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お母様、いい加減にしてくださいませ  作者: 章槻雅希


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第五話 わたくしは、もう期待しません

「……それで、今度は何を仰りたいのですか」


 桃簾は、苛立ちを隠そうともせずに言った。これ以上、何を責められるというのだろう。


 自分は帝の娘だ。天青の妻だ。翡翠の母だ。それだけで、十分に大切にされるべきではないのか。


 何故、皆が自分の行いばかりを問題にするのか。桃簾には、理解できなかった。


 祖父が、改めて口を開いた。


「翡翠のことについても、話しておく必要がある」


「翡翠?」


 桃簾の表情が変わった。


「この子が、何か?」


「翡翠は、天青の実子ではない」


 その一言で、桃簾の顔から血の気が引いた。翡翠が、母の袖を握る。


「……お母様?」


 桃簾は、すぐに立ち上がった。


「何を仰っているのです!」


「聞こえたとおりだ」


「そんなはずはございません! 翡翠は、天青様とわたくしの娘です!」


「記録と、術による確認の結果、血縁がないことが明らかになっている」


「出鱈目ですわ!」


 桃簾は叫んだ。


「そんなもの、何かの間違いに決まっています! お義父様は、わたくしを陥れようとしているのです!」


「陥れる必要などない。事実を確認しただけだ」


「事実ですって……!」


 桃簾は天青を振り返った。


「旦那様! 何か仰ってくださいませ!」


 天青は、静かに桃簾を見つめていた。


「私も、以前から知っていた」


「……え?」


「翡翠が私の実子ではないことは、確認している」


 桃簾の唇が震えた。


「何故……何故、わたくしに何も仰らなかったのですか!」


「お前が釈明するのを待っていた」


「釈明など、必要ありません! 翡翠はわたくしの娘です。それで十分ではありませんか!」


 桃簾は、必死に言い募った。


「天青様の娘でなくとも、わたくしの娘なのです! この子を、まさか追い出すおつもりではございませんでしょうね!」


 翡翠が、母の腕にしがみついた。


「お母様……わたくし、どうなるのですか?」


「大丈夫よ。お母様がいるからね」


 桃簾は、娘を抱きしめた。その姿だけを見れば、娘を守ろうとする母親だった。


 けれど、瑠璃には解っていた。桃簾が守ろうとしているのは、翡翠だけではない。自分の立場も、これまで当然のように受け取ってきたものも、何一つ失いたくないのだ。


「……翡翠が、天青様の娘ではないことは認めます」


 桃簾は、苦し紛れに言った。


「ですが、それが何だというのです? わたくしは天青様の妻です。翡翠はわたくしの娘です。この家にいる権利は、十分にございます!」


「今、問われているのは、翡翠の血筋だけではない」


 天青が言った。


「では、何ですの!」


「お前が、これまで何をしてきたかだ」


 桃簾は、言葉を失った。


「翡翠が私の実子でなかったこと。それ自体を理由に、翡翠を責めるつもりはない。だが、お前はその事実を伏せたまま、翡翠に天河宮家の娘としての権利ばかりを求めさせてきた」


