第八話 わたくしの人生は、わたくしのもの
季節が移り、庭の花が咲き始めたころ。天河宮家には、変わらぬ日常が戻っていた。
桃簾と翡翠が尼門跡へ移ってから、二人からの便りは殆どなかった。たまに届く話も、暮らしへの不満や、周囲への愚痴ばかりだったという。
尼門跡の主は、二人に正式な得度の道を示し続けていた。自分の行いを省み、他人を責めるのをやめ、これからの生き方を改める意思があるならば、いつでも受け入れると。けれど、桃簾も翡翠も、その機会を選ばなかった。
自分たちが悪いとは思わない。不遇な目に遭ったのは、周囲が悪いからだ。二人の考えは、最後まで変わらなかった。
やがて、桃簾も翡翠も、そのまま沙弥尼として生涯を過ごすことになる。正式な得度を望まず、心を改めることもなく。誰かを恨みながら、自分たちの選んだ暮らしを続けていった。
それは、瑠璃が望んだ復讐ではなかった。瑠璃は二人が苦しむ姿を見たいわけではなかったし、二人の人生を支配したいわけでもなかった。ただ、自分の人生から、二人の理不尽な言葉を切り離したかっただけなのだ。
だから、二人が今どうしているかを聞いても、瑠璃は以前ほど心を乱されなくなっていた。
「そうですか」
報告を聞いた瑠璃は、静かに頷いた。それ以上、何も尋ねなかった。桃簾と翡翠がどのような人生を送るのか。それは、もう二人自身の問題だった。瑠璃が代わりに責任を負う必要はない。瑠璃が、二人の生き方を変える必要もない。
そして、二人に愛されなかったことを、これから先も自分の傷として抱え続ける必要すらないのだ。
「瑠璃。今日は、どこかへ出かけるのか?」
ある晴れた朝、天藍が尋ねた。
「はい。以前から気になっていた書物がございまして、書庫へ探しに行こうと思っております」
「書物?」
「ええ。各地の庭園や植物について記されたものです。お祖母様から、お母様が花をお好きだったと伺いましたので、わたくしも、もう少し詳しく知りたくなりました」
天藍は、嬉しそうに笑った。
「そうか。よいではないか」
「お兄様も、ご一緒なさいますか?」
「いや。今日は少し用がある。だが、あとで見つけた本の話を聞かせてくれ」
「勿論ですわ」
瑠璃は、微笑んだ。
以前なら、何か新しいことを始めようとするとき、必ず誰かの反応を気にしていた。桃簾がどう思うか。翡翠が不満を言わないか。誰かに無駄だと言われないか。
けれど今は、自分が知りたいと思ったから、学んでみる。興味があるから、やってみる。それだけでよかった。
書庫へ向かう途中、瑠璃は庭の片隅に咲く白い花を見つけた。
小さな花だった。風に揺れながら、朝の光を受けている。瑠璃は足を止め、その花を暫く見つめた。母も、こういう花が好きだったのだろうか。もし母が生きていたら、何と教えてくれただろう。どんな声で、どんなふうに笑ってくれただろう。
想像してみても、答えは判らない。けれど、もう、判らないことを悲しむだけではなかった。知らないことがあるのなら、これから知っていけばよい。
母の好きだった花を、自分も好きになれるかもしれない。母が歩きたかった庭を、自分の足で歩いてみればよい。
失われた時間を取り戻すことは出来ない。それでも、母から受け継いだものを大切にしながら、自分の時間を生きることは出来る。
「……きれいですわね」
瑠璃は、そっと微笑んだ。
それから、再び歩き始めた。
夕暮れどき。瑠璃は、自室の窓辺に座り、今日借りてきた書物を読んでいた。膝の上には、銀の花の髪飾りがある。
読み進めていた頁を閉じ、瑠璃はふと窓の外を見た。庭の木々が、夕日に染まっている。静かな景色だった。
以前は、この静けさが怖かった。誰かの機嫌が悪くなっていないか。自分が何かを間違えていないか。そんなことを考えずにはいられなかったからだ。
けれど今は、静かな時間を静かなまま受け止めることが出来る。何も起きない日があってもよい。誰かに褒められなくてもよい。誰かに愛されていると確かめられなくても、自分の人生を大切にしてよい。
瑠璃は、髪飾りをそっと手に取った。銀の花は、夕日の中で柔らかく輝いている。
「お母様」
瑠璃は、小さく呼びかけた。返事はない。勿論、返事があるはずもなかった。それでも、瑠璃は続けた。
「わたくし、これから、自分の人生を生きてまいります」
誰かに愛されるためだけに生きるのではなく。誰かに認められるためだけに努力するのでもなく。自分が何を望み、何を大切にしたいのかを考えながら。
悲しいときには悲しいと言い、嬉しいときには笑い、誰かの言葉に傷ついたときには、自分の心を守ることを忘れずに。
これから出会う人たちと、少しずつ関係を築いていこう。学びたいことを学び、見たいものを見て、行きたい場所へ行こう。
そして、いつか。自分が誰かを大切にしたいと思ったときには、その人を大切にしよう。けれど、そのために自分自身を失うことだけは、もうしない。
瑠璃は、窓の外へ目を向けた。
夕空の向こうには、まだ知らない世界が広がっている。これから先、どのような出会いがあるのか。何を学び、何を選び、どのような人生を歩むことになるのか。まだ、何一つ決まっていない。
けれど、それでよかった。
今までの瑠璃は、誰かに愛されることばかりを願っていた。愛されなければ、自分には価値がないと思っていた。
けれど、もう違う。自分の価値は、誰かの愛情によって決まるものではない。自分の人生をどう生きるかは、自分で選んでよいのだ。
瑠璃は、ゆっくりと息を吸った。そして、穏やかな声で告げた。
「わたくしは、わたくしの人生を生きてまいります」
その言葉は、誰かへの反抗ではなかった。誰かを打ち負かすための宣言でもなかった。ただ、自分自身に向けた、静かな約束だった。
窓から吹き込んだ風が、瑠璃の黒檀の髪を揺らした。銀の花の髪飾りが、夕日にきらりと光る。瑠璃は、それを大切に手に取り、そっと髪に留めた。
もう、誰かに愛されるために、自分を否定しなくてよい。もう、誰かの機嫌を取るために、自分の気持ちを押し殺さなくてよい。
そして、もう。
愛されなかった自分を、哀れむだけの日々を過ごさなくてもよい。
瑠璃は立ち上がり、部屋の扉へ向かった。廊下の向こうから、天藍が呼ぶ声が聞こえる。
「瑠璃、夕食だぞ!」
「はい、今まいります!」
瑠璃は笑顔で答えた。
その笑顔には、もう誰かの顔色を窺うような怯えはなかった。
これから先も、きっと迷うことはあるだろう。悲しいことも、思いどおりにならないこともあるだろう。
それでも、瑠璃はもう、自分の人生を誰かに明け渡すことはしない。自分の足で歩き、自分の心で選び、自分の手で未来を掴んでいく。
愛されたかった少女は、漸く知ったのだ。誰かに愛されることだけが、幸せではない。誰かに愛されなかったからといって、幸せになる資格を失うわけでもない。自分を大切にすることから、始めてもよいのだと。
瑠璃は、家族の待つ食堂へ向かって歩き出した。その歩みは、ゆっくりと、けれど確かなものだった。
そして、天河宮家の庭には、春の花が咲いていた。




