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お母様、いい加減にしてくださいませ  作者: 章槻雅希


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第七話 失われた母の面影

 桃簾と翡翠が天河宮家を去ってから、ひと月が過ぎた。


 屋敷は、驚くほど静かになった。朝から誰かの不満げな声が響くこともない。侍女が桃簾の機嫌を損ねないよう、必要以上に顔色を窺うこともない。翡翠が自分の務めを放り出し、瑠璃に代わりを押しつけることもなくなった。


 天河宮家にとって、それは本来あるべき日常が戻ってきたということだった。けれど、瑠璃にとっては、少しばかり不思議な日々でもあった。


「……静かですわね」


 朝の庭を眺めながら、瑠璃はぽつりと呟いた。


 以前なら、朝食の席につく前から、何かしらの騒ぎが起きていた。桃簾が侍女の手際に不満を漏らし、翡翠が食事の内容に文句をつける。瑠璃が二人を窘めれば、今度は自分が責められる。そんなことが、日常の一部になっていたのだ。


 今は、誰も瑠璃を責めない。何かを失敗したとしても、必要なことを教えられるだけだ。翡翠の機嫌を損ねないように、言葉を選ぶ必要もない。


 それなのに、ふとした瞬間、瑠璃は身構えてしまうことがあった。廊下で足音がすれば、誰かが自分を呼びつけるのではないかと思う。侍女が少し困った顔をしていれば、自分が何かを間違えたのではないかと考えてしまう。もう、そうする必要などないと解っているのに。


「……長年の癖というものは、なかなか抜けないものですわね」


 瑠璃は苦笑した。心が傷つくことに慣れてしまったのなら、穏やかな日々に慣れるまでにも、きっと時間がかかるのだろう。


 焦る必要はない。そう思えるようになっただけでも、以前の自分とは違っていた。








「瑠璃、少し時間をもらえるか」


 その日の午後、天青が瑠璃の部屋を訪ねてきた。


「はい、お父様。どうぞお入りくださいませ」


 瑠璃が座布団を勧めると、天青は腰を下ろした。以前なら、父がわざわざ自分の部屋まで来ることなど、あまりなかった。家の務めについて話すことはあっても、瑠璃自身の気持ちを尋ねられることは、殆どなかったのである。


「最近、少し顔色がよくなったな」


「そうでしょうか」


「ああ。以前よりも、自然に笑うようになった」


 瑠璃は、思わず頬に手を当てた。


「……自分では、よく判りません」


「そうか」


 天青は、穏やかに笑った。それから、少し表情を改めた。


「瑠璃。改めて、お前に謝りたい」


「お父様……」


「桃簾があのような態度を取っていることを、私は知っていた。それなのに、家庭のことだからと目をそらし、お前が我慢してくれることに甘えていた」


 天青は、瑠璃をまっすぐに見た。


「お前は、私に心配をかけまいとしていたのだろう。だが、私は父親なのだから、お前が辛いときには、辛いと言える場所を作らなければならなかった」


 瑠璃は、何も言わずに聞いていた。


「お前がしっかりしているからといって、傷つかないわけではない。お前が何も言わないからといって、何も感じていないわけでもない。……私は、それを忘れていた」


 天青は、深く頭を下げた。


「済まなかった」


 瑠璃は、慌てて首を横に振った。


「お父様、どうか頭をお上げくださいませ」


「いや。これは、私が言わなければならないことだ」


 天青は、すぐには顔を上げなかった。


 瑠璃の胸が、じんわりと温かくなった。父が謝ってくれたことが、嬉しかった。けれど、それ以上に嬉しかったのは、父が自分の気持ちを理解しようとしてくれていることだった。


