第三十六章 死の淵にて(第三話)
「どちらを選んだの? 聞かせてちょうだい」
清志郎に、もう迷う余地はなかった。
いや、心の底から湧き上がる葛藤は、無理矢理にでも断ち切るしかなかったのだ。
「紗世を……紗世を助けてくれ。道善先生を斬る」
血を吐くような清志郎の答えを聞き、澄斬姫は満足そうに微笑んだ。
「そう。賢明な判断だわ。死にたがりの老人より、母と姉を失っても悲しみに負けず、ひたむきに生きてきた娘を選ぶのね。私だって、紗世の方を助けたいわ」
「せめて、決行する日と場所は、改めさせてくれないか」
「構わないわ。私とて、今ここで斬れなどと無粋なことは言わない。一週間以内に、道善の首を澄斬神社に持っていらっしゃい。約束を破れば、道善も紗世も殺す。わかったわね」
「……承知した」
清志郎と手短に約束を交わすと、澄斬姫は紗世の傷ついた両手に、自身の掌をかざした。
「この娘の身体に巣食う穢れよ。今すぐ出てくるがよい」
澄斬姫が一言そう告げると、どす黒い煙のようなものが紗世の傷口から立ち昇った。
それは紗世の寝ている真上で凝縮し、禍々しい黒い玉となって留まる。
いや、澄斬姫の掌から溢れ出す青白く淡い光が、それを封じ込めているのだ。
(これが穢れ? 紗世の命を奪わんと巣食っていたものの正体か……)
その黒い玉は、中心を見つめていると、何故か魂まで吸い込まれそうな錯覚に陥る。
まるで、底なしの暗い洞窟に引きずり込まれるような――。
「穢れよ、今すぐこの娘より立ち去れ。そして、二度と近づいてはならぬ。さもなくば、我が力でお前を滅する。如何に?」
澄斬姫の凛とした声が響くと、黒い玉はもがき苦しむように次第に薄くなり、終いには跡形もなく霧散した。
「も、もう、大丈夫なのか?」
「ええ。傷口を確認してご覧なさい」
促されるまま、清志郎は震える手で急いで包帯を解く。
「あっ!」
紗世の掌を見て、清志郎は思わず息を呑んだ。
痛々しかった傷口は綺麗に塞がり、もはや傷跡すら残っていない。
まさに神業。
それを目の当たりにして、身震いせずにはいられなかった。
「さ、紗世……紗世!」
「う……ん……」
かすかに紗世の唇から声が漏れた。
(生きてる! 熱は?)
紗世の額に手を当てると、あれほど酷かった熱はすっかり引いていた。
手首に触れれば、脈も力強く波打っている。
「っ……」
清志郎の目から、堪えきれずに溢れ出した熱い雫が、ポタポタと紗世の頬に落ちた。
「お前には傷を残したけれど、紗世には必要ないわ。終わりよ。彼女から死は去った」
そっと立ち上がり、その場を去ろうとする澄斬姫の衣の端を、清志郎は咄嗟に掴んだ。
「礼を言います。澄斬姫――」
振り返った彼の顔は、涙でぐしゃぐしゃだった。
「……清志郎」
「あなたのお陰で、紗世は助かりました。俺は、一番大切な人を、失わずにすみました」
「勘違いしていないでしょうね? 約束は守ってもらうわよ」
「はい。必ず、道善の首を持って参ります」
「待っているわ」
その言葉を最後に、澄斬姫は淡い光の中に溶け込むようにして消えていった。
◇
――
誰だろう?
誰かが、私の名前を呼んでいる。
この声は……清ちゃん?
清ちゃんなの?
ごめんね。
大嫌いとか、酷いこと言って。
それで、清ちゃんは出て行ったのよね。
どうしたのかしら?
あんなに苦しかったのに……今はもう、ちっとも苦しくない。
もしかして、私、死んじゃった?
そっか、死んじゃったんだ。
だからなのね。
もう痛くもないし、苦しくもないのは。
こんなに静かで、遠くに、ぼんやりと清ちゃんの声が聞こえるのは。
最後に駆けつけてくれたのね、清ちゃん。
ありがとう。
馬鹿だな、私。
変な女の意地なんか張って、いじけちゃって。
最後に、あなたの顔、見られなかった。
最後に、ごめんねも、ありがとうも言えなかった。
こんなことになるなら……。
こんなことになるなら……。
女の私からだってよかった。
勇気をだして、もっと早く言えばよかった。
あなたのことが、好きだって。
大好きだって。
でも、もう遅いね。
さようなら、清ちゃん。
――
「……紗世、紗世。俺の声が聞こえるか? 目を開けてくれ、紗世!」
「……んっ……うぅ……あ、あれ? せ、清ちゃん? 嘘! 清ちゃんまで、死んじゃったの?」
「え? ……ああ、もうっ! 何言ってんだよ、心配かけやがって! よかった、紗世。本当によかった……っ」
目が覚めるなり訳の分からないことを言う紗世を、清志郎はゆっくりと抱き起こし、そのまま力強く抱き締めた。
清志郎にこんなに強く抱きしめられたのは初めてだ。
状況がよく呑み込めないながらも、紗世は激しくどぎまぎしてしまう。
「……わ、私、……生きてるの?」
「ああ、生きてるよ。手の傷、見てみろよ」
清志郎は紗世から少しだけ身体を離し、傷口を見るよう促した。
紗世は言われるままに、両の掌を見た。
包帯は解かれている。
「えっ……き、傷が消えてる! えっ……どういうこと? なんで……?」
紗世は驚きの声を上げながら、困惑した顔で清志郎を見上げた。
だが、清志郎は何も説明することなく、再び紗世を強く、愛おしそうに抱きしめた。
「せ、清ちゃん……」
紗世の頬が、先程までの病の熱とは違う、甘い熱で朱に染まる。
勝手に胸が高鳴って仕方がない。
突然、フッと清志郎の腕の力が緩んだ。
少しだけ距離が開き、紗世は見てしまった。
自分だけに向けられる、見たことのない彼の熱を帯びた瞳を。
ふたりの間に、ほんのわずかな静寂が落ちる。
次の瞬間、紗世の唇には、彼の熱い唇がそっと押し当てられていた。
紗世は一瞬驚きで肩を揺らしたが、やがて身を任せるように、黙って静かに目を閉じた。
【!重要!】
この度、タイトルを「澄斬姫 ―女神の妖刀―」から
「澄斬姫 ―神殺しの男に背負わされた、復讐の妖刀―」に変更しました。
あらすじも見直しました。
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