端境
あれは、そう。春が過ぎ、夏が始まった頃。
あれから頻繁にクロの小屋にアヤとハイがやってきた。アヤは狼の人外が連れる仔狼と遊び、ハイは彼女を守る役目、彼はまるで彼女の専属の衛士であるかのようだった。
しかし狼の人外がやってくるのはたまにでしかなく、彼女らはクロが鍛冶する姿を見ながら小屋でうるさく過ごした。クロは汗を垂らしながら鉄芯に赤く熱した精錬を施した鍛鉄を巻きつけていく。それが終わると真っ赤になった炭がくべられた炉で熱し、槌で打ちつけながら継ぎ目を鍛接していく。
今日は一段とハイがうるさく、逆にアヤが静かだった。作業を終えて水を飲み、塩を舐め、汗を拭い、彼に問う。
「何がそんなに楽しみなんだ?」
「そう言えばクロが来てるの見たことないな。今年は来いって、お前もアヤ様の凄さが分かるぞ!」
答えるハイに続いてアヤを見た。アヤは頬杖をついてつまらなさそうにしている。来なくていい、彼女は呟いた。
「どうしてそんなこと言うんですか!皆がアヤ様を慕うのはこれですよこれ!」
だから嫌なのよ、アヤは思った。クロと目が合う。彼も同じことを思ってしまうのだろうか。
「ああ、里神楽か。」
夏の終わりに行う祭り。アヤはそこで御神霊神楽を舞い、神が降りた巫女が人々に穢れ祓いを賜う。クロは一度も祭りに行ったことがなかった。タカラオが酷くそれを嫌っていたのだ。
クロは気乗りしなかった。きっとタカラオが騒ぐ。
暫くして彼らは小屋に来なくなった。里で偶然会ったハイに聞けばアヤが禊に入ったのだと言う。具体的になにをしているのかはクロには勿論ハイにも分からなかったが、その間アヤは里に全く降りて来ないのだという。
「きっと俺達には想像もつかないようなことしてんだぜ!ああ早く祭りにならないかな!アヤ様がほんと別人みたいに・・・」
そこまで言ってハイは赤くなって慌てて黙った。
「どうした?」
「いや、まぁ凄いんだって。クロはアヤ様の凄さが分かってないんだって。今年は絶対にお前も連れてくからな。」
ハイは取り繕うように笑いながらクロの肩を叩いた。
別人のようなアヤ。少女がカグラと呼ばれ彼らを虜にする神楽。
クロは傍らに視線を向けた。
イーコは食事を作る手を止め、泉の傍に建つ小さな社からふと外を見た。
生命に溢れた森の中は夏の強い陽射しを若葉が透かして美しく染まる。泉はその中で唯一つ違う色を持つ。どこまでも透明な空の色を若樹色の世界に落とす泉に浮かぶアヤの姿は彼女の幼い心ながらにとても神聖で美しく、何度も手を止めては魅入ってしまう。
アヤが立ち上がる。一糸纏わぬ女性が神々しい世界に存在し、世界に穴を開けた泉からゆっくりと上がる様は本当に神様が現れたような景色に思えた。思わず見惚れ浮き上がるような胸に手を当て抑える。
女性は泉の淵を優雅にゆっくりと歩く。彼女が神様でなければ天女様かなにかだ、そんなことをイーコが思っていると、彼女はイーコが焚いていたたき火の傍でしゃがみ込み体を小さく丸め手をかざし始めた。ようやくイーコは我に返り慌てて社を飛び出す。
本当に今は夏なのだろうか。アヤは出来得る限り体を小さくして震えながら火にあたっていた。そもそもがおかしい。こんな山の中でアヤのようなか弱い少女と更に幼い彼女二人で過ごさなければいけないことが。
里の神体山は夏だというのに昼でも冷気に包まれ、そこに湧く泉は身を切るように冷たい。マーヤから告げ口を聞いている神官はアヤに対し殊更長く神奈備に逗まるように言い付けた。アヤは神体山で禊に務め、イーコはアヤが禊に専念できるよう世話の一切を行う。
アヤが普段から住む館は同時に社でもあった。社は背後の神体山に通じる山中にあり、それ以上は禁足地として人の侵入は許されない。人から手付かずの山木には多数の神々が住まう。
イーコは走りアヤに近付くと寒そうに震える彼女の蒼い肌に衣服を掛けた。
「ありがとねイーコ。」
「そんな・・・アヤ様、頑張ってください。」
イーコが頬を薄っすら染めながら言う。アヤは彼女を見てニヤリと笑い立ち上がる。
「違うでしょ?イーコ、ここでは私のことお姉ちゃんと呼ぶの。いい?」
