第十一章 慈しみに棲まう死神(第一話)
優しい光に包まれながら、清志郎は思い出す。
もう戻れない日々、忘れかけた声、遠ざかった面影。
その記憶だけが、今の清志郎をそっと支えていた。
障子越しに差し込む柔らかな朝日が、頬をそっと撫でるように感じられた。
それに応えるように、眠りに沈んでいた目がゆっくりと開く。
(朝か?)
数日ぶりに日の光に導かれ、自然と目覚めた気がする。
久しぶりに清々しい空気を感じられて、このまましばらく、じっとしていたい気分だった。
ふと、両親のいた朝が蘇る。
「清志郎。そろそろ起きなさい」
母が頭を撫でて、優しく耳元で囁く。
その後、顔を洗い、父と庭で素振りをする。
ひと汗かいた後、家に戻ると、母が朝飯を用意して待っていてくれた。
そんな、単調だけれど穏やかで幸せな日々が、いつまでも続くものだと思っていた。
幼い頃に戻りたいと思う自分が情けない。
体だけでなく、心まで弱ってしまったのだろうか。
それでも、それが正直な今の自分の気持ちだった。
両親の顔も、今でははっきりと思い出せない。
声の記憶も、本当に正しいのか自信がない。
曖昧な記憶が正しいのか確かめる方法は、もうどこにもない。
けれども、それは何よりも柔らかな日差しの記憶として、心の奥に残っている。
(……あ、あれ?涙……?)
紗凪が亡くなったとき以来、頬を伝うそれに、自分でも驚いた。
(紗世さん、ごめん。今の俺は――ただのガキだからさ)
紗世に心の中で謝罪しつつ、清志郎は朝比奈家で心配しているであろう紗世たちのことを考えないことにした。
誰かが部屋に訪れるまで、それまででいいから――と願いつつ、清志郎はひとり、子供の頃に戻った。
清志郎が目覚めて、一刻ばかり経った頃だろうか、板戸の向こう側から声がする。
「起きてるか、清志郎。薬の時間だぞ」
(こ、この声は……新太。また、あの苦い薬かよ?)
良薬口に苦しとは言うが、昨夜飲まされた、あの薬を飲まないといけないのかと思うと、げんなりする――が仕方ない。
世話になっている身だ。
「ああ、おはよう。起きてるよ。入ってきて構わないぞ」
戸が開いて、新太が入ってくると思ったら、その後ろには澄の姿が見て取れた。
その姿を認めた瞬間、清志郎の心臓が跳ねた。
思わず息を飲む清志郎に、澄はくったくのない笑みで、新太の後をついてくる。
「おはようございます、清志郎さん。お熱下がったそうで何よりです」
「え、朝からどうして……?」
「どうしてって、お粥を召し上がっていただこうと。このままでは、傷が治っても餓死してしまいますわ」
新太だけだと思い、油断して横になったままだった。
起き上がろうとした瞬間、腹に鋭い痛みが走り、息を詰めたまま再びベッドに倒れ込んだ。
「清志郎さん!そんな、急に起き上がってはいけません!」
「何してんだ、お前。馬鹿じゃねぇのか?」
澄の心配する声と、新太の容赦のない罵声が上から降ってくる。
清志郎は、情けなさと痛みに、もう一度涙がこぼれそうだった。
新太は「仕方ないな」と言いたげな表情を浮かべながら、清志郎の布団をめくり、小さな体で背中を力いっぱい押した。
「ほら、薬だ。今日から朝昼晩3回飲んでもらうからな」
ようやく起き上がった清志郎に、ずいっと薬の入った湯呑が、新太から手渡される。
憂鬱な面持ちの清志郎に、澄が追い打ちをかける。
「さあ清志郎さん、早くお薬を。私の作ったお粥が、冷めてしまいますわ」
(早くここを出てぇな……)
清志郎はこれまで、人の好意を無下にしたことはなかったが、この二人からの好意だけは、素直に受け入れられない自分がいることに気づいた。
清志郎が二人に急かされて薬を飲み干すと、新太はそそくさと部屋を出て行った。
澄は待ち構えていたかのように椅子を清志郎のベッドの前に移動させると、盆に載せた粥の入った椀を手に取り、その椅子に腰を下ろした。
「お腹空いたでしょう?」
「ずっと食べてなかったせいか、そういうの通り越してしまったみたいで」
「そう。無理もないわね。先生にお許しはいただいたけど、胃が受け付けないといけないから、三分粥をたったのこれだけだとおっしゃるのよ」
「まぁ、そうでしょうね」
澄が差し出した椀には、普段の清志郎なら一口で済んでしまいそうな、わずかな量の粥しか入っていない。
「これで問題なさそうなら、少しずつ量を増やしていくそうよ。はい、どうぞ」
澄はそう言うと、椀から少量の粥を散蓮華に掬い取り、清志郎の口元に差し出してきた。
「澄さん、俺、もう自分で……」と口を開けた瞬間、散蓮華が口に入り込んでいた。
「美味しい?」
もう、さすがに釘を打っておこうと思ったはずなのに――粥の温度と柔らかさに、心がほぐれていく。
そのまま言いたかった小言ごと、ほとんど汁状の粥を飲み込んでしまう。
「お、美味しい……」
(温かい。粥って、こんなに美味しかったっけ?)
