↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
お母様、いい加減にしてくださいませ  作者: 章槻雅希


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/8

第六話 さようなら、お母様

 出立の日は、曇り空だった。


 桃簾と翡翠の荷物は、必要最低限のものに纏められていた。豪華な衣装や装飾品の全てを持ち出すことは認められず、尼門跡での暮らしに必要な品だけが用意された。


「こんなものしか持たせていただけないなんて……!」


 桃簾は、荷物を見て不満を漏らした。


「わたくしを、いったい何だと思っていらっしゃるの!」


 誰も答えなかった。翡翠は、侍女に手伝わせることも出来ず、自分で荷物を抱えていた。


 これまで、何かを運ぶことも、身の回りのことを自分ですることも、殆どなかった少女である。


「重いですわ……。誰か、持ってくださいませ!」


 翡翠が叫んでも、家人たちは動かなかった。


 これから暮らす場所では、身分や家柄を理由に、誰かが全てを代わりにしてくれるわけではない。それを、翡翠はまだ理解していなかった。


 玄関先には、天青と天藍、祖父母、そして瑠璃が見送りに立っていた。桃簾は、最後まで不満げな顔をしていた。


「天青様。今なら、まだ考え直していただけるのではありませんか」


「決定は変わらない」


「わたくしは、旦那様の妻なのですよ」


「だからこそ、これまで何度も機会を与えてきた」


 天青は、静かに答えた。


「だが、お前は変わろうとしなかった」


「……っ」


「既に離縁が認められ、我が家の籍からお前と翡翠は抜けている。これからの人生を、どう生きるかはお前自身が決めればよい。私はもう、お前の代わりに責任を負うことは出来ない」


 桃簾は、顔を背けた。謝罪の言葉はなかった。自分の行いを悔いる様子もなかった。ただ、自分が望んだとおりにならなかったことを、恨んでいるだけだった。


 翡翠も同じだった。


「お姉様……!」


 翡翠が瑠璃を睨んだ。


「わたくし、絶対に忘れませんからね! お姉様がわたくしたちにしたことを!」


 瑠璃は、少しだけ目を伏せた。


「……翡翠」


「何ですの!」


「あなたも、これからは自分のことを自分で考えて生きてくださいませ」


「はあ?」


「誰かに何かをしてもらうのが当たり前だと思わず、自分の行いには自分で責任を持つことです」


 翡翠は、信じられないという顔をした。


「何を偉そうに……!」


「偉そうに言っているのではございません。ただ、それが大切なことだと申し上げているのです」


 瑠璃は、それ以上何も言わなかった。今の翡翠に、どれほど言葉を尽くしても届かないだろう。


 それでも、伝えるべきことは伝えた。それで十分だった。


 やがて、二人を乗せた車が動き始めた。 桃簾は最後までこちらを振り返り、恨みがましい視線を向けていた。翡翠も、母の隣で泣きながら何かを叫んでいた。けれど、その声は次第に遠ざかっていく。


