第八章 応報の紋様(第一話)
「やめろぉおおおおおおおおおっ!!」――そう叫んだはずの口からは、かすれた呻き声しか漏れていなかった。
気づけば、畳ではない固い床。
炊事の匂いも、道場の気配もない。
清志郎は、まるで別の時代に迷い込んだかのような錯覚に陥っていた。
清志郎は、朝比奈家への帰路を急いでいた。
途中、浪人風の男に襲われるという災難に見舞われたが、何とか切り抜け、ようやく帰路についた。
紗世と龍之介には、さぞ心配をかけてしまったことだろう。
特に紗世は、また泣いてしまったに違いない。
一刻も早く帰って、二人を安心させてやりたい。
朝比奈家の門が見えてきた。
戸口の戸を開け、「ただいま」と声をかけようとしたその瞬間、庭の方から何やら話し声が聞こえてきた。
「清ちゃんの馬鹿……嘘つき!」
(さ、紗世さん?)
庭の様子を見に行くと、紗世が龍之介の腕の中で泣いていた。
「紗世さん、案ずるな。儂がついておる」
龍之介は優しく、けれど力強く紗世を抱きしめた。
「龍之介さん……!」
(……!)
「何も心配することはない。これからは、儂がこの道場を紗世さんと一緒に守っていく。安心して任せてくれ。それに、儂は最初に会ったときから、紗世さんのことを……」
「りゅ、龍之介さん……実は、私も……清ちゃんには申し訳ないけど、龍之介さんのことが……」
二人の言葉に、清志郎は耳を疑った。
(な、なんだって!? ちょ、ちょっと待てよ!)
龍之介の手が、紗世の頬に触れた。
紗世はそっと目を閉じ、二人の顔がゆっくりと近づいていく。
(えぇええええ――嘘だろぉ……や、やめ――)
「やめろぉおおおおおおおおおっ!!」
叫び声と共に世界が裏返った。
天地が逆さまになり、視界がぐにゃりと歪む――その瞬間、全身を雷のような激痛が貫いた。
「いぃ……痛ぇ~」
声にならない呻きが漏れる中、意識が徐々に浮上していく。
「だ、大丈夫ですか?急に動いてはいけません。三日間ずっと昏睡状態だったのですよ」
痛みに耐えながら声の方へ顔を向けると、目の前には心配そうな瞳でこちらを見つめる美しい女性の顔があった。
思考が一瞬止まる――。
「先生、いらしてください。患者さんが目を覚ましましたわ」
(……患者?俺のこと?)
畳ではない床、見慣れない壁――。
清志郎の脳裏に、古びた道場や、紗世の炊事の匂いが浮かび、すぐにかき消された。
(……どこだ、ここは?なんだ、この空気……)
すぐに眼鏡をかけた若い男が、部屋に入ってきた。
うつ伏せでベッドから転げ落ちている清志郎を前に、一瞬足を止めた。
彼の視線は、まるで奇妙な光景を目撃したかのように、清志郎に鋭く注がれていた。
「風間先生、どうか早く彼をベッドにお戻しくださいませ」
「……おやおや、目覚めた途端にこれだけ動けるとは。驚いたな」
風間は眼鏡を押し上げると、うつ伏せになった清志郎の脇にしゃがみ込んだ。
腕を回し、まず清志郎の肩を持ち上げた。
「よいしょ……立てますか?……せめて膝くらいは……」
清志郎はぼんやりと頷き、震える腕で自分を支える。
「そう、その調子。では、ベッドの縁に腰を――」
(べ、ベッド?なんだそりゃ?この人は……医者?)
風間に促されるまま、ベッドが何なのか理解できないながらも、清志郎はふらつきつつ立ち上がろうとした。
――と、その時、グラッと視界が揺れた。
思わずよろけそうになったその時、誰かに支えられた。
「ちょっと、無理をしないで。私も手伝いますから、ゆっくり……」
気づけば、先ほど医者を呼んでくれた女が、必死に支えてくれている。
(うわっ……やばい、顔近すぎる……!)
