夢を見る少女 三
ベアトリーゼは連日視線を感じていた。視線は日を増すごとに強くなり、そして彼女の息苦しさも日増しに高まっていった。
夕食の際、内心食事が喉に詰まりそうに不安で堪らなかったが、平静を装いつつ何度も盗み見るように彼女を見た。しかしやはり彼女は変わらず黙々と食事を続けている。気のせいだろうか?それならばいい、そう思い込みたかったが、衛士長のでかくかわいそうな程に真剣な表情と言葉が頭に反芻する。
「ネイ様は恐ろしいくらいに勘が鋭い。」「隠し事はするな。」
もしや、彼女は気付いたのだろうか。考えただけでも恐ろしい。
誰かに相談したいと思った。教会に行けるのであれば懺悔しに行きたいくらいだ。エリザとかいう娘でも良かった。若く学生とは言え神に仕える身。何より彼女も女性だ。
なのに、今話せる相手と言えばネイ様以外にはこんな奴しかいない。ネイと同じように黙々と、なのにどこまでも無作法に食事を続けるイサイを見る。
絶対にイヤだ。ただでさえこいつには恥をかかされているというのに。しかし考えようによっては、そうだ、奴はあのことを知っている。唯一と言ってもいい程の存在だ。
ベアトリーゼは決心した。
彼女はネイの目を盗むようにして食事の後イサイを部屋に連れ込み会話を試みた。
「相談がある。妙なことを聞くようだがお前は、なんだ、ネイ様の、視線を感じたことはあるか?」
意外にもこの幾らかマシになったとはいえ無愛想な少年は眼の色を変えて考え込む仕草を見せた。
「なぜそんなことを聞く。」
「感じるんだ。さっきの食事の時だってネイ様の・・・情けないのは重々承知だ。でも、ネイ様はその、陛下のこととなると見境いがないから・・・恐ろしいんだ。」
イサイは彼女の発言に連日の夢を咄嗟に思い浮かべていたが、彼女の話はどうもそれとは関係性のないことに思えた。そして彼女がなにを話しているのか考えた。考えた末、ある記憶と結びつく。
「お前、女だろ。」
「なんだと貴様、何が言いたい。」
「馬鹿かお前は。」
イサイはそれだけ言うと部屋を出て行った。生意気な年下の、しかも少年に言われたことが飲み込めずベアトリーゼは目を丸くしたまま動けずにその背を見送った。
割り当てられた自身の部屋でイサイは今朝の夢を思う。確かに見えた金色の瞳。金瞳などあの女以外に見たこともない、はず。そして自身の夢なのに、誰かに支配されているかのような感覚。あれは悪夢などとも違う。あの金瞳。あれに、連日様々な見覚えのある景色を見せられていたのだ。今日もあの女は来るのだろうか。でも一体どうやって?あの女はなんだ?あの女は夢の中で自身になにかをしようとしていた。洞窟で。でも一体なにを?
いつの間にか心臓は激しい高鳴りを起こしていた。呼吸が上がって手足が痺れ、視界が冷たい汗の中に沈む。
恐ろしいんだ。思い出すことが。もう忘れていることなんてない、そんなことはあり得ない。あの夢を思う度頭上になにか大きな物を感じる。それが自身を押し込めているような。それが浮いて開いてしまった時、きっと思い出す。
恐怖に震える体をイサイは抱く。一体なにが、こんなに恐ろしいのだろうか。
「お友達が家に遊びに来るって私あんまり経験が無くて。楽しみですけど変な感じがします。」
「そういえば俺も・・・」
言いかけてやめた。当たり前だ。あれから一度もそんなことをすることはなかった。一体自分は彼女になにを話そうとしてるのか。傷を舐めて欲しいとでも感じているのだろうか。また昔の話を彼女にしそうになるなんて。任務中だというのに気が緩んでいるのだろうか。
エリザを見る。彼女は言いかけてやめたユーリの言葉を待つようにこちらを見ていた。
「ごめんなんでもないよ。」
ユーリは笑って誤魔化す。道中馬車の中、複雑な気持ちが憂鬱にも変わってしまいそうな気配を見せていたが、彼女と会話していると不思議とそんな感情が消えてしまうように思える。