「それは……!」


「そして、瑠璃には妹の面倒を見る責任ばかりを負わせてきた」


 天青の声が、僅かに低くなった。


「翡翠が何をしても、瑠璃が代わりに叱責される。翡翠が務めを果たさなくても、瑠璃が悪いとされる。お前は、それを当然のこととしてきた」


「瑠璃が姉なのですから、当たり前でしょう!」


 桃簾は、反射的に言い返した。


 その瞬間、居間に沈黙が落ちた。桃簾自身も、何を口にしたのか気づいたようだった。けれど、もう遅かった。


 瑠璃は、静かに桃簾を見つめていた。


「……お母様」


 その声は、思いのほか穏やかだった。


「わたくしは、もう期待しません」


 桃簾が、瑠璃を振り返った。


「何ですって?」


「お母様が、いつかわたくしを愛してくださるのではないかと。わたくしが努力を続ければ、いつかは認めてくださるのではないかと。ずっと、そう思っておりました」


 瑠璃は、膝の上で両手を重ねた。


「ですが、もうやめます」


「……あなた」


「お母様に愛されたいと思ったことまで、間違いだったとは思いません。わたくしは、本当に、お母様に愛していただきたかったのです」


 瑠璃の声が、少しだけ揺れた。


「けれど、そのために自分を責め続けるのは、もうやめます。お母様がわたくしをお嫌いでも、それは、わたくしに価値がないということではございませんから」


「生意気なことを……!」


「わたくしは、もう自分が悪いのだとは思いません」


 瑠璃は、桃簾をまっすぐに見た。


「お母様がわたくしを愛してくださらなかったことを、これ以上、自分の罪のように背負うつもりはございません」


 桃簾は顔を歪めた。


「育ててやった恩を忘れて!」


「感謝しております」


 瑠璃は、はっきりと答えた。


「育てていただいたことには、感謝しております。けれど、感謝しているからといって、これからも傷つけられ続けなければならない理由にはなりません」


 桃簾は、言葉を失った。


 これまでの瑠璃なら、きっと謝っていた。母の怒りを鎮めようと、言葉を選び、自分の気持ちを引っ込めていた。


 けれど、今の瑠璃は違った。母を憎むためではない。母に勝つためでもない。ただ、自分を守るために、初めて自分の言葉を口にしていた。


「……お父様」


 瑠璃は、天青に向き直った。


「わたくしは、これからも天河宮家の娘として、務めを果たしてまいります。ですが、桃簾様の機嫌を損ねないことを、何より優先する生き方は、もういたしません」


 天青は、静かに頷いた。


「解った」


「翡翠についても、姉として必要なことは教えてまいりました。けれど、翡翠自身が学ぶことまで、わたくしの責任にするのはおやめくださいませ」


「承知した」


 瑠璃は、深く頭を下げた。そして、再び桃簾を見た。


「お母様。わたくしは、もうお母様に愛されるために生きるのではございません」


 その言葉は、桃簾への宣言であると同時に、瑠璃自身への約束でもあった。








「……もう、十分だろう」


 暫くの沈黙の後、祖父が口を開いた。


「天青。決断する時だ」


 天青は、重く頷いた。


「桃簾。お前と翡翠には、天河宮家を出てもらう」


「……え?」


 桃簾は、暫く意味が解らないという顔をしていた。やがて、その言葉を理解すると、勢いよく立ち上がった。


「何を仰っているのです!」


「聞いたとおりだ」


「わたくしは、旦那様の妻です! この家の女主人です! それを追い出すなど、許されるはずがございません!」


「お前は、この家の女主人としての務めを果たそうとしなかった」


 天青は、厳しい声で言った。


「瑠璃を傷つけ、翡翠を甘やかし、何度注意されても改めなかった。私は、もうこれ以上、見過ごすことは出来ない」


「天青様!」


「翡翠も同様だ。天河宮家の娘として求められる務めを拒み、周囲に負担を押しつけてきた。これから先、二人には別の場所で暮らしてもらう」


「そんな……!」


 桃簾は、周囲を見回した。誰か、自分を助けてくれる者はいないのか。自分が帝の娘であることを思い出させれば、皆、考えを改めるのではないか。そう思っていた。


 けれど、誰も口を開かなかった。祖父は、既に必要な手続きを考えているようだった。祖母は、表情を変えずに桃簾を見つめている。天藍は、瑠璃の側に座ったままだ。


 そして、天青は一度決めたことを撤回する様子がなかった。


「……帝に申し上げます!」


 桃簾は叫んだ。


「父帝に申し上げて、皆様のなさったことをお伝えします! わたくしを誰だと思っていらっしゃるのです!」


「構わない」


 天青は答えた。


「既に翡翠の出生が判った時点で帝にはご報告申し上げている。それに、近々帝はご譲位あそばす。もう貴様の後ろ盾は通用しない」


 次の帝たる日嗣の御子・菫青(きんせい)親王は厳格な人物であり、桃簾を嫌っている。皇族らしからぬ我儘な振舞も、股の緩い性にだらしないところも。ゆえにこれまでのように桃簾の我儘を受け入れ、桃簾の望むように皇族や貴族に命じることもなければ尻拭いをすることもない。


「……っ!」


 桃簾は、顔を引きつらせた。


 天青は、これまで帝への配慮から、翡翠の血縁について公にしてこなかったという。天青はいつも帝を慮っていた。桃簾も、そのことをよく知っていた。だからこそ、今まで自分がどれほど勝手に振る舞っても、天青が最後には折れると思っていたのだ。


