シルブハス
なぜ、こうも自身は愚かなのだろう。これは何度目になる。いつも選択肢を間違えてしまう。どこまでも癪に障る笑い声が背後から追ってくる。黙れ、
「黙れよ!」
赤く燃える空、浴びた血が汗で落ちて闇に染まる原生林に何度も体を倒して泥に混ざり薄汚れた体、誰が、誰を笑っているんだ?巨木の傍を通る。森の空を大きく手に入れた巨木は空の赤さを受けてその空の色に染まり、初秋を迎える頃俄に増える蛍が蒼白い光を以ってその足元に無数に舞っていた。クロは意味が分からず巨木に視線を釘付けにしたままにそこを通り過ぎた。
燃える空の灯が足元に届く頃、遠く走り近付いてくる者が見えた。反射的に刀を構えて身構える。
ハイは遠く人が見えすぐにそれがクロだと気付き、息が絶え絶えになりながらも走った。しかしそこにいたその姿に思わず足を止めた。流れる汗が赤く滴り汚泥を浴び暗闇に白刃を構えるその姿。里の炎に照らされ、彼が一瞬違う男に見えた。クロだよな?声を掛けて返ってきた返事は低く、知っているクロの声ではなかった。思わず寒気が走る。
「ハイ、か?」
クロは彼に気付き声を掛けた。彼はなぜか戸惑いがちに返事をしたが、すぐに言葉を続けた。
「シルブハスが攻めてきたんだ!大人達が戦ってるけどあれじゃ多分、無理だ!殺される!せめて、アヤ様を、アヤ様を救いに行こう!」
里は、いやこの国は襲撃されたのだ。間に合わなかったのだ。彼らへの、神への忠誠の証が。
神体山は神職とその従者しか入山を許されず、山の入り口に数人程度の警備兵がいる程度だった。神体山の麓に設けられた里でも有数の建物である神楽館を兼ねた神殿は既に多くの兵が雪崩れ込み略奪を始めていた。山から下りてきた二人にはそれ以外にも里の惨状を見ることができた。里は燃え、あちこちで多勢に無勢の一方的な殺戮が行われている。
目眩がして、思わず膝の力が抜けそうになった。親は、兄弟は、仲間は、皆、あの炎の中のどこかにいるはずなのだ。シルブハスの兵数人が笑いながら里の女の髪を引きずり藪に連れ込もうとしているのが見えた。女は必死に抵抗し、兵らはその姿を笑う。ハイの中の血が逆流し、彼女を救おうと走りだそうとしたがその手をクロが掴み引き止めた。
「なんで止めるんだよ!お前がいればあいつらの十人や二十人斬れるだろ!」
「馬鹿なことを言うな!アヤを助ける、入山道からじゃ間に合わない、斜面を登るぞ。」
クロの冷静な顔を想像し、こんな時にまでそんな顔をするな、そう叫びたかったが彼の顔はそうではなかった。その表情には明らかに焦りや恐怖が見えた。
斜面を這いつくばって必死に登りながら思った。これでは説明がつかない。友を、その大切な存在を奪ってでも守ろうと思ったんだ。でも、なにを守ろうとした?アヤやハイ、それだけだったのか?
