炎帝陛下の過去
いつの間にか、雨脚が強くなっている。
開け放たれたバルコニーへと続く大きな窓から、霧にけぶる真っ白な景色が見える。
バルコニーは雨に濡れていて、薄い水溜りに大粒の雨がぶつかってはじけている。
バルコニーから部屋までは距離があって、風がないせいか雨が吹き込んでくることはないようだった。
私は帆船のようなベッドに寝転んで、半分微睡ながら雨音を聞いていた。
「……よく晴れた日は、好きです。でも、雨の日も、好き。お部屋に閉じこもって、エルジエル君と秘密基地を作って遊ぶのですよ」
「アンネは、好きなものが沢山あるのだな。秘密基地とは?」
ジゼルハイド様は、私の胸に浮き出た印に指で慈しむように触れている。
いつの間にか、夜がきて、朝になっていた。
意識を失うようにして眠ってしまった私は、最後の方はただ熱に翻弄されるばかりで、途切れ途切れにしか覚えていない。
目覚めると、ジゼルハイド様は私に果物を食べさせて、冷たい紅茶を飲ませてくれた。
なんだか胸がいっぱいで、あまり食べられなかった。
それから、もう一度ベッドに横になった。今日は、起きられそうにない。
「秘密基地とは、隠れ家のことですね。家の中のお部屋に、毛布やお菓子や玩具なんかを沢山運び込んで、隠れるのです」
「家の中の部屋では、隠れ家にはならないのでは?」
「雰囲気を楽しんで遊ぶのですよ。この、離宮と一緒です。ジゼ様と私がここにいること、みんなは知っているのでしょう? でも、私たちはここに二人きりで隠れているみたいで、誰にも邪魔されることがなくて、……それって、とても、特別っていう気がしませんか?」
「そうだな。……お前がどれほど愛らしい声で俺を呼んでも、俺の他に聞く者はいない。永遠に、ここで交わっていたくなる」
「……ジゼ様、秘密基地はもっと、可愛いものですよ」
指先が、不埒に私の体の上を滑り始めるので、私はジゼルハイド様の手を追いかけて、ぎゅっと握った。
手を繋ぐと「それはずるいな」と言って、ジゼルハイド様は笑った。
「お前に繋がれた手を、振り解くことなどできない。お前があまりにも煽るから、際限なく鳴かせたくなってしまうというのに」
「ジゼ様の方が、ずるいです。……私のこと、子供か、小動物と思っているって信じていたから、……でもすごく、不埒、でした」
「嫌か?」
「嫌じゃないですけれど……」
「もう、耐えることはしないと言った。俺が触れてもお前は壊れたりしない。それどころか、触れたら触れただけ、色づく体や甘い声や、早まる呼吸や鼓動で、俺が好きだと教えてくれる。それは、もっと触れたくなって当然だろう」
「……っ」
私は二の句が告げなくて、口をぱくぱくさせたあと、黙り込んだ。
顔も体もあつい。
雨音が心地よくて、倦怠感の残る体をベッドに沈めて、半分うとうとしていたのだけれど。
ジゼルハイド様が低く艶のある声であんまりなことを言うから、すっかり目が覚めてしまった。
「可愛いな、アンネ」
口元に笑みを浮かべながら、ジゼルハイド様が言う。
もしかして、揶揄われているのかしら。
ジゼルハイド様は私と繋いだ手を引き寄せると、私の手の甲に軽く口付けた。
「…………これほど、穏やかで、満ち足りた気持ちになったのは、いつ以来だろうか」
「……竜人の方々は、恋人や、その、そういった関係になることに、寛容なのではないでしょうか。ジゼ様にも、そういった方々が、いたのではないですか……?」
あまり、気にしているわけではないのだけれど。
ジゼルハイド様の言葉がなんだか寂しくて、思わず聞いてしまう。
そういえば、私はジゼルハイド様のことについて、まだよく知らないままだ。
相手を深く知ることについては、そんなに重要だとは思わない。
私は、ジゼルハイド様が好き。
その事実だけがあれば良い。
そうは思うけれど、つい、口から疑問がこぼれてしまった。
「気になるか、アンネ?」
「話したくなければ、無理にとは……ジゼ様は、立場のある方ですから、過去にいろいろとあるのは当たり前でしょうし」
「気になると言って、嫉妬をしてくれ」
甘えるようにジゼルハイド様は言って、私の体を腕の中に閉じ込めるようにして抱きしめた。
「……気になりますし、もし誰か、心を交わした相手がいたとしたら、……妬いてしまいます」
ポツリとそう告げると、胸板が揺れた。
多分、笑っているのだろう。
「お前は優しいな、アンネ」
「……過去のことは終わったことですけれど、これから、ジゼ様に他に気になる女性が現れたら、嫉妬をしますよ。私、そんなに寛大でもないし、心が綺麗でもありませんから」
「十分綺麗だ。そんなことは起こらないが、嫉妬をされるのは気分が良い」
「面倒臭い女って思いませんか?」
「思わない。俺はお前が手のひらに乗せて可愛がっていたカブトムシにさえ、嫉妬をしたぐらいだからな」