「そう言えばエリザの村には旅籠とかある?一泊してから戻りたいんだけど。」
「それなら私の家に泊まっていってください。」
「でも寝る場所ないんじゃない?それに少し任務で外も出ないといけないしエリザの家族の人起こしちゃうよ。」
「それなら大丈夫です。余っているお部屋がありますし総統様のお館で先にお手紙も書きましたから。」
ああそうなんだ、言ってなぜ部屋が余っているのか、なにを書いたのかも特に気にすることもなくユーリは何気なく彼女の提案を了承した。
まずはエリザの生家の大きさに驚いた。ユーリの経験則からして村といえば彼が育った村の大きさが基準であったし、その村にある家が基準だった。その中の家で部屋が余るなんてことは普通あり得ない。自分の家だって親達と子達で分かれて寝る程度に部屋が区切られている程度に過ぎなかった。ただ彼の住んでいた村は田舎であったから、都会に近い村であるならば部屋が余ることもあるのだろうか、程度に考えていたのだ。村長どころか粉挽き所を持っていた友達の家よりも、いや彼女の家はそれらの比較の対象にすらならない。
誰も遊びに来れないのは当然だ。家は鉄柵で囲まれ小規模ながらも庭園があり、庭園の奥に見える玄関の扉は見上げる高さで、とても気軽に遊びに行ける家ではない。
「ほんとにここに入るの?」
心の準備が全く出来ておらずユーリは尻込んだ。エリザはその言葉の意味が理解できないようで首を傾げた。
次に感じたのは焦りだった。なぜか恐ろしいほどの歓待を受けてしまっている。さすがにそれについてはエリザも戸惑う様子を見せていた。エリザが帰郷するのはニ年に一度、次に帰ってくるのは一年以上先のことだった。それについて家族が喜ぶのは分かる。だがなにか雰囲気が違った。彼女の父はやけにユーリが近衛軍の士官であることを喜んだ。自分はただ素性を明かすことで行動しやすくしようと考えたに過ぎなかったのに。
「エリザ、ご両親になにか言ったの?」
「えっ?ユーリさんが遊びに来るかもしれないからその時は泊めて欲しいってお手紙には書きましたけど・・・」
ユーリは考えた。親からすれば家に滅多に友人を連れて来ることもなかった娘が、ある日突然男を伴い帰郷し、更には家に泊めて欲しいと願う。ただ歳の近い軍人が危険な道中同行しただけなのであればこのような雰囲気にはならなかったはず。この雰囲気はそうだ。ただ友人の家に招かれたような空気ではない。男が両親に挨拶に訪れ、それを歓迎するといった態度だ。ならば早いうちに誤解を解かなければいけない。
「あの決してエリザ、さんとはそのような関係では・・・」
野暮なことを言う。彼は幼くして家族を失い、だからそのことには触れずに家族皆で歓待して欲しいと手紙には書いてあった。彼はきっと両親を早くに亡くしてしまったせいで女性の父親というものに対し接し方を教えてもらえなかったのだろう。クノーペンは思った。なんと不憫で、真っ直ぐな少年なのだろうか。
「分かっている。しかしユーリ君、父親の前でそのような話をする必要はない。これは間違っても修道女だからな。決して間違いなど犯すはずがないだろう。」
笑うクノーペンを前にユーリは顔を赤くしてエリザを見る。エリザは今の父親の発言を不審がりながらも事態を飲み込めていないようだった。ユーリはひとまず息をつく。
「お父さん?何言ってるのさっきから。」
ユーリを困らせているということだけ理解した彼女は文句を言ったが、なにを言っても彼には通用しなかった。
クノーペンにとって近衛軍と繋がりを持てるというのは非常に喜ばしいことであった。エリザを修道学校に入れたのもただ彼女が望んだからという理由だけではない。熱心な宗教家達、メンフ派被れの原理主義者達から家と財産を守る為に入れたのだ。