山の中腹にまで登りクロは道に出ようと言った。山の勝手が分からずどこになにがあるのかが分からない。恐らくここまではまだシルブハスの兵は登ってきていないはず。道沿いにアヤを探すしかない。
少女のか細い叫びが聞こえた。ハイはあがっていた呼吸を止めその悲鳴をもっと探ろうとした。道をまだまだ登った先、彼女の声なのか?先程の女の姿を連想し、間に合わないのでは、思わず涙が滲んだ。クロ先に行け、そう言うまでもなく彼は信じられない速さで山道を駆け登り始めた。その姿に自分も走りだすが思うように体を動かせず躓き這いながらもその背を追いかける。なぜ彼はあんなに走ることができるのか。彼を探しに自分も既に山を幾つか走った。しかし彼だってあの姿、きっと自分の知らないところでなにかと戦い、更に走り戻ってきていたのだ。父親の言葉を思い出す。馬鹿なこと言うなよ。父さん、母さん、無事でいるのか?皆を捨ててアヤ様を助けに来たんだ。アヤ様、どうかご無事で。
這い登った山道の先に小さな神殿が見えた。既にクロの姿は見えず、やけに夜の山の空気は冷たく、そして静かだった。少し平坦になった道、ハイは胸騒ぎに襲われてよろけながら立ち上がり走りだした。神殿に近付くと聞こえだした声。これは泣き声、しかし彼女のものではない。
「アヤ様!」
神殿の中の小さな薄暗い一間は血の海だった。床には死体が三つ、首を刎ねられ転がる躯、躯から吹き上げた血が天井をも汚し、その中に一人クロは立っていた。ハイの声にクロは振り返る。呼吸を荒らげ強張った表情をしたクロと目が合う。
「遅かったな。」
クロはそう言い、笑みをこぼした。その笑みの意図を理解できずクロの向こうを見た。聞こえる泣き声。寝具の上で泣く子供達を抱え震えるアヤの姿があった。
アヤに近寄ろうとしたが最早足に力が入らず躓き膝を着いた。心に流れこむ安堵。良かった、崩れるようにハイは涙を流した。
クロは肩で息をしながらその姿に微笑み、アヤを振り返った。彼女はまだ震えたまましっかりと子供達を抱いていた。お姉ちゃん、彼女の胸の中でイーコが声を掛けても彼女は反応しなかった。
「ゆっくりとしている時間はない、行くぞアヤ。」
アヤは彼女の手を取るクロを見た。彼女はぎこちなく頷いて立ち上がる。
「この子らはなんだ?」
アヤは口を動かしたが言葉が出ず、代わりにイーコが答えた。
「私はイーコ、お姉ちゃんは神懸かりの後体調が良くなくてまだ療養中で、この子達はシンとラク、神官様に引き取られたここの養子なの。神官様が隠れているように、って、連れてきたの。」
二人の幼子はまだ四ツか五ツ頃に見えた。クロの血に濡れた形相に怯えたようにアヤにしがみつく。それに気付いてクロは自分の体を見た。二人の怯えた目にかつての自身が重なり思わず目を逸らす。
「水は、あるか。出る前に血を落としたい。」
「えっと、龜に水が・・・」
「泉がある。そこで洗おう、クロ。」
イーコは驚いたようにアヤを見る。彼女はアヤに大丈夫なのかと目を合わせたが、アヤは固まっていた顔でなんとか表情を作って彼女の頭を撫でた。
暗く、赤く揺れる山中。神殿の裏に湧く泉。ここにも蛍は舞って、何度も水面にさざなみを浸ける。
アヤは泉の前に跪いて神霊に赦しを乞う。代々里に生きし祖先らが守ってきたこの神奈備一帯が、そして恐らくここもこれからは荒されてしまうだろう。最後に皆を救ってくれた彼の、私達の穢れを祓い、これからの私達をお見守りください。彼女は祈りを捧げた後泉の水を掬い唇に浸ける。
クロは汚れた体に遠慮し、先に幼子三人に泉に触れさせ、そしてためらいがちにハイは泉に入り泥を落とした。クロが泉に入ろうとした時、アヤはクロの手を引いて泉に誘い入れた。水は身を切る用に冷たい。体調が良くないと聞いたクロは彼女を止めたが彼女は首を振る。
泉は蛍の光を反射して光点に包まれたように僅かに光を放つ。泉の中で彼女は背を伸ばしてクロの頭から泉の水を掛け、流れるように泉に浸かる彼の腰まで掌を這わせた。流れ落ちる血と泥。少女は何度も少年に同じことをして彼を清めた。
目の前の彼女の肌は神が降りていた時のように透けていて、彼女は本当に目の前にいるのだろうか。
見納めになる故郷。しかしその面影は無く、隠れていた里の住民を引きずりだし処刑する姿が燻る煙の中で垣間見えた。
ウズメ様、アヤは胸にあてた掌を強く握る。ウズメは彼女から出て行く際に思念を残した。良くないものが来る、と。良くないものを顕す思念は彼女の体を弱らせ、それを聞いた神官は彼女に神奈備に逗まるよう言い付けた。
「どこに、行けばいいんだ俺達。」
ハイが呟いた。その時低くしわがれた声が空に響いた。その叫びを最後に里の広場でガシライは首を落とされる。
彼は信仰になにを求めていたのだろう。違う、きっと彼は守ろうとしたのだ。それは里だけなのか?一体なにを?
