第十一章 慈しみに棲まう死神(第三話)
斬られた日から、当たり前だった日常は音もなく崩れはじめた。
そして今、黒川の死が、その残骸までも奪おうとしている。
ここは本当に現実なのか――清志郎は、自分がどこに立っているのかすら、わからなくなりかけていた。
「では、澄さんのお屋敷は、この辺りに?」
「お屋敷だなんて。祖母の療養のための別宅ですから、小さな家ですよ。本家は江戸にあるんですけど……私は正直、祖母とこちらで静かに過ごすほうが、性に合っておりまして」
「ご療養中?……ということは、お祖母様の御加減が?」
「いえ、重い病というわけではないんです。ただ、祖父が亡くなってから元気を失くしてしまって。それで、自分の生まれ故郷で余生を過ごしたいと申すものですから」
「そうでしたか……」
「何かあったら、風間先生に診てもらえますし。ここなら安心ですから」
「そうですね。先生が近くにおられるのは、心強いですね」
風間が黒川家へ向かったあと、清志郎と澄は、ぽつぽつと穏やかな会話を続けていた。
さっきまでの重苦しい空気は、澄のおかげで少しずつ和らいでいく。
毎日のように世話を焼かれ、清志郎も次第に警戒心を緩めていた。
「喉、乾きませんか?お白湯、お持ちしましょうか?」
澄がそっと腰を浮かせた、その時だった。
ガラガラと、表口の戸が荒々しく開け放たれる音が響く。
「奥の施術室に運べ!新太、灯りを!」
「はいっ、先生!」
風間の鋭い声。
立て続けに、複数の男たちの荒い息遣いと足音が、表口から雪崩れ込んでくる。
一瞬にして、空気が張り詰めた。
先程までの静けさが嘘のように、人の気配と焦りが満ちていく。
(……黒川が、ここに?)
痛む身体も忘れ、清志郎は咄嗟にベッドから身を起こそうとする。
それを、澄が慌てて支えた。
「……お気になるのはわかります。でも、ご覧にならない方が……」
「お気遣い痛み入ります。でも、どうしても、この目で確かめねばと思うのです」
そう言って、清志郎は壁に手をつきながら、覚束ない足取りで施術室へと向かった。
清志郎とすれ違いに、病人駕籠の担ぎ手の男たちが、疲弊した様子で風間医院を後にする。
彼らの顔色は皆、青ざめ、まるで地獄を覗き込んだかのように目を見開き、口元を引きつらせていた。
一人がふと清志郎を見やり、慌てて視線を逸らした。
男たちのただならぬ様子が、事態の深刻さを物語っていた。
(なんだってんだ。黒川、お前どうしちまったんだ?)
施術室に近づくにつれ、これまで嗅いだことのない異様な匂いが次第に強まっていく。
一瞬足を止めてたじろぐも、すぐに歩みを再開し、施術室の前へと辿り着いた。
中では風間と新太が、何やら会話しているようだが、内容までは聞き取れない。
(黒川、一体どんな姿で……本当に水死体のような状態なのか?水死体なんて見たことねぇけど……)
ここまでくると、異臭は耐え難いほど濃厚になり、清志郎の胸は早鐘のように鳴り、足が勝手に震え出す。
心の奥底で「見てはいけない」という声が囁く。
それでも、黒川への好奇心と、指導者としての義務感が、その声をかき消した。
清志郎は、意を決し、中の風間に声を張って問いかける。
「先生っ!風間先生、俺です、榊です!黒川様は剣術道場での知り合いなんです。何卒、中に入れてもらえませんか?」
風間からの返事はない。
見せられないということだろうか――清志郎が再度、懇願しようとしたとき、戸がゆっくりと開いた。
中から、先程よりも酷い異臭に襲われ、思わず手で鼻を押さえた。
出てきた風間は、鼻と口を布で覆っていた。
彼はすぐに戸を閉め、清志郎に今までにない真剣な眼差しを向けた。
「お知り合いというのは、澄さんに聞きましたよ。私も医者という立場上、色々なご遺体を目にしてきましたがね……」
風間は一瞬言葉を切り、布で覆った口元の下で小さく息を吐いた。
「黒川様のようなご遺体は、初めてですよ。私でさえ、目を背けたくなるほどだ。榊殿、ご覚悟はおありですか?せっかく快方に向かっているあなたに、私としては正直、お見せしたくないのですがね」
彼の声は低く、いつも冷静な眼差しに、わずかな動揺が混じっていた。
そんなに酷いのか――だが、答えはもう出ている。
「覚悟はできています。先生のお邪魔になるようなことはしませんので、どうか!」