去年まではマーヤがこの役目だった。しかし彼女は夫を持った為に神体山に出入りできない身となり、今年から彼女がその役目を引き継ぐことになった。まだ十歳にも満たない彼女は一生懸命アヤの為に小さな体で働き、それがとても可愛らしい。妹がいればこのような感じなのだろうか。
「う、うん・・・お、お姉ちゃん。」
呼び方もそうだが、それ以上に目のやり場に困りイーコは顔を赤くして控えめに言う。
照れながら言うことを聞くイーコの姿にアヤは更に心が満たされるのを感じ、彼女の頭をひとしきり撫でてから泉に戻った。
神楽として型破りな彼女が神楽として里の住民から支持される理由。里にこれだけの人がいたのかと驚くほどに河原に設けられた舞台の周辺は人で埋まった。
舞台では余興の太神楽が催され、火男と阿亀の面を着けた神楽役達が間抜けな踊りと曲芸を行い神霊と人々を笑わせる。
普段からハイとともにアヤを取り巻く少年少女達二十人程が集まり、その中にクロはいた。腹を抱えて笑う彼らの中で静かに舞台に目を向けるクロに対し大人達は奇異の目を向けた。
舞台の演目が変わる。笑いに惹き付けられた神霊らの過去の武勇を称える塵輪を舞い、二ツ神役と二ツ鬼役の神楽役達が囃子太鼓の中で剣と鉄戈を激しくぶつけ合う。
タカラオは神楽の全てを嫌った。彼は言っていた。
「穢れなどあるものか。」
舞台の正面に座するガシライを見た。ガシライとタカラオは似た立場、同じ境遇にありながらも対極的な思考であったのだろう。かつてのタカラオと違い小男な老人の背が不気味に見えた。
神霊は笑いと人々の称賛に満足を得る。舞台を明るく照らしていた神明造りの屋根の下の灯が突然消され、河原は暗闇に包まれた。激しかった囃子太鼓の音も消え、河原は人々のざわめきと川のせせらぎだけが存在する世界となった。
まず、音が存在した。
ウズメ様!アヤカグラ様!アヤヅチ様!
様々に巫女の名を呼ぶ声が聞こえた。胡弓が響く。
次に光が現れた。
舞台の四隅に一斉に篝火が焚かれる。いつの間にか舞台は薄く霧に包まれ、舞台の奥には顔を白扇で覆った巫女が静かな笙の多重音と共に世界に姿を現していた。
神々が世界を創り、大地や人、万物と成った。
人は神々から離れ、孤独な大地を歩む。
人々がより一層歓声をあげ、その声に応えるかのように巫女が一足を進めると同時に龍笛が響く。
遠く寂しく響く音に見守られながら巫女は更に一足一足を踏みしめる。
しかし人はとうとう嘆きをあげた。
龍笛を求めるように篳篥が鳴き、巫女は次第に動きが鈍くなり、とうとう座り込む。すると音は次第に鳴り止み、最後まで残った笙ですらも消えゆこうとするかのように音を無くしていった。
シャン!鈴音が響く。鈴の音は小さくなりつつあった笙の音を再び強めさせる。鈴の音は巫女から響く。もう一度巫女が鈴の音を鳴らす。龍笛が戻り、更に巫女は白扇の裏に隠していた右手を高く空に掲げる。巫女の手の甲には紅の紐に結わえられた無数の鈴があった。更に巫女は鈴を鳴らす。篳篥も強さを取り戻し、やがて篳篥に呼び寄せられるように胡弓も返り、全てを大胡弓の重音が支える。
巫女は鈴を鳴らしながら流れるように立ち上がりつつ両腕を胸に当てる。白扇の下から巫女が瞳を、全てを透かす肌を覗かせた。その姿に鳴り止んでいた人々の歓声が再度返った。
「あれが、アヤ?」
少女は神聖な草花で編まれた冠を被り、彼の草花を象った柄模様の化粧はより蒼さを増していた肌の奥から浮き上がり滲みでたようで、とても後から付け足したようには見えなかった。
あの日感じた彼女よりもそこに彼女はいなかった。強い風が吹いてしまえばあの霧と一緒に消えてなくなってしまうかのような儚さを思う。あの舞台は幻で、近付けば遠ざかり、例え近付き手を伸ばせたとしても触れることもできないような。
「凄いだろアヤ様は!」
クロに気付いたハイは得意気に伝えた。
巫女は再度天に手を伸ばし神霊に一年の感謝の詞を伝える。詞はところどころ聞き覚えのある音があるものの意味を解せない。まるで別の言葉を用いていた。彼女の声はとても重く響く大胡弓の音に包まれて多重音のように響く。クロはその声にどこか聞き覚えのある空気を肌に感じた。夕闇の中に浮かぶ頼りない灯を連想する。安心、暖かい、楽しい、そんな音。・・・家?
