第一章 死に支度をする人(第一話)
朝の光が差し込む台所で、清志郎は一椀の粥を見下ろしていた。
(先生、また、ほとんど手をつけていないな)
道善の粥は、すっかり冷めてしまっていた。部屋から椀を下げてきた紗世も、がっかりしたに違いない。食欲がないのはわかっている。だが、これではいくら何でも体が持たない。
「清ちゃん、早く来てよ。ごはん冷めちゃうってば」
居間の方から、紗世の急かす声がした。
「ああ、はい」
清志郎は粥椀にもう一度目を落とし、それから台所を離れた。
居間には、二つの膳が並んでいた。白飯に味噌汁、漬物、そして香ばしく焼かれた干物。どれも質素だが、丁寧に用意されていた。
清志郎は黙って膳の前に座ると、手を合わせた。紗世も同じように手を合わせ、二人の声が重なった。
「いただきます」
箸を取った清志郎は、干物の身を丁寧にほぐし、骨を避けて一口運んだ。焼きの香ばしさと、わずかな塩気が白飯によく合った。
「清ちゃん、あまり食べなくなったね。前は、おかわりしてたのに……おかわりしていいのよ」
紗世が茶碗に目を落としたまま言った。清志郎は、きょとんとして箸を止め、顔を上げた。紗世が少し不安げに、こちらを見ている。
「あの……俺が、おかわりしていたのなんて、ずいぶん前のことでしょう? もう育ち盛りってわけでもありませんし。今は、これくらいでちょうどいいんですよ」
そう言って、へらっと笑みを浮かべながら、清志郎は茶碗に残った白米を口に運んだ。しかし、紗世の表情は曇ったままだ。
「そう? なら、いいんだけど……」
紗世の声が、少しだけ小さくなった。
「や、やだな、紗世さん。俺、滅多に熱を出したりしないでしょう?」
「う、うん」
「余計な心配ってもんですよ。昔に比べたら、確かに食欲は落ちましたけど、干物なら別ですね。あと三枚は平らげられますよ」
清志郎は味噌汁をすすり、肩の力を抜くように笑った。
「だめ。干物は高いんだから。一枚だけよ」
清志郎の言葉に、少し安心したのだろうか。紗世は小さく微笑むと、清志郎の膳にそっと自分の漬物を足した。
◇
二人は食事を終えて膳を片付けると、道善の部屋へと足を向けた。道善の様子を見に行くのは、朝の習慣になっていた。
「先生、おはようございます。入ってもよろしいでしょうか」
「ああ、構わぬ」
か弱い返事を聞いてから、清志郎は襖をそっと開けた。
いつものように、道善は布団に横たわっていた。頬はこけ、布団から出た手は驚くほど細い。それでも浅く上下する胸が、かすかに彼の生気を示していた。
清志郎と紗世が入ると、道善はゆっくりと二人に顔を向けた。清志郎は道善の傍らに膝をつき、静かに声をかける。
「先生、食欲がないのはわかりますが、少しでもお召し上がりになりませんと。良くなるものも良くなりませんよ」
道善からの返事はなかった。道善はしばらく清志郎を見つめ、それから視線を天井へ移した。そんな道善に対し、清志郎はそれ以上、何も言えなかった。
「父上、今日は玄庵先生がいらっしゃる日ですよ。新しいお薬を、処方してくださると仰っていました」
紗世の言葉にも、道善は一言「そうか」と言っただけだった。だが、しばしの沈黙の後、道善はかすれた声で紗世に告げた。
「紗世。すまんが、清志郎と二人きりにしてくれぬか」
その一言に、紗世の瞳が揺らいだ。それでも、すぐに小さく頷く。
「はい。承知しました」
紗世は静かに立ち上がり、部屋を出ていった。襖の音だけが、不思議と重く響いた。
部屋には、清志郎と道善だけが残された。清志郎は道善の枕元へ膝を進め、静かに座り直した。黙ったまま、道善を見つめた。ただ、道善が話し出すのを待ち続ける。
どのくらい時が経っただろう。ようやく道善は、重い口を開いた。
「……紗凪のことを考えると、今でも夢に見る。紗凪は……儂を許してはくれまい……」
ぽつりと落ちたその言葉に、清志郎の瞳がわずかに揺れた。その名を聞いた瞬間、胸の奥で古傷が鈍く疼く。
「何を仰いますか。紗凪さんは、事故で亡くなったんですよ。先生のせいではありません。ご自分を責めすぎです。私だって、あの日は――」
「ち、違うのだ、清志郎……うぅっ!」
突然、道善が眉をひそめ、胸に手を当てた。
「先生! 大丈夫ですか?」
清志郎が身を乗り出して声をかけるが、道善は歯を食いしばり、応えなかった。しばらくの間、苦しみに耐えるように目を閉じていた。
「しっかりしてください。先生!」
(くそっ! 玄庵先生はまだか? 呼びに行くか?)
