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お母様、いい加減にしてくださいませ  作者: 章槻雅希


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第二話 わたくしは、誰の娘なのでしょう

 翌朝、瑠璃はいつもより早く目を覚ました。


 窓の向こうでは、朝露に濡れた庭木が淡い光を受けている。鳥の囀りが聞こえ、屋敷の中にも少しずつ人の気配が戻り始めていた。


 昨夜は、なかなか眠れなかった。桃簾の怒った顔が、何度も脳裏に浮かんだからだ。母親に逆らった。育ててやった恩を忘れた。後悔させてあげる。


 繰り返し思い出すたび、胸の奥がちくりと痛んだ。


 昨日、瑠璃は確かに決意した。もう、自分を責めるのはやめよう。母に愛されるために、何もかも我慢するのはやめよう。そう決めたはずなのに、心は簡単には追いついてくれなかった。


 長い年月をかけて身についた習慣は、たった一晩で変わるものではない。桃簾が機嫌を損ねていないか。翡翠が何か不満を訴えていないか。自分が謝れば、昨日のことはなかったことに出来るのではないか。そんな考えが、何度も頭をよぎる。


 瑠璃は寝台から降り、窓辺に立った。


「……もう少しだけ、頑張ってみましょう」


 誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。母に愛されるためではない。自分自身の気持ちを、確かめるために。








「瑠璃、こちらへいらっしゃい」


 朝食を終えた瑠璃が自室へ戻ろうとしたとき、廊下の向こうから祖母の声がした。


 振り向くと、祖母が侍女を伴って立っていた。灰青の瞳を持つ祖母は、年を重ねても背筋が伸び、凛とした佇まいを崩さない人だった。厳格で、礼儀にも家の務めにも妥協しない。


