第四話 家族の前で明かされる真実
桃簾は、三日間、瑠璃と口を利かなかった。正確には、口を利かなかったのではない。
瑠璃が廊下を通れば、聞こえよがしに溜息をつく。食事の席で顔を合わせれば、露骨に視線を逸らす。侍女に何かを命じる際にも、わざと瑠璃に聞こえる声で不満を漏らした。
「全く、近ごろの瑠璃には困ったものです。年長者を敬う気持ちが、すっかり失われてしまったようですね」
そのたびに、翡翠が母の隣で大きく頷く。
「本当ですわ、お母様。お姉様ったら、わたくしにも冷たくて。昔はもう少し優しかったのに」
昔から、瑠璃は翡翠に優しく接してきた。翡翠が礼儀を欠けば注意し、学問を怠れば教え、我が儘を言えば諭した。それを翡翠が優しさとして受け取ったことは、殆どない。
姉なのだから妹の言うことを聞くべきだ。姉なのだから妹に譲るべきだ。姉なのだから、妹が何をしても許すべきだ。翡翠にとって、姉の優しさとは、自分の望みを叶えてくれることだったのである。そして、桃簾もまた、それを当然だと思っていた。
「瑠璃は、わたくしたちに謝るべきですわ」
ある日の昼下がり、翡翠が母の部屋でそう言った。
「お母様にあんなことを言うなんて、許されるはずがありませんもの」
「そうでしょうとも」
桃簾は満足そうに頷いた。
「天河宮家の長女ともあろう者が、母親に逆らうなど恥ずべきことです。天青様も、どうしてあの子を叱ってくださらないのかしら」
「お父様は、いつもお姉様の味方ですもの」
翡翠は頬を膨らませた。
「わたくしのことは、少しも可愛がってくださらないのに」
「あなたは何も心配しなくてよいのですよ。お母様がついていますからね」
桃簾は翡翠の頭を撫でた。
翡翠は、嬉しそうに笑った。二人とも、自分たちが何をしてきたのかを振り返ろうとはしなかった。
瑠璃がどれほど努力してきたのか。どれほど言葉を飲み込んできたのか。どれほど傷ついてきたのか。そんなことを考える必要などないと思っていた。
自分たちが不快に感じたのだから、瑠璃が悪い。自分たちの望みがかなわないのだから、誰かが間違っている。その考えは、二人の中であまりにも当たり前になっていた。
だからこそ、二人は気づかなかった。瑠璃がもう、以前のように謝りに来なくなったことに。
「瑠璃。少し、こちらへ来なさい」
四日目の朝。祖母に呼ばれた瑠璃は、居間へ向かった。そこには祖父と天青、そして兄の天藍もいた。普段の家族の集まりとは違い、皆の表情は真剣だった。
「お祖父様。お父様。お兄様。何かございましたか」
「桃簾と翡翠のことだ」
祖父が答えた。瑠璃は静かに頷いた。
予想していたことだった。祖父が翡翠の血縁について話した以上、いつかは桃簾本人にも問いただすことになるだろう。
けれど、瑠璃はその場で何かを決めつけるつもりはなかった。
桃簾が何を語るのか。翡翠が何を主張するのか。それを、自分の耳で聞きたかった。
「瑠璃。お前も同席しなさい」
天青が言った。
「これは天河宮家の問題だ。そして、お前自身が長年傷つけられてきた問題でもある。お前に関係のないところで、勝手に決着をつけるつもりはない」
「……ありがとうございます、お父様」
瑠璃は深く頭を下げた。
天藍が、妹の顔をのぞき込む。
「無理をする必要はない。辛くなったら、席を外してもよいのだからな」
「はい、お兄様」
兄の声は優しかった。
瑠璃は、その優しさに甘えてしまいたくなった。けれど、今回は逃げたくなかった。
今まで、桃簾の言葉を聞くたびに、自分が悪いのだと思ってきた。これからもずっと、そう思い続けるのは嫌だった。
「わたくしも、お話を聞きたいです」
瑠璃は、はっきりと告げた。
「これから先、どうするのか。わたくし自身も、知っておきたいのです」
天青は頷いた。
「判った」
祖父が、控えていた家人に命じた。
「桃簾と翡翠を呼びなさい」
「……これは、いったい何の集まりですの?」
居間に入ってきた桃簾は、居並ぶ顔ぶれを見て眉を顰めた。
翡翠も母の後ろに続き、何事かと周囲を見回している。
「旦那様、わたくし、今日は翡翠と出かける約束がございますのよ」
