第三十六章 死の淵にて(第一話)
龍之介とともに朝比奈家へ駆け戻った清志郎は、表口の戸を勢いよく開け放った。
息をきらしながら、草履も脱ぎ捨てるようにして家へ上がり込む。
物音に気づいたのか、深刻な顔をした宗真が居間から出てきて、清志郎を待ち受けていた。
「清志郎、今までどこにいたんだ。探したんだぞ。寺から出るなと言ったじゃないか!」
「悪い、色々あって……後で話す。紗世は?」
「……すまない清志郎。私がついておきながら」
宗真の謝罪を聞き、清志郎の後ろから来た龍之介も頭を下げる。
「いや、それを言うなら儂もじゃ。すまん、清志郎!」
「……お前らのせいじゃない。それに、朝比奈家を出ていた俺に、何が言えるってんだ。とにかく紗世に会わせてくれ!」
居間に入ると、手前では宗岳が小さな声で念仏を唱え、紗世の枕元には、両の拳を握り締めて項垂れる道善がいた。
紗世の傍らで彼女の汗を拭っていた玄庵は、清志郎の姿を見ると立ち上がり、力なく歩み寄ってきた。
「すまん、清志郎。できる限りのことはしたのじゃが、もう儂の手には負えん。傷口から入った毒が、すでに脳へ回り始めておる。熱は下がらず、脈もひどく乱れておる」
「……」
「毒を止めるには、腕を落とすしかない。だが、片腕ならまだしも、両腕ではどうにもならん。根元から落とせば、毒が回るより先に血を失って死ぬ。……今夜が峠じゃ。覚悟してくれ」
龍之介が血相を変えて、澄斬神社にまで来たのだ。
最悪の事態は想像していた。
だが、玄庵の口からはっきりと告げられた瞬間、かすかに残っていた望みは音もなく砕け散った。
「せ、先生……万に一つの望みもないんですか?」
「……この状態で助かるというなら、それは奇跡じゃろう」
玄庵も辛いのだろう。
彼からすれば、紗世は幼い頃から診てきた、我が子も同然の娘なのだ。
目に涙を浮かべながら、必死に声を絞り出しているのがわかる。
それがまた、迫り来る無慈悲な現実を浮き彫りにしていた。
体の力が抜け、手足が小刻みに震えだす。
清志郎は玄庵に軽く頷くと、その手から手拭いを受け取り、紗世の傍らに静かに腰を下ろした。
紗世は布団の上で浅い息を繰り返していた。
最後に紗世の顔を見てから、まだそれほど時は経っていないはずなのに、ひどく久しぶりに見た気がした。
肌は白く、唇にはほとんど色がない。
閉じられた瞼の下で、かすかに眼球が揺れる。
熱に浮かされているのか、時折、苦しげに眉が寄った。
「紗世……」
あれほど触れてはならないと思っていた紗世に、そっと手を伸ばす。
もう蒼耀のことなど、気にしていられなかった。
どのみちこのままでは、紗世は――。
「紗世、遅くなってすまない。帰ってきたよ。俺がわかるか?」
頬に触れても、声を掛けても、その目を開けてくれない。
「紗世っ、おい、紗世!」
(もう意識がないのか? もう戻らない? そんな……)
「くっ……」
目頭が熱くなるのを感じた。
生死を彷徨って戦っている紗世の前で泣くわけにはいかない。
清志郎は必死に堪えた。
「せ、清志郎……」
すぐ真横から、かすれた声がした。
清志郎は声の主に、顔だけ向けた。
「……道善先生」
道善の顔には生気がなかった。
まるで死体がこちらを見ているようだ。
清志郎の目には、道善が死そのものに見えた。
これまで恩師として敬ってきた道善に対して、初めて、どす黒い嫌悪感が込み上げてきた。
(近づくな! 紗世から離れろ、この死神が! 誰のせいでこうなったと思ってるんだ!)
