第六章 血の山道(第二話)
空は昨日までの春の陽気が嘘のように曇り、木々の影が道を覆っていた。まだ日暮れには早いはずなのに、周囲はすでに薄暗く、風が冷たかった。
山道を歩いているのは、清志郎しかおらず、山は静寂に包まれていた。ほどなく、ぽつぽつと雨が降り出した。
(やはり降り出したか。嫌な予感がしたんだ。酷くならなきゃいいんだが)
だが、清志郎の願い虚しく、雨は次第に強まってきた。千凪村までは、まだ道半ばといったところだ。
(参ったな。これじゃ、帰り着く頃にはびしょ濡れだ)
雨が止む気配はなかった。気をつけて歩いても、足元の悪い山道では、足袋や袴に泥水が掛かった。
(ついてねぇな。黒川が稽古を休んでくれたところまでは、よかったのによ。長男みたく、この調子で休み続けてくれないものか)
そのときだ――木々の隙間から、誰かに見られているような違和感を覚えた。
(――! ……なんだ? まさか……つけられてる?)
清志郎は足を止め、そっと後ろを振り返った。後ろには誰もいなかった。
(……気のせいか?)
向き直り、しばらくそのまま歩いたが、違和感は消えない。消えないどころか、その違和感は刺すような気配へと転じていた。
先ほど振り返ったせいで、向こうも姿を隠す必要がないと悟ったらしい。清志郎の違和感は、敵意を向けられていることへの確信へと変わった。
(なんでまた俺なんかを? 何人いる? 二、三……いや、もっとだ)
林の中に、黒い影が隠れ潜んでいる。雨のせいで、足音は聞こえない上、視界も悪くはっきりと目視できない。それでも清志郎の五感は、この危機的状況を全力で把握しようと働いていた。徐々に包囲網が狭まってきているのがわかる。平静を装いながらも、心臓の鼓動が速くなる。
真剣の扱いは道善に学んだ。青竹や巻き藁の試斬なら、誰にも引けを取らない自負はある。
けれども、それと実際に人を斬ることは別だ。緊張で身体が固くなっていくのが、自分でもわかった。
雨に濡れ、体は冷えているというのに、手のひらに汗が滲んできた。
(落ち着け。冷静になれ。でなけりゃ、斬られるぞ)
清志郎は、必死に自分に言い聞かせ、柄に手をかけた。その手は、小刻みに震えていた。
(情けねぇ……震えが止まらねぇ)
斬られれば、死ぬ。命を拾ったとしても、腕一本失えば剣士としては終わりだ。
『もし……もし、清ちゃんまでいなくなったら……私、本当にひとりぼっちよ!』
(わかってる、紗世さん。俺は約束を違えたりしない。……龍之介。ここを切り抜ければ、俺は、お前に近づけるか?)
果たして何人いるのか、どれほどの技量を持った者たちなのか、把握できないままだ。
しかし、全員を斬り伏せる必要はない。生き残ることを最優先するなら、ただ逃げおおせればいいのだ。幸いなことに、清志郎は己の脚力には自信があった。
(考えろ。考えるのをやめるな。完全に囲まれたら終わりだ。この雨が俺にとって、凶と出るか吉と出るか……確かなのは、神頼みができねぇってことだけだな。座禅堂であれだけ、本音をぶちまけたんだからな)
包囲網は、ほぼ形成されつつあった。清志郎は呼吸を整え、覚悟を決めた。
刀を抜くと同時に、横や背後に感じる隠れた者たちを振り切ろうと走り出した。
途端に、後ろから大声がした。
「おい! 前! 走ってったぞ!」
声と同時に、後方の連中からはまだ距離があるものの、清志郎の行く手を阻むようにして二人の男が林から姿を現した。
「ちぃっ!」
清志郎は仕方なく、林の中へ滑り込んだ。
「林の中へ入ったぞ。そっちだ!」
また、後ろから声がした。さっきまでは、左側だった方角からだ。
前方に二人も待ち伏せがいたことから、敵が少なくとも四人以上いることは間違いない。
(前に二人、左右に二人、後ろに二人……六人か?)
前の二人の身なりや雰囲気からして、浪人のようであった。ならば、多少なりとも剣術の心得はあるだろう。
なるべく木々の密集した場所はないかと、清志郎は逃走経路を探りながら走った。
「ああ、もうっ! よく見えねぇよっ!」
暫し足を止め、邪魔だとばかりに被っていた笠を外し、再び全力で走る。
「そこだ!」
後ろから声がした。咄嗟に足を止め、左へ身を翻した瞬間、右側を何かが鋭く掠めていった。
(石? 足止めのつもりか!)