背後で薄く、低く笑う声が聞こえクロは粟立つ。違う、違う、同じなどではない。
シルブハスへ行く、クロは答えた。なに言ってんだよ、ハイは彼を睨む。
「シルブハスに行くくらいなら俺はあそこに戻って斬り死んだ方がマシだ!」
「ここに留まればいずれ見付かる。野を彷徨えば獣に食われる。あの国は誰も拒まない。ツテもある。」
今にもクロに掴みかかりそうなハイを諌めようとアヤは名を呼んだが彼は反応せずクロを睨み続ける。二人の少年に怯えたシンとラクはアヤにしがみつき、イーコがアヤを邪魔しないよう二人を宥めた。
不安が漂う夜道を少年達は歩いた。クロ、ハイが彼の名を呼んだ。
「俺は納得しない。」
少年の目は彼を刺すようだった。だが決めたんだ。なにをしようとも彼らを守り切ると。
タカラオが笑った。
冬が来るはずの季節。その香りをかぐことなくこの国に着いた。今はその香りを懐かしく思う。何度季節が巡っても、あの香りには辿り着けない。
クロは日増しに言葉数を減らしていった。街から離れた僻地にある洞窟。その中に小屋を建ててひっそりと皆は暮らしていた。成長し、クロと同じくらいの背丈になったハイは今日も一心不乱に刀を振るっている。
日が落ちて暗い夜道をクロは帰ってくる。彼が持ち帰る食べ物や雑貨が皆を生きながらえさせていた。クロの瞳は出逢った頃の面影がないように見えた。
「あいつは元から目付き悪かったですよ。」
ハイはそう言った。
「お疲れ様。今日はお仕事どうだった?」
クロがアヤを見る。クロは静かに笑った。
「気にしなくていい。」
「今日はお肉があるねお姉ちゃん!」
ささやかな夕餉をイーコと一緒に調理する。アヤは笑ってイーコの頭を撫でた。
この国に来て初めて肉というものを口にした。当初はそれを体が受け付けなかった。しかし食べた。初めてこれを目にしたのはクロが助けに来てくれたあの日、部屋はそれで満たされ思い知った。なんて自分は恵まれた環境にいたのだろう。彼はずっとこの世界に生きていたのだ。そして得た糧を口にし、私は生きていたのだ。
あれから少しは成長した私は、あの時彼が自分に向けていた目の意味が分かる。きっともう神霊の声は聞こえないだろうな、肉に喜ぶイーコの姿を見ながら思った。
彼女らが調理している間クロはハイに技を教える。どれほど打ち合ってもハイはクロから一本も取れず、成長を焦る彼はいつも悔しそうに歯噛みした。
「ハイはまだこれからなんだからそんなに焦らなくてもいいのに。」
夕食の時間。子供、という言葉は使わなくなった。見た目だけで言えばハイは成長し、既にクロと歳の差を感じなかった。私も、いつの間にかクロの成長を追い越してしまった気すらする。
俺も、早く稼がなきゃ、食事に手を付けないハイは目線を逸らして言う。
「お前は稼がなくていい。俺が出ている間皆を守れ。それが役割だ。」
毎日繰り返される同じ会話、決まってハイはそこで黙りこむ。
「・・・俺だって男だ。あんたにいつまでも任せっきりでいられるかよ!」
穏やかな時間がハイの声で止められる。ハイは暫くして抑えきれず幼稚に声を荒げたことに気が付き、自分を恥じて食卓から逃げるように小屋を出た。
「ハイの分、食べてもいーい?」
シンが遠慮がちに聞いた。育ち盛りには食べ物が少なくアヤはそれを思って苦笑いし、イーコがシンを叱り彼は悲しそうに俯いた。
「俺の分を二人で食べろ。」
クロは二人に優しく話し掛け、ハイを追うため席を立った。
「ありがとう!クロ!」
背後からの無邪気な二人の声に、クロは振り返り微笑みかけた。
クロ達の小屋は洞窟の浅い位置に建てられていた。そこは大きな空間が広がっていてちょうど小屋の上の洞窟の天井には穴がぽっかりと開き、そこからは夜空が見えた。更に深く洞窟を潜れば常夏のシルブハスの外気温と違い肌寒さすら感じる気温となるが、ここは天井へと抜ける風が洞窟入り口から入り込み、人が住むには快適だった。
辺りを見回してもハイはおらず、クロはそのまま洞窟の入り口へと向かった。
ハイは入り口の傍にいた。洞窟の外、僅かな丘に群がる灌木の周囲は一面に草原が広がる。この地方は季節が乾季と雨季しかない。今は乾季でこのような景色が広がるが、雨季にもなれば一面浸水して景色は一変する。