彼女の父クノーペンは学者であると同時に資本家だった。この国では珍しくなりつつある大農場経営者であり、この村全体で耕す土地の三分の一程は彼の土地であった。原理主義者達に目を付けられぬよう教会の改修資金の大部分を供出し、時にやりたくもない神学と科学の融合性を説く学説を発表し、更には娘までも教会にやったのだ。ある意味数年で教会から解放される修道学校に行きたいと娘が言い出したのは親として救いですらあったのだ。
それが更に女王の私軍たる近衛軍の士官まで連れて来るとは。ハタウではタルクザレと全く違い資本家の農場経営を推奨している。今は無理であろうが、将来いざとなれば彼を通じてなにか手を打てるかもしれない。
ユーリは任務があると半ば強引にレーマン邸を後にした。今夜泊めてもらうことになっているが、まずい約束をしてしまったものだ。自身の軽率さが恨めしい。
この村は山奥にありながら豊かな村であるようだった。北方の国境沿いにあるこの村は国境前線に築城された要塞への兵站基地としての役割も担っており、その業務の他に山地を利用した林業と国境の外の平地から吹く風を受けた風力を利用した製材業も発達し首都の陰鬱さが嘘のように活気があった。
エリザの家もさるながら教会も酷く立派で、整備された道沿いには二階建ての淡い橙の漆喰で壁を塗り固めた家が立ち並ぶ。かつてあったユーリの育った故郷に重ねる影はどこにもなかった。
なにをこんな時に考えてるんだ、俺。
姿形は全く違ったが、家族というものに触れた。エリザを羨ましく感じているのだろうか。
ユーリは首を振った。先程彼女の家で感じた焦りはなにも勘違いされたことによる焦りだけではない。そうだ。自分は軍人として歩き出してからまだなにもそれらしいことを行っていない。場違いで目的を見失いそうになるこの任務でもいい。なにかに打ち込まないと、自分まで見失ってしまう。
ユーリは村を歩きながら厩を探し、見付けた厩には二人の若者がいた。ユーリよりは年齢が上だろう。彼らはそれぞれダカルとワディムと名乗った。ダカルは滅多に見ることのない青い近衛衛士の軍服を見て距離を置いたが、ワディムは物珍しさから積極的に話をしたがった。
村は人口三百人程であり、その規模からしてユーリの住んでいた村とは規模が全く違った。村は家屋自体が村を守る防壁であるかのように円形に建設され、村の中心を通る街道を封鎖さえすれば村は即席の要塞になるよう設計されていた。街道に垂直に交わるように敷かれた村道の終端にも目の引く建屋があり、ワディムに聞いたところ東側の大きな家屋が村の議会所兼村長宅、西側の無骨で妙に頑丈に作られている建屋が武器庫であるそうだった。それは有事の際村人が即座に武装し国境沿いの要塞に立てこもる為のものであり、女王の採った連邦の防衛戦略の一環だった。
「ここの村の生活はどう?首都から来たんだけどあっちは酷いね。」
「ああ確かにあっちは酷いもんだな。この村はご覧の通りさ。いい生活してるよ。」
「どうせここらまで来たから周辺を回ってみたいんだけど他に集落とかってある?」
そうだな、と口を開きそうになったワディムに気付いてダカルは声をあげた。
「おいワディム。衛士さん、ここらに集落は他にない。行くなら国境沿いに行けば景色が綺麗だから行くならそっちの方がきっと楽しめる。」
国境沿いかありがとう、ユーリと名乗った衛士はそう言うと馬に跨がり去って行った。
「なんであんな嘘を教えるんだ?」
脳天気に聞いてくるワディムに対しダカルは思わず嘆息を吐いた。
「お前はいいよな。気楽そうで。」
「お、なんだ?喧嘩か?喧嘩するのか?」
「あのな、あの軍人が着てた軍服分かるか?」
「んー、衛士つってたなぁ。」
「ありゃ近衛だ。つまりはよそ者だ。」
「よそ者だからどうだってんだ。」
「ほんとに分からないか?よそ者になにか話して・・・もういいや。後は勝手に考えろよ。」
