。
宗真の顔から、さっと血の気が引く。
拝殿に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
人を拒むような、冬の底のような冷たさと重さ。
淀んでいるわけではないのに、肌を刺すような清浄さが、かえって異様だった。
中はがらんとしており、特に変わった様子はない。
拝殿の窓越しに、奥の本殿をそっと覗き込む。
「……空っぽ、か」
通常であれば、そこには御神体が安置されているはずだ。
しかし、御神体があったであろう台座だけが、ぽつんと残されている。
「どういうことだ……? 御神体のない社を、誰が何のために手入れし続けているんだ……」
「入るぞ、宗真!」
「ま、待て! さすがに本殿に上がるのは……!」
宗真の言葉を聞き流し、龍之介は迷うことなく本殿へと足を踏み入れた。
本殿には、台座以外に何もなかった。
だが、その“何も無い”こと自体が異様だった。
ここは信仰の場であるはずなのに、まるで何かが“ここから去った”後のように、痕跡だけが漂っている。
壁に文字のような紋様のものが、いくつか見受けられるが、なんと書いているのかわからない。
「……おらんか、清志郎」
龍之介は、がっくりと肩を落とし、本殿に座り込んだ。
一方、宗真は台座の前に目を留めた。
そこには、小さな瑠璃色の玉飾りが置かれている。
「これは?」
透き通るような瑠璃の輝きは、薄暗い本殿の中で不自然なほど鮮明だ。
漆黒の紐に繋がれ、房の部分まで手入れが行き届いている。
誰かが最近触れたような痕跡があり、宗真は思わず手を伸ばしかけたが、何かに見られているような感覚に襲われ、手を引っ込めた。
「隠し部屋もないようだな」
龍之介が静かに、無念そうに呟き、宗真の方を振り返った。
「何を熱心に見ている、宗真」
「わからんが、身に着ける飾り物のようだ」
「美しいが、女物の髪飾りにしては少し地味じゃな。そもそも、何に使うものだ?首から下げるには、紐が少し短いようだが……」
結局、二人は社の周辺をくまなく探したが、清志郎に繋がる手掛かりは何も得られなかった。
「無駄足だったか。だが、この奇妙な社……この村が何かを隠しているのは確かじゃ」
「……」
「おい、なんとか言え、宗真」
「あ、ああ……そうだな。すまない、少し頭が混乱していて……。村へ戻ったら、父に……住職に、話を聞いてみる」
「そうしてくれ。清志郎の件と無関係だと良いがな」
「ど、どういう意味だ?」
「いや、ここの秘密を知ってしまったら、どうなるのかと思ってな」
ふたりの間に、暫し言葉が途絶えた。
見上げた社の奥、祠の天井から吊るされた注連縄が、風もないのにわずかに揺れていた。
それはまるで、何かが息をしているかのように。
……だが、それに気づいた者は、誰一人としていなかった。