「昔は、空なんかいつでも見れたのにな。」
近付いたクロに対してハイは呟いた。そうだな、返事をしながらクロは隣に立った。
「俺はあんたの仕事を何も手伝えないくらい弱いのか?」
ハイ達はクロに言われるがままこの狭い洞窟の中で引き籠り生活を続けていた。勿論街の様子は知っている。見たこともない酷い有り様だった。この国の暑さは全てを腐らせ、人が密集する街は異臭が漂っていた。物乞いが溢れ、餓死した死体が放置されたままになっているのも目にした。街の中には高い壁が築かれ、壁の向こうは壁の外側の世界と違い恐ろしいほどに整然と街並みができていた。そして自分達があちらへ行けばどちら側の住民なのかも知っている。
「それなりに使える方だ。安心しろ。」
「たぶん、あんたが昔言ってたツテってまともなツテじゃないんだろ?」
クロはハイを横目で見た。ハイは空を見上げたまま視線を全くよこさなかった。
「どうして分かる?」
「あんたは俺をずっと子供扱いしてる。たぶん里にいた頃から。たぶんだけど、あんたはまともじゃない仕事を俺にやらせたくないんだ。」
クロは返事をしなかった。その通りだった。自分がやっていることなど、自分が守ると決めた皆に関わらせたくない。
「お前は人を殺したこと、あるか?」
ハイは一瞬息を詰めた。あの日の夜を思い出す。ハイもなるはずだった穢れを食む者。傭兵や間者仕事、様々な汚れた仕事に手を出す。
「俺ももう十六だ。本当ならそろそろ経験してたはずだけど、ないよ。」
「俺はシンやラクの頃に・・・人を殺した。俺を育てたタカラオという男に強要されてな。ロクなものじゃない。あんなもの、しなくていいのなら一生しない方がいい。」
クロは不快に顔を歪めながらハイに説いた。
クロがここでその話を持ち出すということは、やはりそれに関係する仕事なのだ。あんなにも荒れた景色が広がる世界でよそ者が貧しいながらも六人分の食い扶持を稼ぐ、まともであるはずがなかった。
「じゃあ、じゃあ俺はこんな洞窟の中で一生あんたに甘えながらロクでもないことして稼いだ飯食って過ごせっていうのか?どう考えたっておかしいだろそんなこと。」
「ハイ。」
クロはハイに顔を向け、彼も彼を見返す。
「まともなことなんて、この世には存在しない。」
かつてはここも壁の内だったことがよく分かる。道は彫刻の入った石材で舗装されている。しかしその道は黒く汚れがこびりつき道自体が悪臭を放つようだ。うだるように暑いこの国は、その暑さがその狂気の全ての元凶なのではないかとすら感じる。
武装した集団に混じってその道を歩いた。道端で小さくなって存在を消そうとしている物乞いの目すら殺気立っている。小さな掘っ立て小屋を得た者達は慌てて家に入り、また、仲間達に連絡しているのだろう、急ぎ走り消える者を幾人か見た。
それ以上にこの集団は殺気立っている。いつ、どこから襲撃を受けるかなど分からない。されて当然の手先共。指揮を執るスニルのような存在以外は全員がこのスラム民と同じ身分であるはずの逃散民だった。
「イサイ、お前の腕、また見せてみろ。」
首をしゃくりながら半笑いのスニルがクロに指示を出す。
クロは黙って頷く。集団の先頭に立ち、ひっそりと佇む目的のスラムの街を歩く。
誰の姿も見えないのに強烈な視線を感じる。一人や二人ではない視線。ここ数日、連日行われたスラム民狩りでスラムの民はただやられるくらいならいっそ、そう殺気立っている。誰ももう僧に信仰を示して縋ることなど考えない。全て無駄なのだ。
イサイ、かつてタカラオが彼に与えたもう一つの名。彼のことを体現しただけの単純な名。それを自身の名だと思ったことはなかった。しかしここで真の自身の名を呼ばれたくなかった。
数件程の家を通り過ぎ、しかし誰も飛び出してくる気配はない。クロは一軒の家の前に立つ。押せば倒れるようなボロ小屋の、なんの意味もなさそうな扉に対してクロは蹴りを入れて扉を吹き飛ばした。
瞬間飛び出した棍棒を持った男をクロは抜いてすらいなかった刀で一瞬の間に斬り倒す。スニルはそれを見て手を叩いて喜んだ。彼に続いて武装した男達が家に上がり込み、その男の家族だろう、女子供を引きずりだして両手に荒縄を括りつけた。