「……わたくし、ずっと、お父様に心配をかけてはいけないと思っておりました」


 瑠璃は、ゆっくりと言葉を選んだ。


「天河宮家の長女ですから、きちんとしなければと。お母様に叱られても、翡翠に何かを言われても、自分で何とかしなければならないと思っておりました」


「ああ」


「でも、本当は……時々、辛かったのです」


 口にした途端、胸の奥に残っていたものが、少しだけ解(ほど)けた気がした。


「どうしてわたくしばかり、と思うこともございました。どうして、何をしても認めていただけないのだろうと……」


 瑠璃は、目を伏せた。


「それでも、お母様に嫌われたくなくて。いつかは愛していただけるかもしれないと、ずっと思っておりました」


 天青は、静かに頷いた。


「そうだったのだな」


「はい」


「もう、そのために無理をする必要はない」


 天青は、今度こそ顔を上げた。


「お前は、私の娘だ。天河宮家の長女である前に、一人の人間なのだからな。辛いときには、辛いと言ってよい。助けが必要なら、助けを求めてもよいのだ」


 瑠璃は、父を見つめた。


「……ありがとうございます、お父様」


「これからは、きちんと話そう。お前が何を考えているのか、何を望んでいるのか。私も知りたい」


「はい。わたくしも、そういたします」


 瑠璃は微笑んだ。


 これまでの年月が、なかったことになるわけではない。父が気づかなかったことで傷ついた気持ちも、すぐに消えるものではないだろう。


 それでも、これから先は違う。そう思えた。








「瑠璃、今度は私の話も聞いてくれないか」


 父が帰ったあと、入れ替わるように天藍がやってきた。


「お兄様まで、どうなさったのですか?」


「どうもこうもない。私は、妹に謝らなければならないのだからな」


 天藍は、困ったように笑った。


「私は、お前が何でも一人でこなせることに甘えていた。母上のことも、翡翠のことも、お前ならうまく対処できるだろうと思っていた」


「……お兄様」


「母上の言動に腹を立てることはあった。翡翠の我が儘に呆れることもあった。だが、私は自分が不快に思うだけで、お前がどれほど傷ついているのか、きちんと考えていなかったのだろう」


