第十二章 禁域より来たる女神(第二話)
清志郎の不在が、村の空気をひときわ重くしていた。
残された者たちは皆、それぞれの後悔と罪を胸に抱えながらも、真実を求めざるを得ない。
やがて囁かれるのは、一族が代々畏れ続けてきた名――澄斬姫。
それは、ただの伝承か、それとも現実の祟りか。
「道善よ、いい加減、薬を飲んでくれ。粥も、もう少しだけでも食べてはくれぬか」
玄庵の声は、苛立ちを隠せない。
「紗世のことも考えてやれ。ただでさえ清志郎のことで憔悴しきっておる。哀れで見ておれんわ」
「そうだな……悔やんでも遅い。儂は本当に愚かだった。もはや、紗凪どころか、紗世にも顔向けできん。しかしな、玄庵。己の愚かさを痛感しておっても、この身体が言うことを聞かんのだ……」
道善は膝上の椀に手を伸ばしかけ、指先の震えに気づいて引っ込めた。
苦い薬の匂いだけが鼻に残る。
「お前が自分を責めるのはよくわかる。お前には、耐えがたい、惨いことをさせた。じゃがな、それが罪というなら、儂らも同罪ぞ。儂らも死なねばならんということじゃ。……死ぬ前に儂だけでも斬ってから往け!」
沈黙――。
縁の下で木が乾いた音を立てた。
「無茶を言うな。儂にはもう、そんな力は残っておらんよ……」
「残される紗世をどうするつもりじゃ? もちろん、儂と宗岳が責任をもって面倒を見る。じゃが、お前は紗世にどうなってもらいたいのだ?」
「紗世は……紗世は、前から清志郎に惚れておった。道場のことはさておき、清志郎ならば、紗世を幸せにしてくれる……そう信じて疑わなかった。儂が居なくなることで、かえって二人の負担が減るとさえ思っていた。……だが、儂が甘かった。まさか、清志郎まで失ってしまうとは……」
「清志郎は……本当に斬られて死んだのか?」
日が傾き、部屋の光は薄くなりはじめていた。
「今、うちに居候しておる高坂龍之介というものに話を聞いた。血糊のついた日本刀も見た。相手も剣術を学んでおったであろう、浪人どもだ。いかな清志郎といえども、そんな連中を複数人、真剣で相手にするのは厳しかろう。しかも、清志郎は人を斬った経験などなかったのだ……」
「しかし、なぜ遺体が見つからん? 相手に心当たりはないのか?」
「さっぱりわからん。わかっておるのは……儂が疫病神ってことくらいじゃ」
道善は口角だけで笑おうとして、うまく形にならなかった。
「笑えん冗談じゃぞ、道善」
玄庵が小さく咳払いをした瞬間、廊下が軋んだ。
道善と玄庵は思わず顔を上げ、予定外の訪問者に一瞬だけ視線を交わす。
「父上、ご住職がお見えです。なんでも、急ぎのお話があるとかで……」
紗世の声だ。戸の向こうで、返事を待っている。
二人は無言でうなずき合い、道善が短く答える。
「わかった。お通ししなさい」
「はい。では、ご住職、どうぞ」
戸が開くと、宗岳が顔を引き締めて立っていた。
普段は温厚で冷静な彼が、滅多に見せない動揺の色を浮かべている。
宗岳の指は数珠を強く握りしめ、血の気が失せて白くなっていた。
その異様な様子に、二人はただならぬ事態を直感した。
「お茶でもお持ちしましょうか?」と紗世が口にすると、宗岳は袂を振って断ち、視線だけで“部屋を外れよ”と告げた。
妙な圧を感じて、紗世は一瞬ためらう。
だが、三人の間にある空気が、自分を寄せつけないことを悟り、静かに下がった。
(ご住職のあの様子……もしかして、清ちゃんの遺体が見つかった?ううん、そんなはずない!そんなはずないわ!)
