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お母様、いい加減にしてくださいませ  作者: 章槻雅希


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第一話 お母様、いい加減にしてくださいませ

「お母様、いい加減にしてくださいませ」


 その言葉が天河宮(てんがのみや)邸の広間に落ちた瞬間、居合わせた者たちの動きが止まった。客人に茶を勧めていた侍女が、盆を手にしたまま息を呑む。壁際に控えていた家人たちは一様に顔を伏せ、誰もが聞かなかったふりをしようとしていた。


 天河宮家の長女、瑠璃が継母に向かって声を荒らげることなど、誰も想像していなかったのである。


 瑠璃は、18歳。黒檀の髪を背の中ほどまで伸ばし、薄鈍(うすにび)の瞳を持つ。すっと通った鼻筋も、形のよい唇も、涼やかな目元も、父である天河宮当主・天青(てんせい)によく似ていた。兄の天藍(てんらん)とも顔立ちがよく似ている。


 天河宮家の血筋を示す色彩を持ち、幼いころから宮家の長女として厳しい教育を受けてきた瑠璃は、礼儀作法にも教養にも抜かりがなかった。その瑠璃が、今、継母である桃簾(とうれん)を真っすぐに見据えている。


「……瑠璃。今、何と言いました?」


 桃簾の声は、低く冷たかった。


 薄紅の髪を結い上げ、贅を尽くした衣を纏った彼女は、42歳になった今も、人目を惹く美貌を保っていた。常盤色の瞳は大きく、整った顔立ちには華やかな愛嬌がある。その美貌を、桃簾はよく心得ていた。美しさがあれば、人は自分に優しくする。


 父帝は、幼いころからそうだった。何かを強請(ねだ)れば与えられ、失敗をしても許された。年ごろになってから男遊びに興じても、多少の問題を起こしても、父帝に愛されている自分が深刻な罰を受けることはなかった。


 桃簾にとって、望みが叶わないことのほうが珍しかったのである。だからこそ、瑠璃が自分に逆らうなど、あってはならないことだった。


「お母様。わたくしは、翡翠に客人の前での振る舞いを改めるよう申し上げただけです。それなのに、何故わたくしが叱責されなければならないのでしょうか」


「あなたの言い方が厳しいからです」


 桃簾は即座に答えた。


「翡翠はまだ14歳なのですよ。少しくらい失敗したからといって、姉であるあなたがそこまで責める必要がどこにあります」


「責めているのではございません。宮家の娘として必要なことを教えているのです」


「まあ。相変わらず、何でも規則、規則と……」


 桃簾はわざとらしく溜息をついた。


 その隣で、翡翠が不満げに唇を尖らせている。灰桜(はいざくら)の髪に、木賊(とくさ)色の瞳。桃簾によく似た顔立ちをした少女は、母親の後ろ盾を疑ったことすらない。自分が何をしても、母が庇ってくれる。それが翡翠にとって当たり前の日常だった。


「お姉様は、わたくしに恥を掻かせたいのですわ」


 翡翠は母の袖を摘まんだ。


「皆の前で、あんなに厳しいことを仰って……。わたくし、もう何も申し上げられません」


「可哀想に。あなたは何も悪くないのにねえ」


 桃簾は翡翠の肩を抱き寄せ、瑠璃を睨んだ。


「あなたは姉なのでしょう。妹が恥を掻かないよう、うまく取り計らうのが務めではありませんか」


 瑠璃は、ゆっくりと息を吸った。


 まただ。いつも、こうだった。


 翡翠が失敗すれば、瑠璃の教え方が悪い。翡翠が礼儀を欠けば、瑠璃が厳しすぎる。翡翠が自分の務めを怠れば、姉である瑠璃が代わりに責任を負う。


 そして、桃簾は決して翡翠を叱らない。それどころか、翡翠が傷ついたと訴えれば、何があったのか確かめもせず、瑠璃を責めるのだった。


「瑠璃」


 桃簾が、ふいに瑠璃の髪を見た。その目に、あからさまな嫌悪が浮かぶ。


「あなたのその髪も、どうにかなりませんか。見るたびに、あの人を思い出します」


 瑠璃は黙っていた。


「あの嫌味な姑にそっくりなところまで、本当によく似ているのですから。顔を見るだけで気が滅入ります」


 瑠璃は、目を伏せなかった。


 黒檀の髪。それは、亡き実母から受け継いだものだった。瑠璃に母の記憶は殆どない。物心ついたころには、既に桃簾が母として側にいたからだ。だから幼い瑠璃は、桃簾が自分の実母だと信じていた。


 母が笑ってくれないのは、自分が至らないから。母が妹ばかり可愛がるのは、自分がよい娘ではないから。


 そう思い、礼儀を覚え、勉学に励み、失敗をしないように努めてきた。それでも、桃簾は瑠璃を認めなかった。


 十六歳で成人した折、瑠璃は初めて、桃簾が実母ではなく継母であることを知らされた。衝撃は大きかった。けれど、その事実を知ったからといって、長年抱いてきた願いが消えるわけではなかった。