男が一人、刀を抜いて追ってきた。笠を外した間と、今の投石で追いつかれたのだ。
清志郎は覚悟を決め、男に向き合った。
「このっ! お返しだ!」
清志郎は被っていた笠を思い切り、男の顔めがけて投げつけた。と、同時に全速力で走り、一気に間合いを詰めた。
お互いに、お互いの姿が視界から消えた。
男は本能的に、視界を遮る笠を払おうとしたが、できなかった。
笠を刃が突き抜ける感触、向こうから漏れる声、手応え。
(殺ったか……)
清志郎の刃は笠を貫き、その向こうにあった男の眉間を捉えていた。
男は濡れた地面にばしゃぁん、と崩れ落ちた。
「……」
清志郎は刀から笠を引き剝がし、血の付いたそれをろくに見ず、無造作に捨てた。
男は驚愕の表情を浮かべたまま、絶命していた。この足場の悪い中、ほんのわずかな間で、ここまで間合いを詰められるとは思っていなかったのだろう。男は、清志郎の知らぬ顔だった。
これまで幾度となく、頭の中ではやってきたことを実践した。そして、幸運にも上手くいった。それなのに、今の己の気持ちがどうであるのか、清志郎にはわからなかった。
「見つけたぞ! こっちだ!」
感傷に浸る間もなく、次なる追手が迫ってきていた。
一人目を殺ってすぐに走り出せばよかったものを、それができなかったことを悔いる。
逃げ込みたいと願う木々が鬱蒼と茂る場所までは、まだかなりの距離があった。
(もういい。こいつは、ここで殺る)
早いうちに、人数を減らしておきたかった。一対一なら殺れるはずだ。
そのまま斬りこんでくると思われた男は、突然足を止めた。転がった仲間の死体が目に入ったのだ。
「お前、斬ったことがないというのは嘘だったのか?」
「な、なに⁉」
清志郎は驚きに目を見開いた。この見知らぬ男が、何故そのようなことまで知っているのか。
「お前らは何者だ! 何故、俺を狙う?」
「知る必要のないことだ。お前に恨みはないが、こちらも生きて行かねばならんのでな。悪いが死んでもらう」
(金で雇われたのか?)
詳しく聞き出したいところだが、呑気に会話している場合ではない。他の連中がやって来てしまう。
道場でなら、構えただけで相手の実力は、感じ取れるものだった。土砂降りの雨の中だからか、恐怖のためか、理由ははっきりしないが、今それができないことに清志郎は気づいてしまった。
男が振り下ろしてきた刃を、受け流すこともなく、しっかりと受けた。身をひるがえし、間合いを外す。
(重い――)
一太刀受け、勝機があることは確信できた。この程度ならば、本来、受ける必要などなかった。男の間合いを見切ってかわし、すぐさま斬り込めるはずだった。
自分でも小心者だという自覚はあったが、いざ現実を突きつけられると、胸の奥に鈍い痛みが走った。
だが、この痛みを払拭するために、清志郎がすぐさま攻撃に転じることはなかった。
(いいさ。何を今さら……わかっていたことだ。無駄に傷ついてんじゃねぇよ)
猶予はないが、ここからが肝心だ。どうせなら、徹底して小心者を演じ、この男の油断を誘ってやろうではないか。
一向に攻めてこない清志郎を見て、男の警戒がわずかに緩んだ。
「斬ったことがないというのは本当だったようだな。笠なんぞ使いおって。姑息な真似をして命を繋いだか。今度はそのようにはいかんぞ」
清志郎は怯えて震えているように見せかけ、剣尖を少しばかり外した。それを見逃さず、男は今だとばかりに間合いを詰め、手元を上げた。
(それが、命取りってもんだ)
男が刀を振り上げる前に、清志郎は男の右手首を斬り落とした。男の絶叫が響き渡った。
血の噴き出す右手首を左手で押さえながら、地面をのたうち回る男を見て、清志郎は男に背を向けた。
それは、見たことのない恐ろしい光景であったし、無駄な殺生はしたくなかった。
ところが、走り出したかに見えた清志郎は、すぐに足を止めた。
(いや、万が一がある)
清志郎は男に向き直り、引き返した。
「悪いな……」
その声が、男に届いたか知る由もなかったが、どちらでもいいことだ。清志郎は男の喉を突き、とどめを刺した。
(……これで、二人目)
二度同じ失敗はしたくない。清志郎は、すぐに目的の場所へ向けて走り出した。
《2026/08/26 第一回修正》
旧版の面影がないほど、全力で書き直しました!
一度読んでくださった方も、ぜひ「別物」としてもう一度読んでいただきたいです。
旧版では三人だったのが六人になって、雨を降らせて......血の山道は(第三話)を追加します。
そんなふうで、後々の話に影響が出る感じになっています。
ご考慮の上、お読みくださいませ。
もう、清志郎じゃなくて、私のオツムが死んじゃいそう(´×ω×`)