ユーリは国境には向かわず反対の街道に向かった。行き掛けに見掛けた数軒家が連なるだけの集落を幾つか尋ねるが、厩の若者のように誰も他の集落のことを話さなかった。ユーリは街道を離れ農道の道沿いを行く。無いと言われたはずのみすぼらしい小屋を見掛け始めると、集落の住民らのどこか暗い表情と妙に口を閉ざそうとする彼らの態度を思い浮かべ嫌な予感が高まっていった。
一つの集落に辿り着いた。他の集落と違い井戸すらないボロ小屋が三軒集まっただけの集落。家畜の喧騒もなく、周辺に広がる小さな畑は荒れて雑草が生い茂り、その集落に入る前から異様な光景に見えた。
馬を降りて戸を叩くが返事は無く、中を覗いてもやはり誰もいない。更に屋内は荒されていた。どの家も野盗でも入ったかのように荒れ果てていた。
広場と呼ぶのも悲しい小さな広場で三軒の家を眺めた。ふと足元に転がる薪の焦げ滓に気付く。焦げ滓を目で追っていくと三軒の家で一度に消費するにはあり得ない程の焦げ滓が積まれた物を目にする。
近付くと彼の幼い記憶に忘れようもなく残るあの臭いが微かに鼻をつき、予感が確信に変わる中で焦げ滓の一片に触れ、手に付いた煤を指で擦り嗅ぐ。ユーリは顔を背けた。
背筋がゾワついて思わず周囲を見渡す。シンと静まり返ったボロ小屋から誰もいないはずなのに誰かがずっとこちらを見ているような気がした。
夜遅くまでユーリは馬を走らせた。あのような集落はあそこだけではなかった。
クノーペン邸に戻り、わざわざ起きて待っていた彼女の両親に断りをいれすぐに寝室に案内してもらうことにした。青い顔をしている彼に対し夫妻はさすがに引き止めなかった。
どうしようもなく気分が悪い。どういうことだ。わざわざ人の手で、人を焼いたのか?指に残る煤を見る。忘れようのない強烈に蘇る人の、皮膚が、体毛が、脂が焼ける臭い。馬鹿な、そんなことが。
ユーリの報告を聞いたネイは顔を険しくさせた。しかし彼の話だけでは証拠が薄い。せめて証人か、ネイ自ら確信を持てる状況を目にすれば違うのだが。
「おい、ネイ。」
場が凍りつく。声をかけなければ口を開かないイサイが、よりによってネイにまであの態度で話しかけたのだ。ネイはゆっくりとイサイを向いた。そしてやけに静かな声で、なんだ、言ってみろ、そう返事をする。
「証拠を見付けたいのなら簡単だ。奴らが宗教裁判を行うのなら形式上でも必ず証拠を用意する。その場合証拠などなんでもいい。」
「言葉を選び、もっと、簡潔に言え。」
ベアトリーゼとユーリの二人は固唾を飲んで二人の会話を見守った。ネイが重ねた言葉にもイサイは表情すら変えず淡々と言葉を続けた。
「身に付ける装飾品は必ず聖具を象ったものでないといけない。ハタウでは違うようだがシルブハスではそうだった。だがこの国は恐らく同じだ。ガーダマという男もあのような剣を提げていた。あれは装飾品としての意味があるからだ。ユーリの言う家が荒されていたというのはそうではない装飾品を探していたんだろう。だが家を荒らしても何も出てこなかった場合、奴らは違う証拠を見付けようとする。少し手間はかかるが中にはそちらを好む人種も多い。」
簡潔に言えという言葉にはそぐわなかったが、ネイはそこまで言われると気付いたようだった。
「ふん、あのままの解答だなお前は。ゲスが。だがその通りだ。」
そこで初めてイサイの表情が変化した。あの顔はまずい、ユーリは咄嗟に思ったが、しかし彼は彼女の瞳を見続けるだけでなにも言い返さなかった。
「だがそれがどこにあるかだ。貴様にはそれも分かっているというのか?」
「市内を周った日、酒に酔った男を教会に連れていくと言いながら奴らは反対へと向かった。」
彼は断言した。
「市内の塔だ。」
女王がネイをわざわざ危険な目に晒すはずもなく、いくら小規模かつ経験浅い者を多く含む一行とはいえネイ達の動きによってはカスペリも勘付くだろう。ネイがカスペリの行っている蛮行に気付いた時、カスペリの地位は失われる。カスペリのどのような悪あがきがあるとも分からない。証拠を抑えた後は速やかにタルクザレから撤収する。
