遠い世界
踏みしめる鞴が吹く風を受けて燃え盛る焔から立ち昇る煙。静かに霧を纏う深い森。霞むような青空。
砂の中であえぐような人生の中で、鮮明に色彩を放つ世界がただ一つ。
忘れられない、忘れてはいけないあの季節。春。
もうどんなに求めたとしてもそれを取り戻せることはない。
カグラ様、呼び止められカグラと呼ばれる少女は立ち止まった。振り返ると侍女のマーヤがいる。マーヤは少女の乳母の娘にあたる少女の教育係の一人であり、なにかと小言が多く彼女には辟易としていた。
「なによマーヤ。」
言いたいことは分かっている。市井の娘のような衣服を着る彼女に対し、カグラ様らしくもっとお淑やかに慎み深く、そして市井の穢れと戯れるなんてとんでもありません、そう言うのだろう。案の定彼女はそう言った。少女は溜息をつき思う。マーヤに付き合っていると今日の目的を果たせなくなる。
「今は禊なんて必要ないでしょ。ほっといて。」
そう言うと彼女は逃げるように館から出た。背後でまだ少女の名を呼ぶマーヤの声が聞こえ、門の前に立つ戸惑いがちな表情をした衛兵に目配せして長く苔生した階段を駆け降りていった。
里に降りると彼女を待ち構えていたかのように少年少女達が彼女の周りに集まった。
「アヤ様!今日はなにを致しましょう!」
子供達の中から一際大きな声でハイという少年が少女に伺いたてる。カグラと呼ばれた少女は里の子供達にアヤと呼ばせていた。こちらの方がよほど名らしく、そして可愛らしい。自分でもこの名が気に入っていた。しかしそれにしてもどうしてこうなったのだろう。いつの間にか自分は彼らの、そう、最近知った言葉で言えばガキ大将のようになってしまった。
「今日はいいの。昨日そう言ったでしょ。付いてきたら怒るからね。」
そう言い放ち彼らからも足早にアヤは遠ざかった。これまでは彼らが付いてきていたから失敗していたのだ。一人こっそりと後を付ければ気付かれるはずがない。
彼女は計画の通り里山の麓を見張れる茶屋でお菓子をほうばりながら目標が来るのを待った。
ガキ大将と言ったが、決して悪い気分でもなかった。彼らはなにかを言えば例えばマーヤのように小言を返すのではなくきちんと言うことを聞く。それは本来求めていたものではなかったが、そんな皆が可愛くもありこれはこれで満足を得れた。
里でなぜか避けられた存在。その腕は修練所で敵う者既におらず、大人に混じって仕事を行う。しかし仕事以外で大人とも混じらず、子供とも混じらない。親は既に亡く、彼を育てた養父も数年前に事故で亡くなった。この里を象徴したような存在、そんな気がする少年。そして彼だけは自分の言うことを聞かない。
その少年が遠く里山に向かうのが見えた。ハイは彼のことを、人ではないらしい、そう言った。ハイの父親は常々彼のことをそう言うらしい。彼も彼らのように子供であり、更には恐らく身寄りがないために大人に混じって働いているのだろう。そんな彼がなぜそんなことまで言われなければならないのだろう。そう思うと彼に話をしなければと思った。そうする為にはなんとしてでも彼らのように彼も従わせないといけない。
彼はいつもこそこそと山の奥深くへ消えていく。きっとなにか秘密を隠し持っているのだ。それさえ掴んでしまえばあの生意気な態度もきっと改めるはず。
計画を思い返し、今日こそは突き止めてやる、そう思うと胸が高鳴った。茶屋を出て、用意していた黒頭巾を被る。人が忍ぶ時はこうするものらしい。館の鏡で見ると確かにそれらしい雰囲気で、黒頭巾にアヤの心は余計に弾んだ。
背後で気配がする。気付きながらも気付かないふりをしていた。先程などは、痛い、という小声が聞こえた。あれで尾行できているつもりなのだろうか?一瞬疑問にも思ったが取る行動はいつもと変わらない。