我に返り、タカラオを横目で見る。緊張から唾を飲み込みつつ傍らを見た。彼は物言わず、クロを見下ろしていた。
巫女は滑らかに光を放つ乳白色の上衣を着て、彼女が上衣の袖をふわりと浮かばせながら回ると上衣に覆われた隙間から優しく桜色に染められた下衣が見えた。始まった神降ろしの舞に人々は歓声を上げる。全ての音と共にシャラシャラと静かに響かせる鈴の音。巫女の姿は円を描いて篝火の作る幾つもの影に揺らされる。その姿に神を見た人々は口々にウズメの名を呼んだ。
巫女が静かに止まる。
「魂が姿を変えることに安息を求めるのならば何故に主らは争うか。魂が姿を変えたとて全ては変わることぞ無き。ミシマの闇の恐怖に怯え彷徨う姿は憐れ。我が世に来たること多くはない。せめて人の子らよ、穢れ無きままであれ。」
ウズメは鈴で縛られた右手をゆっくりと突き出しその様を眺めた後、人々に優しく微笑む。
「穢れを祓うを必要する者ぞおるか?」
ウズメの呼びかけに人々は神の名を呼んだ。ウズメは白扇を天高くから揺らして口元でピシャリと閉じる。
「さよか。」
そして妖しく笑った。
ウズメは一度揺れるとふわりと乳白色に覆われた。乳白色は意思でも持っているかのように一人でに高く舞い上がり、下衣だけになったウズメを篝火が紅く照らしその色に染まる。白扇が生きたように紅と金で装飾された手と時折交差しながら舞台奥の闇を背景に軌跡を残しながら流れ、巫女が舞った霧を纏ったかのような神降ろしの舞いと対照的に舞台を燃やし尽くすかのように激しくウズメは舞った。
ウズメは人々の求めに何度も舞ってみせ、笑いかけ、少女から発されるとは思えぬ声で解せぬ言葉で詞を賜う。穢れを祓う舞いに人々は熱狂し神を褒め称える。
ふとウズメは止まり、開いていた白扇を閉じて人々に静まることを求めた。
「これ主ら。何故此度どうしては如何にこのように穢れが多い?祓っても祓っても落ちぬぞえ。」
突然のウズメの発言に人々は戸惑いを見せた。このようなことを言うのは数年前の大きな戦いがあって以降のことだった。普通であればその理由を巫女を通じて申し伝えあげるのだが、そんな理由などあるはずもない彼らはざわめくばかりだった。
「これ何故に云わぬ。供物どこぞにある。力が足らぬ。人の子よ。云わねばもう祓えぬぞ。」
困惑する人々の中ガシライが席を立った。舞台に背を向け去ろうとする姿をウズメは見とめ、彼を扇子で指して問う。
「ラカ。何故に背ぞ向けるか。不興であるぞ。」
ガシライは止めようとする周囲の付き人の手を払い、振り返るとウズメに深く一礼する。しかし彼は戻ることなくその場を去った。
つまらぬ、ウズメは呟く。
民衆のざわめきの中突如舞台の巫女は膝を崩し前のめりに倒れた。舞台奥から慌ててマーヤを始めとする彼女の侍女達が出てきて彼女を介抱し、河原は騒然となった。
その日、機嫌を損ねたウズメは人々の穢れを祓いきることなく去り、祭りの後だというのに人心に不安を残した。
シルブハスから通達があった。獣と交わり、邪神を崇める異端者共、と。
扉を叩く音がしてクロは振り返った。家の扉を開くと見慣れた顔が連ねていた。その男達は仕事以外で顔を合わせることはなく、クロは不快に思った。
男達に付き従い修練所へ向かう。修練所には穢れを食む者の主だった面が集まっていた。注目はクロに集まり、クロは不審に思う。
貴様に問いたいことがある、穢れを食む者の長老、ガシライがしわがれた声で問うた。
「我々は獣を狩ることが課せられた。貴様は獣を、いや人外を、知っているそうだな?」
例の通達のことでしょうか、クロは答えず平然と問い返しする。
「ふん、相変わらずだな貴様は。ワシの質問に答えろ。」
「知りません。」
「この里の、いや国の危機だ。我らの信仰心が試されているのだ。」
その言葉に思わずクロは表情に笑みが浮かび、それに気付くと吹き出すように笑った。
「驚いたな。信仰心か。違うだろ。飼い犬の務めを果たす為だろ。」
