夢を見る少女
タカラオ。俺を育てた男。どこまでも憎んでいた男。巨躯の狼。友。間違いを後押しさせた存在。
どうして忘れていた?どうしてタカラオが傍らにいるなんてことを思う?
分からない。どうして?分からない。
見覚えのある天井。開け放たれた窓からは風が吹き込み、白くなびく亜麻のカーテンが弱い光に染まりながらはたはたと揺れる。
きっとあそこだ。初めて海を見たあの。
視界が太陽の光の中であるかのようにぼやいて、夢を見ているのだと思った。とても静かで、落ち着いている。こんなに心が安まる世界があるはずがない。体が重く、目を覚ましたくなかった。揺れる光を目に捉えながらもう一度眠りに落ち込もうとした。
ふと目の前に色濃い光があることに気付いた。その光は二つ、静かに揺れながら見下ろしてくる。
ぼそぼそと傍らで囁く声。
やめろ、俺は目を覚ましたくないんだ。夢の中で声を出した。このまま微睡んで、できればもう目を覚ましたくない。
「誰だ?」
耳元で誰かが囁く。
誰?何を言う。俺に教えて欲しい。どうして、俺は・・・
目を覚ます。部屋は明るく、朝だろうと思った。閉じた部屋は静かで、ベッドに腰掛けて大きく息を吐いた。ふとベッドの傍らの机に水差しがあるのに気付きそれを流し込む。水は砂のように流れ落ちていく。
ここは医務室。誰もいないが、セポイの医務室と似ている。ふと自身が裸なことに気付く。衣服を探し視線を巡らせると、床に乱雑に衣服が散らばっていることに気付いた。それを拾い集めて着替えながらなにか不思議に思った。
着替えているところに男が入ってきた。医務室。きっとクラウスだろうと思った。
「早く目覚めろ。」
イサイは男を見つめた後、無言で着替えを続けた。男は今度は椅子に腰掛けて話を続ける。
「どうして忘れていた?」
「何を言っている。」
不快な声にイサイの返事は自然と荒いだ。
「覗かれている、今お前は。」
「黙れ。」
「まだ忘れているのか?」
男は妙に癪に障る笑いをあげた。この笑いは不快なだけではなく、こう、足元が不安定になるような、腸がぐねぐねと蠢くような、なんだったか、なんだったかこれは。
黙らせてやる、イサイは振り返り気付いた。男はずっとこちらを見ている。そしてイサイはじっと男の顔を見た。にも関わらず、見えているようで顔が見えない。
「あんた、誰だ?」
男はもう一度笑った。
突然男の喉仏が吹き飛び、千切れた肉からは血が染み溢れ、肉の隙間からは血に溺れ呼吸を求めごぼごぼと気泡が起った。飛び出る血管から吹き出した血はイサイに降りかかった。
全身から血が抜けさるような恐怖。そうだ、これは恐怖だ。
「タカラオ。」
イサイが答えるとタカラオは一度笑い、彼の傷の血は止まり、しかし次第に体がぶよぶよと形を無くしていく。
「・・・思いだせ。忘れるな。クロ。」
どろどろと腐り落ちる体。それでもタカラオの目はイサイを捉え、口は動き続ける。
体を縛り付ける恐怖、思考を吹き飛ばす焦燥。これは悔。
「・・・・」
そうだ。ようやく分かった。俺はなにかを大きく忘れている。タカラオや、あいつのことでさえ俺はあの日再会するまで忘れていた。
でも、どうして、俺は忘れたんだ・・・
目を覚ます。体は強張り汗を掻いている。半身を起こし頭を抱えた。
いつも見ていた夢は、これなのか?覚えている。タカラオ。
体にはまだ恐怖が残っている。恐れるという心。それすらも忘れていた。そうだ、違和感。なにかを感じるとそれが押し戻し感情が消える。馬鹿を言うな。感情すら忘れていただなんて。
頭が混乱しそうだった。それでは今までなにを考え生きていたと言うのだろうか。屍も同然ではないか。なにも感じず、なにもかもを忘れ、ひたすらに手先として呼吸する。屍ではなければなんだ。神でも乗り移っていたとでも言うのか。
神?屍、荒魂。神懸かり。
突然湧いて出た言葉。なにかに繋がりそうだった。しかし大きくなる違和感を押しのけ恐怖が噴出し、心臓が早鳴りそれを阻害する。同時に既視感を覚える。世界全体が既視感で染まったような、目に映るシーツの皺にさえ既視感が生じる。
繋がらない。だめだ。繋げるべきじゃない。
渇く喉を更に干上がらせるようにまた体が汗を流し出す。だめだ、このままでは気が変になる。
