空を駆ける
立派な黒い体躯には、一枚一枚が私の顔ぐらいの大きさのある鱗に覆われている。
宝石を嵌め込んだような赤い瞳の中に、長細い瞳孔がある。
吸い込まれてしまいそうなぐらいに、蠱惑的な赤色だった。
茹でた蟹ぐらい赤い。
いえ、蟹よりも赤いわね。
「翼を歩き、背の上へこれるか?」
「やってみます」
私はジゼルハイド様に言われるがままに、降ろされ伸ばされた翼の上に足をかける。
すると、私の体を薄いしゃぼんだまみたいな膜が包み込んだ。
「それは、魔力でできた保護膜。風圧や衝撃などからお前の体を守り、俺の体と繋ぐもの。お前が落ちないように」
「なんだか、不思議ですね。でも、ふわふわしていて、虹色で、綺麗です」
私は翼を歩いて、背中にまでたどり着いた。
勾配はゆるやかで、足場もしっかりしていたので、そんなに大変じゃなかった。
私としては、高い木にのぼるような感じを想像していたので、それよりずっと簡単にジゼルハイド様の背中に乗ることができた。
セミの捕獲で鍛えられた脚力と腕力が役に立つわね!
って、思ったのだけれど。そうでもなかった。
小高い丘へとお散歩に行く程度の労力で背中に登り切った私は、広くて大きい背中にちょこんと座り込んだ。
背中も鱗に覆われているのだけれど、なめし革のようにつるりとしていて、ひんやりしている。
「ジゼ様、重くないですか?」
「何も乗っていないぐらいに軽いな」
「ここをキャンプ地にしよう! っていうぐらいに、広いです、ジゼ様。ごろんってしても良いですか?」
「どうぞ、お好きなように、俺の花嫁」
笑みを含んだ声が、足元から響く。
竜になったジゼルハイド様は、口を開いて言葉を発しているわけじゃないのよね。
どこから声がしているのかよくわからない。その声音はいつもより少し響いているけれど、同じだ。
私はお言葉に甘えて、広い背中の上で仰向けに横になった。
屋上よりもさらに高い場所に来たからか、空が近い。
手を伸ばせば、雲に触れそう。
高いところは得意だけれど、こんなに高い場所に来た経験はない。
それでも、怖いとは思わなかった。
私の体の周りには透明な膜がはられていて、体がジゼルハイド様の体に吸い付いているように、奇妙な安定感がある。
「アンネ、動くぞ」
「はい!」
小山のように大きな竜が、体よりもずっと大きな翼を広げて空に浮かび上がる。
激しい衝撃も浮遊感も感じなかった。
少しだけ体がふわりと浮くような感覚があったけれど、それだけ。
滑るように空を竜は進んでいく。
翼が時折羽ばたくけれど、私を乗せた背中は傾くことなどなくて、空の中を泳ぐようにして真っ直ぐに進んでいく。
飛び方はとてもゆったりしているのに、ジゼルハイド様がとても大きいからか、あっという間にお城は見えなくなってしまった。
切り立った山の上にあるお皿のような土地に広がる都も、雲の中へとすぐに消えていってしまう。
「怖くはないか、アンネ」
「大丈夫です。風が気持ち良いですね、ジゼ様。私の周りには空しかなくて、すごく楽しいです」
「……そうか。それなら、良かった」
「でもジゼ様は、私が背中にいるから、自由に飛べませんよね。我儘をきいてくれて、ありがとうございます」
「誰かとこうして空を飛ぶことを、考えたことはなかった。……竜になって空を駆けるのは、一人になるためだった。煩わしさから逃れるために」
「ギルフォードさんが、ジゼ様は放浪癖があるって」
「あぁ。政務が苦手ということもあるが、……昔から、窮屈な城よりも、空の方が好きだった」
「そうなのですね。私と一緒ですね!」
「一緒?」
「ええ。私も、お部屋にいるよりも、外を散策するのが好きなのです。多分……昔は、両親がいない寂しさを紛らわせるためだったんだと思います」
ころんと、うつぶせに寝ころぶと、私はジゼルハイド様の背中に頬を付けた。
つるりとしている鱗の下の皮膚はとても硬くて、ひんやりしていて、冷たい木の床に寝ころんでいるみたいで気持ち良い。
「私には兄がいて、使用人たちがいて、みんな私が寂しくないように気を使ってくれました。だから、寂しいって感じるのは間違っている気がして……それでも、時々寂しいと思いそうになってしまうのですね」
「それは……我慢、していたように聞こえる」
「そういうわけじゃないとは思うのですけれど、……でも、少し、それはあったかもしれません。だから、図鑑を持って森に行ったり、野原に行ったり、良くしていました。そのうち、兄が結婚してエルジエル君がうまれると、まるで弟ができたみたいで嬉しくて」
どうしてかしら。
ジゼルハイド様の他に誰もいないから、なのかしら。
誰にも話したことのない自分のこと、過去と、ほんの少しの感傷が、ぽろぽろと唇から零れていく。
「エルジエル君は可愛くて、それに……自分に役割ができたみたいで、それが余計に嬉しかったのです」
「役割?」
「ええ。乳母の仕事を奪うようにして、お世話をしたり、可愛がって……一緒に毎日遊びました。そのころには、もう寂しいなんて思っていなかったのですけれど、でも、私が感じた寂しさをエルジエル君には感じて欲しくなかったから、目いっぱい一緒にいたのです」
「それで、朝にはウサギ体操を」
「ウサギ体操もザリガニ体操も、カエル体操もあるのですよ。私が考えたのですけれど、エルジエル君には大人気でした」
「そうか……それは、いつか見てみたいな」
「恥ずかしいので……ジゼ様と私の子供がうまれたら、見せてあげますね」
「…………楽しみにしている」
小さな声でジゼルハイド様が言うので、私はなんだか幸せな気持ちになる。
口角が自然と綻んでいるのに気付いた。
空はとても綺麗で、風が心地よくて、ジゼルハイド様の背中は冷たくて気持ち良くて――。
「好きです、ジゼ様。ジゼ様も一緒に、子供たちと動物体操をしましょう、きっと楽しいですよ」
「あぁ。……そうだな。教えてくれるか」
「はい!」
大きな体のジゼルハイド様がとても真剣に、歌に合わせてカエル体操をしているところを想像して、私はあまりの可愛らしさににこにこした。
やがて、前方に大きな岩山が現れる。
岩山の中腹に、まるで山肌を抉ったようにして作られているお城がある。
お城に近づくにつれて雲が分厚くなり、空が暗くなってくる。
ぽつりと、雨がおちてきて、私の鼻先を濡らした。
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