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第一章 死に支度をする人(第二話)

ゆるやかに死へ向かう命を前に、言葉はあまりに無力だった。

残された者たちは、ただ静かに、心を押し潰されていく。

控えめな戸を叩く音。


「あ、いらしゃったわ」


紗世は足早に玄関へ向かった。


「玄庵先生、よくいらっしゃいました。お忙しい中、申し訳ありません」


道善の部屋にいた清志郎も、紗世の声に気づき腰を上げる。

清志郎が出迎えに頭を下げると、玄庵は手を上げてそれを制した。


「いいや、儂にとっても、ここは第二の診療所のようなものだからな」


「道善の様子は?」


紗世は先ほどよりも、か細い声で答えた。


「食も細く、今朝は何も食しておりません。時々……胸を押さえるような仕草も。言葉も少なくなっています」


玄庵は短く重い溜息をついた。


「そうか。では、すぐに診よう」


三人は静かに奥の道善の部屋へ向かった。

道善は目を閉じたまま布団に横たわっていたが、足音に気づいたのか、うっすらと片目を開けた。


「……玄庵か」


その声は、蚊の鳴くような細さだった。


「ああ道善。紗世がせっかく作ってくれた粥を食べんそうではないか。娘に心配ばたりかけおって。関心せんな」


二人は旧知の仲で年頃も同じくらいであった。

紗世と清志郎も病気や怪我をすれば玄庵に診てもらっていた。

清志郎は、道善と玄庵がよく一緒に酒を酌み交わしていたのを見かけたものだった。

玄庵は、そっと道善の手首に指を当て、診察を始めた。



 

診察を終えた玄庵に、客間で紗世はそっとお茶をだした。


「先生、どうなんでしょう?父の具合は……」


良くない答えが返ってくる事を承知で恐る恐る聞く。


「紗世、そして清志郎も、よく聞いておくれ」


名を呼ばれた二人は、固唾を呑んで玄庵を見やった。


「道善は……死に支度をしてる」


一瞬、空気の凍ったような静寂が、客間を包んだ。

思わぬ言葉に紗世の瞳孔が開いた。


「飯が食えんというより、食わんのだよ。今日も薬を処方して持ってきたのだがな、無用と言われてしもうたわい」


「ど、どうして?父が……父が死にたがっているとおっしゃるんですか!」


最後の方は、玄庵を責めるような口調になっていた。


「紗世さん……」


清志郎は思わず紗世の肩に手を置いた。

玄庵の言葉に、自分だって納得なんていってない。

紗世が問わなければ、自分が問うていたかもしれないと思いながら。

紗世を落ち着かせようとして、その実、自分を落ち着かせようとしているのかもしれない。


「あいつは元々、心の臓の持病に長年苦しんでいたが、奥方に続き紗那さんまで亡くし、疲れて果てたのかもしれぬのう」


玄庵は茶を一口飲み、一息ついてから続けた。


「長年、心体ともに辛いと、どんな強い人間でも投げやりになるものだ」


清志郎は紗世の手前、玄庵に一番聞きたいことを聞けずにいた。


「あ、あの……それで父は……その……」


玄庵は紗世の聞きたいことを察し、言葉にした。


「このままでは……もって後ひと月といったところかもしれんのう」


「そんな……」


清志郎は無言を貫くしかなかった。

ふと見ると、隣の紗世は、ふらついて崩れ落ちそうになっている。


「紗世さん!」


清志郎は、慌てて両手で支えた。


「本当にすまんな。儂の力不足じゃ。持病だけでもなんとか出来れば、心まで折れずに済んだであろうに……」


玄庵は手をついて深々と頭を下げた。


「あ、いや玄庵先生、どうか頭をお上げ……」


清志郎が玄庵の頭を上げさせようとしたとき、紗世の取り巻く空気が変わったのを感じた。

目の焦点が合わず、力が抜けたような状態なのに、怒りや憎しみが彼女の周りを渦巻いている。

ちょっと気が強いが、根はとても優しい紗世からは、感じたこともない感情の渦に、清志郎は震撼した。



 

清志郎は朝比奈家の敷地を出るまで、玄庵を見送った。


「清志郎、紗世をくれぐれも頼むぞ」


「はい、心得ております。……玄庵先生、道善先生がああなったのは、玄庵先生のせいじゃ……」


玄庵のせいではない、そう言おうとして遮られた。


「いや、儂のせいじゃ。恨んでくれて構わない」


「え?どうしてそんなことを?玄庵先生は精一杯やってくれてるじゃないですか」


「……また来る。早う紗世の元に戻れ」


玄庵は踵を返し、帰って行った。

清志郎は暫く、いつもより頼りなげに見える玄庵の背中を見つめていた。


(なんだ?この違和感……こんなときだ、いつもと違って当たり前じゃないか。でも、道善先生、玄庵先生、おふたりとも何か言いたそうだった……)


「紗那が儂を許してくれない」

「恨んでくれて構わない」


(いや、考えすぎだ。おふたりとも自責の念から出た言葉に違いない。それより、早く紗世さんの元に戻ろう)


道善まで失うと、紗世は家族全員を失うことになる。

まだ少女と大人の狭間のような彼女に、それは酷すぎる。

きっと部屋で絶望しているだろう。

清志郎は足を速めた。



 

清志郎が部屋に戻ると、紗世は座敷の端でうずくまるように座っていた。

小さく背を丸め、顔は見えない。

しかし、肩がわずかに震えているのが分かった。


「……紗世さん、大丈夫……?」


そっと声をかけると、紗世が顔を上げた。

思ったとおり、その目からは涙が溢れ出ていた。


「ねぇ……父上、死んじゃうの……!?」


子供のように泣き叫ぶような声。

でも悲しみは大人のそれだった。

清志郎は慌てて傍に寄り、どうにか言葉を選ぶ。


「ま、まだ完全に決まったわけじゃ……」


「でも……玄庵先生、言ってたじゃない!」


紗世は目を逸らすことなく、清志郎を責める。

その目には怒りではなく、ただただ、どうしようもない不安と絶望に溢れていた。

清志郎は何も言えなかった。

慰めの言葉が、もう見つからない。

紗世に手を伸ばしかけたその瞬間、外から元気な声が聞こえてきた。


「紗世せんせーい!居ないのー?」


子供たちの声だった。

道場の朝稽古の時間だ。

朝稽古は女子供が中心で、紗世が主に指導している。

現実が彼らの悲しみに、構う事なく歩いてきた。

紗世は咄嗟に涙を拭いて、泣き止もうとしたが上手くできない。

涙が次から次に溢れてくる。

清志郎は庭にいるであろう子供たちへ向かって声を張った。


「紗世先生はな、今日は都合が悪くなったんだ。俺が見るから、みんな先に道場で準備しとけー!」


子供たちは元気よく「はーい!」と返事をして道場へ走り去っていった。

紗世をこのままにしておくのは忍びないが、道場へ行かないわけにもいかない。

どうしたものかと必死に考えていると、ある娘の顔が思い浮かんだ。


「……紗世さん、今日の稽古には鈴ちゃんが来てるはずだ。鈴ちゃんには俺から伝えておくから、一緒に外へ出てきたらどうですか?」


紗世は少しだけ顔を上げ、無言で頷いた。

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