獣道とも劣らない高い草が両側に迫り立つ細い道。それを抜けると森に入る。森へ抜ける寸前歩調を早めて尾行者から姿を消した。そして獣道の終端で腕を組み尾行者の到着を待った。すぐに彼女が慌てたように飛び出してくる。
「カグラ様。このような場所でなにをされておられるのですか?」
アヤはその声に驚き小声をあげ、そしてどこから気付かれていたのだろうと狼狽した。自分と対照的に彼は冷静そのもので、明らかに冷めた目でこちらを見ている。先程までのワクワクしていた自分が馬鹿みたいでそれが悔しく、アヤはキッと彼を見返して頭巾を取って言い放った。
「クロこそ、なにしにこんなところまで来てるのよ!」
クロはそれに答えず一度傍らを向いて顔を歪めた。そして今アヤが通ってきた獣道を見る。アヤも思わずそちらを見たがなにもない。
「私がここへ来る理由は色々あります。今日は薪拾いや獣を獲ること、そんなところです。」
「嘘ばっかり!里山なんて他に幾らでもあるじゃない!」
「もう少し先へ行ったところで兎を捕える罠があります。もう仕掛けて二日、そろそろ得物も掛かっているはず。ご覧になられますか?」
兎、アヤは動揺する。彼女は神々に神楽を奉納する性質上穢れを受けてはならず、肉を口にするどころか家畜を絞める姿を見たことすらなかった。
こいつもこれで引き下がるはずだろう、少女のその姿を見て内心苛立つ心を隠しながら思った。
「冗談です。この辺りでは私がそのようなことを数多く行っています。だからカグラ様はこのような場所へ来られるべきではない。私も本当ならば近くの里山で兎などを獲りたいのですがご存知だと思いますが私は里で嫌われております。だから私は・・・」
「さっきからカグラカグラって、何度も言うけどね、私はそう呼ばれるのが嫌いなの!」
俯いていた少女が急に顔を上げて答えた。
本来少女に名はない。少女は幼少の頃から大人からカグラと呼ばれて育ってきた。カグラは神楽を奉納する人を指す総称であり、そこに個は存在しない。彼女は本来人ではなく、端境に住む存在とされていた。彼女は大人達からカグラと呼ばれるのはもう諦めていたが、せめて子供達からは一人の人として扱われたかった。
「ではなんとお呼びすれば。ウズメ様?アヤヅチ様?」
「そう、そうね。まだアヤヅチの方がいい。まだ名前っぽいし。」
彼女は簡単に引き下がる様子がない。内心で舌打ちし再度傍らを向いた後獣道を伺った。誰の姿も見えない。
「今日はお一人で来られたようですね。」
「そうよ。今までは一人じゃなかったからあなたに気付かれた。でも・・・」
そこまで聞きクロの目付きが変わった。少女の腕を掴んで引き寄せ腰元の短刀を引き抜き細い首筋に押し当てる。アヤはその素早い動きになにが起きたのか理解できなかった。
いい加減にしろ、糞ガキ。彼女の耳元で少年は囁いた。そう、彼は先程までの丁寧な言葉は仮面に過ぎず、周囲に大人がいないとアヤに対しあからさまに態度を変えこのように話す。
「人には分相応というものがある。お前はカグラだ。里の中では俺もそう扱ってやる。だがな、俺は人だ。心がある。表面ではお前をカグラとして扱ってやるが心でお前に従うつもりはない。お山の大将ごっこに付き合うつもりもない。これ以上俺に立ち入るな。」
刃物の冷たい感触と感じたことのない強い力に思わず怯え体が震えた。しかし彼の言葉を聞いてアヤはそれは違う、そう言いたかったが喉元に感じる冷たい恐怖に声が出ず、それが悔しくて涙が滲んだ。これさえなければ、アヤが短刀を掴むとクロは口を噤んだ。
「私、私、知ってるのよ。私が神楽であるようにあなた達の役割も。」
それがどうしたんだ、言おうとしたが身を離し振り返る少女の雨に濡れたような黒い瞳を見て言葉を続けさせた。蒼い肌をした少女は「口うるさいガキ」、そう思っていた印象とどこか違った。風が流れて微かに色付く髪が揺れる。
