第六話 さようなら、お母様
出立の日は、曇り空だった。
桃簾と翡翠の荷物は、必要最低限のものに纏められていた。豪華な衣装や装飾品の全てを持ち出すことは認められず、尼門跡での暮らしに必要な品だけが用意された。
「こんなものしか持たせていただけないなんて……!」
桃簾は、荷物を見て不満を漏らした。
「わたくしを、いったい何だと思っていらっしゃるの!」
誰も答えなかった。翡翠は、侍女に手伝わせることも出来ず、自分で荷物を抱えていた。
これまで、何かを運ぶことも、身の回りのことを自分ですることも、殆どなかった少女である。
「重いですわ……。誰か、持ってくださいませ!」
翡翠が叫んでも、家人たちは動かなかった。
これから暮らす場所では、身分や家柄を理由に、誰かが全てを代わりにしてくれるわけではない。それを、翡翠はまだ理解していなかった。
玄関先には、天青と天藍、祖父母、そして瑠璃が見送りに立っていた。桃簾は、最後まで不満げな顔をしていた。
「天青様。今なら、まだ考え直していただけるのではありませんか」
「決定は変わらない」
「わたくしは、旦那様の妻なのですよ」
「だからこそ、これまで何度も機会を与えてきた」
天青は、静かに答えた。
「だが、お前は変わろうとしなかった」
「……っ」
「既に離縁が認められ、我が家の籍からお前と翡翠は抜けている。これからの人生を、どう生きるかはお前自身が決めればよい。私はもう、お前の代わりに責任を負うことは出来ない」
桃簾は、顔を背けた。謝罪の言葉はなかった。自分の行いを悔いる様子もなかった。ただ、自分が望んだとおりにならなかったことを、恨んでいるだけだった。
翡翠も同じだった。
「お姉様……!」
翡翠が瑠璃を睨んだ。
「わたくし、絶対に忘れませんからね! お姉様がわたくしたちにしたことを!」
瑠璃は、少しだけ目を伏せた。
「……翡翠」
「何ですの!」
「あなたも、これからは自分のことを自分で考えて生きてくださいませ」
「はあ?」
「誰かに何かをしてもらうのが当たり前だと思わず、自分の行いには自分で責任を持つことです」
翡翠は、信じられないという顔をした。
「何を偉そうに……!」
「偉そうに言っているのではございません。ただ、それが大切なことだと申し上げているのです」
瑠璃は、それ以上何も言わなかった。今の翡翠に、どれほど言葉を尽くしても届かないだろう。
それでも、伝えるべきことは伝えた。それで十分だった。
やがて、二人を乗せた車が動き始めた。 桃簾は最後までこちらを振り返り、恨みがましい視線を向けていた。翡翠も、母の隣で泣きながら何かを叫んでいた。けれど、その声は次第に遠ざかっていく。
車が門を出ると、屋敷の中に静けさが戻った。
瑠璃は、門の向こうを見つめていた。胸の奥に、ぽっかりと穴が開いたような感覚があった。
これで、もう終わったのだろうか。これからは、桃簾の顔色を窺わずに暮らせるのだろうか。翡翠が失敗するたびに、責められることもないのだろうか。
そう考えると、安堵が広がった。けれど同時に、寂しさもあった。
桃簾は、自分にとって、長い間ずっと母だった人なのだ。たとえ継母であっても。たとえ愛してもらえなかったとしても。
母に愛されたかったという願いまで、すぐに消えるわけではなかった。
「……瑠璃」
祖母が、そっと声をかけた。
「辛いですか」
瑠璃は、少し考えてから答えた。
「……はい。少しだけ」
「そうでしょうね」
祖母は、瑠璃の肩に手を置いた。
「長い間、心を向けてきた相手なのですもの。すぐに何も感じなくなるはずがありません」
「わたくし……これでよかったのでしょうか」
瑠璃は、小さく尋ねた。
「お二人を追い出すようなことになってしまって」
「あなたが追い出したのではありませんよ」
祖母は、きっぱりと言った。
「二人の行いに対し、天河宮家として決断したのです。あなたが自分の気持ちを口にしたことを、罪のように思う必要はありません」
瑠璃は、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
「それに、悲しいと思うことと、決断が間違っていたと思うことは、同じではありません」
祖母は、瑠璃の手を握った。
「あなたは、悲しんでもよいのです。寂しいと思ってもよいのです。それでも、自分を守るために決めたことを、すぐに後悔しなくてもよいのですよ」
瑠璃は、祖母の手を握り返した。
涙が零れそうになった。けれど今度は、その涙を隠そうとは思わなかった。
「……ありがとうございます、お祖母様」
天青も、二人の側に歩み寄った。
「瑠璃。これからは、お前が自分の望むことを考えてよいのだ」
「はい、お父様」
「天河宮家の娘としての務めはある。だが、それだけがお前の人生ではない。お前が何を学びたいのか、何をしたいのか。私にも聞かせてほしい」
瑠璃は、父を見上げた。
今まで、自分の将来を考えるとき、いつも誰かの期待が先にあった。天河宮家の娘として、何をすべきか。兄の負担にならないためには、どう振る舞うべきか。桃簾の機嫌を損ねないためには、何を避けるべきか。自分が何を望んでいるのかなど、真剣に考えたことがなかった。
「……少し、お時間をいただけますか」
瑠璃は言った。
「わたくし、自分が何をしたいのか、まだよく判らないのです」
「勿論だ」
天青は頷いた。
「急ぐ必要はない。これから、ゆっくり考えていけばよい」
瑠璃は、深く息を吸った。
