救出とはじめての喧嘩
ジゼルハイド様の逞しい胸板に、私の体がピッタリとくっついている。
しっとりと濡れた黒髪がお湯の中に広がって、前髪が額にかかっている。
白い肌が上気して、薄く色づいていた。
「アンネ、無事か、アンネ……!」
やや焦ったように私の名前を呼ぶ、ジゼルハイド様を、私は唖然としながら見つめる。
うまく、頭が回らない。
生まれてはじめて溺れかけた衝撃と、それから、ジゼルハイド様にきつく抱きしめられて重なる肌と、お湯のあたたかさと、助けていただいた安心感。
それが全部ごちゃごちゃになって、喉の奥に言葉を詰まらせた。
「アンネ……湯を飲んだのか? アンネ……!」
どこか悲壮感のある声で何度も名前を呼ばれて、私は我に返った。
ジゼルハイド様の体の胸から上は、お湯から出ている。
私の頭はジゼルハイド様の胸の下ぐらいまでなので、つまり、この湖みたいな場所は、ぎりぎり私がすっぽり入り込んでしまうぐらいの深さということになる。
思ったより、深くないわね。といっても、足をつけたら頭まで沈んでしまうのだけれど。
「大丈夫です、ジゼ様……無事です……」
ジゼルハイド様を安心させたくて元気よく返事をしようとしたのだけれど、小さな声しか出なかった。
体に巻きつけたタオルは外れてしまってお湯に浮いているし、抱きしめられた体が切なく、熱い。
ジゼルハイド様の胸にぴったりと私の胸がくっついて、あまり大きくない膨らみが押しつけられて形を変えている。
腰に腕がまわって、抱き上げられている。
お湯の中で浮いた足が行き場をなくして、ジゼルハイド様の腰に自然と絡みつく。
私のそれとは違うしっかりとした固い体の感触が、皮膚を通して伝わってくる。
「無事か、アンネ、良かった……」
「ご、ご、ごめんなさい、私……っ、私、このお風呂、こんなに湖みたいで、深いって、知らなくて」
扉から出てすぐ湯船になっているなんて思わなかった。
それに、湯気がけぶる浴槽は、浴槽というかやっぱり湖みたいで、果てが見えないほどに広い。
「謝る必要はない。無事なら、それで良い」
「……ジゼ様、私、その、私……」
「アンネ、落ち着いて。……お前を離したりしない。大丈夫だ」
「ごめんなさい……っ、私……!」
仲良くなるどころか、余計な手間をかけてしまったわ。
これではとんだ迷惑な女よね。
というか、放っておくと家具をがじがじ齧る悪戯好きの子犬と一緒よね。
今すぐこの場から逃げたい。全部、なかったことにしたい。
思わず腕から抜け出そうとしたけれど、ジゼルハイド様は私をしっかりと抱きしめていて、それはできなかった。
「すまない、アンネ。先に説明しておけば良かった。ここは、古の皇帝が造った浴場。いつでも新しい湯が湧き出るように造られていて……奥に進むと、竜体で体を沈めることができるほどに、広く深い」
「そうなんですね……」
「溺れたかと。アンネ、良かった」
「ジゼ様……」
優しく名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。
期待、してしまう。
大切にされればされるほどに、こんな情けない姿で迷惑をかけても、受け入れてくださるジゼルハイド様に、ーーもしかしたら、愛されているのではないかしらって。
珍しい動物ではなくて、女性として、妻として、大切にしていただいているのではないかしら。
そう、思ってしまう。
「ジゼ様……あの、ジゼ様……」
大胆かもしれないけれど、ここまできて、そんなことで悩むのは違うわね。
私はジゼルハイド様の首に腕を回して、ぎゅっと抱きついた。
さらに密着する体は、お互いの境界が曖昧になるぐらいに熱い。
自分の心音が、うるさいぐらいに響いている。
きっと、ジゼルハイド様にも伝わっているわよね。緊張も、ときめきも、感情も、全て。
「アンネ、怖かったのか?」
「溺れかけたのは確かに少し、怖かったですけれど、自分のせいなので……私、ジゼ様に会いに来たんです。入浴されているジゼ様の背中を洗ってさしあげたり、しようって思って……」
「それは、……お前たちの流儀のようなものか?」
「それも少しありますけれど、でも、それだけじゃなくて。私、ジゼ様と仲良くなりたくて」
「……気持ちは、嬉しい」
「迷惑でしたか?」