「あなたはおかしいって、そうは思わないの?私は穢れを受けてはならなくて代わりにあなた達は穢れで生きる?しかもあなたなんて私とそう歳は変わらない。」
ぼそぼそと、傍らで響く声。
「おかしいとかおかしくないではない。俺はそう生まれつきそれが業。それだけだ。」
声は静まる。
「おかしいわよ。私だって神楽じゃない、人よ。あなたはさっき心があるって言った。心があるのにどうして人の命を奪い続けられるの?それが本当にあなたが望んだことなの?違うのなら心があるなんて嘘じゃない。」
再度響き出す耳障りな声。うるさい、黙れ、クロは思わず歯を噛み締めた。
「お前に、俺の心がどうだとか言われる筋合いはない!」
アヤは初めて彼の強い感情を見た。いつも彼はそうだ、仮面を被って言葉を紡ぐ。彼の本当の言葉など聞いたことがなかったのだ。今初めて彼の言葉が聞けたような気がした。
「私は世間のことをあまり知らない。だってずっと外に出ることはいけないことだって言われていたから。それでも分かる。あなたや私のような存在がずっと里や国を守り続けてきたんだって。でもそんなの歪過ぎる。あなたや私のような犠牲が必要でも生まれながらにそれを強いるだなんて。」
「何が言いたいんだ。歪でもなんでそれがこの里の現実だ。」
「私はその歪を正したい。」
言い放った少女の姿に世界は静まり返る。思わず傍らを見た。タカラオの幻覚が見えない。もう一度少女を見る。少女の姿は周囲の木々に溶けてしまいそうな程に薄く感じた。そう、どこか精気すら感じないような、淡く、なのに確かに目の前にある存在感。
雑音のない世界。
「付いて、来い。」
あの頃、俺には幻覚が見えていた。そして声が聞こえた。声は思考を邪魔する。いつも響く声に思考が邪魔されないように必死だった。
幻覚なんて生易しいものじゃない。常にタカラオが、タカラオそのものが俺を見下ろしていた。
後ろに続く少女。どこか勝ち誇った顔で付いて来ている。
神楽は神々に祝詞を捧げ、神懸かりした彼女らは舞い人々の穢れを祓う。神懸かりが強いほど彼女らは人々に崇められ神格化され、時に国の王位をも受け継ぐ。そんな高貴な身分であるはずの彼女らは穢れを恐れ市井を軽んじがちだ。しかし彼女はいつも子供達を引き連れてはクロにもそれを要求するよく分からない苛つくガキ、そんな印象しか持っていなかった。
森に入り横に並ぼうとしては遅れるを繰り返す彼女を横目で見た。その姿は普段から知るただの少女の姿でしかなかった。
「ねぇねぇ、まだなの?」
体力の無い女だ、クロは振り返り彼女を見た。既に山を二つ越え、彼女は両膝に手をついて肩で息をしている。
「もう少しだ。」
「目印とか、そんなのってないの?」
言われてクロは指差した。アヤは荒ぐ呼吸を絶やさないままにその方向を見た。
里山の木々は里の人々に大切に管理され間伐される為に木々に覆われていても森の中は明るい。しかし既に山を二つも越え森は姿を変え始めていた。人の手がついていない原生林。山車が荒々しく木々に巻きつき、人に計り知れない年月を重ねた雑木と呼ぶにはあまりに霊性を重ねた木々が逞しく森にそびえ立つ。原生林の森は薄暗く、しかし生命にあふれていた。
神奈備だ。アヤは思った。こんな所にもあるなんて。
「あの木から少し進んだ先に沢がある。そこに小屋がある。」
その先、生命がせめぎあうように存在する世界を切り取るように空間があった。その中心にそれはあった。
杉。巨木に近付いて世界を満たす香りにようやくアヤは理解した。見上げても見上げきれない巨木。彼女の知る神奈備にあるどの御神木よりもそれは霊性を放っていた。その大きさは人の個を遥かに矮小にし、しかし全てを受け入れる。深く皺を刻み込まれる樹皮はその老齢さを思わせ、なのに苔生された巨木はどの若樹よりも生命を孕んでいる。