イサイは周囲を見渡し、窓を見た。窓際に立ち、窓を開ける。
窓は爽やかな風をイサイに与え、風は全身の肌を撫で、体内に渦巻く熱を取り去る。新緑と深緑に染まるその景色はイサイから視界の焦点を奪った。
その景色に育った土地の景色が見えた。春、白煙と共に立ち昇る萌樹色。夏、夜中に響く川のせせらぎと人々のざわめきの中に浮かぶ光、秋、思いは深まり、守る、冬・・・
扉を叩く音。イサイは我に返る。思わず両手を見て、握り、離す。静かに流れる窓の外の世界。突然その景色のようにイサイは平静になった。その静かさにこれまで気付いたことがなかったのではないかと思うほどに静かだった。その中に確かに存在する自身。
相変わらず渇きは感じたが、あんなにも乾いていた口腔は湿り気が戻り始めていた。
もう一度扉を叩く音にイサイは思わず返事する。
ベアトリーゼはどこか足元が覚束なかったが取り敢えず廊下を歩いていた。どうしてこうも覚束ないのか、少し考えて昨夜のことを思い出す。顔がひとりでに赤く染まり、そんなのは当然だと思った。これを夢見心地とでも言うのだろうか。人生とはなにが起きるか全く予想がつかないものだ。
部屋を出てすぐにネイが向こうから歩き近付いていたことに気付き、ベアトリーゼは反射的に直立不動する。本当ならば姿を見た時点からすぐにでも立ち止まり道を開け礼をしなければならなかったのだが、ネイに気付くのが遅すぎ既にネイは訝しそうに彼女の顔を見ていた。
今更道を開けるのもおかしい、ベアトリーゼは緊張に冷や汗を掻きながらそのまま近衛衛士式の胸に手をかざす敬礼を行う。
「たるんでるな。」
ネイは顎先を上げて殊更不機嫌な様子だった。なんて間の悪い。なのにまだ頭がぼやけ、返答の言葉すら思いつかない。
ネイは光り転がる珠のような大きな瞳を鋭くさせてベアトリーゼを上から下まで一巡させた後、おもむろに近付いてベアトリーゼの体に顔を近付け嗅ぐ。そして更に見上げるように彼女の顔を覗いた。
なにを意味する行動なのだろうか、理解ができずにベアトリーゼは怖くなり目に涙が滲んだ。もしかすれば冗談ではなく殺されるかもしれない。しかしネイはそれ以上なにも言わずに立ち去った。ベアトリーゼはネイの姿が消えるのを待って大きく息を吐いた。
扉を開けたのはベアトリーゼだった。
「なっ、なぜ貴様裸・・・」
彼女はそこまで言いかけ、しかし背後に立つ衛兵への体裁を保つことを思い出し寸でのところで声を抑えた。彼女は横を向いて咳払いをし、イサイに衣服を着るよう言う。
イサイは彼女に言われ、そこでようやく自身が裸であったことに気付く。わけがわからない。込み上げるなにかを感じたが、とりあえずイサイは部屋を見渡し散らばる衣服を集め着替え始める。
「貴様が起きたら陛下に貴様へ言伝するよう申し付けられたことがあってだな、今日はここに来た。」
着替えを見ないよう目を瞑りながら彼女は言い、とりあえず衣服をまとったイサイを確認してから部屋に入り扉を締めた。イサイはそれを不審に思いながら彼女を見る。
「一つ、貴様は衛士だったこともあったそうだな。古い法に照らしあわせたところ異国の者は異国での身分に準拠させよ、だから貴様は我が国おいても衛士扱いとするそうだ。なので陛下から貴様に帯剣の赦しが出た。受け取れ。」
そう言いながら彼女はイサイに彼の刀を差し出した。イサイは受け取り刀を引いて刀身を確認する。刀身は長い間自身の手から離れていたのにも関わらず地鉄の表面に曇り一つなく、記憶の通り二カ所で白刃が揺らめき、地鉄の柾目の一つ一つが心を撫でるかのように存在する。
「確かに受け取った。ありがとう。それを伝えにきてくれたのか。」
無口で無教養なガキだと思っていた彼から思わぬ言葉を聞き、彼女は若干衝撃を得る。一方的に伝えて去ってしまおうと考えていたのに、やりづらい。
「それとだな、その、もう一つ。昨夜の会食での、話だが・・・貴様に対する無礼、済まなかった。陛下にあの後お叱りを受けた。私は貴様を敵視しすぎていたようだ。」
それを聞いたイサイは込み上げるなにかを再度感じた。彼女は彼の表情をみてどこか恥ずかしく、同時に悔しくも思い、負けず嫌いさからくる言葉を吐いた。イサイのその顔には微笑が蓄えられていた。
