カブトムシの名は。
魚介類体操を無事に終えた私は、魚介類体操の最後のコメツキカニの求愛のポーズで体を大きく伸ばした。
求愛のポーズからはじまり、求愛のポーズで終わる。
初志貫徹というものなのよ。
最後のポーズを決めた私は、両手を元に戻した。
「二人とも、上手にできて良い子ね。今日も一日元気に頑張ろー!」
「おー!」
いつもの褒め言葉を口にする私に、エルジエル君はにっこり笑って返事をする。
「あぁ」
ジゼルハイド様の落ちついた低い声に、一瞬にして我に返った私は、一気に体が熱くなった。
運動したから熱くなったわけじゃない。
ジゼルハイド様に向かって「良い子ね」なんて言ってしまったのが、すごく恥ずかしい。
それは年上の男性に言う言葉ではないもの。
「アンネリア、どうしたの?」
「な、なんでもないのよ。じゃあ、エルジエル君、今日もお散歩にいきましょうか!」
羞恥心を誤魔化すために私は元気よく言って、エルジエル君に手を伸ばした。
駆け寄ってきて私の片手をぎゅっと握りしめたエルジエル君は、ふと思い出したようにジゼルハイド様に振り向いた。
「アンネリア。ジゼも、混ぜてやっても良い?」
「ええ、もちろんよ」
「僕が森を案内してやる。一緒に来ても良いぞ、ジゼ」
「……それは、嬉しい。だが、良いのか?」
「特別だぞ。手を繋いでやる」
エルジエル君が手を差し出すので、ジゼルハイド様は口元に楽しそうな笑みを浮かべると、エルジエル君と手を繋いだ。
エルジエル君を真ん中にして両手を繋ぐと、まるで子供を連れた新婚夫婦みたいで、ちょっと気恥ずかしい。
でも――なんだか嬉しいわね。
「ジゼは大きいな。クヌギの木みたいだ」
「クヌギの木」
「うん。カブトムシとか、クワガタがくるんだって。アンネリアが教えてくれた」
「アンネは、物知りだな」
「アンネリアは何でも知ってる。すごいんだ。でも、女の子だから、危ないことがあったら僕が守ってあげないといけない。ジゼも、アンネリアを僕と一緒に守るんだぞ。ジゼは僕より子供だけれど、大きいからな」
「あぁ。この命に代えても」
「それは良い心がけだな」
エルジエル君がどこかの王様みたいな口調で、ジゼルハイド様を褒めている。
立場を考えたらあまり褒められたことではないのだけれど――ジゼルハイド様はそれを許してくれているし、あまりにも真剣に言葉を交わしているのが微笑ましくて、思わず口元が綻んでしまう。
「先程の体操というものも、良かった。朝はあまり得意ではないが、少し体を動かすと目が覚めるのだな」
「うん。それに朝の体操は、体に良いんだって。アンネリアがいなくても、僕が覚えているから、こんど妹か弟が生まれたら、一緒にやってあげようって思ってるんだ」
「きっと、喜ぶわ。それにエリカテーナお姉様も、エルジエル君が生まれてくる赤ちゃんを可愛がってくれたら、嬉しいと思う」
「うん。アンネリアが僕と一緒にいてくれたみたいに、僕も、一緒にいてあげようって思ってる」
七月の王国は、夏が訪れていて日中は少し暑い。
けれど朝はまだ涼しくて、公爵家の敷地内の森は、土と新緑の生命力に満ちた香りにあふれている。
蝉の声がそこかしこから聞こえる。
時折風が吹いて、木々の葉が揺れて擦れて、ざわざわと鳴った。
「エルジエル。森には、カブトムシがいるのか」
「ジゼも、カブトムシが好き?」
いつの間にか、エルジエル君はジゼルハイド様に懐いていた。
私もジゼルハイド様と会ってすぐにジゼルハイド様に懐いたので、すごくその気持ちが分かる。
うまく言えないけれど、真っ直ぐに私だけを見てくれて、尊重して、大切に言葉を選んで話してくれている感じがするのよね。
それは――好きになってしまうわよね。
「嫌いではない」
「嫌いじゃないっていうのは、好きってこと?」
「そうなのかもしれない。よく分からない」
「好きなものと嫌いなものが、よく分からないっていう意味? 変なの」
「変なのかもしれないな。何かを好きだと思ったことも、嫌いだと感じたこともあまりない。……だが、今は、アンネが好きだ。アンネのおかげで、好きなものが少しずつ増えている」