「いや、そんなことはないが……できれば先に、伝えてくれると嬉しい。危険な目に、遭わせてしまった」
「それは良いのです、私が勝手にしたことですし。私のせいなので。……下心も、ありましたし」
そうよね。
下心があったのよ。
だからきっと、ばちがあたったのだわ。
ジゼルハイド様は私をずっと大切に扱ってくれていたのに、それだけでは足りないと思ってしまったから。
私、最初は側妃や妾になるのねって思っていたもの。
それは仕方のないことだって、割り切ってもいたし。
けれどあまりにも優しくしてくれるから。
大切にしてくれるから。
期待して、もっと、もっと、と、多くを求めてしまっている。
「下心?」
「はい……お風呂、ですから。もちろん、服を脱ぎますよね。私、豊かな体型ではありませんけれど、でも、少しは誘惑できるかな、って。女性として、私を……その、求めて下さるかなって、思ったのです」
「……それは」
「私、ジゼルハイド様の花嫁なのですよね? 添い寝、だけじゃ嫌です。大切にして下さるの、嬉しいですけれど……妻に、なりたいのです」
私は軽く唇を噛む。
ジゼルハイド様に、愛されたい。
けれど、求めてばかりだから、うまくいかないのよね。
愛が欲しくて躍起になって、余計なことをしようとしたりするから、醜態を晒すのだわ。
私はまだ一言も、ジゼルハイド様に伝えていないのに。
ちゃんと言わなきゃ。
勇気を出すのよ、私。
どんな結果になっても。
「ジゼ様、……好きです。ジゼ様が、好き。私のこと、とても大切にしてくださって、……一生懸命、私と向き合おうとしてくださって。ジゼ様は私のこと、小さな動物みたいだから、大切にしてくださっているだけかもしれないけれど、私はジゼ様が好き。好きです……」
ジゼルハイド様は黙って私の告白を聞いてくれた。
それから、しばらく黙り込んでいた。
ほんの短い間だったのかもしれないけれど、私にはそれが永遠のように感じられた。
答えが、怖い。
冷たく突き放されるかもしれない。
ジゼルハイド様は優しいから、やんわりと、拒絶されるかもしれない。
普段あまり悩まない私なのに、悪いことばかりが頭をよぎる。
ジゼルハイド様は真っ直ぐ私を見つめると、唇を開いた。
「アンネ……動物とは、思っていない。確かに愛らしいとは思ってはいるが、アンネは、俺と同じ。言葉を話し、考え、感情がある。俺とお前には、竜になれるかなれないかの違いしかない」
「ジゼ様……!」
「だが、……駄目だ」
「駄目……?」
「俺は、お前を傷つけたくない」
「……傷ついたりしません」
「アンネ」
聞き分けのない子供に諭すように名前を呼ばれて、私はジゼルハイド様を睨みつけた。
「ジゼ様は、私が雷帝閣下や、氷帝閣下に奪われても良いって思っているのですか?」
「そんなことはない。心配せずとも、お前の身は俺が守る」
「でも、印がないと、……私はジゼ様のものではないのでしょう? 私はジゼ様に……」
「それはできない。契りの証など……そんなことをしたら、俺はお前を、手放せなくなってしまう」
それは、手放しても良い、という意味なのかしら。
やっぱり私、そこまでジゼルハイド様に、興味を持たれていないのだわ。
一瞬悲しくなった。
それよりもふつふつと怒りが湧いてくる。
ここに来てから、蟹を口に突っ込まれたり、桃を口に突っ込まれたり、なんだかよくわからないけれど、魔力を除去するために体の中を弄られたりしたわ。
それに、体を重ねるよりも恥ずかしいと言われている食事を、一緒にしてくれるようになったもの。
それはするわよ。期待、しちゃうじゃない。
ジゼルハイド様も私のことを好きかもしれないって、ちょっとだけ、思ったのよ。
「ジゼ様の馬鹿! 大好きですけど、大嫌いです!」
私は怒った。
そして、拗ねた。
拗ねた私はーージゼルハイド様の腕から無理やり身を捩って抜け出すと、お湯の中をなんとか進んで扉まで戻って、脱衣所に這い上がった。
それはもう情けない姿だったと思う。全裸だし。
でも良いのよ。私は怒っているのだから。
怒りながら浴場を出て行く私に、ジゼルハイド様は何も言わなかったし、追いかけてくることもなかった。
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