 血が繋がっていなくても、育ててくれた母に愛されたい。いつか、翡翠と同じように笑いかけてほしい。そんな願いを、瑠璃は捨てきれずにいた。


 だから、今まで我慢してきた。母の機嫌を損ねないように。妹と争わないように。天河宮家の長女として、恥ずかしくないように。


 けれど。


「……お母様」


 瑠璃は、静かに口を開いた。


「わたくしは、翡翠に必要な作法を教えました。翡翠がそれを守るかどうかは、翡翠自身の責任です」


「何ですって?」


「妹が失敗するたびに、わたくしが代わりに責められるのは、もう十分でございます」


 桃簾の顔が、見る間に険しくなった。


「あなたは姉でしょう!」


「ええ。ですから、姉として教えるべきことは教えております」


 瑠璃は、一歩も引かなかった。


「ですが、妹の行いを全てわたくしの責任にするのは、おやめくださいませ」


「まあ……!」


 桃簾は、信じられないものを見るように瑠璃を見つめた。


「育ててやった恩も忘れて、母親に向かって何という口を利くのです!」


 その言葉に、瑠璃の胸が痛んだ。


 育ててやった。


 その一言で、今までの年月を全て恩に着せられる。実際に瑠璃の世話をしたのは乳母や侍女であり、教育を与えてくれたのは祖母だ。桃簾は瑠璃の養育には一切関わっていない。それなのに恩を着せようとする浅ましさに瑠璃は継母への情が薄くなっていくのを感じた。


 だから、瑠璃はもう、何も言わずに俯くことはしなかった。


「育てていただいたことには、感謝しております」


 瑠璃は答えた。


「ですが、感謝しているからといって、何をされても黙っていなければならないわけではございません」


 広間の空気が凍りついた。そのとき、奥の廊下から足音が響いた。


「何の騒ぎだ」


 現れたのは、天青だった。


 黒紅の髪に、薄鈍の瞳。すらりとした体躯に、威厳のある顔立ちをした天河宮家の当主である。


 その後ろには、兄の天藍もいた。


「旦那様!」


 桃簾は、すぐさま天青に向き直った。


「聞いてくださいませ。瑠璃が、母親であるわたくしに向かって、酷い口を利いたのです!」


 天青は桃簾を見た後、瑠璃に目を向けた。


「何があった」


 瑠璃が答える前に、桃簾が口を挟む。


「翡翠に少し注意をしただけなのに、瑠璃が大げさに騒ぎ立てて……」


「お母様は、わたくしに翡翠の代わりに謝罪するようお求めになりました」


 瑠璃は、淡々と告げた。


「翡翠が客人の前で礼儀を欠いたため、わたくしは必要な注意をいたしました。しかし、お母様は翡翠をお叱りになることなく、わたくしだけを責められたのです」


 天青の眉が寄った。天藍も、翡翠へ視線を向ける。


「翡翠。お前は客人の前で何をした」


「……わたくしは、別に何も」


「何もしていないのなら、何故瑠璃が注意したのだ」


「お兄様まで、わたくしを責めるのですか!」


 翡翠は声を高くした。天藍は、呆れたように息を吐く。


「責めているのではない。何があったか聞いているだけだ」


「もうよいでしょう!」


 桃簾が割って入った。


「子どもの失敗を、いつまで責めるおつもりなのですか。翡翠はまだ14歳なのですよ」


「14歳なら、礼儀を修めているには十分な年齢だ」


 天青の声は静かだったが、厳しかった。


「そして、瑠璃だけに責任を負わせる理由もない」


「旦那様……!」


 桃簾は言葉を詰まらせた。


 天青は、瑠璃に視線を戻した。


「瑠璃。お前はもう下がってよい」


「……畏まりました」


 瑠璃は一礼した。


 そのまま広間を出ようとしたとき、背後から桃簾の声が飛んできた。


「覚えていなさい、瑠璃。母親に逆らったことを、後悔させてあげますからね」


 瑠璃は、足を止めなかった。


 今までなら、きっと振り返っていた。謝れば許してもらえるだろうか。どう言えば、母の機嫌が直るだろうか。そんなことばかり考えていた。


 けれど、もう疲れてしまった。母に愛されたいと願い続けることに。母の言葉を、自分の価値そのものだと思い込むことに。


 瑠璃は静かに廊下を歩き、自分の部屋へ戻った。


 鏡の前に座ると、黒檀の髪が肩から滑り落ちた。桃簾は、この髪が嫌いなのだという。見るたびに亡き前妻を思い出すから。姑に似ていると思い込んでいるから。


 けれど、この髪は瑠璃が選んだものではない。薄鈍の瞳も、顔立ちも、生まれ持ったものだ。それを理由に嫌われても、瑠璃にはどうすることも出来ない。


 ならば。


「……もう、よいのかもしれませんね」


 瑠璃は、小さく呟いた。


 母に愛されるために、これ以上自分を責める必要などないのかもしれない。そう思った途端、胸の奥が痛んだ。それでも、涙は零れなかった。


 まだ、悲しみが消えたわけではない。母に愛されたかった気持ちは、今も残っている。ただ、その願いを叶えるために、自分を犠牲にすることだけは、もうやめよう。


 瑠璃は鏡の中の自分を見つめた。薄鈍の瞳に映る顔は、父によく似ていた。そして、もう一人。瑠璃が物心つく前に亡くなった、実母の面影を宿しているのだろう。


 瑠璃はまだ、母のことを何も知らない。自分が何故この髪を受け継いだのかも、母がどのような人だったのかも。


 けれど、いつか知りたいと思った。桃簾が嫌うからではなく、自分自身のために。


 母のことを知りたい。自分が生まれた家族のことを知りたい。そして、これからどう生きていくのか、自分で考えたい。


 その思いは、まだ小さなものだった。けれど、瑠璃にとっては確かな一歩だった。


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