第十一章 慈しみに棲まう死神(第二話)
その名を耳にしたとき、胸の奥で何かがざわめいた。
黒川――清志郎にとって、それは因縁とも呼べる名だった。
けれど、その名が“死”と共に呼ばれる日が来るとは、思ってもいなかった。
昼の粥を食べ終えた頃、風間医院の表口から、息を切らした中年の男の声が響いた。
「か、風間先生っ!大変です!黒川の坊ちゃまが――とんでもないことにっ!」
(えっ、黒川?)
黒川という名を耳にした瞬間、清志郎は眉をひそめた。
澄が怪訝な顔で見つめてきて、どうしたのかと尋ねる。
「俺が通っている剣術道場に、黒川家の息子さんがいまして……まさかとは思いますが……」
「え!そうなんですの?それは一大事ですわ。すぐに様子を見てまいります」
そういうと、澄はすぐさま表口へ向かった。
しばらくして部屋へ戻ってきた澄の表情は曇っていた。
「金那町の黒川家のご次男が……なんと申し上げればいいか……とにかく、普通では考えられない状態で発見されたそうです。風間先生は、これからその場に向かうそうです」
「……金那町の、黒川家の次男だって!?」
清志郎は驚きのあまり硬直した。
「やはり、お知り合いの方でしたか。お気の毒ですが、黒川家の使用人の話では、もう、とても生きているとは……」
(黒川が死んだ?なぜ?)
「澄さん、その、普通では考えられない状態っていうのは?」
「それが……にわかには信じがたいのですが、屋敷の自室で見つかったというのに、まるで水死体のようなご様子だったと。おまけに、口からは水草のようなものが覗いていた、とも……」
「そ、そんな馬鹿な……」
澄の言葉が、まるで現実味のない物語のように響く。
信じがたい話に、清志郎は返す言葉も見つからなかった。
「とにかく、風間先生がお戻りになられましたら、詳しくお伺いしてみましょう」
「はい」
(水死体? そんなはずは……あの屋敷の近くに水場なんて――)
「清志郎さん、さぞ驚かれたこととは思いますが、あまり気を落とさないで。体に障るわ。今日は暖かいから、外の空気を入れましょう」
澄が部屋の障子を少し開けると、柔らかな風が清志郎の顔を撫でた。
「ほら、風が気持ちいいわ」
しかし、その柔らかな風ですら、この場に澱む不穏な気配を拭うことはできない。
脳裏に焼き付いて離れないのは、想像を絶する姿で見つかったであろう黒川の姿。
風が、ふと湿り気を帯びたように感じられた。
まるで、どこか遠い淀んだ水辺から、腐った水草の匂いを運んできたかのように――。
その生々しい錯覚に、清志郎は思わず総毛立った。
風間が黒川家の屋敷に到着し、元晴の部屋へ近づくと、鼻を衝くような異臭が漂ってきた。
思わず顔をしかめ、袖口で鼻元を覆う。
屋敷内は騒然としていた。
使用人はおろか、元晴の家族も混乱の渦中にあり、母親は衝撃で気を失い、そのまま床に伏しているという。
郡奉行の関係者もすでに数名が到着しており、部屋の前では「信じられん」「なぜだ……」といった声が繰り返されているばかりだ。
「風間先生をお連れしました!」
使用人の声に、周囲が一斉に道を開け、ざわめきがひととき止んだ。
「か、風間先生……もはや手遅れなのは、承知しております。ですが、せがれが……朝は普通に食事をしたのです。それがまさか、こんな……」
父親の顔は蒼白で、どこか焦点の定まらない瞳で風間を見つめていた。
風間が元晴の部屋に足を踏み入れると、そこには、常軌を逸した光景が広がっていた。
遺体は仰向けに倒れており、皮膚は不自然に白くふやけ、体全体が膨張している。
口は大きく開かれ、そこから腐ったような水草が、喉の奥から溢れ出るように突き出ていた。
目は見開かれたままで、まるで死の瞬間の恐怖を今も語ろうとしているかのようだった。
腐敗臭に混じって、ヘドロのような泥と、異様な甘さを帯びた生臭さが部屋中に漂っていた。
「最初に遺体を発見したのは、どなたです?」
使用人の一人、年若い女が恐る恐る名乗り出る。
「わ、私です……昼の膳の支度が整ったと、お声を掛けに参りましたところ、部屋の中から、なんとも言えぬ臭いが……。返事がないので、襖を……開けましたら……」
女は顔を覆い、嗚咽をこらえながら口元を抑えた。
「もういい、ありがとう。下がってくれて構わない」
風間の静かな声に、女は頷くと足早にその場を離れた。
「井戸は別として、近くに川や池など、大きな水場はございますか?」
「いいえ、川も池も……この辺りにはございません。それに……この“草”ですよ……口から……。気が触れた様子もなかった、朝は普通に……」
父の声が震える。
「……このような状態の遺体は、私も初めて見ます。事件の詳しい調査は、奉行所の方々にお任せするとして……。せめて死因だけでも明らかにできればと思いますが――。ご遺体を私の医院で解剖させていただけますか?」
「……お願い、いたします……」
父は深く頭を垂れた。
もう、何もわからない――そんな目をしていた。
「戸板を――薄くてもいいが、節のない頑丈なものを持ってきてくれ。それと、遺体を包むための麻布を。藁も必要だ。籠に染み出さぬよう、底に敷く」
風間の冷静な指示に、使用人たちが慌ただしく動き出す。
「遺体はすでに崩れかけている。慎重に、下に板を滑り込ませるんだ。絶対に無理はするな」
震える手で板を支える使用人たち。
遺体は膨張し、内部の水分をたっぷりと含んでいるため、見た目以上に重く、慎重な作業が求められた。
ようやく板の上に遺体が移された瞬間――首がわずかに傾き、肩が動いたように見え、周囲の者たちから小さな悲鳴が上がった。
「次は麻布で板ごと巻いていく。優しくな。形が崩れぬように、しっかりと巻き、縄で固定を」
やがて、用意された病人駕籠が運ばれてきた。藁を敷き詰めたその中に、板ごと遺体を静かに載せる。
「では、ご遺体をお預かりいたします。どうか……口外なさいませんよう。“祟り”などと騒ぎ立てられては、困ります。
風間医院で私が引き取ったことも、もちろんご内密に」
そう言い残し、風間は病人駕籠の担ぎ手たちと共に屋敷を後にした。