 車が門を出ると、屋敷の中に静けさが戻った。


 瑠璃は、門の向こうを見つめていた。胸の奥に、ぽっかりと穴が開いたような感覚があった。


 これで、もう終わったのだろうか。これからは、桃簾の顔色を窺わずに暮らせるのだろうか。翡翠が失敗するたびに、責められることもないのだろうか。


 そう考えると、安堵が広がった。けれど同時に、寂しさもあった。


 桃簾は、自分にとって、長い間ずっと母だった人なのだ。たとえ継母であっても。たとえ愛してもらえなかったとしても。


 母に愛されたかったという願いまで、すぐに消えるわけではなかった。


「……瑠璃」


 祖母が、そっと声をかけた。


「辛いですか」


 瑠璃は、少し考えてから答えた。


「……はい。少しだけ」


「そうでしょうね」


 祖母は、瑠璃の肩に手を置いた。


「長い間、心を向けてきた相手なのですもの。すぐに何も感じなくなるはずがありません」


「わたくし……これでよかったのでしょうか」


 瑠璃は、小さく尋ねた。


「お二人を追い出すようなことになってしまって」


「あなたが追い出したのではありませんよ」


 祖母は、きっぱりと言った。


「二人の行いに対し、天河宮家として決断したのです。あなたが自分の気持ちを口にしたことを、罪のように思う必要はありません」


 瑠璃は、ゆっくりと頷いた。


「……はい」


「それに、悲しいと思うことと、決断が間違っていたと思うことは、同じではありません」


 祖母は、瑠璃の手を握った。


「あなたは、悲しんでもよいのです。寂しいと思ってもよいのです。それでも、自分を守るために決めたことを、すぐに後悔しなくてもよいのですよ」


 瑠璃は、祖母の手を握り返した。


 涙が零れそうになった。けれど今度は、その涙を隠そうとは思わなかった。


「……ありがとうございます、お祖母様」


 天青も、二人の側に歩み寄った。


「瑠璃。これからは、お前が自分の望むことを考えてよいのだ」


「はい、お父様」


「天河宮家の娘としての務めはある。だが、それだけがお前の人生ではない。お前が何を学びたいのか、何をしたいのか。私にも聞かせてほしい」


 瑠璃は、父を見上げた。


 今まで、自分の将来を考えるとき、いつも誰かの期待が先にあった。天河宮家の娘として、何をすべきか。兄の負担にならないためには、どう振る舞うべきか。桃簾の機嫌を損ねないためには、何を避けるべきか。自分が何を望んでいるのかなど、真剣に考えたことがなかった。


「……少し、お時間をいただけますか」


 瑠璃は言った。


「わたくし、自分が何をしたいのか、まだよく判らないのです」


「勿論だ」


 天青は頷いた。


「急ぐ必要はない。これから、ゆっくり考えていけばよい」


 瑠璃は、深く息を吸った。


 これから先、寂しくなることもあるだろう。ふとした瞬間に、桃簾に愛されたかった気持ちがよみがえることもあるだろう。


 それでも、もう自分を責める必要はない。誰かに愛されなかったからといって、自分まで自分を見捨てる必要はないのだから。


 瑠璃は、門の外へ消えた車の跡を、最後にもう一度だけ見つめた。


「……さようなら、お母様」


 声には出さず、心の中で告げた。


 愛されたかった。その願いは、最後まで叶わなかった。


 けれど、瑠璃の人生は、そこで終わるわけではない。これからは、自分で自分の道を選んでいく。もう、誰かの愛を得るために、自分の心を差し出すことはしない。


 瑠璃は、ゆっくりと屋敷へ向き直った。天河宮家の門は、変わらずそこにある。


 その向こうには、まだ知らない明日が待っていた。








 それから数日後。


 桃簾と翡翠は、尼門跡へと到着した。


 そこは、華美な宮殿とはまるで違う場所だった。手入れの行き届いた庭と、質素な建物。朝夕の勤行を知らせる鐘の音が、静かな山あいに響いている。


 出迎えたのは、白髪の尼僧だった。背筋はまっすぐで、年齢を感じさせない鋭い目をしている。先々帝の妹にあたる、門跡の主である。


「あなた方が、天河宮家から参られた方々ですね」


「ええ。わたくしは桃簾。帝の娘です」


 桃簾は、少しでも自分の立場を示そうと、誇らしげに名乗った。尼僧は、表情を変えなかった。


「ここでは、身分によって務めが変わることはありません。暮らしの決まりを守り、日々の勤行と作務を行っていただきます」


「……作務?」


 桃簾は眉を顰めた。


「掃除や、炊事などです」


「わたくしに、そのようなことをさせるおつもりですか?」


「ここで暮らす以上、皆が行うことです」


 尼僧は淡々と答えた。


「勿論、あなた方には、もう一つの道もあります」


 桃簾と翡翠は、顔を見合わせた。


「正式に得度し、尼僧として生きる道です。ただし、形だけの出家では意味がありません。これまでの行いを振り返り、過ちを認め、改める意思があること。それが前提となります」