澄が作った粥の優しい味と程よい温度が、じんわりと胃に染み渡る。
ついさっきまで食事に興味を失っていたはずなのに、不思議ともっと食べたいという気持ちが湧き上がってきた。
「よかった。実は私、普段あまり料理をしないので自信がなくて……。正直に言うと、お粥を作るときに焦がしてしまって、二度も失敗してしまったんです。お粥なんて、料理のうちにも入らないと聞きますのに。お恥ずかしいですわ」
澄は恥ずかしそうに微笑みながら、視線を落とす。
「そ、そんなことないです!あ、あの、本当に……美味しいです。嘘なんか、ついてません……よ」
清志郎の言葉に、澄は驚いたように顔を上げる。
「本当に?」
「本当に」
「それでは、もう一口、どうぞ」
にこっと微笑み、二口目を進めてくる澄を、清志郎は不思議と自然に受け入れた。
良家の娘で大事に育てられ、自分で料理をする必要のない身分の娘が、自分のために四苦八苦しながら粥を作ってくれた姿を想像したら、澄が可愛らしく思えてきた。
(俺が馬鹿なのかな。親切にされると、すぐ裏があるんじゃないかと思っちまう。悪い癖だな)
三口目を進めてくる澄に、清志郎は照れながらも笑顔で応じた。
「また、お昼にお粥を持って参りますわ。……次は、もう少し上手に作れそうな気がします。きっと苦いお薬も、あの子が持ってくるでしょうけど。それまで安静になさっていて」
澄か椀を盆にのせて、部屋を立ち去ろうとしたとき、清志郎は大事なことを思い出した。
「ま、待ってください、澄さん!」
「はい、どうなさいました?……もしかしてご気分が悪くなりました?風間先生をお呼びしましょうか」
「いえ、そうじゃなくて。……風間先生に伺ったのですが、俺の治療費を澄さんが、お支払いしてくださったって」
「ああ、私が勝手にここへ連れ込んだのですもの。お支払いして当然ですわ。どうか、お気になさらないでください」
「いや、それは……もちろん今は無理だけど、少しずつ返していきます。いつまでに返せるかは、お約束できませんが……」
「清志郎さん、千凪村の剣術道場で師範代をされているとか。風間先生から聞きましたわ。推測で申し上げるのは失礼かもしれませんが、今は、どこの道場もご苦労が多いのでは?」
「お恥ずかしながら、おっしゃる通りです。ですから、その、少しずつ……」
「いいえ、結構です。先程申し上げたとおり、私の独断でしたことです。どうしてもご納得いただけないようでしたら、道場のためと思ってお受け取りください。あなたが元気になって帰らなければ、困る方々が大勢おられるはずでしょう?私は、あなたではなく、その方々のために支払ったのだと思ってください」
「澄さん……」
清志郎は、言葉を失った。
と同時に、世間知らずの天然気質だと思ってた彼女に対して、申し訳ない気持ちになった。
彼女は自分が思っていたより、ずっと聡明だ――清志郎の目に、澄が別人のように映った。
澄が部屋を出ると、新太が待ち受けていた。
「立ち聞きとは感心しないわね、新太。こちらへ来なさい」
清志郎に対する態度とは打って変わって、澄は表情を一切消し、新太に部屋から離れるよう視線で促す。
「姫様、なぜ、あんな男にこだわるのですか?多少は腕が立つのかもしれませんが、俺の目には何処にでもいるような凡人にしか見えませんけど」
「風間も同じことを言っていたわね。神の意図を詮索するのは愚かしいことよ。ただ私の言うとおりに動きなさい。子供ではないのだから、わかるでしょう?もしあなたが余計なことをしたら……」
澄の冷ややかな視線を受け、新太は、それ以上、何も聞けず謝罪を口にする。
「し、失礼致しました。姫様。お許しを」
「彼のことお願いね。私はちょっと出てくるわ。……“祟り”が何なのか、勘違いしてる人たちに、わからせてあげないと」
「承知致しました」
かしこまる新太を後に、薄ら笑いを浮かべながら、澄は風間医院を後にした。