作戦が決まりそれぞれが部屋に戻る時間。ベアトリーゼは先程の二人の会話を思い出していた。
奴が陛下に対し不遜な口を利いていたのは陛下がお優しいからつけあがっているのだ、そうとばかり彼女は思っていたがどうやらそうではなく、彼は誰にでもあのような口を利くのだ。あの衛士長ですら一見野の花のような少女としか言いようのない彼女の氷のような視線に胃を痛めるというのに。
しかしさすがネイ様。議会では装甲を着けた拳で殴るなどという恐ろしいことをしてみせ、今回は装甲がない拳であったから斬りかかりでもするのはないだろうかと思ったが、恐ろしいほどの冷静さだった。
自分の考えたことに思わずベアトリーゼは含み笑いする。
「ベア。」
ベアトリーゼは硬直する。彼女の背後からネイが声を掛けた。
振り返るべきだろうか。しかし衛士長の言葉が頭に浮かぶ。ダメだ、今の自分の表情は絶対にダメだ。きっとこの動揺の意味を見抜かれる。固まる彼女をよそに、ネイの近付く足音が聞こえた。
そのままでいい、互いの体温を感じ取れるほどに真後ろにいるのにそう言う彼女の意図が理解できず、ベアトリーゼは汗を感じながら緊張から拳を握った。
「お前の、後ろ姿。どこかアイシャ様に似てるな。」
確かに自分は背丈だけは陛下に似てるが似ても似つかない、そんなことを言うか言わまいかめまぐるしく考えていた時、ネイはベアトリーゼに後ろから抱きついた。驚き声にならない声をあげる彼女を制すように彼女の背に顔をうずめていたネイは言った。
「暫く、このままでいさせろ。」
熱い少女の体温を背に感じ、しかしどうしていいか分からず彼女は完全に冷静さを失う。
「しか、しかし、こんなの、いけま、いけません。」
「何がいけない?ベア、私が何も気付いていないとでも思っていたか?」
思わず彼女は息を詰まらせた。肝が冷えるとはこのことだ。
ネイは唯一貴賓室に滞在していた。部屋は広くベランダがついており、ネイは体を冷ますためにそこで外の空気を吸っていた。ネイは女王と離れて過ごすことに慣れていない。今更この面子を選んだ女王の意図を理解し始めていた。
扉を乱暴に叩く音が聞こえた。女王のことを考えていたネイはその乱暴さに気分を害される。いたのはイサイだった。この面子の意図、ネイは思った。
話がある、奴は言った。しかしこちらにはない。愛想の欠片もないその顔を見るだけで不愉快だ。しかし奴は部屋に押し入った。
「礼儀知らずもここまでくると笑えないぞ、貴様。」
しかし奴は返事もせずじっとこちらを見ていた。いよいよ不愉快になり再度声をあげようとした時、奴が先に声をあげた。お前は女だろ、なぜ女にだきつくのか、と。
「ゲスはどこまでもゲスらしいな。どこから隠れて見ていたのだ。」
お前はなぜ、俺がゲスだということを知っている、明後日を向いた返事をするイサイを見てネイは口を噤んだ。
「お前はあのままと言い俺がゲスだということも知っている。どうやってそれを知った。」
「そんなもの貴様が一番よく分かっているはずだ。」
「お前も分かったはずだ。俺は、そのゲスと呼ばれる仕事をしていた以前を覚えていない。お前は俺が覚えている以上のことを知っているはずだ。何を見た。」
そこまで聞いてネイは彼の発言を理解し、馬鹿にしたように笑った。
「驚いたな。どうやって気付いた?珍しい。」
答えろ、イサイは静かにネイの目を見据えて言う。どこまでも癪に障る奴だ。
「貴様は忘れているのではない。思い出さないだけだ。本当に忘れているのであれば私に見えるわけがない。」
間を空け、そんなことはない、奴は言う。卑怯な輩だ。反吐が出る。
「では、試してみるか?私も貴様の全てを見たわけではない。貴様はいつも何かと抵抗するんでな。」
イサイは怯えた表情を見せた。ネイはそれを見て嗜虐を浮かべて笑う。初めて彼に対し愉快さを覚える。彼女には分かっている。彼にとって思い出さないでいる記憶がどれほどに恐ろしい記憶であるのかということを。夢の中で感じる彼の恐怖を肌で感じている。