「凄い。こんな木、初めて見た。」
「早く行くぞ。」
「どうして?もう少しこの木の傍にいたい。」
クロは顔を歪める。
「不快なんだ。この木の傍にいると。」
タカラオが騒ぐから。
タカラオはいつも同じ譫言を繰り返す。もう聞き飽きていた。奴がなにを言うのか、奴がどの場面でそれを言うのか、全て分かりきっていた。どんなに精神を保とうが声は頭に響く。目を閉じ耳を塞ごうとも、例え目を潰し耳を切り落としたとしてもそれは見え、聞こえただろう。取り憑かれただとかそんなものではない。自身の弱さからそれが見えていたのだ。きっと。
なのに、いやなぜか、タカラオは喋った。時々、違う言葉を。
小屋に入る前、再度クロは傍らを見た後周囲を見渡し、顔を険しくさせてから小屋に入った。アヤはその行動を見て同じように周囲を見渡した後首をひねった。
薄暗い小屋の中、目が慣れるのに時間を要した。アヤは手近にあるものを見える順に認識していく。竃に鞴、小さいながらも水を引き回す砥車。大量に積まれた炭や幾つもの桶に入れられた黒砂。
「もしかして鍛冶をしてたの?」
アヤは拍子抜けした気がした。確かに禁忌だ。クロ達は「穢れを食む者」、そう呼ばれ刃物を持つように生まれた身分であり、決して鉄鎚を持ってはいけない。見付かればクロは厳しく罰される。しかし少女の膨らんでいた妄想ではなにかもっととんでもないことをしているのでは、そんな気がしていたのだ。
クロはランプに灯を入れる。部屋が頼りなげにも明るく照らされた。
アヤは目が眩みながらもクロの足元にあった金床に目が付き、その背後には里では軽んじられている銃が数丁壁に掛けられていた。その横には、思わず少女は短く悲鳴をあげた。
部屋の隅、小さな小屋に余るような巨体、椅子に腰掛けた存在。ランプの灯を反射してその毛皮は美しく光を見せた。
「ダレ、ダ。」
獣の頭部を持った存在はクロに話し掛けた。
「俺の住む里のお姫様だ。」
狼の人外はクックッと息を吸い込むように笑った。
アヤは生まれて初めて人外というものを見た。その巨体が持つ威圧感はどうしようもなく彼女を怯えさせる。その一指さえ用いればきっと容易く命を手折られる。そんな想像が頭に過るような威圧。
「クロ、自分が、何をしているか分かってるの?」
彼女が世に生を受ける前、まだこの国は彼らと交友し、交易も行っていたという。しかし今やマーブの教えを受け入れたこの国は決して彼らと交わりを持たない。
クロは振り返る。後ろで人外が興味深そうに二人を眺めている。
「俺は糧を得て生きる。俺には心がある。お前もさっき言ったな。強いられて穢れを食んで生きるなんてごめんだ。銃は里では軽んじられているようで本当は恐れている。こんなもの誰にでも扱えるからな。それに造らないのは良い物を造れないから目を逸らしているだけだ。良い刃物を造れるのに悪い銃を造る必要はないってな。こいつを造れば今より良い金が入る。」
それについては反対するどころではなく、むしろ確かにそれでならうまくいけば彼は彼の境遇から脱することができるかもしれない。感情ばかりがはやり、なにをすればいいか見当もついてなかった自分が子供じみて思え、そしてやはりクロという少年は周囲の子供達とはどこか違う、そんな直感は当たっていたと思った。でもそうじゃない。そんな子供じみた自分でもこれくらいは分かる。
「人外と交わうって、それがどんだけ危ないかって、クロは分かってるの?」
もしこの事実が里の外に漏れた時。この里はただでは済まない。
「こいつとはもう十年以上の付き合いだ。今更誰になんと言われようが知った事か。」
十年?少女は理解ができなかった。少女は今年で十四になる。クロの正確な年齢を知っているわけではなかったがどう見たって少女と近い年齢に思えた。そうなれば僅か五、六歳の頃から?