 桃簾にとっては、何かにつけて自分を戒める、煙たい姑だったに違いない。けれど、瑠璃は幼いころから祖母を慕っていた。


「お祖母様。何かご用でしょうか」


「ええ。少し話がしたいのです。時間はありますか」


「はい、勿論でございます」


 祖母は瑠璃を連れ、庭に面した小さな茶室へ向かった。


 そこは、天河宮家の者たちが静かに話をするときに使う部屋だった。華美な装飾はないが、手入れの行き届いた庭を眺めることが出来る。


 侍女が茶を置いて下がると、祖母は瑠璃に向き直った。


「昨日のことを、聞きましたよ」


「……お耳に入りましたか」


「屋敷中が知っているでしょうね」


 祖母は、少しだけ眉を下げた。


「あなたがあのように言い返すのは、初めてだったのでしょう」


「はい」


「今まで、よく耐えましたね」


 その一言に、瑠璃は思わず顔を上げた。


 責められると思っていた。母親に逆らってはいけないと、諭されると思っていた。


 けれど、祖母の声には、瑠璃を咎める響きがなかった。


「……お祖母様は、わたくしが悪いとは思われないのですか」


「何故、そのように思うのです?」


「お母様に、あのような口を利いてしまいました。わたくしがもっと上手に振る舞えば、あのようなことにはならなかったのではないかと……」


 言いながら、瑠璃は唇を噛んだ。


 まただ。昨日、もうやめようと決めたばかりなのに。結局、自分が悪かったのではないかと考えてしまう。


 祖母は暫く黙って瑠璃を見つめていた。やがて、静かに口を開いた。


「瑠璃。あなたは、桃簾に何を求めているのですか」


「……え?」


「あなたは、何をすれば桃簾が満足すると思っているのですか」


 瑠璃は答えられなかった。


 考えたことがないわけではない。寧ろ、ずっと考えてきた。


 礼儀正しく振る舞えば。勉学に励めば。家の務めを完璧にこなせば。翡翠に優しく接し、桃簾の意向に逆らわなければ。


 いつか、母は自分を認めてくれるのではないか。いつか、母と呼んだときに、心から笑ってくれるのではないか。


 けれど、どれだけ考えても、その答えを見つけることは出来なかった。


「……わたくしにも、判りません」


 瑠璃は、掠れた声で答えた。


「何をすればよいのか、ずっと考えてまいりました。でも、何をしても……」


 そこで言葉が途切れた。


 声に出せば、認めることになってしまう。自分が、母に愛されていないということを。


 祖母は、そんな瑠璃を急かさなかった。


「何をしても、桃簾の態度は変わらなかったのですね」


 瑠璃は小さく頷いた。


「……はい」


「それなら、もう一つ考えてみなさい」


 祖母は、茶碗を置いた。


「桃簾に愛されない理由は、本当にあなたにあるのでしょうか」


 瑠璃は息を呑んだ。


「あなたは、いつも自分が至らないからだと考えているようですね。けれど、人の心は、相手が努力すれば必ず変わるものではありません」


「ですが……」


「あなたがどれほど立派な娘になったとしても、桃簾自身に人を正しく愛する気持ちがなければ、あなたの望む答えは返ってこないのです」


 祖母の言葉は、厳しかった。けれど、それは瑠璃を傷つけるための言葉ではなかった。


「人に好かれないことと、その人に価値がないことは、全く別の話です」


 瑠璃の指先が震えた。


 そんなふうに言われたことは、一度もなかった。桃簾の機嫌が悪ければ、自分が何かを間違えたのだと思った。桃簾が翡翠を可愛がれば、自分には足りないものがあるのだと思った。自分がもっとよい娘になれば、いつかは愛されるのだと信じていた。


 けれど。もし、そうではなかったとしたら。もし、自分がどれほど努力しても、桃簾が自分を愛さない理由は、瑠璃の中にはなかったのだとしたら。


「……お祖母様」


 瑠璃は、震える唇を開いた。


「わたくしは……本当に、悪くなかったのでしょうか」


 祖母は迷わず答えた。


「ええ。少なくとも、あなたが愛されるために、自分を磨り減らす必要などなかったのです」


 瑠璃の目から、涙が一粒零れた。慌てて拭おうとした手を、祖母がそっと押さえる。


「泣いてもよいのですよ」


「……申し訳、ございません」


「何故謝るのです」


 祖母は、困ったように笑った。


「悲しいときに泣くことまで、誰かに許しを求める必要はありません」


 その言葉を聞いた瞬間、瑠璃は顔を伏せた。


 ぽたり、ぽたりと涙が落ちる。何が悲しいのか、自分でもよく判らなかった。今までの自分が哀れだったのか。もっと早く、この言葉を聞きたかったのか。それとも、漸く誰かが自分の気持ちを解ってくれたことが、嬉しかったのか。


 きっと、その全てだった。


 祖母は何も言わず、瑠璃の背を静かに撫でてくれた。








「瑠璃。あなたのお母様のことを、話してもよいですか」


 暫くして、涙が落ち着いたころ。祖母は、ふとそう尋ねた。


 瑠璃は顔を上げた。


「……実のお母様のことでしょうか」


「ええ」


 祖母は、懐かしむように目を細めた。


「あなたは、あの子のことを殆ど覚えていないでしょうね」


「はい。お母様のお顔も、声も……残念ながら、何も覚えておりません」


 瑠璃が生まれて一年。それが、実母と過ごした時間の全てだった。母が亡くなったことも、当時の瑠璃には理解できなかった。


 物心ついたころには桃簾が母親として側にいたため、瑠璃は長い間、桃簾が自分を産んだ母だと思っていたのだ。


「あなたのお母様は、穏やかで、心の優しい人でした」


 祖母は、ゆっくりと言葉を選んだ。


「決して気弱な人ではありませんでしたよ。言うべきことはきちんと言う方でしたし、天青のことも、天藍やあなたのことも、とても大切にしていました」


「……そう、なのですね」


「ええ。あなたが生まれたときなど、それはもう喜んでおりました」


 祖母の表情が、少し和らいだ。


「あなたを抱いているときのあの子は、本当に幸せそうでした。黒檀の髪を見ては、自分に似ていると笑っていましたよ」


 瑠璃は、思わず自分の髪に触れた。毎日のように手入れをしてきた髪。桃簾に嫌われる理由の一つだと、ずっと思っていた髪。


 それが、実母から受け継いだものだということは知っていた。けれど、母がそれを喜んでいたと聞くのは初めてだった。


「わたくしの髪を……喜んでくださっていたのですか」


「勿論です」


 祖母は、はっきりと頷いた。


「あなたの髪は、あの子から受け継いだものです。大切にしなさい。誰かが嫌うからといって、あなたまで嫌う必要はありません」


 瑠璃は、長い黒檀の髪をそっと撫でた。


 その髪を見て、桃簾は亡き前妻を思い出すのだという。けれど、それは桃簾の事情でしかない。瑠璃の髪が悪いわけではない。瑠璃が生まれてきたことが、誰かの罪であるはずもない。


「……お母様は、わたくしのことを愛してくださっていたのですね」


「ええ。間違いなく」


 祖母は、瑠璃の手を取った。


「あなたは、生まれたときから愛されていたのですよ。たとえ、その愛を覚えていなくても」


 瑠璃は、再び涙を零した。


 今度の涙は、先ほどとは少し違っていた。失ったものを悲しむだけの涙ではなかった。自分が知らなかっただけで、かつて確かに自分を愛してくれた人がいた。そう知ることが出来たのだ。