清志郎が腰を浮かせた瞬間、道善の手がその袖を弱々しく掴んだ。その力のあまりの頼りなさに、清志郎の胸は痛んだ。
「せ、先生……」
「なに……時々、こうなるのだ。心配するな」
やがて痛みが引いてきたのか、道善の呼吸は少しずつ落ち着いてきた。道善は、ぎゅっと閉じていた瞼を開き、途切れた話を継ぐ。
「儂はもともと、あの子とお前を添わせるつもりでいた。お前たちは、仲が良かったしな。いずれは、お前たちに道場を任せるつもりでおった」
道善の目は、かつて見ていた未来を追うように、遠くを見つめている。紗凪が生きていた頃、清志郎もまた、その未来を疑ったことはなかった。
「だが、もう紗凪はおらぬ。儂も、見てのとおりだ。そろそろ、お前がどう思っているのか、聞いておきたいと思ってな」
「私は居候の身です。これからのことは、先生と紗世さんのお気持ちに従うつもりです。紗世さんに想う方がいらっしゃるなら、私はここを出るべきかと」
「本気で言うておるのか?」
「はい。私がいては、その……何をするにも、気をつかうでしょうし」
清志郎は、いたって真剣だった。それを聞いた道善は、呆れたように眉を上げる。
「清志郎。何がどうなれば、紗世がお前以外の男に嫁ぐというのだ。……お前、他に惚れた女でもおるのか?」
「と、とんでもございません! 私に自信がないだけです」
「紗世が誰を見ておるかくらい、儂にもわかる。それに儂は、朝比奈心現流の免許皆伝を、お前以外には与えておらぬぞ」
「……はい」
「田舎の小さな道場だがな。これでも儂なりに、理想を掲げて守ってきたつもりだ。潰してしまうには、ちと惜しい」
道善は、布団の中でわずかに身を起こし、まっすぐに清志郎を見据えた。
「だが、この道場を無理に継ぐ必要はない。経営が苦しいのもわかっておる」
「先生……」
「儂の腹は明かした。今度は、お前の番だ。清志郎、お前の本心を聞かせてくれ。紗世や儂に遠慮のない、本当の気持ちを」
その問いは静かだが鋭く、清志郎に逃げ道を与えなかった。
「身分に関わらず、学びたい者には門を開く。先生が守ってこられた道場のあり方は、私にとっても理想です。私も、今のままの朝比奈道場を守っていきたいと思っています。ですが、理想だけで道場を続けていけないのも、また現実で……正直、この先どうしていくべきか迷っています」
一呼吸置いて、清志郎はさらに続けた。
「紗世さんのことは、何よりも大事に思っています。でも、幸せにできるかと聞かれれば、自信がありません。私は、その……器用に立ち回れる人間ではありませんから」
道善をまっすぐ見つめていた清志郎だったが、最後は伏し目がちになった。道善は、ふっと口元を緩める。
「お前らしいな」
道善は、苦笑とも安堵ともつかない息を漏らした。
「そうだな。そうやって考えすぎるところは、お前の不器用なところだ。堅物というか……」
清志郎は少しうつむいて、膝の上に置いた手をぎゅっと握った。
「真面目なのは悪いことではない。だがな、その真面目さが足を止めることも、よくある話だぞ」
清志郎は何か言葉を返そうとしたが、うまく口に出せず、小さく息をついた。顔を上げると、道善の目元は穏やかにほころんでいた。
「紗世と二人で、よく話し合って決めなさい」
言葉が出ないまま、清志郎は小さく頷いた。
「儂も、もう長くはない」
その言葉に、清志郎は唇を固く結んだ。わかっていたつもりだった。けれども、あらためて現実を突きつけられた気がして、胸の奥がひりついた。
《2026/07/14 第一回修正》
文章を整えました。
話の内容は、ほぼ変わっておりません。
あえて挙げるならば、道善の「清志郎と紗世に道場を継いで欲しい」という本音を会話に入れました。
また、清志郎の真面目だけれど不器用で、どこかズレている感を出しておきました。
(ごめんね、清志郎。いい表現がみつからないよ……泣)




