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第六章 血の山道(第一話)

龍之介が来て、三日が経った。

少しずつ距離が縮まり、隠し事をするのが、かえって心苦しい。

出掛けようとする背中にかけられた声に、清志郎は一瞬、言葉を選んだ。

信頼と欺き、その狭間で――彼は、笑ってみせた。

龍之介が来て、三日目の朝のことだった。


「おう、清志郎。出掛けるのか?」


龍之介の声に、草履の(わら)を踏む音が止まった。

隙を見て抜け出したつもりだったが、やはり足音を嗅ぎ取られたらしい。

背中に視線を感じながら、清志郎はゆっくりと振り返る。


「ああ……ちょっとな。お前も稽古までは好きにしていいんだぞ。まだ、道安寺にしか行ってないだろ。酒でも買って来いよ」


「それも悪くないが……で、どこに行くんだ?」


昨晩から、龍之介に打ち明けるべきか迷っていた。

ここで嘘をついても、紗世に口止めはしていない。

隠し通せるとは思えなかった。


「……隣町の道場だ。副業ってやつさ。こっちだけじゃ食っていけねぇからな」


「なに!なら、儂も同行したいのじゃが」


予想通りの反応に、清志郎は肩を竦めた。


「それがな、ちょっと面倒な場所なんだ。鼻につくお坊ちゃんたちの集まる道場でな」


「儂は別に構わんぞ」


「お前は構わなくても、向こうが構うんだよ。気を使うだけだって。うちよりは腕の立つ奴も多いが、お前に敵う奴なんていねぇよ。それより、俺が抜けるときは、紗世さんが大人の稽古も見なきゃならねぇ。お前が補ってくれると助かる」


草履の紐を締め終え、ちらりと龍之介を見やると、彼は眉を下げ、どこか寂しげな顔をしていた。

なんとか、諦めさせねばならない。

御曹司とその取り巻きに囲まれる龍之介など、想像もしたくない。

いや、それ以上に――彼らの怒りを買えば、この道場そのものが危うくなるかもしれない。

だが清志郎が恐れていたのは、もうひとつ。

あの御曹司――黒川元晴(くろかわもとはる)との、一件があったからだ。

黒川は郡奉行(こおりぶぎょう)の次男坊で、一見、礼儀正しく振る舞う。

だが、剣筋は雄弁だ。

木刀稽古において寸止めや軽打が基本とされるなか、黒川は下級武士に対して容赦なく叩き込む。

師範すらも黒川家からの援助に遠慮してか、見て見ぬふりをしていた。

先日、あまりにも目に余り、清志郎はつい口を出してしまった。


「黒川様。これはあくまで稽古です。相手に怪我をさせぬよう、ご配慮を」


「おや、榊先生。これは失礼。少し熱くなってしまいましたな……しかし、そんなに痛がるほどでしたか?」


倒れた門下生は、数箇所に打ち込まれたらしく、呻いていた。

清志郎はその肩を支え、怪我の具合を確かめながら、静かに言った。


「黒川様の技量であれば、寸止めなど容易いはず。それをなさらぬのは、何故です?一度打ち倒した相手に、なおも追い打ちなど……もってのほかです」


「……なに?」


道場に、凍るような沈黙が走った。

師範がすぐに仲裁に入り、事なきを得たが、黒川の顔には不満がありありと浮かんでいた。

元々、下級武士の清志郎から教わるなど、気に食わないはずだ。

なんとなく敵意を向けられているのは、前々から清志郎も気づいていた。

それが、皆の前で大っぴらに、恥をかかされたのだ。

これからは、彼や彼の取り巻きから、どんな嫌がらせをされてもおかしくない。

下手して龍之介を巻き込みたくなかった。


「道善先生の具合が急変したとき、紗世さん一人じゃ心配だしさ、頼むよ」


清志郎の言葉に、龍之介もようやく折れた。


「……仕方ないのう。そっちは遠いのか?」


「歩いて一刻ほどだ。日暮れまでには戻る」


なんとか龍之介を振り切り、清志郎は表へ出た。

それが、ただの「行ってくる」では済まぬ別れになるとは――このとき龍之介は、まだ知る由もなかった。






清志郎が剣嶺館(けんれいかん)に着くと、珍しく黒川の姿がなかった。

あれほどの負けず嫌いが、稽古を休むとは――。

違和感を覚えた清志郎は、師範・村瀬公道(むらせこうどう)に声をかける。


「村瀬先生、本日、黒川様は……おいでにならないのですか。もしや、先日の件で……」

 

「いや、熱が出たので休むと、田所から聞いている」


「そうですか……。あのとき、先生が間に入ってくださらなければ、大事になっていたかもしれません。あれこれ申し上げたのは、やりすぎだったかと、反省しております」


「いやいや、榊先生は間違ってなどおらんよ。……不甲斐ないのは私の方だ。だがな、黒川家は少々、ややこしい。なるべく穏便に済ませたいのだ……おわかりいただけるだろう?」


道場を預かる者としての苦悩が、その言葉に滲んでいた。

格式ある剣嶺館でさえ、理想だけではやっていけないということだ。

朝比奈道場の行く末を考えると、清志郎は心が重くなった。

この日、剣嶺館の空気はいつになく穏やかだった。

だが清志郎の胸には、風向きが変わるような、不穏な気配が微かに残っていた。

まるで、何かが、どこかで待ち構えているかのように――。

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