一瞬でも女王の心を奪い、なにかと彼を取り込もうとする女王。ネイはイサイに対し殺してやりたいくらいの嫉妬を抱いていた。女王は誰かに手を付けようとも、決して心奪われたりなどしない。女王にとって必要であるならばなにも思わない。しかし奴如きに心奪われる必要性があるなどと、微塵も思わない。似てなどいるものか。
「分かった。俺は、もう逃げない。」
イサイは彼女の部屋でベッドに横たわった。部屋の灯を消し、彼女は彼に跨るように目を覗きこむ。
月だけの薄明り、彼女の瞳は薄っすらとその色に光を放つ。その瞳が大きくなり、小さくなり、視界がその瞳の色に染まって彼女の姿はいつの間にか消えた。目を閉じろ、耳元で聞き覚えのある囁きが響いた。目を閉じる前、瞳は薄っすらと笑みを浮かべているように感じた。
ここはどこだったか。全ては灰色に染まっている。見えていたのはそれだけで、彼女の存在もなにも感じなかった。頬に仄かに暖かい感触と鼻腔をくすぐる香りが残り、目が醒めると彼女は部屋から姿を消していた。
こちらが夢なのだろうか。ネイは馬車の中で普段と変わらず視線すら合わせない。ユーリが緊張した面持ちで時折こちらに視線を送り見ていた。ユーリ。彼を見るとそれだけで酷い既視感を覚え、既視感に世界が押し潰され歪むように感じた。彼に対して幾度も既視感を覚えた。いや、今は違う。なにをしていても既視感を覚える。揺れる馬車、流れる景色、握る手の感触、焦点の合わない視界、呼吸の音。体がここにないかのようにぼやけて感じ、何度も今夢を見ているのではないかと疑った。一向に醒めず、全てがぼやけ色褪せているのに終わらない夢。
夜、作戦通りイサイは一人館を抜け出し夜陰に乗じて塔に忍び入った。
塔は物見台である。しかしその地下は牢となっているのが常であり、地下の牢は魔女や邪教徒である証拠を吐かせる場所でもある。証拠品が出ないのであれば、拷問にかけて自白させさえすればよいのだ。
見張りに立つ看守を幾人も気絶させながら塔を潜った。地下は湿気が酷く嫌な臭いがして、質の良くない灯の油で煤けた壁や床はその明るさ以上に暗さを感じさせる。これは、本当に現実なのだろうか。あの日見た幾度も続く夢のように、なにかがきっかけで醒めるんじゃないだろうか。階下に降りて聞こえ始めた人の呻きが耳に入ろうとも、いやそのようなものが聞こえるからこそ余計に現実は現実感を失っていった。
遠く、断末魔が聞こえる。
少女はイサイに気付くとなぜか手を伸ばした。陵辱の限りを尽くされた彼女の意識は朦朧としている。やはり、きっと夢だと思った。膝を着き、その少女の手を取ろうとしたがその手は繋がることなく朽ちた。既視感が酷く、体が幾つにも分裂したかのようにおぼつかない。その手を取ろうとした時背後で大きな声が聞こえて振り返る。数人の男達が集まり牢の入り口を覆った。彼らの目には見覚えがあり、どこまでもその目が憎く、既視感は激しさを増して彼らの声が回って聞き取れない。彼らの姿までも回って影になり、なのにあの目だけがやけにはっきりと捉えられた。気付けば回る影が襲いかかり、イサイは叫び刀を抜いた。抜いた刀はとんでもない質量で、横に振ると影が一つ真っ二つに割れた。割れた目までもぐるぐる回って、また動き出すのではないかと恐怖に縛られ更に幾つかに割った。回る景色に一つ色がついた。赤色だ。また襲いかかる影を割り、割るごとに世界は赤く赤く染まっていく。後少しで景色を赤く染め上げられるのに、影は逃れるように離れていく。追いかけ、一つだけ割ると世界の全てが赤く染まった。
少女の手を取る。仄かに残る体温。夢の中の暖かさを思い出す。少女の手をそっと頬に触れさせる。崩れるように朽ちた少女の指は、それでもしなやかで、少年の頬に優しく触れた。