桃簾は天青に向かって微笑んだ。
「お話なら、また別の日にしていただけませんか」
「いや。今日、話しておきたいことがある」
天青の返事は簡潔だった。桃簾の笑みが、僅かに引きつった。
「……そうですか。それで、何のお話でしょう」
「座りなさい」
天青に促され、桃簾と翡翠は向かいの席に腰を下ろした。
瑠璃は、祖母の隣に座っていた。桃簾は瑠璃を見つけると、すぐに顔をしかめた。
「瑠璃。あなたまでいるのですか」
「はい」
「あなたには関係のない話でしょう」
「いいえ。わたくしにも関係がございます」
瑠璃は、静かに答えた。
桃簾は目を見開いた。以前の瑠璃なら、ここで口を閉ざしていたに違いない。
けれど今は、違った。自分に関係のあることを、関係がないと言われたからといって、黙って引き下がる必要はないのだ。
「……まあ。生意気なこと」
桃簾は吐き捨てるように言った。
「本当に、誰に似たのでしょうね」
「その話は、もうよい」
祖父の声が響いた。桃簾は、不満そうに祖父を見た。
「お義父様。わたくし、何か悪いことでもいたしましたか?」
「自分の行いを、少し考えてみなさい」
「何のことだか、さっぱり判りませんわ」
桃簾は、あっさりと言った。
祖母が静かに口を開いた。
「瑠璃に対する仕打ちについてです」
「仕打ち?」
桃簾は、心底不思議そうな顔をした。
「わたくしが、瑠璃に何をしたと仰るのです?」
「何もしていないと、本当に思っているのですか」
「ええ。あの子は天河宮家の長女として、十分な教育を受けてきたではありませんか。衣食住に不自由させた覚えもございません」
桃簾は、当然のことを述べるように続けた。
「それなのに、少し注意をしただけで、あのように反抗するのです。わたくしこそ、あの子の態度に傷ついておりますわ」
瑠璃は、目を伏せなかった。
桃簾は本気でそう思っているのだろう。自分は何も悪くない。瑠璃を傷つけたことなどない。ただ、正しいことを教えてやっただけだ、と。
「桃簾」
天青が口を開いた。
「お前は、瑠璃に何を求めていたのだ」
「何を、とは?」
「瑠璃は、長年、お前に認めてもらおうと努力してきた。礼儀も教養も家の務めも怠ったことはない。それでも、お前はあの子を責め続けた。何故だ」
「それは……」
桃簾は、一瞬だけ言葉に詰まった。
けれど、すぐに顔を上げた。
「仕方がないではありませんか。あの子を見ると、どうしても思い出してしまうのです」
「誰をだ」
「旦那様の前の妻ですわ」
その言葉に、居間の空気が冷えた。
「黒檀の髪を見るたび、あの人を思い出す。顔立ちも、嫌味な姑に似ているように感じる。そんな子を、心から可愛がれと言われても、無理なものは無理ですわ」
桃簾は、悪びれることもなく言い切った。
「それに、わたくしはあの子を育ててきました。十分に務めを果たしてきたではありませんか」
「……お母様」
瑠璃は、思わず口を開いた。
「わたくしは、何をすればよかったのでしょうか」
桃簾が、瑠璃を見た。
「何ですって?」
「わたくしは、お母様に喜んでいただきたくて、ずっと努力してまいりました。礼儀も、勉学も、家の務めも。お母様にご迷惑をおかけしないよう、出来る限りのことをしてきたつもりです」
瑠璃の声は、震えていた。
それでも、言葉を止めなかった。
「それでも、お母様はわたくしをお嫌いでした。わたくしが、どうすればよかったのか……今でも、判りません」
「そんなこと、わたくしに聞かれても困りますわ!」
桃簾は苛立ったように言った。
「あなたは、わたくしを不快にさせるのです。そういうものなのですから、仕方がないでしょう!」
瑠璃の胸が、ずきりと痛んだ。
そういうもの。理由などない。ただ、自分がそこにいることが不快なのだ。
どれほど努力しても、どれほどよい娘になろうとしても、桃簾の気持ちが変わることはなかった。その事実を、瑠璃は改めて突きつけられた。
けれど、以前のように、自分が悪いのだとは思わなかった。瑠璃は、ゆっくりと息を吸った。
「……そうですか」
小さく、そう答えた。