「さっさと連れて行けー。女には傷をつけるなよー。」
ロクな女がいないことにスニルは舌打ちし、めんどくさそうに指示を出す。
その時周囲のどこからか男の叫び声が聞こえた。その叫びを合図にスラムのあちこちで叫びが湧き、一瞬の間にその声は集まって喚声となった。小屋々々の扉が勢いよく開かれ、それぞれに手に武器を持った男達が殺気立った目をこちらに向けた。
クロはその様子を他人事のように眺めた。囲まれた恐怖に殺気立つ武装集団。絶望的な戦いを挑もうとするスラムの民。一人小躍りしているスニル。どこにでもあのような狂気を宿す人間はいるものなのだろう。
戦いを挑んでも、戦わずしても地獄。棍棒や鉈や包丁といった得物を手に、簡単に装甲を施され人を殺す為に造られた得物を持った集団に襲いかかる。国を追われこの国に辿り着いてから永遠に続く赤貧生活を強いられ、既に殆どを失ったスラムの民は自身の命の価値を忘れてその穂先に向かい自ら飛び込んでいった。
スニルが集団に密集陣形を作るように指示を叫ぶ。一塊になった集団はスラム民と揉み合った。揉み合いながらもスラム民達は集団の剣や槍を掴み手先を集団から引き離し、引き離された手先は手足をスラム民達に引っ張られ文字通り引き裂かれて殺された。それを見た集団は更に恐怖を増す。
「イサイ何してやがる!さっさと援護しろ!」
スニルは小屋の中からただ様子を眺めているだけのクロに向かって叫んだ。クロの背後には目の前の様子にただ怯える数人の手先がおり、クロが振り返り彼らを見ると汗に顔を白くさせながら唾を飲み込んだ。
「背後に回るぞ。退路を作る。」
クロはそう言うと小屋の中に入って小屋の壁を蹴破って路地に降り立つ。補強材が殆ど入っていない土壁が崩壊すると路地に大量の土埃が舞った。その路地から裏周りし今日集団が通った道へと出た。集団を取り囲むスラム民達の背が見える。
「いいか、くさび形だ。相手を人と思わず物と思え。目の前の物を斬り伏せろ。恐れば俺達は潰されあいつらに殺される。死にたくないだろ?分かったな。」
クロの言葉に手先達は無言で頷いた。武器を握り、走りだすクロについてくさび形の陣を維持しながらスラム民達の背に突っ込んだ。
クロは一人の無防備な背中に刀を突き入れた。その衝撃に驚き振り返る男と目が合う前に刀をそのまま横に払って心臓を断ち、男は白目を向いて倒れた。刀を抜き、目についた一人の首を跳ね飛ばし、二本の頸動脈から血が螺旋を描くように吹いて血の雨が降りる。背後の様子に振り返った男の両目を奪う。戦おうとする武器を持った男の両腕を奪う。袈裟斬りに命を奪う。横に払う。縦に振るい、突き出し・・・
血で視界が染まってなにも考えられなくなる。彼らがなにをしたというのだろう。なぜ自分はこのようなことをしているのだろう。彼らと自身、似たような境遇にいながら、なぜ自身は彼らをこのように一方的に殺し、彼らは殺されるのだろう。なにを守るために、なにを犠牲にしている。
文字通りの血路はなんら罪のない罪人達の血で造られた。この国の暑さはすぐに死臭を立ち昇らせ、道の汚れと混じって薄汚く、明るく突き抜けた空が残酷に惨状を照らし続けていた。
スニルはイサイ達に気が付くと集団に向かって退路へ向かうよう声を荒げた。しかし半分近くがうまく逃げられず取り残され悲痛な叫びをあげる。
「逃げるな!」
退路から脱出した手先達に向かいスニルは叫んだ。手先達はその声に怯えたように立ち止まった。彼の命令に背けばスラム民など人と思わない彼にどのような恐ろしい仕打ちを受けるかが分からないのだ。
スニルは舌打ちし、顔についた血を舐めながら目を血走らせスラム民達を睨む。統率のとれていないスラム民は取り残された手先を八つ裂きにする者達と、背後に立つ手先達に対し身構える者達とに分かれ、決断を下せずスニル達に時間を与えた。
スニルは横隊を二列作らせ突撃を命じた。
少数ながらも狭い道。統率が取れた集団とそうでない烏合の衆。兵として武装した者達と武器と呼ぶにはあまりに粗末な物しか持たない者達。態勢を立て直し、組織だった集団はあまりに一方的だった。それまでに蓄積された恐怖が暴走し、戦う者も逃げる者も恭順を示そうとする者も全て同じ決断のもと道の汚れの一つとなった。