「子供だと思っていたけれど、お前は赤ちゃんみたいだな。アンネリアは小さな子には優しいから、良かったな」
「あぁ。良かった」
ジゼルハイド様とエルジエル君の話を微笑ましく聞いていた私は、突然ジゼルハイド様に好きだと言われて内心狼狽えた。
嬉しい。でも、すごく、恥ずかしい。
直接言われるよりも、その言葉は真摯で切実に胸に響いて、すごく照れてしまう。
「じゃあ、カブトムシを捕まえよう、ジゼ。手のひらにのせたら、好きだって思うかもしれない。カブトムシは格好良いんだぞ、黒くて、強い。竜のジゼも黒くて強そうだから、少し似てる」
「そうか。以前、アンネにも言われた。カブトムシに似ていると」
「アンネリアと僕は仲良しだからな!」
にこにこと嬉しそうなエルジエル君が、ジゼルハイド様の手を引っ張って、以前一緒に森を散策しているときに見つけたクヌギの木の前に連れて行く。
見上げるほどに背の高い立派なクヌギの木の樹皮は少し剥げていて、蜜が滴っている。
そこには小さなクワガタと、ヘラクレス三世よりも一回り以上小さなカブトムシが居た。
「……ヘラクレス三世とは、形が違うな」
「ジゼ様、お兄様のヘラクレス三世を見せて貰ったのですか?」
「いや。アンネに贈っただろう。皇国の森でとれるカブトムシの名前はヘラクレス三世と言うのだと、ラヴィーヌやレイニスが皆に言っていた」
「そ、そうなのですか……」
どうしよう、それはお兄様のカブトムシの名前なのだけれど。
でも、訂正するには時間がかかりそうなので、しばらくそっとしておこうかしら。
皇国の大きなカブトムシの名前がヘラクレス三世になったら、お兄様は喜ぶかもしれないわね。
「王国のカブトムシも、小さいけれど、強いんだぞ。力持ちなんだ」
「そうか。それでは、捕まえるか、エルジエル」
ジゼルハイド様はエルジエル君の体を軽々と持ち上げた。
エルジエル君や私では手が届かない場所にカブトムシはいるのだけれど、ジゼルハイド様が持ち上げて肩に乗せるようにすると、簡単に届いた。
エルジエル君はびっくりしていたようだけれど、すぐに落ち着いて、カブトムシに手を伸ばす。
上手に片手で捕まえると、「良くやった、ジゼ。降ろして良いぞ」と、再びどこかの王様みたいなことを言った。
「ジゼ、ほら。カブトムシだ。格好良いだろ」
エルジエル君は自慢げに、カブトムシをジゼルハイド様に見せた。
「あぁ。黒いな。黒くて強いものは格好良いのだな」
ジゼルハイド様は頷く。
ジゼルハイド様も黒くて強い竜なので格好良いですよ……!
と、私は心の中で強く思った。口には出さなかった。今はそれよりも――。
「エルジエル君、はじめて自分で捕まえたわね、カブトムシ。凄い!」
私はパチパチと拍手をした。
今までは私が木に登って捕まえていたけれど、はじめて自分でできたわね。
私がエルジエル君を肩車しても、木の上の方には届かないもの。
エルジエル君、私は女の子だから肩車をさせるわけにはいかないって言うし。
「ジゼは、……頼りがいがあるな。赤ちゃんだけど」
「ええ! 私が好きになった方だもの。優しくて、強くて、一緒に居ると安心できるの」
「……うん。……アンネリア。僕、アンネリアがいなくても頑張るね。カブトムシ、お父様とお母様に見せてあげたいから、持ち帰っても良い?」
「ええ。飼うのなら、大切にしてあげてね」
「大事にする! ジゼが手伝ってくれて、捕まえることができたから。このカブトムシの名前は、炎帝にしよう。凄く強そうで格好良いよね」
嬉しそうなエルジエル君の後ろで、ジゼルハイド様が口元に手を当てて、頬を染めていた。
凄く照れているその様子を見てしまって、私も何だか恥ずかしくなって、顔に両手を当てた。
エルジエル君は私の顔を不思議そうに見つめていたけれど、すぐに捕まえたカブトムシに意識を移したようだった。
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