「仕方ありませんね、これを」
風間は、軽くため息をついて、清志郎に布を渡してきた。
自分と同じように、鼻と口をそれで覆えというのだろう。
「恩に着ます、先生」
清志郎は風間の後について、施術室に足を踏み入れた。
布で、鼻と口を覆っていても、まるで役に立たないほど、黒川から発せられる異臭はきつかった。
もはや、それだけで、精神にくる。
「こちらですよ。もう一度聞きますけど、本当にご覧になりますか?」
風間の隣、そこにはベッドの上に寝かされた黒川であろうものに、布が掛けられて、膨らみを帯びていた。
ベッドを挟んで、反対側には新太もいる。
「は、はい。俺は大丈夫です。見せてください」
そう言うと清志郎は、静かにベッドに歩み寄る。
「わかりました。では……」
風間が布を剥ぐと、そこには、変わり果てた“黒川らしきもの”が横たわっていた。
最初に目に入ったのは、開いたままの両目――濁った瞳が、まるで生きているかのように、清志郎をじっと見据えているようだった。
思わず息を呑み、足が竦む。
口からは、澄の言っていたとおり、腐った水草のような緑色の塊が溢れ、顎から滴り落ちそうになっている。
身体は異様に膨張し、皮膚は青白く変色し、所々剥けて肉が覗くその姿は、もはや人間とは思えなかった。
かつての黒川の面影を探そうとしても、記憶の中の彼と結びつかず、清志郎は絶句した。
(く、黒……川……こ、これが、あの、黒川なのか?)
清志郎は目を背けたい衝動に駆られたが、必死に耐えた。
背筋を這う寒気に、腰を抜かさなかった自分を褒めてやりたいほどだった。
(信じられない!どうしたらこんな姿に!)
「お父上と使用人の話では、朝はいつもと変わらなかったのに、昼前にはもう、ご自身の部屋でこの状態だったそうですよ。外出した形跡も今のところなし」
「そ、そんな……では、なぜ?」
「事件性については、奉行所の方で調べるでしょうが……真相に辿り着けるとは思えませんね。あ、ここだけの話ですよ。それから、黒川様のこの状態と、当院で解剖することは、誰にも言わないでくださいね。黒川家が祟られているなど、噂が広まっては困るでしょう」
「……はい。あの、か、解剖って?」
「彼の死因を特定するんですよ。恐らく溺死でしょうが、なぜ溺死したのかは、誰にもわからないでしょうね。……さぁ、身体に障るといけません。もう、部屋へお戻りください」
風間に促され、清志郎はふらつく足取りで施術室を後にした。
自分の足音だけが、やけに大きく廊下に響く。
前々から黒川とは、反りの合わぬ間柄だった。
だが、死んで欲しいなどと思ったことは一度たりともない。
ましてや、あんな死に方を目にしては、やるせない思いが込み上げてくる。
清志郎の気持ちは、沈まずにはいられなかった。
日常が、音を立てて崩れていく。
紗世と一緒に、道善を気遣いながら、暮らしていた日々が、遥か遠くに感じられる。
そもそも、そんな日常に俺はいたんだろうか?
あの日々は夢じゃなかったのか?――そんな気さえしてくる。
部屋の戸を開けると、澄が待っていてくれた。
「清志郎さん……」
澄が不安気な表情で清志郎を見つめ、椅子から立ち上がり近づいてくる。
「澄さん……俺、わからなくなった……」
ぼそりと吐いた清志郎の言葉に、澄は戸惑い、一瞬立ち止まる。
しかし、優しく聞き返す。
「何が、わからなくなりましたの?」
「……」
清志郎の表情は、下を向いたままで、わからない。
「やはり、ご覧になられない方が、よろしかったようね」
下を向いたまま、ふらふらと歩いてくる清志郎を見て、澄はそっと歩み寄り、支えるように抱きしめた。
清志郎はもう、澄を拒まなかった。
抱きしめられるまま、ただ、澄の腕の中にいた。
むしろ、彼女の温もりをもっと感じたいと願い、自らも彼女の背中に手を回し、肩にそっと顔を埋めた。
死の匂いが鼻腔を満たす中、澄のうなじから漂うほのかな白粉の香りが、それをかすかに和らげた。
背中に回した手には、着物の滑らかな感触と、その下に確かに息づく命の温もりが伝わり、心が震えた。
その温もりに、涙がこぼれそうになった。
「すまない、もう少しだけ、このままで……」
「ええ、いいのよ。いつまでだって」
清志郎は目を閉じ、ただその温かさに縋るように、彼女を強く抱きしめた。