 瑠璃は、母の顔を知らない。声も、仕草も、何一つ覚えていない。それでも、自分が母に愛されていたことだけは、信じてもよいのかもしれない。


「お祖母様。わたくし……お母様のことを、もっと知りたいです」


「そう言ってくれて、嬉しいですよ」


 祖母は目を細めた。


「あなたが望むなら、残された品々も見せてあげましょう。あの子が使っていたものや、あなたが幼いころに着ていた衣も、まだ大切に保管してあります」


「ありがとうございます」


 瑠璃は深く頭を下げた。


 胸の中に、長い間知らなかった温かさが広がっていく。


 そのときだった。


「母上。瑠璃はここにいるのか」


 茶室の外から、天青の声がした。


「ええ。入りなさい」


 襖が開き、天青が姿を現した。


 父は瑠璃の目元が赤いことに気づくと、僅かに足を止めた。


「……泣いていたのか」


「はい。でも、もう大丈夫です」


 瑠璃が答えると、天青は何かを言いかけ、結局、口を閉じた。


 彼は、娘の前に座った。


「瑠璃。少し、私からも話がある」


「はい、お父様」


 天青は、膝の上で手を組んだ。


 当主として、父として、様々な場面で決断を下してきた男だった。けれど、今は言葉を選ぶことに苦心しているようだった。


「お前には、謝らなければならない」


 瑠璃は驚いて顔を上げた。


「お父様が、わたくしに、ですか?」


「ああ」


 天青は、まっすぐに娘を見つめた。


「私は、お前が桃簾に冷たく扱われていることを、知らなかったわけではない」


 瑠璃の指先が止まった。


「……ご存じだったのですか」


「全てを把握していたとは言えない。だが、桃簾がお前に厳しく当たることも、翡翠を甘やかすことも、気づいていた」


 天青は目を伏せた。


「それでも私は、家庭内のことだと考え、必要以上に口を出さないようにしていた。お前ならば、自分の務めを果たせるだろうと……勝手に思っていたのだ」


「お父様……」


「お前がしっかりしていることに、甘えていたのだろうな」


 天青の声は、苦かった。


「お前はいつも、私の前では平静を保っていた。だから私は、お前がそれほど傷ついているとは、きちんと考えようとしなかった」


 瑠璃は、何も言えなかった。


 父に心配をかけたくなかった。天河宮家の長女として、情けない姿を見せたくなかった。それも事実だった。


 けれど、父が気づいてくれたなら。父が助けてくれたなら。何かが変わっていたのではないか。そんな思いが、胸の奥に浮かんだ。


 天青は、瑠璃の表情から目を逸らさなかった。


「済まなかった、瑠璃。私は、お前を守るべきだった」


 その言葉を聞いた瞬間、瑠璃はまた泣きそうになった。


 母には愛されなかった。けれど、父は今、確かに自分の気持ちを見ようとしてくれている。


 遅すぎたのかもしれない。これまでの傷が、すぐに癒えるわけでもない。


 それでも。


「……お父様。わたくし、まだ少し、悲しいのです」


 瑠璃は、正直に言った。


「お母様に愛されたいと、ずっと思っておりました。わたくしがもっとよい娘になれば、いつかは……と」


 天青は、黙って聞いていた。


「けれど、何をしても駄目でした。何がいけないのか、わたくしには判らなくて……」


 声が震える。


「わたくしは、そんなに悪い娘だったのでしょうか」


「違う」


 天青は即座に答えた。


「お前は悪くない」


 瑠璃の目から、涙が零れた。


「桃簾がどのような思いを抱いていようと、お前の価値とは何の関係もない。お前は、お前自身のままでよいのだ」


 天青は、少し迷ってから、瑠璃の肩に手を置いた。


「今まで、よく耐えたな」


 瑠璃は、とうとう顔を覆った。


 父の前で泣くのは、いつ以来だろう。幼いころのことは、もう思い出せない。けれど、少なくとも、桃簾が継母だと知ってからは、泣き顔を見せないようにしてきた。


 泣けば、桃簾を困らせる。泣けば、わがままだと思われる。泣けば、余計に嫌われる。そう考えていたからだ。


 しかし今、父は泣く瑠璃を責めなかった。ただ、側にいてくれた。


「……ありがとうございます、お父様」


 涙を拭いながら、瑠璃は言った。


「わたくし、少しずつ、考えてみます。これから自分がどうしたいのか」


「ああ。急ぐ必要はない」


 天青は頷いた。


「お前が望むことを、聞かせてほしい。今度こそ、きちんと耳を傾ける」


 瑠璃は、静かに頷いた。


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