第六章 血の山道(第三話)
雨は一段と激しくなっていた。
走りながら、清志郎は改めて足元の悪さを思い知る。雨水を吸った地面はぬかるみ、強く踏ん張れば、それだけで足を取られそうだった。
これでは、山育ちの自慢の脚力は活かしきれない。緩やかとはいえ、勾配もある。
全力で駆ければ、転ぶ。だが足を緩めれば、追いつかれる。
(まずいな……雨は味方してくれそうにないぞ)
とはいえ、生い茂る木々が視界に飛び込んできた瞬間、張り詰めていた緊張が、わずかに緩んだ。ここなら、少なくとも四方から一斉に斬りかかられることはない。
(先に来るなら、後方に隠れていた奴らからだろう。距離も近かったし、下りだからな)
そう思った矢先だった。雨を裂いて、一本の矢が清志郎の目の前をかすめ、斜め左上の幹に突き立った。
「――!」
警戒を向けていたのとは反対の、千凪村の方角からだった。肝を冷やした清志郎は、慌てて大木に身を隠した。
(弓までいるのか!)
上方から、何者かが慌ただしく降りてくる気配が伝わってきた。
(来たか!)
一人が仲間の死体を見つけたのだろう、もう一人に向けて鋭い叫び声を上げた。
「二人とも殺られてるぞ! 気をつけろ!」
それに呼応するかのように、もう一人も声を上げた。
「野郎、どこに行きやがった!」
男たちは清志郎に気付いていないようだ。わざわざ、こちらから出ていく必要はない。斬り合うことになったとしても、こちらに踏み込まれてからだ。
ところが、清志郎の位置を教えるかのように、矢が地面に突き刺さった。
「そこに隠れてるのか!」
男たちが一斉にこちらへ顔を向ける。清志郎は、その弓の驚異的な精度に戦慄した。
まぐれではない。この視界の悪さの中で、射手は自分の位置を捉えている。
男たちが殺気を放ちながら走ってくる。
清志郎がより条件の良い場所へ移動しようと後退した瞬間、ヒュッと退路を塞ぐように矢が飛来した。続けざまにもう一矢。
「くっそ!」
弓矢の存在を苦々しく思っている間に、清志郎は男たちに見つかった。
「この若造がぁ! 覚悟しろ!」
二対一。そういう稽古をしてこなかったわけではない。
だが、相手は門下生で、得物は木刀だった。強者との他流試合は、いつも一対一。
今は違う。真剣で、しかも矢が飛んでくる。
(や、殺れるのか? ……いや、殺らなきゃ殺られるだけだ!)
一人目が雄叫びを上げて肉薄し、その勢いのまま鋭い刺突を繰り出した。
(落ち着け。さっきだって、この体は動いてくれた)
清志郎は身をひねってかわし、男の片足を払った。男は勢いを殺せず、足元を泳がせる。倒れまいと踏ん張ったが、ぬかるみに足を取られ、前のめりに崩れた。
命のやり取りをしているのだ。構わず、後ろからだろうと斬ればよかった。
だが、清志郎の体と精神に染み付いた剣は「殺人剣」ではない。その性分が、ほんの一瞬の躊躇を生んだ。
その隙を突かれ、もう一人の男の刃が迫る。完全に出遅れた。
――にもかかわらず、派手に血飛沫をあげたのは、斬りかかってきた男の方だった。噴き出した雨よりも熱い返り血を、清志郎は全身に浴びた。
(あ……?)
体が勝手に動いていた。一瞬、自分が何をしたのかわからなかった。迷うより先に、刀が振られていた。
弾いた刃の勢いを殺さぬまま、清志郎の刀は袈裟に落ちていた。刃は鎖骨を割り、胸から脇腹へ深く走った。
男の体が、濡れた地面に崩れ落ち、今度は水飛沫をあげた。
「こ、こ、こ……この野郎ぉ……」
思考が白濁しかけた清志郎の意識を呼び戻したのは、転倒していた男の声だった。
(――! そうだ、ぼうっとしてる場合か!)
男は起き上がりざま、血まみれの清志郎と目を合わせ、思わず後ずさる。さらに足元に転がる仲間の無残な死体を見て、小さな悲鳴を漏らした。
「ひっ!」
再び清志郎に視線を戻した男の刀は、切っ先を小刻みに上下させていた。それが彼の癖や剣技に起因するものではないことは、一目瞭然だった。
(震えてる。こいつも、怖いのか……なら、引いてくれよ! 俺だって斬りたくねぇんだよ! ……けど、殺るなら、今だ!)
清志郎は初めて、自ら積極的に攻勢に出た。慎重に足場を選びつつ、素早く男との間を詰める。
斬れる。そう確信して刀を振り下ろそうとした刹那――男との間に割り込む鋭い気配を察知し、清志郎は即座に身を引いた。
それは、一本の矢だった。
(危ねっ!)
斬ることだけに集中できないことを、まざまざと思い知る。
「いたぞ! こっちだ!」
下方から声がした。前方を塞ぎに山道へ踊り出た二人だろう。
(二人――! 弓の奴と、こいつまで入れたら四人かよ!)
目の前の男は、せめて仲間が到着するまで持たせればいいと思ったのか、刀をむやみやたらと振り回し始めた。
「はっ、早く……早く来いっ! 挟み打ちにするんだ! もう三人斬られてんだよぉお!」
その声に応じて駆けつけた二人も、地面に横たわる無残な仲間の死体を目にした。
「これは! おのれっ!」
駆けつけた男の一人は清志郎の背後へ回り込もうとするが、もう一人は仲間の死に激昂したのか、勢いよく斬りかかってきた。
しかし、その剣筋は清志郎の目にくっきりと映っていた。師の道善や、これまで戦ってきた強者たちに比べれば、軌道は粗く、速度も遅かった。
清志郎は腰を沈めて剣をかいくぐり、一刀のもとに斬り伏せた。顔にかかった血を手早く拭う。
(あと、三人……)
後から来た男の剣腕がどれほどのものか、まだわからないが、もう一人の男は油断さえしなければ斬れる。ようやく、生への道が開けたかのように見えたときだった。ざざっと、雨の向こうから、新たな人影が見えた。
「おい! なんだよ、これ! 相手は人を斬ったことのない若造だって話だったじゃねぇか!」
清志郎の前には、新たな刺客が立ち塞がる。
(こいつが、弓の射手か? いや、待て……)
男は弓を持っておらず、腰に矢筒も提げていなかった。それが何を意味するか、悟った清志郎は瞬時に青ざめた。
(弓の射手は別にいるのか! なら、そいつももう近くに……!)
その通りだと言わんばかりに、清志郎の心をへし折るような一矢が、すぐ横の木に深く突き刺さった。
《2026/09/04 第一回修正》
第六章は、旧版の面影がないほど、全力で書き直し中です。
一度読んでくださった方も、ぜひ「別物」としてもう一度読んでいただきたいです。
旧版では敵が三人だったのが六人になって第三話を追加……のはずが、もうちょっと清志郎、頑張れるんじゃないか⁉ということで、もうちょい増やすことにしました。
あと二話くらい追加します。
後々の話に影響が出る改稿になりました。ご考慮の上、お読みください。
また、話数を増やすために「連載完了→連載中」に致します。申し訳ございません。