これから先、寂しくなることもあるだろう。ふとした瞬間に、桃簾に愛されたかった気持ちがよみがえることもあるだろう。
それでも、もう自分を責める必要はない。誰かに愛されなかったからといって、自分まで自分を見捨てる必要はないのだから。
瑠璃は、門の外へ消えた車の跡を、最後にもう一度だけ見つめた。
「……さようなら、お母様」
声には出さず、心の中で告げた。
愛されたかった。その願いは、最後まで叶わなかった。
けれど、瑠璃の人生は、そこで終わるわけではない。これからは、自分で自分の道を選んでいく。もう、誰かの愛を得るために、自分の心を差し出すことはしない。
瑠璃は、ゆっくりと屋敷へ向き直った。天河宮家の門は、変わらずそこにある。
その向こうには、まだ知らない明日が待っていた。
それから数日後。
桃簾と翡翠は、尼門跡へと到着した。
そこは、華美な宮殿とはまるで違う場所だった。手入れの行き届いた庭と、質素な建物。朝夕の勤行を知らせる鐘の音が、静かな山あいに響いている。
出迎えたのは、白髪の尼僧だった。背筋はまっすぐで、年齢を感じさせない鋭い目をしている。先々帝の妹にあたる、門跡の主である。
「あなた方が、天河宮家から参られた方々ですね」
「ええ。わたくしは桃簾。帝の娘です」
桃簾は、少しでも自分の立場を示そうと、誇らしげに名乗った。尼僧は、表情を変えなかった。
「ここでは、身分によって務めが変わることはありません。暮らしの決まりを守り、日々の勤行と作務を行っていただきます」
「……作務?」
桃簾は眉を顰めた。
「掃除や、炊事などです」
「わたくしに、そのようなことをさせるおつもりですか?」
「ここで暮らす以上、皆が行うことです」
尼僧は淡々と答えた。
「勿論、あなた方には、もう一つの道もあります」
桃簾と翡翠は、顔を見合わせた。
「正式に得度し、尼僧として生きる道です。ただし、形だけの出家では意味がありません。これまでの行いを振り返り、過ちを認め、改める意思があること。それが前提となります」
尼僧は、二人を見つめた。
「あなた方が真摯に反省し、これからの生き方を変えたいと願うなら、得度への道を開きましょう」
「反省……?」
桃簾は、あからさまに不快そうな顔をした。
「わたくしが、いったい何を反省しなければならないというのです?」
尼僧の眉が、僅かに動いた。
「自分の行いを振り返ることもなく、他人に責任を押しつけ続けるのであれば、ここで暮らすことは出来ても、あなた方の心が変わることはないでしょう」
「失礼なことを!」
桃簾は声を荒らげた。
「わたくしは、何も悪いことなどしておりません!」
「……わたくしも、お母様と同じですわ」
翡翠も、母の袖を握りしめた。
「わたくしたちは悪くありません。お姉様が、皆を唆したのです」
尼僧は、暫く二人を見つめていた。そして、静かに告げた。
「解りました。あなた方の考えは理解しました」
それ以上、説得することはなかった。
反省する気のない者に、反省を強いることは出来ない。自分の行いを見つめ直すかどうかは、本人が決めることなのだから。
桃簾と翡翠は、正式な得度を望まなかった。その後も、二人は沙弥尼として暮らすことになった。
尼門跡での生活は、桃簾が望んでいたものとは程遠かった。欲しいものを自由に手に入れることは出来ず、誰かがいつでも自分の望みを叶えてくれるわけでもない。
翡翠もまた、これまでのように姉を呼びつけることは出来なかった。それでも二人は、自分たちの行いを省みようとはしなかった。
桃簾は周囲の者たちを不満に思い、翡翠は自分が不遇な目に遭っていると嘆き続けた。
そして、最後まで、瑠璃に謝罪することはなかった。それが二人の選んだ生き方だった。誰かに強いられた結末ではない。与えられた機会をどう受け止めるか。
その選択まで、他人が代わりにすることは出来なかったのである。
そのころ、天河宮家では。瑠璃が、自分の部屋の窓を開けていた。朝の風が、黒檀の髪をそっと揺らす。
以前と同じ庭。以前と同じ屋敷。
けれど、瑠璃の心には、少しずつ余白が生まれ始めていた。桃簾が今、何をしているのか。翡翠が不満を漏らしていないか。二人が自分を恨んでいるのではないか。そうしたことを、以前ほど気にしなくなっていた。
勿論、完全に忘れたわけではない。ふとした瞬間、母に愛されたかった気持ちが胸をよぎることはある。もし、桃簾が自分に優しくしてくれていたら。もし、翡翠と姉妹らしく笑い合うことが出来ていたら。そんな想像をしてしまう日もある。
けれど、瑠璃はもう、そのたびに自分を責めることはなかった。叶わなかった願いを抱えていてもよい。悲しいと思ってもよい。それでも、自分の人生を歩いていくことは出来る。
「瑠璃。朝食の支度が整ったそうだ」
廊下から天藍の声がした。
「はい、今まいります」
瑠璃は窓を閉め、振り返った。
兄は、以前と同じように笑っていた。その笑顔を見て、瑠璃も微笑んだ。誰かに気に入られるための笑顔ではない。相手の機嫌を損ねないための笑顔でもない。ただ、嬉しいから笑う。
そんな当たり前のことを、瑠璃は少しずつ取り戻していた。
もう、期待しない。そう決めたのは、母から愛されることを諦めたからだけではない。自分の価値を、誰かの愛情に委ねることをやめたからだ。
瑠璃は、兄と並んで廊下を歩き始めた。
これから先、何を学ぼう。何を知ろう。どのような人になろう。まだ、答えは見つかっていない。
けれど、初めて、その問いを考えることが楽しみだと思えた。瑠璃の人生は、漸く瑠璃自身のものになり始めていた。