 しかし、もう違う。


「義母上」


 天藍が、静かに告げた。


「これ以上、父上を困らせるのはおやめください」


「あなたは黙っていなさい!」


「黙りません」


 天藍は、珍しく強い口調で言った。


「私は、瑠璃がこれ以上傷つくところを見たくありません」


 桃簾は、翡翠を抱き寄せた。翡翠は、既に泣いていた。


「お母様、嫌です……。わたくし、ここを出るなんて嫌ですわ!」


「大丈夫よ、翡翠。そんなこと、させませんからね」


 桃簾は、娘の頭を撫でた。


「わたくしたちは、何も悪くないのですから」


 その言葉を聞いて、祖母が静かに目を閉じた。最後まで、この人は変わらないのだろう。


 自分の行いを振り返ることもなく、他人のせいにし続けるのだろう。ならば、これ以上、同じ場所で言葉を重ねる必要はなかった。


「桃簾」


 祖母が、最後に告げた。


「あなたには、まだ自分の行いを省みる機会が残されています。どうか、これからは少しでも、自分自身と向き合いなさい」


「……ご立派なことですわね」


 桃簾は、冷笑した。


「わたくしは、誰にも教えを請う必要などございません」


 祖母は、それ以上何も言わなかった。その答えが、既に全てを物語っていたからだ。








 桃簾と翡翠の行き先は、尼門跡(あまもんぜき)と決まった。俗世から距離を置き、静かに暮らすための場所である。


 そこには、厳格な戒律を守りながら、身分や家柄に関わらず人を受け入れる尼僧たちが暮らしていた。 その門跡を預かるのは、先々帝の妹にあたる高齢の尼僧だった。祖父の異母姉にあたる元藍晶(らんしょう)内親王、現燐灰尼(りんかいに)。宮家の事情にも通じ、身分の高い者であっても、過ちを犯したならば相応の責任を負うべきだと考える人物である。


 桃簾は、その話を聞いて顔を顰めた。


「尼門跡ですって? わたくしに、そんな場所で暮らせと仰るのですか!」


「そうだ」


 天青は答えた。


「今後の暮らしに必要なものは、こちらで手配する。だが、天河宮家に戻ることは認めない」


「冗談ではございませんわ!」


 桃簾は、声を荒らげた。


「わたくしは帝の娘です! そのような場所で、名もない尼僧たちと暮らせと?」


「そのような場所だからこそ、身分を理由に特別扱いされることはないだろう」


 祖父が言った。


「それが、今のお前には必要なのかもしれないな」


「……お義父様!」


「もう決まったことだ」


 祖父は帳面を閉じた。桃簾は唇を噛み、瑠璃を睨んだ。


「……あなたのせいよ」


 瑠璃は、黙って桃簾を見返した。


「あなたが、余計なことを言ったから。あなたが皆をそそのかしたから、こんなことになったのです!」


 翡翠も、涙を流しながら叫んだ。


「そうですわ! お姉様が悪いのです! お姉様さえ黙っていれば、こんなことにはならなかったのに!」


 瑠璃の胸に、微かな痛みが走った。


 以前なら、二人の言葉に打ちのめされていただろう。自分が黙っていればよかったのかもしれない。自分が我慢すれば、家族は壊れずに済んだのかもしれない。そんなふうに、考えていたかもしれない。


 けれど、今は違った。


「……いいえ」


 瑠璃は、静かに答えた。


「わたくしが黙っていても、何も変わらなかったと思います」


「何ですって?」


「わたくしが何も言わなければ、お母様はこれからもわたくしを責め続けたでしょう。翡翠も、自分の務めを果たさず、わたくしに責任を押しつけ続けたでしょう」


 瑠璃は、二人を見つめた。


「わたくしが声を上げたから、こうなったのではございません。これまでのお二人の行いが、今の結果を招いたのです」


「あなた……!」


「もう、わたくしのせいにするのはおやめくださいませ」


 桃簾は顔を真っ赤にした。翡翠は、何かを言い返そうと口を開いたが、言葉にならなかった。


 瑠璃は、二人から目をそらした。勝ち誇った気持ちはなかった。長年、自分を苦しめてきた相手が追い出されると聞いても、胸がすっと晴れるわけではなかった。


 ただ、これ以上、同じ場所で傷つき続けなくてよいのだと思った。それだけだった。


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