長老を、いや里全体を愚弄する言葉に数人が目の色を変えたが、ガシライはクロの姿をジッと捉え続けた。
「襲いもしてない人外を飼い犬の務めの為に狩るなどと笑わせるな。幾ら被害が出ると思う。つくづく見下げた連中だ。それでも人外を狩りたいのであれば勝手にやれ。」
悪鬼が!餓鬼が生意気に口を利くな!挑発を続けるクロに対し殺気立った幾人かが暴言を浴びせる。
「なんだ、殺したいのか俺を。じゃあ殺してみろ。いつでも受けるぞ腰抜けが。」
口を閉ざしていた幾人かが立ち上がり無言のままで腰元の刀に手を掛ける。
「待てお前達。クロ、隠し立てすると良からぬことになるぞ。構わんのか。」
くだらない茶番をしやがって、クロは更に苛立つ。
「大体何を以って俺が知っていると言うんだ。」
「貴様が獣と交わっているというのは常々噂になっていたことだ。」
「噂?お前はそんなくだらない話でご丁寧にこんなに人を集めたのか。馬鹿らしい話に付き合わせるな。それに、あんたの方が知っているんじゃないのか?」
「どういう意味だ?」
「ここいらの獣が近辺の里を襲わないのは表面上は争っていても友好関係を築いているからだ。違うのか。」
男達はガシライを見た。
「つまらぬことを言うな。マーブの、神々の賜だ。」
「どちらがつまらない。お前は俺に神殺しの責任を擦り付けた上で人外を狩りたいだけだ。やりたきゃ好きにやれ。帰るぞ。」
「クロ、ワシは、貴様の行動をこれまで大目に見ていた。それは貴様がタカラオに育てられ、その技も受け継いでおるからだ。だが、全て分かっているのだぞ。」
クロは一度だけ振り向いた。暫くガシライと目を合わせたが、そのまま修練所を去った。ガシライの目は齢のせいか濁り、狂人の目だと思った。
ハイは一人ぼんやりとクロの背を眺めていた。例年ならとっくにアヤは里に降りてくるはず。なのに彼女は一向に里に降りてこなかった。最後に見たのはあの倒れた姿のまま、噂では神体山に篭っているという。その証拠にイーコの姿も見かけなかった。
彼女の神秘的な姿を思い出す。この世の者とは思えないあの姿。夢の中にでもいるかのようだった。しかし大人達の噂は続いた。ウズメ様の言葉。市井に関わりすぎた彼女は穢れが過ぎていたのではと。そのせいで降りた神は力を発揮できずあのような言葉を発したのだ。もしくは以前までと今年の違い。それは彼女とクロとの関わりだった。穢れとは彼のことを指しているのでは、そんな噂がどこに行っても聞かれた。
「そんなこと言われてるんだぜ。お前も黙ってるんじゃなくて何か言い返してやれよ。」
熱した鉄棒を切り取りコテを当て槌で叩いて溝を付けて歯車の形を造成していく。銃の機械部分は完全に独学であってどうもうまくいかない。執拗に調整を続けてようやく機械が噛み合い連動する。しかしそれでは時間がかかりすぎてシルブハスに出回る銃よりも安価にならず目論見通りに良い金を得るのは難しい。
「お前一人増えただけで穢れが祓えないなんて馬鹿な話だよな。なぁクロ?」
しかしクロは返事をせず金床に集中している。ハイは溜息をつきあの話を思った。彼の父親は彼に言う。奴に関わるな、奴は人ではない、知っていることを言え、と。アヤが居てくれれば彼女に従うだけだが、今は違う。どうすればいいのだろう。
ハイが去る間際、珍しくクロが見送りした。別れの言葉を伝え背を向ける。
今日は長居をしすぎた。空には茜が走り、森のなかは赤黒い。走らなきゃな、そんなことを考えている時彼は言った。
「ハイ、気に病むな。お前はまだ子供だ。何も知らない、そう言えばいい。」
聞けなかったが、彼は気付いていたのだ。彼の父親は執拗にハイに詰め寄る。そしてこの国が今がどれほどに危険な状態であるかを説く。しかしクロはガシライは知っていると以前言っていた。ではなぜ長老はクロから吐かせようとしているのだろう。今日も家に帰れば父親との口論が待っているだろう。どうすればいい。ハイは心持ち俯き、顔を上げた。
「何言ってんだ。お前だってまだ子供だろ?」
タカラオよ。貴様ならばどうする?