「ほぅ、貴様のような無愛想なガキでも愛想笑いの一つくらいはできるんだな。」
イサイはその言葉の意味を理解しかねたのか首を傾げる。彼女はそれに苛立ちを覚えたが、言うことは言ってやったと満足することにし部屋を出ようとした。
「首元にアザができてるが怪我でもしたのか?」
アザ?彼女はなにを言っているんだとばかりの表情を浮かべたが、すぐに顔を赤くしながら首元を押さえた。
「む、虫だ。虫の奴にやられたんだ、いや違う、虫などでは断じてない、いや、き、貴様には、貴様には関係ないだろう!」
彼女は理解しかねる態度を取りそのまま部屋を出て行った。イサイはその背を見送りながらもう一度首を傾げた。
拍子抜けしていた。エリザは楽しそうにしていて、この空気にイサイもまんざらではないようだった。こいつならもっと顰め面しながら上の空でなにかを考え、もっとそうだ、期待していた。船上であったような会話をすぐにでも続けられるような期待を。
エリザと会話していて嫌な気分はしない。だけどどこか上滑りしている。自分はこんな平穏な空気にどっぷりと浸かっているべきじゃない。
ユーリはエリザの健診に付き添うことになった。エリザは勿論ユーリも時間を持て余しており、短い健診の後にイサイの部屋で茶を飲むようになった。
嫌な気分がしないなどと言いながらも、エリザの男性禁制の修道学校の話は同じく男であるユーリにはとても興味深かったし、ユーリの士官学校の話もエリザはよく聞いてくれた。イサイはあまり会話に加わらないまでも、ユーリ達が驚いたことに彼は笑った。声を出して笑うということもするのだろうかという興味も湧いてエリザと一緒にイサイを笑わせようと色々な話を出したりもした。そうだ、楽しかった。楽しいと感じれば感じるほど、一人になると腹の底がざわつき、気分が沈んだ。
いつまで自分はこんなことをしているのだろう。怪我が治るまで。腕の固定はとれ、腕を動かす練習も始まった。たった数ヶ月の間に見る影もなく左腕は細れ、更に指の引き付けが残った。以前のように剣を振るのはもう難しいのかもしれない。昔は衛士を目指していただなんて笑わせる。糞の役にもたたなかった自分の剣技、そしてこのザマ。調査隊に参加した時騎兵科を志望していた。しかし左腕一本で手綱を操るのはもう難しいのかもしれない。
兵科が決まるまではまだ日がある。違う答えを探さなければ。
「ユーリ、何かあったのか?」
クルトのことを考えていた。左腕の練習はエリザも同行してクラウスの診療所で行っていた。一時の容態はユーリよりも悪かったのに、来期の兵科学校に合わせて部隊配備が内定したのだという。クラウスはユーリにももうすぐだと言って励ましてくれたが、そうではない。クルトは猟兵科を志望したのだという。近衛歩兵だって悪い兵科ではない。だが人気が集中するのは騎兵科であり、最近では砲兵科もそうだ。
「騎兵はこれからは下火になっていくと思ってな。ちょうどいいさ。砲兵は逆だろうけど。でもいずれ主役は歩兵になる。それに昔みたいにお前に馬鹿にされないように最前線にいたいと思ってな。今度は馬鹿にしてやるよ。」
歩兵が主役なのはある意味当然だ。昔からそれは変わらないだろう。その中でも猟兵科。散兵戦術を基本とする兵科だ。ニーエル銃がこれから主力になれば確かにより重きを増していくのかもしれないが。
この数日ユーリは口数を減らし、健診後の会話も早く切り上げるようになっていた。なのに今日はエリザの来る前の随分早い時間から来てなにをするでもなくイサイの部屋にいた。机に足を乗り上げ背もたれに体重をかけてゆらゆらと椅子を揺らしている。
クルトやエリザにはこんなこと情けなくて話せない。しかし自分からは滅多に口を開かないイサイが話しかけてきて、そこまで分かりやすかったかと恥ずかしさを感じた。
「お前こそ、なんか変わったよな。」
ユーリは話題を逸らした。
「お前と世間話ができるなんて思わなかった。」
イサイはアイシャのことを思い出す。
「以前魔女と食事をした。それからだろうな。」
「お前、魔女って陛下のことか?」
言いながら、ユーリの中で女王と同席したことを羨む気持ちが以前よりも薄れていることに気付いた。それがなぜか、考えるよりも先にイサイは言葉を繋ぐ。