「オンナ、ナニヲ、オソレル。」
唐突に狼の人外は会話に割って入った。その声はしゃがれて低く、そして酷くたどたどしかった。
「あなたは・・・その、喋れるの?」
スコシ、人外はそう言うと愉快そうにまたあの息を吸い込むような笑いを見せた。その口元から凶悪な犬歯が見えそれが恐ろしくもあったが、見た目に似合わないその不器用な笑う姿には愛嬌を感じ、それが可愛らしいとすら感じた。
クロを見る。クロは腕を組んで成り行きを見守るように少女を横目で見返した。クロのそんな姿にようやく忘れていた対抗心が戻る。彼に怯えた自分を見られはしなかっただろうか。
「別にあなたが怖い訳じゃないの。でもそうじゃなくて、私達は本当はあなた達と交わってはいけないの。」
人外はそれを聞き返事をせず、代わりにクロを見た。
獣との交流はなにをもってしても禁忌とされる。しかしそれは近年になってからであった。近隣の大国はなりふり構わず彼の国の事情を押し付けてくるようになった。政治や金、そして宗教事情までも。彼の国は最早獣と一切交わることを許さなかった。
「ばれることはない。ばれたとしても俺は奴に何も与えていない。だから里の外に噂が流れたって証拠なんて見付からない。なんとでも言い訳が効く。ガシライがきっと内々に処理しようとするだろうさ。俺とこいつがただでやられるわけないけどな。」
クロは笑う。人外と違いその表情には冷たさが漂っていた。
「それにあいつはとっくの昔に気付いてる。」
吐き捨てるように彼は言った。ガシライが知っているとはどういうことだろう。彼は穢れを食む者の長老であり、里の政治にも深い発言権を持っており、普通であれば里の者が人外と交わるなんてことを許すはずがない。
「そう、ガシライが。でも私もなんとなく分かる気がする。」
この国の宗教はどのような神も拒まない。しかし神を受け入れはしても根本を変えないという宗教だった。マーブを受け入れたとは言うものの、この国の宗教にとってはマーブ式の祈りを取り入れ、更には神々の中にマーブという最高位の神を迎え入れただけに過ぎず、神は唯一であるとするマーブの教えが重要であるとするならばわざとその教えに気付かずいた。
アヤは銀毛を持つ人外を見る。ガシライは全ての神々を崇拝する敬虔な信者である。全てに霊性は宿る。この人外という存在について彼はどのように折り合いをつけているのだろう。そして今この人外を目の前にして、私自身も。
「いつか利用できるとでも考えているんじゃないか。あいつらしい。こいつも腐っても人外だからな。」
「クサッテモ?」
人外がクロに聞き、クロはからかうように答えた。
「お前みたいに群も持たない寂しい人外のことだ。」
人外はそれを聞き笑い、なぜか得意そうに目を閉じて首を振った。
「クロと彼はお友達、ってことなのね。」
「友達?」
クロは驚いたように返事し、次に銀狼を見た。銀狼も彼を見返す。銀狼は友達という言葉を理解していないようで彼に説明を求めているようだった。クロは笑う。
「そうか、なるほどな。そうかもな。」
ドウシタ?人外は笑うクロに釣られて表情を崩しながらも変わらずクロに説明を求める。笑い続けるクロの表情には屈託がなく、彼にそのような顔があったことにアヤは驚いた。そしてクロと狼の人外の関係を思う。彼らは互いに必要とする存在なのだろう。
少し羨ましく思う。アヤには彼らのように対等に話をできる存在がいない。
「分かったわクロ。好きにしなさい。あなたはもしばれたらお友達を庇って自分で責任を取るって、そういうことよね?あなたからそんな言葉が出るなんて思わなかった。」
「誰もそんな恥ずかしいことは言ってないぞ。」
「言ったの。」
少女も笑う。
「黙ってあげる代わりに分かってるよねぇ。クロ?あなたも私に従うの。」
得意げな表情を見せる少女を前にクロは否定も肯定もせず、ただ呆れた顔をした。
「クロ、キョウ、ミセタイ、オマエ。」
「珍しい。どうしたんだ?」
「オヒメサ、オレ。」
少年と少女は目を合わせた。オヒメサ?