それは、ジゼルハイド様が私にくださった、カブ次郎のことね。
そんな風には見えなかったのだけれど。
でも、ここに来てからのジゼルハイド様は、お城にいたときにジゼルハイド様よりも表情が豊かだ。
まるで、別人になってしまったみたいに。
それぐらい、今まで私を傷つけないようにと、とても気を使ってくれていたのね。
私はジゼルハイド様の背中に手を回した。
胸に頬をつけると、ジゼルハイド様の鼓動も少しだけ、いつもよりも早い気がした。
「私、ジゼ様だけが好きですよ。その、……愛している、という意味で」
「俺もだ、アンネ。……今まで俺は、あまり他者と関わることが好きではなかった。親しい者も、恋人のような者も、誰もいない。愛しいと感じたのは、お前がはじめてだ、アンネ」
「ジゼ様……」
嬉しいけれど、少し、寂しい気がした。
ジゼルハイド様の髪を撫でようと、私は手を伸ばす。
長く艶のある黒髪にゆっくり手を通すと、ジゼルハイド様は気持ち良さそうに目を細めた。
「……俺を産んで、母が死んだ。俺の持つ魔力が強すぎたのだろうな。炎を纏った子供の竜ーーそれが俺の姿だったらしい。自分の力を制御できず、母の体を食い破って生まれたのだと」
「そんな……」
「そんな顔をしないで良い、アンネ。もうどうとも思っていないし、それは父が吹聴していた嘘だ。実際には、母は竜人にしては小さくて、子を産むのに体が耐えられなかったという話だ。だが、最愛を失った父は俺を恨み、同時に恐れた」
「……お父様が?」
「俺にも、悪いところがあった。……確かに俺は、他の竜人たちよりも力があった。余計な力だが。……聴覚も、視覚も、五感が全て鋭敏で、自分がいない遠くの場所のことでさえ、見たり聞いたりすることができる」
ジゼルハイド様は竜人は五感が優れていると言っていたけれど。
他の竜人の方々よりもずっと、ジゼルハイド様はそれが優れているのだろう。
それは、例えば、自分のいない部屋で囁かれている陰口や噂話が、勝手に耳に入ってしまうということかしら。
良いことばかりが耳に入ってくるわけでは、きっとないのだろう。
とても、辛いわよね。
「見知ったことを、父に報告すると、気味の悪いものを見るような目をされたものだ。幼い頃は、頭に入ってくることは全て、自分がその場で聞いていたように感じられていたからな。俺にとってはそれは当たり前のことだったが、父には不気味なものとしてうつったのだろう。それで、余計に化け物、と」
「でも、それは……大人が、守ってあげなければいけないのではないですか? ジゼ様は、子供だったのに」
「アンネが側にいてくれたらな。俺も、捻くれたりしなかったのだろうが」
「ジゼ様は、捻くれているようには見えませんよ」
「それはアンネが優しいから、そう見えるのだろう」
寂しい幼少期から目を逸らすようにして、ジゼルハイド様は私の髪に顔を埋めた。
「自分の立場が奪われることを恐れたこともあったのだろう。父は俺のことを、化け物だと言って憚らなかった」
ジゼルハイド様は過去を懐かしむようにして言った。
それが、なんだかかえって悲しい。
「まぁ、実際、……俺は父の立場を奪ったわけだが。俺がイルバトスたちと争い勝って、即位する半年ほど前。二十歳のころだな。父から呼び出されて、杯を渡された。それは毒杯だと、すぐに知れた。心音が奇妙に乱れていたし、隠しきれない妙な匂いが、杯の酒からはしたからな」
「……ひどい」
「いや、どうだろうな。俺の存在は確かに、危険だ。竜としての俺は、他者に危害を加えることぐらいしかできない。消されて当然だった。……だが、毒を煽っても俺は死なず、父は息子に毒を飲ませた罪悪感からか、それとも、俺の復讐を恐れたのか、自分も同じ毒を煽って、俺の前で死んだ」
「……辛かった、ですね」
「その時の感情については、よく覚えていない。それにどうでも良いことだ。……俺にはアンネがいる。アンネが俺を愛してくれているのだから、そんな過去など、ただの過去にしかすぎない」
「でも」
「今の話は、俺の過去には……特定の恋人などいなかったという、ただの証明だ。アンネ、俺をおそれないお前のことを、俺は……はじめてお前を見た時から、欲しいと思っていた」
何を、伝えることができるのかしら。
言葉で伝えることには、限りがあって。
好きも、愛しているも、何度伝えても、それは口に出した途端に消えてしまう。
私はジゼルハイド様の頬に口付けた。
「ジゼ様、……もっと、してください。私を、あなたのものに」
雨はまだ降り続いている。
雨音に、雨音とは別の濡れた音が混じるのには、そう長い時間はかからなかった。
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