「ああ。エリザは聖女だと言っていたな。」
「あのなイサイ。俺は近衛の士官だ。まぁいいや。他の近衛の前では絶対に言うなよ、それ。」
「以前なら俺もあり得ないと思った。でも正反対のものが一体するというのは自然なことなのかもしれない。」
「話聞けよ・・・でどういう意味だそれ。矛盾っていう奴じゃないのか。」
「矛盾はしない。ユーリ、何も考えないというのは考えすぎていることと恐らく同じだ。」
「お前、人の心でも読めるのか。」
ユーリは驚き、半ば冗談でなく言った。同じ立場にいると考えていたクルトは怪我に苦しみながらも違う答えを既に見付けていた。自分は怪我に焦り、焦ることを止め、次のことを考えてまた焦り、そして平穏な日々に甘え、また甘えることに抵抗を感じ始めていた。
どうしてか考えられない。考えなければいけないのに、思考は一気に頭の中に溢れ、考えなければいけなかった事柄が消えてしまう。自分でも情けなく思うほどに焦りと怠惰が繰り返されるだけになってしまう。
ユーリの発言にイサイは考えこむ仕草を見せた。
「おい、本当に読めるとか言うなよ。」
俺は読めない、イサイは言った。
連邦国は工業で潤う財政を背景に連邦内を要塞化し、更に火器を充実させ国を守ってきた。国内で造りだされる製品はシルブハスへと輸出され、彼の国からは農産物や鉱物資源といったものを輸入してきた。
しかし今や連邦国の製品の優位性は失われつつあった。南の友邦エスロームは増大する資源輸入に比例するように製品を大量に送り出してきた。今や国内の幾つかの産業は壊滅的状況にあり、特にハタウ以外の構成国では日増しに失業者が増え彼らは国を抜けるようになった。今日もハタウの国境で逃散民達は女王に慈悲を乞う。しかし既に国内に受け入れる先は見当たらなかった。
連邦の南西、フォン川の対岸、そこでは連邦の命運をかけるといっても過言でない一大事業が行われている。その一帯を開拓し、連邦を拡大する。
築き上げた連邦を守る国境線の要塞群。そしてその防御線を擁護する幅広く地域を援護する機動防御戦術を念頭に構成された師団制。それらの戦略によって生じた余剰兵力を引き抜いて開拓地を防衛する。国内は元より連邦内において大々的に植民者を募り、逃散民も次々にそこへ送られていった。しかし今、少し事情が変わり逃散民を送ることがためらわれる状況になった。
かつて連邦国が価格と均質性と生産力でシルブハス製品を駆逐したような勢いを彼の国の製品に感じる。なぜエスロームの製品が優位に立ったか、それは今は分からない。だがやれることはやるべきだ。
執務室で埋もれるような書類の中でアイシャは顔を上げた。眼鏡を外し時計を見ればもう夜半に差し掛かっている。立ち上がり、酒棚から蒸留酒をとってグラスに注いで胃に落としこむ。強烈なアルコールが体に染みる。
息をつく。疲れてはいるが、妙に冴えている。
「ネイはもう寝ちゃったかしら。」
執務室は寝室と繋がっている。その寝室を挟んでネイの執務室があった。ネイは机に伏して眠っていた。少しだけ微笑んでからネイに自身のカーティガンを掛ける。
「暇ね・・・」
女王はネイを起こさぬようそっと部屋を出た。
女王はシルブハスから来た少年の持つ剣にも興味を抱いていた。さもすれば礼装用の剣の如く細く、なのに議会では衛士の持つ大剣をもいとも簡単に割いて見せた。あの剣は製品として適している。その容姿と鋭さ、きっとシルブハスの貴族や有力者達にうけるはずだ。剣の製法か、シルブハス製の鋼に優位性があるのかどちらかは分からない。仮に量産できずとも連邦内の製鋼にも影響を与えるかもしれない。
同時に杞憂もあった。衛士は連邦において軽歩兵と呼ばれる兵科でもあり、かつては精鋭部隊の一翼も担っていた。しかし今や戦場を槍剣を振り回し敵を制圧するなどと連邦では前時代的とされていた。今や籠城戦、野戦においてでさえ主力は間違いなく小銃を携えた歩兵であり、砲兵だった。軽歩兵は槍兵に次ぐ守備的な用兵に用いられるか、儀礼や、要人護衛の為の存在でしかない。
