序章 緋色の雨―春告鳥は還らない
桃の枝に、鶯が一羽とまっていた。まだ咲ききらない蕾の間から、細いくちばしを空に向けている。
榊清志郎は、道場のすぐ脇に佇み、竹箒を手にしていた。手は止まっている。
鶯が鳴くのを待っていたわけではない。ただ、なんとなく、この静けさを崩したくなかった。竹箒を動かせば、その小さな鳥は逃げてしまう気がした。
「清ちゃん、さぼらないの!」
少し跳ねるような声が飛んできた。ここ朝比奈道場の剣術師範、朝比奈道善の娘、紗世だった。
鶯は驚いたように羽を震わせ、空へ逃げた。
清志郎は、その軌跡を目で追った。一瞬、あっと口を開きかけたが、紗世を責めるわけにもいかず、何も言わなかった。そして静かに、竹箒を動かしはじめた。
飛び立った鶯は、またあの枝へ戻ってくるのだろうか。おそらく、それはない。ふと清志郎は、そう思った。
「もうすぐ朝ごはんよ。早く終わらせてよね。干物まで焼いたんだから」
清志郎は紗世の方を振り返り、嬉しそうに笑顔を見せた。干物は清志郎の好物だが、高価なため滅多に出てこない。
「紗世さん、本当? 手抜きしてでも、早く終わらせますよ」
清志郎は、年の離れた紗世に対しても、昔から敬語を崩さなかった。師範代となった今でも、それは変わらない。
両親を早くに亡くした清志郎は、遠縁にあたる朝比奈家へ身を寄せた。道善が手を差し伸べてくれなければ、今ごろ自分がどこで何をしていたのか、想像もつかない。清志郎にとって道善は父代わりであり、それ以上に、仰ぐべき剣の師だった。
徳川の世となり、もう武士が戦に出る機会もなくなったが、清志郎は剣術が好きだった。自分には、それ以外に何もないと思っていた。
「そういえば……子供たちがね、禁足地に入ろうとしたところを、ご住職に見つかって叱られたそうよ」
道善が病に伏せってからというもの、女性や子供の指導は紗世が、男性の指導は清志郎が受け持っていた。朝比奈道場の門は、老若男女、身分を問わず開かれていた。
「禁足地? ああ、すっかり忘れてたな。ありましたね、そんなものも」
清志郎は少年の時分、自分も禁足地へ入りかけ、住職の宗岳にこっぴどく叱られたことを思い出した。あのときの宗岳の顔だけは、今でも妙にはっきりと覚えている。
「あの優しいご住職が、珍しくものすごい剣幕だったらしいの。あそこって、どうして禁足地になってるの?」
「さあ……俺も子供の頃、『近付くな』と叱られただけです。山奥ですからね。子供が迷い込まないように、ということでは?」
「それだけ?」
紗世は納得のいかない顔をした。
「何かの聖域だったり、もしくは、いわくつきの土地だったりするのを期待してたんですか?」
清志郎は箒を止め、わざとらしく声を落とした。紗世が幼い頃から、おどろおどろしいものの類いが苦手と知ってのことだ。
「ち、ちがうわよ! 子供たちに聞かれたから、ちょっと気になっただけ!」
むきになる紗世を見て、くすっと清志郎は笑った。
「何もありませんって。子供が足を滑らせて、転げ落ちそうな場所なんでしょう。そんなことより、紗世さん」
清志郎は意味深な顔をして、見つめてくる。
「……なに、清ちゃん?」
紗世は思わず、どきりとした。
「お腹空いたなぁ。さっきから、せっかく焼いてくれた干物が固くならないか、心配で仕方なくて……」
紗世は呆れた。何かと思えば、結局は朝飯の催促だった。
「もう。わかったわよ。朝ごはんにしましょう」
運命はすでに、音もなく近づいてきていた。けれども、このときの清志郎は、禁足地に潜むものの正体など、露ほども想像していなかった。
◇
それから、わずか数か月後のことだ。
妖刀「緋雨丸」。
口伝えに人々から恐れられてきたその刀は、斬り捨てた者の血を洗い流すかのように、鍔の下から静かに水を流す。
男は片手で刀を振るう。空を切るたび、刃から滴る血と水が鮮やかな弧を描き、周囲へ降り注ぐ。まるで、血の雨だ。
刀が清められ、満足したのか。男はようやく、緋雨丸を鞘へ納める。
「ま、間違いない、あの刀は……」
赤黒い雨が降った向こうに、一人の大柄な侍が立っていた。
「清志郎? お前は……清志郎なのか?」
失踪した清志郎を探していた高坂龍之介は、恐る恐る問いかけた。
男は、龍之介の知る清志郎よりも若く見える。輪郭は細く、肌艶さえ違う。だが、その面影は、確かに清志郎のものだ。
男は射抜くような視線を、しばらく龍之介に注いでいた。
やがて、低く静かな声が、重苦しい沈黙を破る。
「なぜ、俺の名を知っている。お前は何者だ?」
問い返された瞬間、龍之介の胸に冷たい風が吹き抜けた。
この男は、本当にあの清志郎なのか。それとも、何か別の存在なのか。
《2026/07/08 第一回修正》
文章を整えました。
禁足地について、清志郎と紗世が語っているシーンを挿入しました。
《2026/07/19 第二回修正》
「女子供」という表現が、現代では「女と子供を一段低く見ている」というニュアンスで取られるかもしれないので、「女性や子供」という表現に変更しました。
地の文では使用しないように気を付けます。
時代柄、会話文で使用することはあるかもしれません。