頭の中で、道善を罵る言葉が溢れ出す。
「清志郎!」
「あ……」
宗真の声にハッとなり、泥沼の思考の中から抜け出して我に返る。
自分はどんな顔で道善を見てしまったのだろう。
口にせずとも、道善の顔を見れば、自分の胸の内が伝わってしまったことは明らかだった。
清志郎は思わず、道善から目を逸らした。
(俺は何考えてんだ……先生がおかしくなって自害しようとしたのは、俺のせいかもしれないのに……だけど……)
何故だか、道善に対して何も言えない。
いや、彼と言葉を交わしたくない。
清志郎は沈黙した。
それが、彼の精一杯だった。
しばしの沈黙の後、すすり泣きとともに、紗世への謝罪の言葉が聞こえてきた。
「すまぬ……紗世……父が愚かだった……許してくれ……本当に……本当に愚かであった……儂のせいでこんな……許してくれ……」
今、道善の心は娘への罪悪感で張り裂けそうになっているはずだ。
自分の過ちのせいで、娘の命が尽きようとしているのだ。
その心中は察してあまりある。
だが、今の清志郎には道善の謝罪さえ、耳を塞ぎたくなるような死神の呪文のように聞こえる。
その声から逃れるように、紗世の包帯の巻かれた手を両手で包み込み、顔を寄せた。
「紗世、頼むよ……目を開けてくれよ……紗世!」
まだ泣くときではないと思っていたのに、涙が次から次へと溢れてきて止まらない。
(どうする? このままじゃ、本当に紗世は死んじまう。……奇跡だって? そんなの座してて起こるものか! 祈ったって、念仏唱えたって仕方ねぇんだよ。そんなの意味がねぇって、これまでで十分わかってんだよ。紗凪、助けてくれ! 紗世が……お前の妹が死にそうなんだよ。まだこっちに来るなって言ってやってくれよ!)
そのとき、清志郎の頭に一人の人物が浮かんだ。
(もう、あいつに頼るしか……)
風間梨苑――。
引き受けてくれるかはわからない。
だが断るというなら、脅してでも治療させるしかない。
そもそも風間でも無理かもしれないが、紗世が助かる道はそれ以外にないと思えた。
(間に合うか? いや、なんとしても間に合わせなければ……ここに座ったまま、何もしないで諦めるなんて、できるかっ!)
清志郎は、紗世の額に自分の額をくっつけて、そっと囁く。
「紗世、待ってろ。絶対、助けてやるからな。……っ、それまで、頑張るんだぞ」
清志郎は名残惜しそうに紗世から離れると、すくっと立ち上がった。
宗真と龍之介が、突然立ち上がった清志郎に驚いて声を上げる。
「せ、清志郎?」
「どうしたんじゃ?」
「一か八かだが、行ってくる」
二人は清志郎の心中がわからず、止めようとする。
「ま、待て、こんなときに。行ってくるってどこへだ?」
「紗世さんの傍についておらんでよいのか?」
清志郎は意を決して言う。
「俺の腹を……澄斬姫と共に治した医者を呼んでくる」
突拍子もない清志郎の発言に、宗真は苦言を呈した。
「な、なんだって! 本気か! お前を助けたのは、恐らく澄斬姫の企みあってのことだぞ。紗世ちゃんを助ける理由は、その医師にはないだろ」
「宗真、よくわかってるじゃねぇか。だが、俺は本気だ! ここでただ座って、紗世が死ぬのを待つなんて、俺には耐えられない。引きずってでも連れてくるさ。紗世は……紗世だけは死なせたくないんだ!」
「せ、清志郎……」
宗真には、清志郎の気持ちが痛いほどわかった。
もはや口をつぐむしかなかった。
「清志郎、ならば儂も連れて行け!」
胡坐をかいて部屋の隅に控えていた龍之介が立ち上がる。
「龍之介……」
「儂こそ、ここにおっても何もできん。お前がどうしても行くというのなら、儂も行こう」
清志郎は友の申し出に、ただ深く頷いた。
「恩に着る。龍之介」
二人が居間を出ようとした、そのときだった。
――すうっ、と。
何の前触れもなく、空気が変わった。
(な、なんだ、この感覚……)
音が消えた。
いや、音だけではない。
部屋の空気が、一方向へ流れていくような感覚があった。
(どういうことだ……)
振り返った清志郎は、息を呑んだ。
(りゅ、龍之介、宗真? 玄庵先生たちも……)
その場にいる全員が、瞬きすらせず、止まっていたのだ。
「……こ、これは……どうなってる? さ、紗世は?」
急いで紗世に駆け寄ると、紗世だけは変わらず、苦しそうに息をしていた。
異様な静寂の中、紗世と彼女の傍に座り込んだ清志郎だけが動いていた。
次の瞬間、眩い真っ白な光が部屋全体を包み込んだ。
清志郎の胸がドクンと高鳴る。
光の中に、人ならざる者の気配を感じたからだ。
それは徐々に輪郭を露わにし始めた。
「す、澄斬姫――」
清志郎は、音もなくそこに立ち現れた女神の名を口にした。
この世のものとも思えぬ美しさをまとい、しかし人ならぬ威を秘めたその姿に、清志郎は思わず目を見張った。
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白杜 深月(小説)/ココロの迷宮(YouTube)
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和風ダークファンタジー小説『澄斬姫 ―女神の妖刀―』を執筆中。
江戸の闇と人の情、そして神の祟りを描く物語。
カクヨム・なろう・Nolaで連載。
YouTube「ココロの迷宮」では心理と恐怖をテーマにしたショート動画を制作。
静かに語る物語を、静かに愛してくださる方へ。
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