第三十七章 選択の代償(第二話)
「あっ、紗世! 胃がびっくりするかもしれないから、ゆっくりな」
「だって、お腹空いたんだもん」
「まぁ、そうだよな。ずっとろくに食べてなかったもんな」
紗世は居間で、清志郎の持って来た粥を美味しそうに食べていた。
つい先程まで、死の淵を彷徨っていたようには見えない。
「ねぇ、清ちゃん?」
「ん?」
「皆、父上の部屋にいるの?」
「ああ。玄庵先生たちも今頃、食べてるよ。宗真やご住職はともかく、龍之介と玄庵先生は一杯やってんじゃないのか」
「そ、そっか……」
紗世はそれ以上、何も聞かなかった。
なんとなく、清志郎が嘘を言っているような気がしても。
実際、半分は本当で、半分は嘘だった。
男たちは今頃、道善の部屋で食事をとりながら、宗真と龍之介から報告を受けているはずだ。
紗世を治療したのは、やはり澄斬姫であったと。
但し、その代償が道善の命であることは伏せ、『代償はいずれ払ってもらう』と言われたことにしてある。
宗岳と玄庵には、後で真実を打ち明ける手筈になっていた。
「ご馳走様でした」
紗世が粥の膳を片付けようと立ち上がりかけたので、清志郎は慌てて止める。
「紗世、いいよ。俺がやるって。まだ病み上がりなんだから」
「私もう、全然平気よ」
「いいから」
清志郎はさっさと膳を台所へ持っていき、すぐに戻ってきた。
しかし、何故か紗世の表情が暗い。
粥を食べていたときの笑顔は消え去り、何か言いたげに俯いている。
(まさか、澄斬姫との会話を聞かれていた?)
清志郎の心臓が、早鐘を打ち出した。
「……清ちゃん、あの、ごめんね」
「ごめんって、何がだ?」
「もう怒ってないの?」
「怒る? 俺が?」
清志郎には、何のことだかわからなかった。
「その、私が大嫌いとか、あっち行ってとか、酷いこと言ったから……清ちゃんはこの家を出て行ったんだよね?」
「紗世……」
清志郎は、ようやく紗世の言わんとすることを理解した。
「違うんだ、紗世。宗真に聞かなかったか? 俺が出ていったのは――」
ふいに、誰かの手が清志郎の声を遮るかの如く、肩に置かれた。
『私のせいだって言いたいのかな? 清守』
耳元で囁かれた声に、清志郎の心臓は一瞬、止まりかけた。
(――っ! そ、蒼耀様! いつの間に!)
会話の途中で石のように固まってしまった清志郎を、紗世が不思議そうに見ている。
「清ちゃん?」
紗世の呼び掛けをよそに、清志郎の視線は隣に立つ蒼耀に釘付けになっていた。
急に訪れた極限の緊張状態に、嫌な汗が全身から吹き出す。
息が上手くできない。
(や、やはり、見てたのかっ! 髪飾りの玉石を通して、蒼耀様は俺のやることなすこと、すべて見ていたんだ!)
「清守。この娘を助けるために、姉上と取引をしたね。死ぬつもりで……」
「そっ、それは……」
「勝手なことをしないで欲しいな。お前は私のものだと言った筈だよ。忘れたの?」
口調こそ優しいものの、蒼耀は怒っている――清志郎の肌がそう感じ取っていた。
「いえ……」
その一言を返すのが精一杯だった。
ここには紗世がいる。
下手なことを言って、蒼耀を刺激する訳にはいかない。
何故だろう。
いつからだろう。
こんなにも、蒼耀を恐れるようになったのは――。
以前はこのような、恐怖で支配される関係ではなかった。
もっと、お互いに信頼し合っていた筈だ。
――オレハ、ドコデ、マチガエタ?
(駄目だ……思い出せないっ!)
清志郎が混乱を振り払うようにかぶりを振った、そのときだった。
「あ……」
強烈な目眩がして、視界が霞む。
追い討ちをかけるように、急に心臓が暴れ出した。
「……ぁ、うっ!」
「せ、清ちゃん、どうしたの? しっかりして! ねぇ、清ちゃん!」
紗世が心配して自分を呼ぶ声が聞こえる。
だが、彼女が蒼耀に驚き、逃げ出す様子はない。
(さ、紗世……紗世には、蒼耀様が見えていないのか……。こ、この目眩と胸の痛みはっ……蒼耀様からもたらされたものなのか? いや、でも、前にもこんなことが……)
明らかな清志郎の異変に、紗世は慌てて彼の顔を覗き込む。
清志郎は左胸を押さえて蹲り、苦痛に顔を歪ませていた。
「嘘でしょ、清ちゃん! 大変……だ、誰か来て! 玄庵――」
「少し、静かにしてくれないかな。せっかく清守が過去を思い出そうとしてくれてるのに。台無しにする気かい? 君は」
蒼耀の手が乱暴に、紗世の口を塞ぐ。
「――! んんーっ!」
紗世は何が起こったのか理解が追いつかず、恐怖で叫ぼうとする。
だが、何もない空間から現れた『見えない手』に阻まれ、助けを呼ぶことすらできない。
しかし、その見えない手を必死に掴む者がいた。
清志郎だ。
「清守、なんのつもりだい?」
「お、おやめください……紗世には、手を……出さないで……お願い……ですから……」
紗世を離せと、苦痛に震える清志郎の手に力がこもる。
蒼耀は重い溜息をつくと、やれやれといった様子で清志郎を見下ろした。
「場所を変えようか、清守。ここではゆっくり話せそうにもない。ついておいで」
蒼耀がそう言った途端、清志郎の意識は急速に薄れていった。
何故だか立ち上がり、勝手に足が動く。
視界は完全に閉ざされた訳ではないのに、頭がまったく働かない。
部屋に取り残された紗世もまた、糸が切れたように気を失い、その場に倒れ込んだ。