二人の様子に銀狼はまた笑ってから遠吠えをあげた。その声の大きさにアヤは思わず耳を塞ぐ。
すると遠吠えと同時に勢いよく小屋の扉が開けられ雪崩れ込む者があった。
「アヤ様!今のは!?」
小屋に転がりこんだのは少女を取り巻く少年の一人、ハイだった。
アヤは驚き、次にまずいことになったとクロを見たが彼は別段驚いた様子もなく、しかし怪訝な表情を見せた。
「アヤ?」
「えっ?そう、そうよ。そう、呼ばせてるの、私。」
「もしかしてアヤヅチだからアヤなのか?」
クロは少女をからかうような表情をしてみせた。確かに名前のことはまだ触れられたくなかったが、それよりも今は小屋の秘密をどうするか、それが先でしょ!しかし悔しさからそれを言葉に出せず余計にアヤは腹が立った。
ハイは騒いだ。禁忌破りのクロの鍛冶場、しかも銃を造って、いやそれもそうだがなにより目の前の人外。少年は一人で騒ぎに騒いだ。
「アヤ様危険です!早くこちらへ!」
「うるさい!まずは黙りなさい!」
アヤが一喝すると面白いくらい彼はピタッと動きを止めた。
「本当に猿山の大将だな。」
「サルヤマ?」
背後のボソッとした会話がアヤの腹ただしさに拍車を掛け、それはすぐにハイに向けられた。
「どうして言い付けを守らなかったの!付いてきちゃダメって言ったでしょ!」
ハイは怒ったアヤに正座させられ、説教を聞き小さくなりながらも小屋の様子を見ていた。ハイもクロと同じ身分であり、大人と混じって大人以上の仕事を為すクロのその姿にどこか憧れる思いもあり、大人達の彼に対する口業も知っていた為に同時に蔑視もしていた。
「クロ!お前どういうつもりだ!お前は里一番の使い手なんだろ!」
これは怒ることだ、思った瞬間アヤの説教混じりの説明の最中だったというのに突然彼は叫んだ。彼女の話を聞きながらクロが人外と交わりを持つことにはなんとなく納得がいった。それが自然だと思えるほどに彼を特別だと思える心があった。そこに彼の強さの秘密すらあるのじゃないか、そんな少年ながらの突飛な理論が働いた。この身分はなにをしようともそれで強くあれるのであれば許されるとすら思う。
「なのにこの小屋はなんのつもりなんだよ!」
ハイの身分を象徴するような彼がその身分の存在理由を否定しているかのような鍛冶場。そして銃。
「業を重ねて業に生きる。待っているのは受業だけだ。お前はそれを喜んで受け入れているのか?」
業。ハイは返答に詰まる。よく大人達が口にする言葉だ。考えたことがないわけではなかったが、それを考えるほどの現実も、それを考えるほどの成熟さも彼はまだ持ちあわせていなかった。今はまだそう遠からず訪れる未来に備え自らを鍛えあげることしか目先になかった。
銀狼の人外の耳がピクリと動いた。音の方へ顔を巡らせ、しかし想定外の人の数と場の様子に判断を決めかねた。
「キタ、ミセタイモノ。ドウスル?クロ。」
クロは彼を見た。奴はなにを見せたいのだろう。キタ、と言うからには奴の仲間なのだろうか。しかし奴が呼べるような仲間を持っていた、その事実にクロは目の前の少年がこれ以上混乱するかどうかよりも興味を持った。
「いいさ。連れてきてくれ。」
人外は立ち上がった。小屋の天井の高さすれすれの巨体を見て少女と少年は驚きと大丈夫とは分かっていてもその威圧感に黙り込む。二人を見て人外はもう一度愉快そうに牙を見せて笑う。
人外は小屋の扉を開ける。そこに居たのは白い毛皮を纏った美しい狼だった。その足元にはその白い狼にまとわりつくように小さな白銀の仔狼達がじゃれつき遊んでいる。
アヤは歓声をあげた。彼女は動物に触れる機会など持ったことがなく、初めて目にした目の前の小さな存在に心奪われる。彼女は思わず近付きしゃがみこんで一匹の仔狼と視線を合わせた。仔狼は初めて見る人という存在を不思議そうに眺める。
銀狼の人外を見上げる。彼は嬉しそうに笑いながらゆっくりと頷いた。
手を近付けて彼女のにおいをかがせ、優しく頭を撫でてから仔狼を抱き上げる。仔オオカミは母親と遊ぶようにアヤの腕を甘咬みし腕の中でひっくり返る。その小さくもとても暖かい存在にアヤは生まれて初めての不思議な感情をはっきりと感じた。彼女を取り巻く子供達に対する感情にも似た柔らかい感情。アヤはそれを感じながら仔狼の姿に微笑みながら赤子をあやすように体を揺らした。
アヤの姿に続いてハイも近付き仔狼達と遊び始める。仔狼の頭を撫でようとすると真っ白い腹を見せて寝転がり、小さな手脚を伸ばしてハイの手を叩く。ハイは笑いながら仔狼達を撫で回した。
白い狼は仔狼達の母親なのだろう。彼女は最初こそ注意深くその様子を見ていたが、やがてその場に横になり彼女の子供達と人の子供達が遊ぶ様をじっと見つめていた。
「クロ。」
初めて見る呆然とする彼の姿に笑いながらも、静かに巨躯の狼は語りかけた。
「オヒメサ、カゾク、タイセツ、オレニも、デキた。」