気を遣ってくれてるのはわかる。
けど、それ以上に自分のだらしなさが悔しい。
(くそ……俺、ただの厄介者じゃねえか……)
「だ、大丈夫ですから……」
恥ずかしさに耐えきれなくなった清志郎は、女をそっと押しのけた。
痛みと眩暈で体が揺れるものの、なんとか踏ん張ってベッドの端に腰を下ろす。
風間は額の汗を拭いながら、どこか皮肉めいた口調で言葉を投げかける。
「いやはや、医者というのもなかなか骨が折れますな」
清志郎の方はというと、もう息もあがり、汗だくだ。
このまま、このベッドとやらに、突っ伏してしまいたい。
ふと、顔に冷たい感触が触れた。
その不意の感覚に驚いて、思わず身を引いてしまう。
「ご、ごめんなさい。汗を拭いて差し上げようと思いまして……」
「……あ、じ、自分で……やり……ますから……」
手ぬぐいを受け取ろうと手を伸ばしたが、彼女はそれをそっとかわして拒んだ。
「いいえ、お辛いでしょう。私に任せてください」
「……か、かたじけない」
意地を捨てると、女は優しく丁寧に清志郎の顔から首筋にかけて流れる汗を拭ってくれた。
火照った肌に触れる冷たい布の感触が心地よく、不快感が少し和らいでいく。
それと同時に、こんなにも近くで美しい若い女の存在を感じることに、どこか落ち着かない気持ちが胸をざわつかせた。
「さて、まずは傷口をみせてもらいましょう」
風間は慎重な手つきで清志郎の帯を解くと、片袖を脱がせ、腹部だけを露わにした。
その動作は慣れているようで、清志郎の体を少し横向きに傾けながら、膝で軽く支えている。
「失礼しますよ」
風間は包帯の端をつかみ、器用に体を支えながら包帯を解いた。
「助手がいれば、もっと楽なのですがね……」
包帯を解き終え、露わになった腹の傷口を見た風間は、思わず息を呑んだ。
致命傷となるはずだった刀傷は、膿も出ておらず、縫われることもなく自然に塞がっていたのだ。
その異様な光景に驚いたのは風間だけではない。
清志郎もまた、目を見開き、言葉を失っていた。
「少し、傷の周辺に触れますので、痛かったら言ってください」
風間は塞がってはいるが、傷跡の残る周辺に少し力を加える。
「うっ!」
体の内部からの痛みに、清志郎は思わず声を漏らす。
「やはり、まだ痛みますか……でも、心配いりません。この腫れ方なら、もう少しで熱も下がるかも知れませんよ」
風間は傷口を丁寧に消毒し、新しい包帯をしっかりと巻き直す。
肩の傷も確認したが、ここも傷口は塞がっており、痛みもさほどなかった。
「脈は……やや早いが、熱がまだ残っているせいでしょう。大丈夫、順調に回復していますよ」
(どうなってる?俺は確かに内臓をやられたはず……普通助かるわけが……この医者、一体どうやって?)
清志郎には、今の状況が現実とは思えなかった。
これもまだ夢の続きなのだろうか?
生と死の狭間で彷徨いながら見ている幻――その先に、完全なる虚無が待っているのだろうか。
「さ、診察は終わりです。疲れたでしょう、休むといい。……ああ、それから少しずつ水分補給を」
「でしたら、私が。白湯をお持ちしますわ」
風間が部屋を出て行った後、彼女は穏やかな微笑みを浮かべながら清志郎の手をそっと握った。
「戻ってきてくれて、本当に嬉しいわ。一時はどうなることかと思ったのよ」
女性の柔らかな手が、自分の手に触れている理由がわからない。
真っ直ぐに注がれるその視線から、目をそらすこともできない。
なぜか、見えない糸で、捕らわれている気がした。
「少しだけ、そのまま待っていてくださいね。すぐに戻りますから」
そう言うと、彼女は白湯を淹れるために静かに部屋を後にした。
女の背中を見送りながら、清志郎は疑念を持たずにいられなかった。
(……ちょっと待て。こんな回復、どう考えてもおかしいだろ……二人して何か隠してやがる……)
……それだけじゃない。
腹だけではなく、体の内側の至るところが、傷の痛みとは異なる熱を帯びている。
もっと深く、体の芯まで染み渡るような――何かが“目覚めた”感覚だ。
(俺の体……どうなってんだ?)
体の熱とは裏腹に、清志郎の頭の中は得体の知れない何かに支配されているような感覚に包まれ、冷え切っていた。