 尼僧は、二人を見つめた。


「あなた方が真摯に反省し、これからの生き方を変えたいと願うなら、得度への道を開きましょう」


「反省……?」


 桃簾は、あからさまに不快そうな顔をした。


「わたくしが、いったい何を反省しなければならないというのです?」


 尼僧の眉が、僅かに動いた。


「自分の行いを振り返ることもなく、他人に責任を押しつけ続けるのであれば、ここで暮らすことは出来ても、あなた方の心が変わることはないでしょう」


「失礼なことを!」


 桃簾は声を荒らげた。


「わたくしは、何も悪いことなどしておりません!」


「……わたくしも、お母様と同じですわ」


 翡翠も、母の袖を握りしめた。


「わたくしたちは悪くありません。お姉様が、皆を唆したのです」


 尼僧は、暫く二人を見つめていた。そして、静かに告げた。


「解りました。あなた方の考えは理解しました」


 それ以上、説得することはなかった。


 反省する気のない者に、反省を強いることは出来ない。自分の行いを見つめ直すかどうかは、本人が決めることなのだから。


 桃簾と翡翠は、正式な得度を望まなかった。その後も、二人は沙弥尼として暮らすことになった。


 尼門跡での生活は、桃簾が望んでいたものとは程遠かった。欲しいものを自由に手に入れることは出来ず、誰かがいつでも自分の望みを叶えてくれるわけでもない。


 翡翠もまた、これまでのように姉を呼びつけることは出来なかった。それでも二人は、自分たちの行いを省みようとはしなかった。


 桃簾は周囲の者たちを不満に思い、翡翠は自分が不遇な目に遭っていると嘆き続けた。


 そして、最後まで、瑠璃に謝罪することはなかった。それが二人の選んだ生き方だった。誰かに強いられた結末ではない。与えられた機会をどう受け止めるか。


 その選択まで、他人が代わりにすることは出来なかったのである。








 そのころ、天河宮家では。瑠璃が、自分の部屋の窓を開けていた。朝の風が、黒檀の髪をそっと揺らす。


 以前と同じ庭。以前と同じ屋敷。


 けれど、瑠璃の心には、少しずつ余白が生まれ始めていた。桃簾が今、何をしているのか。翡翠が不満を漏らしていないか。二人が自分を恨んでいるのではないか。そうしたことを、以前ほど気にしなくなっていた。


 勿論、完全に忘れたわけではない。ふとした瞬間、母に愛されたかった気持ちが胸をよぎることはある。もし、桃簾が自分に優しくしてくれていたら。もし、翡翠と姉妹らしく笑い合うことが出来ていたら。そんな想像をしてしまう日もある。


 けれど、瑠璃はもう、そのたびに自分を責めることはなかった。叶わなかった願いを抱えていてもよい。悲しいと思ってもよい。それでも、自分の人生を歩いていくことは出来る。


「瑠璃。朝食の支度が整ったそうだ」


 廊下から天藍の声がした。


「はい、今まいります」


 瑠璃は窓を閉め、振り返った。


 兄は、以前と同じように笑っていた。その笑顔を見て、瑠璃も微笑んだ。誰かに気に入られるための笑顔ではない。相手の機嫌を損ねないための笑顔でもない。ただ、嬉しいから笑う。


 そんな当たり前のことを、瑠璃は少しずつ取り戻していた。


 もう、期待しない。そう決めたのは、母から愛されることを諦めたからだけではない。自分の価値を、誰かの愛情に委ねることをやめたからだ。


 瑠璃は、兄と並んで廊下を歩き始めた。


 これから先、何を学ぼう。何を知ろう。どのような人になろう。まだ、答えは見つかっていない。


 けれど、初めて、その問いを考えることが楽しみだと思えた。瑠璃の人生は、漸く瑠璃自身のものになり始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。