お前は俺と違い、全てを否定した。否定できる強さを持っていた。なのに、お前は違うと否定し、周囲ですら否定していたが、お前は俺を否定することはなかった。
俺にはなんとなく全てが分かっている。だから思う。お前は、俺がやろうとすることを否定するか?あの子供を見ているといつもお前を思い出す。
「奴は人ではない。幾らマーブを受け入れようともワシにはできん。無論お前達にもやらせられん。だが全てはワシが方をつける。奴も、お前達も、里も、全て守ってみせる。」
「良い、木だ。」
タカラオ、貴様が正しい。
この目を見ていると寒気がする。あの目にそっくりだ。ガシライの目は本気だった。長年業を背負い続けた者の目。狂気を狂気とせず当たり前のことと受け入れた者の目。
「貴様が受け入れないのであればカグラ様を含めお前の小屋に出入りした者全てを殺す。」
「どうして俺を殺すと言わない。」
「ただでは殺さない。貴様が必ず後悔する方法で殺す。」
「ふざけるな!お前は昔から知っていただろ!それを今更なぜ俺にやらせようとするんだ!」
「貴様を殺すくらいであれば人外を殺す方がまだマシだ。」
ガシライは夜、一人で小屋にやってきた。そして一人去って行った。後に残ったクロは一人小屋の静けさに打ちのめされた。自身の軽率さを呪うしかなかった。
まだこの里に来て間もない頃、よくひたすらに歩いた。山を幾つも越え咎められた際に備え薪を拾いながらあてもなく歩いた。帰れば狂気の時間に戻ってしまう。歩きながらひたすら一つのことを考えていた。あれを、殺すこと。あれを殺さなければ自身は狂気から解放されない。
奴に出会ったのはその頃だった。
時折枝葉の隙間から妙な木が見えた。違う場所を歩いていても同じ木が隙間から見えた。握るのに丁度いいような程度の太さの木が。それがとんでもない大木だと気付いたのは木に登り辺りを見回した時だった。どうしても間近でその大木を見てみたく更に幾つか山を越えた。間近で見た巨木の存在感は圧倒的で、周囲を忘れて俺は見入った。どれくらい見入っていたのか、背後の気配に気付き振り返ると人外がいた。今に比べればその体は小さく、だが自身も同様で、自身に比べれば奴は遥かに巨体だった。人外を見るのは始めてでもなかったし、逃げても、戦っても見込みなどないとすぐに悟った。無駄に抵抗するのも馬鹿らしく奴の目を見ながら言った、殺せよ。しかし奴は動かず、妙な音を出した。
「ゴオゼオ。」
奇妙な出会いだった。その日は動く様子のない人外にそのまま背を向け去り、ある日またそいつは現れ、声を掛けると妙な音を出す。すぐに分かった。言葉を真似ようとしているのだと。奴はたまに現れては声を真似る。どこまで真似るのか興味を持ち、次第に歩くのを止め黙って考える代わりに人外に考えていることを口に出すことにした。言霊を信じていた訳ではないが、しかし声に出したほうが少しでも現実に現れるのではないか、あれを藁にでも縋るというやつだったのだろう。
「コロス、タイ、カ?」
年月が過ぎ、ある日唐突に奴は真似るのではなく言葉を話した。その日を境に奴は話し始め、様々なことを知った。奴の境遇、考えていること、迷い、同じだと思った。アヤはこれを友情だと言った。確かにそうだ。あの時まだ幼かった心に芽生えたのは確かにそれで、それを生まれて初めて知った俺も更に色々なことを話した。いつの間にか奴は冗談も理解するようになり、あの気持ち悪い笑い方で笑うようになった。その顔が面白く、ただ呪いを吐きかけるだけの相手だった奴に会うのが狂気の生活の中で唯一の楽しみとなった。
幾つかの夜を経た。
里から離れた山の中。そこより更に幾つかの山を経て束の間の荒地。そこにある浅い洞窟。一つの家族が憩いの時間を迎えていた。人外の血を受け継いだ子供達は母親と違い光る毛並みを持ち、多様な意思伝達を行う。皆父親のように立ち上がることはできないものの確実にその性質を受け継いでいた。