紗世は耳を塞ぎたい衝動に駆られ、縁側の部屋で、ひとり崩れ落ち、声を殺して泣く。
背後から、不意に声がかかった。
「大丈夫か、紗世さん?」
「清ちゃん?」
「あ、いや……すまん、儂じゃ」
振り返った先にいたのは、気まずそうに眉を下げた龍之介だった。
清志郎とは似ても似つかぬ武骨な顔。
「や、やだ……ごめんなさい。私ったら、清ちゃんと高坂さんを間違えるなんて……」
唇が震え、また涙が零れ落ちる。
龍之介は、差し出すべき清潔な手拭いを持っていないのが歯がゆかった。
自分の手拭いは、さっき汗を拭ったばかりで、とても人には出せぬ状態だった。
「清志郎のことが、諦めきれんのじゃな。それは、儂と宗真とて同じこと。……また明日、探しにいく予定じゃ」
嘘だ――もう探す場所は残っていない。
それでも、龍之介はそう言わずにはいられなかった。
「そ、そうじゃ。今日は儂が夕飯を作ろう。少しでも元気を出してくれ」
縁側の外では、宗岳の低い声が漏れ聞こえていた。
それは、間もなく始まる“話し合い”の重苦しさを予感させるものだった。
「さて――話というのは?」道善の声は、低く乾いた響きを帯びていた。
「……金那町の寺から使いがあった」
絞り出すような宗岳の声に、道善と玄庵は顔を見合わせた。
ただ事ではない気配が、部屋の空気を重くする。
「郡奉行、黒川家の次男が……亡くなったそうだ」
「黒川元晴のことか?」
「知っておるのか、道善」
宗岳は、道善が名前を言い当てたことに驚いた。
「ああ。清志郎がよく顔を出していた剣嶺館の門弟だ。だが、ろくな噂は聞かぬ男よ」
「で?そやつがどうかしたのか?」
事態を早く把握したい玄庵は、続きを促した。
「表向きは風邪をこじらせた肺の病による病死と片付けられておるが……」
宗岳は一度言葉を切り、重々しく続けた。
「噂話とはすぐに広がるものよ。実際は屋敷で水死体のような状態で発見されたそうじゃ」
「何?」
変死したと聞くやいなや、道善と玄庵の表情はたちまち険しくなった。
「何かの祟りではないかと、金那町では、今、その話で持ちきりじゃ」
「祟りだと!……水死体……水……まさか!」
玄庵の顔から血の気が引く。
彼が思い至ったその名を、凍りついた声で口にしたのは道善だった。
「……澄斬姫」
三人の間に、一瞬、張り詰めた静寂が漂う。
静寂を破り、玄庵が口を開いて疑問を投げかけた。
「だが、黒川はこの村の者ではない。この村とは関係なかろう?なぜだ?」
「まったく無関係ではない。清志郎と関わっておる」
道善の指摘に、宗岳と玄庵は増々それが、かの祟り神の仕業であると確信を深めていく。
「清志郎の遺体が見つからないのは、神隠しにあったのではないか?」
玄庵が、黒川の一件と清志郎の失踪を結びつけ、そっと口にする。
「澄斬姫が、神隠しをしたという事例はないはずだが……紗凪の霊が清志郎を呼んだのではないか」
宗岳も、あり得ないことではないと思ったようだ。
「澄斬姫の儀は今年じゃ。じゃが、まだ数か月先のはず」
「どういうことじゃ。儀に不手際があったというのか。生贄が足りぬと申すのか」
「そんな……罪のない若者をこれ以上、犠牲にはできん!」
「まずは寄合衆をすぐ集める。今起こっておることを洗い直さんと」
宗岳が道善に向き直る。
「道善、紗世を外へ出すな。清志郎のように連れ去られるやもしれん」
宗岳と玄庵の議論が続く中、道善はさらに深い絶望感に飲み込まれていった。
(なんという祟り神だ。紗凪だけでは飽き足らず、清志郎まで儂から奪うとは……清志郎、儂はお前を本当の息子のように……)
言葉にならない慟哭が胸を突き上げる。
飲む水もないほど干上がった身体から、それでも涙はこぼれ、頬を伝い落ちた。