桃簾は、勝ち誇ったように顎を上げた。
「解ったのなら、これからは母親に逆らうような真似をしないことです。わたくしの気持ちを察して、余計なことをしなければよいのです」
「いい加減にしなさい、桃簾」
祖母の声が鋭く響いた。
「瑠璃がどれほど努力しようと、あなたは自分の気に入らないという理由で、あの子を拒絶してきた。それを今、本人の前で認めたのですよ」
「お義母様。わたくしにも感情がございます!」
「ええ。だからといって、何をしても許されるわけではありません」
祖母は一歩も引かなかった。
「あなたは、天河宮家の女主人としての務めを学ぶよう、何度も言われてきました。けれど、あなたはそのたびに不満を述べ、教えを拒んだ。翡翠にも、宮家の娘としての心得を教えようとはしなかった」
「翡翠はまだ子どもですわ!」
「14歳です。学ぶべきことを学ぶには、十分な年齢でしょう」
「わたくしの娘に、口出しをなさらないでくださいませ!」
桃簾の声が高くなった。祖母は、冷ややかに桃簾を見つめた。
「あなたは、何かにつけて自分の権利ばかり主張しますね。けれど、権利には責任が伴うものです。あなたは、それを一度でも考えたことがありますか」
「わたくしは帝の娘です!」
桃簾は、ついに声を張り上げた。
「あなた方とは違います。帝の娘であるわたくしを、これ以上侮辱するおつもりですか!」
祖父が、静かに答えた。
「それを言うならば、私は先々帝の第二皇子、親王宣下を受けた紛れもない皇家の者だ。しかし貴様は帝の娘ではあるが、正式な内親王宣下を受けてはいない。皇族としての身分を正式に与えられているわけではないのだ」
「なっ……!」
「天青との婚姻によって天河宮家の一員となった以上、この家の決まりと務めを守る必要がある。それは、お前自身も承知していたはずだ」
「わたくしは……!」
「それとも、天河宮家の名だけを利用し、務めは果たさず、好きなように振る舞いたいと言うのか」
桃簾は、顔を赤くした。
「そんなことは言っておりません!」
「ならば、これまでの行いを振り返れ」
祖父の声には、一切の揺らぎがなかった。
桃簾は唇を噛んだ。自分が責められている。それも、天青だけではない。祖父母からも、天藍からも。
そして、これまで自分の言うことに従っていた瑠璃からも、もう以前のような反応が返ってこない。桃簾には、それが何より許せなかった。
「……そう。皆でわたくしを責めるのですね」
桃簾は、震える声で言った。
「わたくしが帝の娘だから、皆、嫉妬しているのでしょう。わたくしが天青様に愛されているから、気に入らないのですわ!」
「義母上」
天藍が、冷静に口を開いた。
「父上は、これまで何度も我慢してきたのではありませんか」
「何ですって?」
「父上が義母上に対して、どれほど譲歩してきたか。義母上はご存じないのでしょう」
天藍は、桃簾を見据えた。
「ですが、譲歩することと、何をしても許すことは違います」
「あなたまで、わたくしに説教するのですか!」
「説教ではありません。事実を申し上げているのです」
天藍は、静かに続けた。
「私は、瑠璃が義母上に認めてもらおうと努力してきたことを知っています。妹が義母上に嫌われないよう、どれほど言葉を選んできたかも。……それでも、義母上は瑠璃を認めようとはなさらなかった」
天藍の声に、初めて怒りが滲んだ。
「私は、義母上の振る舞いを見て見ぬふりをしてきた自分にも、腹が立っております」
「天藍……」
瑠璃は、兄を見つめた。
兄は、普段から桃簾の振る舞いを快く思っていなかった。それでも、瑠璃のために何かをしてくれることはあっても、ここまで明確に母親を批判したことはなかった。
「瑠璃」
天藍は妹に向き直った。
「今まで、済まなかった。私は、お前がしっかりしているから大丈夫だと、どこかで思っていたのかもしれない」
「お兄様……」
「これからは、もう少しきちんと話そう。お前が何を考えているのか、私も知りたい」
瑠璃は、小さく頷いた。
嬉しかった。けれど、兄の言葉に全てを任せるつもりはなかった。これは、自分の問題でもあるのだから。