父親は子の一人を腕の中に抱き、壁にもたれ足元に眠る伴侶の優しく美しい毛並みを撫でた。彼女や我が子達。彼女らと一緒にいられることを不思議に感じない時間はない。これまで自分はどこにいても異質な存在であった。群からも、人からも気味悪がられ独りが続いた。
しかし今は違う。共に生きるべき存在がいる。
足音が聞こえた。そう、人と触れ、言葉を覚えてから自分という存在の意味を考えることができるようになった。まだただの獣であった日、しかし救いを叫ぶ本能は探し続けていたのだ。そして自分という存在は救われた。ずっと断ってきたが、そろそろ自分も持つべきなのかもしれない。丁度いい。
「クロ。」
巨躯の狼は友人を招き入れる表情を浮かべた。彼は伴侶に出会うまで、彼にとって最大の、唯一の理解者であり、彼と触れ合えたこと、それを祝う為、彼に敬意を表する為、ただの人外では無くなろう。
クロは返事をせず、代わりに刀を抜いた。
それがなにを意味する行動か、あまりに理解しがたく彼は我が子を胸に抱いたまま呆然とその姿を眺めた。人の放つただならぬ殺気に気付いた彼の伴侶が飛び上がり大きな唸りをあげようとも、その理解のしがたさはクロを制すべきか、伴侶を制すべきか判断を鈍らせた。一瞬の判断の迷いは巨躯の狼の取り返しの付かない過ちとなった。妻は彼に飛び掛かり、クロはそれを簡単に斬り伏せ洞窟に血が貼り付く。
妻の美しかった毛皮が鮮血に染まり洞窟に転がろうとも、一連の出来事に気付いた子らが泣き声をあげようとも、血に汚れた友人が更にこちらに歩いてこようとも、いつまでも目の前の現実を巨躯の狼には認識することができなかった。
「名・・・」
もう一度友人を迎え、言葉を出すと口が震える。
クロは巨躯の狼に突きを入れた。
彼の掌に痛みを伴った熱が走り、赤い血がぽたりと垂れる。咄嗟にクロの突きを手で受けたのだ。
「ナゼだ!」
人外の叫びに洞窟が咆哮をあげてクロに反射する。目が合う。クロは一瞬口を開いたが、出たのは浅い呼吸だけで歯を食い縛り巨躯の狼を蹴って刀を引き抜いた。
巨躯の狼は下がるクロに当て身を入れて吹き飛ばし更にクロを追った。
倒れこむクロを見付けると拳で槌を打ち付けるように振り下ろし、しかしクロは軽く身を起こすとそれを避けた。
「フザケルナ!」
打ち付けた拳は重く音を鳴らし、地面の揺れが彼の叫びのようであった。素早く構え直したクロに対し、巨躯の狼は地に拳をつけたまま動かなかった。
クロは地を蹴り間合いのうちに入り込んだが巨躯の狼は動かず、振り上げた刀を落としても彼は動かずクロは思わず動きを止める。巨躯の狼の肩は震えていた。息が詰まり、呼吸ができない。
戦えよ!クロは肺に溜まる空気を押し出す為に叫ぶ。
ナゼ、なんだ、巨躯の狼は静かな声で問う。
「・・・お前が戦わないのなら、お前を殺す、それだけだ。」
巨躯の狼は目の前にあったクロの足を掴みがむしゃらに投げ飛ばした。目の前が黒く暗転し、定まらない視界の中で激情を吐き出す為に獣となって叫んだ。
叫びは地を揺るがし宙にいたクロの耳に突き刺さる。空はどこまでも黒く、なにも掴めない空は酷く孤独だった。
叫びの中、クロは受け身を取って地面に着地する。同時に、東の空の異変に気付く。
空が燃えていた。
燃える空と叫びに挟まれて、クロは呆然とした。胸には取り返しのつかない後悔の予感がし、その感情に縛られて完全に判断を失った。思わず友の顔を見た。
巨躯の狼はクロの顔を見て吠え、突進する。クロはその表情に怯え、思わず後ずさった。後ずさると足は止まらず、ひたすら燃える空の方向へと走った。背後から咆哮が聞こえた気がした。