あまりに静かになったスラムの街は悲痛な声に染められた。荒縄に括られた女や子供、抵抗を諦めた男達も彼らは結果が決められた簡易宗教裁判にかけられ、異端者の烙印を押された後鉱山や南方の農場へと送られ農奴や遊女とされる。スニルような奴隷商崩れの豪族は教区を管轄する僧と結託し、日毎溢れるように増え続けるスラムの民を奴隷として仕立てあげて商売を行っていた。
これから身に起こる恐怖に怯え引き繋がれたスラム民達をクロは力無く眺めていた。彼らを見ていなければ自分が自分で無くなってしまうような気がした。自分はなにを考えた末にこのようなことを犯し、誰に咎められることもなく生きて、咎めない者の存在を思った時、彼らと自身に違いは無く、ではなぜ自身は今ここに立っているのだろう。それすらも分からなくなりそうだった。
ふと、泣く幼い弟を宥め歩く幼い姉弟の姿が見えた。
「シルブハスの犬め!地獄へ落ちろ!」
一人の女がクロの顔に唾を吐きかけた。
睨み続ける女の目を逸らせぬまま彼女を見送った。クロは恐怖に硬直していた。
クロの肩を誰かが叩き、驚き振り返る。
タカラオは言った。
「あんな邪教徒どもは斬り倒して構わないんだぜ。」
酒瓶をラッパ飲みしながらスニルは浅黒い肌で狂犬のような顔付きで笑う。
「てめぇはほんとに使えるな。頼りにしてるぜ、次も。」
強烈な日に照らされ霞む道の上で、クロは冷や汗を掻きながら動くことができなかった。
業を恐れてはいけない。業を受け入れなければ、俺が死ぬ。
妙になにも考えられない日が続いた。気が付けば時間が経ち、まとまらない思考が頭に浮かんでは消える。それでも家では、特に稼ぎが良かった日などは、 皆の笑顔に思わず微笑めた。それで構わないじゃないか、何度も自分に言い聞かせた。
「クロ。」
声の方を向くとアヤがいた。アヤは心配そうな顔で遠慮がちに近付いてくる。
アヤから見ても最近のクロはおかしかった。クロは小屋の外で壁にもたれながら座り天井の夜空を見ていたのか、違うのか、虚空に視線を漂わせていた。
クロはアヤを捉えると微笑む。その表情を見てなぜかアヤは複雑な感情を持った。暫くその理由を思った後、彼女はクロの隣に座った。
「何を見ていたの?」
「空。」
またクロは微笑む。その笑顔を見てアヤは悲しさが胸に広がった。そうだ、その笑顔はまだアヤ達が里で暮らしていた頃彼にさせたかった顔だった。今はきっと、クロはそのような表情をする時じゃないはずなのに。
「お仕事、変えることはできないの?」
「どうして?」
「どう見たって普通じゃない、最近のクロ。」
「何もない。本当だ。」
「嘘だ。」
アヤはクロの頭を抱いた。クロは驚き身を硬くする。
「私、里の中でさえ世間を知らなかったけど、それでもなんとか頑張る。ハイやイーコだってきっと同じ気持ちよ。あなた一人だからあなたは苦しんでる。神様はきっと全てをご覧になってる。なのにあなただけ苦しむなんて、そんな、お願い、私達にもあなたを手伝わせて。」
クロはゆっくりとその言葉を聞きながら、次第にアヤに心を委ねるように彼女の体に頭を預けた。暖かく柔らかい体からはとても甘い香りがして、初めての香りなのにどこか懐かしい気がした。
「昔は、俺は孤独だった。でも、今は違う。こんなに優しい気持ちになれたのは初めてなんだ。ありがとう、アヤ。」
二人は体を離した。アヤと目が合う。彼女はいつの間にか涙を流していて、天井の月がその涙を光らせて蒼い肌を伝わり、彼女をとても美しいと思った。
クロの頬にアヤの手が触れた。しなやかな指の感触がとても優しいと感じた。
もう一度彼女が近付いた時、二人は口付けを交わした。
小屋の中から少年が二人の様子を見ていた。やり場のない感情に気付いた時、しかし彼は目を背けた。
口付けの後、クロはまた抱かれながら彼女の心音を聞いていた。目を閉じるとこのままどこかへ行けるのではないか、そんな気がした。
目を開く。
洞窟の奥深くで首から血を流したタカラオが笑った。




