第三話 明かされた妹の秘密
その日の午後、瑠璃は祖父に呼ばれた。
祖父は天河宮家の記録を管理しており、日々の家政から親族の系譜に至るまで、細かな記録を把握している人物だった。祖母が人の心を見抜く人なら、祖父は事実を見逃さない人である。
「瑠璃。お前に、話しておかねばならないことがある」
祖父は書斎の机に向かい、古い帳面を一冊取り出した。
「桃簾と翡翠のことだ」
瑠璃は、少し緊張した。
「……はい」
「これは、お前が今まで知る必要のないこととして扱われてきた。だが、これから先、お前自身が判断するためにも、知っておいたほうがよいだろう」
祖父は帳面を開いた。
「翡翠は、天青の実子ではない」
瑠璃は、言葉を失った。
「……え?」
「天青と桃簾の婚姻後、翡翠が生まれるまでの期間について、記録に不自然な点があった」
祖父は淡々と説明した。
天河宮家では、当主夫妻の生活に関する記録も、家の管理に必要な範囲で残されていた。当然、血統に関わる閨についても記録が残されているのだ。桃簾と天青が同衾した日。その後、妊娠が判明した時期。翡翠が生まれた日。それらを照らし合わせると、どうしても説明のつかない部分があったのだという。
「勿論、記録だけで断定することは出来なかった。だから、術師に依頼し、血縁を確かめる術を用いた」
「それで……」
「天青と翡翠に、血の繋がりはなかった」
瑠璃は、膝の上で両手を握りしめた。翡翠は、天青の娘ではなかった。つまり、天河宮家の血を引いていない。
あの灰桜の髪も、木賊色の瞳も、偶然ではなかったのだ。
けれど、瑠璃が何より驚いたのは、祖父がその事実を知っていたことだった。
「お祖父様は……ずっと、ご存じだったのですか」
「そうだ」
「お父様も?」
「ああ。天青も知っている」
瑠璃は、ゆっくりと頷いた。何故、今まで何も言わなかったのだろう。疑問が浮かんだが、祖父はその答えを先に口にした。
「天青は、この件を公にすることを避けてきた。桃簾が帝の娘であることを考慮し、軽々しく騒ぎ立てるべきではないと判断したのだ」
「帝のお血筋を……」
「桃簾は、正式な内親王宣下を受けていない。帝の娘であることと、皇族としての身分を正式に与えられていることは、同じではないのだ」
祖父の声は冷静だった。
「だが、だからといって、天河宮家の者として振る舞う以上、守るべきものがある。家の名を背負うことは、好き勝手に振る舞うことではない」
瑠璃は、目を伏せた。
翡翠は、いつも自分を天河宮家の姫君として扱うよう求めていた。侍女に命じ、礼儀を怠り、失敗すれば姉に責任を押しつける。それでも、自分が当然に優遇されると思っていた。それは、桃簾がそう教えてきたからなのだろう。
「……翡翠は、そのことを知っているのでしょうか」
「知らないはずだ。桃簾も、我々が知っているとは思っていないだろう」
祖父は帳面を閉じた。
「この件は、家の中で長く伏せられてきた。だが、お前が桃簾や翡翠との関係に悩んできたことを考えれば、何も知らぬままでいるのも適切ではないと思ったのだ」
瑠璃は、暫く黙っていた。
翡翠が天青の娘ではない。その事実は、確かに大きな意味を持つ。
けれど、瑠璃はふと、自分の胸の内に別の思いがあることに気づいた。翡翠が天青の娘ではなかったからといって、桃簾が自分を嫌う理由が、全て説明できるわけではない。翡翠が天青の娘ではなかったからといって、これまで自分が受けた仕打ちが消えるわけでもない。
そして何より。翡翠が天河宮家の血を引いていなかったとしても、瑠璃が翡翠の失敗の責任を負わなければならない理由にはならない。
「……お祖父様」
「何だ」
「このことは、わたくしが知っていてもよいのですね」
「勿論だ」
「ありがとうございます」
瑠璃は深く頭を下げた。
「わたくし、これからは、知らないことを知らないままにしておくのではなく、自分で確かめてまいります」
祖父は、少しだけ目を細めた。
「それでよい」
短い返事だった。けれど、瑠璃には十分だった。
夕刻。瑠璃は自室で、窓の外を眺めていた。
今日は、いくつものことを知った。実母が自分を愛してくれていたこと。自分の黒檀の髪が、母から受け継いだ大切なものだということ。
桃簾に愛されなかったのは、自分が悪い娘だったからではないということ。そして、翡翠が天青の実子ではないという事実。
どれも、瑠璃がこれまで見ていた景色を変えるものだった。それでも、明日になれば、桃簾はいつもどおりに振る舞うだろう。
翡翠もまた、自分が何一つ間違っていないと信じているに違いない。あの二人が、今日知った事実を素直に認めるとは思えなかった。それでも、もう以前のようには戻れない。
瑠璃は、自分の髪をひと房、指先に絡めた。母が喜んでくれた髪。母が、自分に似ていると笑ってくれた髪。
桃簾がどれほど嫌おうと、この髪は瑠璃のものだった。自分の生まれも、顔立ちも、心も。誰かに愛されるために、否定する必要などない。
「……わたくしは、わたくしでよいのですね」
呟いた声は、まだ少し頼りなかった。長い年月、自分を責めることに慣れてしまった心は、簡単には変わらない。
それでも、祖母の言葉が胸の奥に残っている。人に好かれないことと、その人に価値がないことは、全く別の話。
瑠璃は、ゆっくりと目を閉じた。母に愛されたかった。その願いは、今も消えていない。
桃簾に笑いかけてもらいたかった。自分を本当の娘として認めてもらいたかった。その気持ちまで、なかったことには出来ない。
けれど、これからは。愛されなかった自分を、責めるのはやめよう。愛されなかったからといって、自分に価値がないと思うのはやめよう。
瑠璃は、ゆっくりと目を開けた。窓の外では、夕日が庭を赤く染めていた。
明日、桃簾と顔を合わせれば、また何かを言われるかもしれない。翡翠が、自分を責める言葉を口にするかもしれない。
それでも、瑠璃はもう、自分の心を押し殺してまで二人の機嫌を取るつもりはなかった。
「わたくしは……もう、自分を嫌いになりたくありません」
その言葉を、今度ははっきりと口にした。誰かに認めてもらうためではない。誰かに許してもらうためでもない。瑠璃自身が、瑠璃を見捨てないために。
その夜、瑠璃は久しぶりに、少しだけ穏やかな気持ちで眠りについた。
まだ、全てが解決したわけではない。桃簾も翡翠も、何も変わっていない。
けれど、瑠璃の中では、確かに何かが変わり始めていた。
これまでずっと、瑠璃は問い続けてきた。どうすれば、母に愛してもらえるのだろう。
けれど、これからは違う。誰かに愛されるために、自分を変えるのではなく。自分が自分らしく生きるために、何を選ぶべきなのか。
その答えを、これから自分で探していくのだ。