 天藍は、真剣な顔で続けた。


「お前が笑っているから、大丈夫だと思っていた。……本当に、愚かなことをした」


「そんな……」


 瑠璃は首を横に振った。


「お兄様が、わたくしを気にかけてくださっていたことは、知っております」


「それでも、足りなかったのだ」


 天藍は、まっすぐに瑠璃を見た。


「私はお前の兄なのだから、もっと早く気づくべきだった」


 瑠璃は、少しだけ考えた。


 兄が自分を心配してくれていたことは、知っている。桃簾が瑠璃を責めれば、天藍は不快そうな顔をした。翡翠が我が儘を言えば、天藍は注意した。


 それでも、兄はいつも自分の側にいるわけではなかったし、瑠璃が一人で抱えてきた気持ちを、全て知っていたわけでもなかった。それを責めたいとは思わなかった。


 ただ、これからは、もう少し本当の気持ちを話せるようになりたい。


「お兄様」


「何だ?」


「わたくし、これからは、辛いときには辛いと申し上げます。何でも一人で解決しようとするのは、やめようと思います」


 天藍は、少し目を見開いた。それから、ゆっくりと頷いた。


「そうしてくれ。私も、もっとお前の話を聞くようにする」


「はい」


「それから……」


 天藍は、少し照れたように視線をそらした。


「たまには、兄に甘えてくれてもよいのだぞ」


 瑠璃は、思わず笑った。


「まあ。お兄様に甘えてもよろしいのですか?」


「勿論だ。兄なのだからな」


「では、今度、お買い物に付き合っていただいても?」


「……それは、甘えるというより、私を荷物持ちにするつもりではないか?」


「あら。いけませんか?」


 瑠璃が首をかしげると、天藍はとうとう声を立てて笑った。


「いや。構わない。好きなだけ付き合おう」


 瑠璃も笑った。


 こんなふうに、兄と冗談を言い合うのは久しぶりだった。誰かの顔色を窺うのではなく。相手の機嫌を損ねないように気を張るのでもなく。ただ、兄と妹として、笑い合う。


 それがこんなにも心地よいものだったのだと、瑠璃は改めて知った。








 数日後。


「瑠璃、こちらへいらっしゃい」


 祖母に呼ばれた瑠璃は、いつもの茶室へ向かった。祖母の前には、小さな桐箱が置かれていた。


「これは、あなたのお母様のものです」


 瑠璃は、思わず足を止めた。


「……お母様の?」


「ええ。あなたが、もっとお母様のことを知りたいと言っていたでしょう」


 祖母は桐箱を開けた。


 中には、丁寧に畳まれた布と、小さな髪飾りが収められていた。髪飾りは、派手なものではなかった。黒檀の髪によく映える、銀細工の小さな花。花びらの一枚一枚に、細かな模様が刻まれている。


「こちらは、あの子が若いころに使っていた髪飾りです。あなたが生まれてからは、あまり身につけなくなりましたけれどね」


「どうして、ですか?」


「あなたが髪飾りに手を伸ばして、何度も引っ張ろうとしたからですよ」


 祖母は、懐かしそうに笑った。


「危ないからと、あなたの前では外すようになったのです。あの子は、それでもあなたが手を伸ばすたび、嬉しそうに笑っておりました」


 瑠璃は、そっと髪飾りを手に取った。


 冷たい銀の感触が、指先に伝わる。母の顔は覚えていない。声も、笑い方も、何一つ思い出せない。それでも、この髪飾りには、確かに母が触れていた。この髪飾りを身につけた母が、幼い自分を抱いていたこともあったのだろう。


「……お母様は、どのような方だったのでしょう」


 瑠璃は尋ねた。


「わたくし、もっと知りたいのです。お母様が何をお好きだったのか。どのようなことを考えていらしたのか。何でもよいのです」


 祖母は、嬉しそうに頷いた。


「そうですね。あの子は花を育てるのが好きでしたよ。とりわけ、白い花が好きでした。庭に咲く花を見ては、あなたにも見せたいと話しておりました」


「わたくしにも……」


「ええ。あなたが大きくなったら、一緒に庭を歩きたいと。花の名前を教えたり、季節ごとの変化を見せたりしたいと、よく話していました」


 瑠璃は、髪飾りを胸元に抱きしめた。


 母は、自分が大きくなる日を楽しみにしていたのだ。自分と一緒に庭を歩きたいと。花の名前を教えたいと。そんなふうに思ってくれていたのだ。


「……お母様」


 瑠璃の目に、涙が浮かんだ。


 会いたかった。母の声を聞きたかった。一緒に庭を歩きたかった。花の名前を教えてもらいたかった。もう二度と叶わない願いだと解っていても、そう思わずにはいられなかった。


 祖母は、瑠璃の手にそっと自分の手を重ねた。


「あなたのお母様は、あなたを愛していました。あなたが覚えていなくても、それは変わりません」


「……はい」


「そして、あなたがこれからどのように生きるかを、あの子が決めることもありません。あなたは、あなたの望むように生きてよいのですよ」


 瑠璃は、涙を拭った。


「わたくし、この髪を大切にいたします」


 黒檀の髪を、そっと撫でる。


「お母様から受け継いだものですもの。もう、誰かが嫌うからといって、嫌いになったりはいたしません」


 祖母は、満足そうに頷いた。


「ええ。それがよいでしょう」


 瑠璃は髪飾りを手に取り、鏡の前に座った。


 祖母が後ろに回り、瑠璃の黒檀の髪にそっと髪飾りを留める。銀の花が、艶やかな黒髪の中で小さく輝いた。


 鏡の中の自分を見つめながら、瑠璃は思った。この髪は、母が喜んでくれたもの。この顔は、父に似ているもの。この瞳は、天河宮家の血を受け継いだ証。


 どれも、自分が生まれ持ったものだ。誰かに嫌われたからといって、否定する必要はない。


 瑠璃は、鏡の中の自分に微笑みかけた。今度の笑顔は、以前よりも少しだけ、自然なものだった。


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