しかし人外に銃が効かないことは度々報告があった。そして今回のイサイの剣の報告は俄に軽歩兵科を活発にさせた。銃を通さぬ毛皮を通し、剣を割く剣があると。そんな魔法のような話を信じ、シルブハスの影響もあり、その声は決して軽視できるものではない。
「あなたの刀、だったかしら。この国でそれ、造ってみない?」
夜遅く、女王は突然部屋を訪ねてきてそう言った。アイシャと会うのはあの日の晩以来であり、イサイはアイシャを目の前にして動揺がないわけではなかった。しかし女王はイサイが意外に思うほどあの日の晩のことに触れなかった。
「変わった鉄よね。見た目もとても美しいわ。シルブハスではそういう剣ってそれなりに出回ってるのかしら?」
シルブハスでは違う。連邦国やエスロームから輸入される槍剣が広く使われている。燃料である森林資源が過度に不足しているシルブハスでは自国で鉄を生産することが実質的に不可能となっていた。
「鍛刀か。」
イサイは慎重に過去の景色を思い返す。どの景色に触れるとあの混乱が襲うのか分からなかった。朧げに覚えている。この刀はタカラオを殺す為に鍛えた。憎悪を込めて打ち続け、研ぎあげた。そして、どうしたんだろうか。この刀で・・・
アイシャの視線に気が付き、いつの間にか呼吸が荒いでいることに気付いた。
「頭撫でてあげようか?」
女王は優しく微笑んだ。しかしイサイにはそれが妖しげに映り、そして女王の肌に目が行く。薄っすらと汗を掻きながら首を横に振る。
「あれから思った。たぶん、いや、お前の言うとおりだ。」
お前、自身のことをそう呼ぶ少年に対し女王は若干の衝撃を受ける。
「俺は、何かを忘れている。お前は俺を僧侶だと言った。うまいことを言う。表裏は一体、聖と邪は混同する。神は・・・」
人に惨禍も加護も与える、言い掛けて止める。この国でも神は絶対の存在のはずだ。
どうしたの?アイシャは聞いたが、少年はもう一度首を振って口を閉ざした。アイシャはクスリと笑う。
「そう。分かった。さっきの話は今はいいわ。じゃあそうね。一つ私の命令を聞きなさい。」
タルクザレ構成国。かつてここはタルクザレ王国と呼ばれた。
ハタウはタルクザレを呑み込むように大きく国境を接しており、それはかつて女王と現元首であるカスペリ老議員が激しく争った結果であった。彼は連邦内において最も敬虔なマーブ教信者であり、争った理由もそこにあった。今ハンスが領すハタウ北方の製鉄産業地帯も元はタルクザレの領地であり、彼の国との国境は近い。そしてハタウを目指す逃散民が最も数多く出る構成国でもあった。
「なぜ俺がお前の命令など聞かなければならないんだ。」
「あっらぁ、どのお口がそんなこと利くわけ?タダ飯ぐらいのくせに。あなた私が女王陛下様だってこと忘れてない?」
なんの畏れも見せずどこまでも生意気な口を利く少年がおかしくも感じた。今やもうこの国ではアイシャに対しこのような口を利く者はいない。対等な存在ならば一人だけいるが。・・・こういう少年がいるのも悪くはない。
「あと、せめて私のことは名で呼びなさい。」
「そう言えば名を聞いてないな。」
言われてアイシャは二つの意味で面を喰らう。ここは外交の場とも違う。どちらにしろ一個人が彼女の名を知らないということはあり得ないことだった。
「私はファルーク・テルイ=カチーブ・ハタウ。名はアイシャよ。好きに呼びなさい。」
アイシャは笑い、名乗る。
「アイシャか。分かった。」
敬称もつかない自身の名。思わず昔を思い出す。
「でも、私のネイに気をつけなさい。あなたたぶん、本当に殺されるわ。」
これも軍人としての仕事なのだろう。なのに、場違いである、そんな感情が全く拭える気がしない。集中できない。
ネイ、ベアトリーゼ、ユーリ、イサイ、更にエリザの一行は馬車に乗りハンスの館を目指していた。エリザは憧れのネイと一緒の馬車に乗っていることで妙にそわそわとしながらもかしこまっている。彼女は実修先が決まる見込みが立たず、更にはイサイが館を出ることで館にいる意味も失い、故郷であるタルクザレへの一時帰郷が許され、女王の計らいで一行についで馬車に乗ることになった。
ユーリはイサイを見た。ユーリは近衛士官の軍服でなく近衛衛士の軍服を着ており、彼も自分と同じ軍服を着ている。妙なことになったものだ。
「失礼します、ネイ様。」
ネイは腕を組み目を瞑っていた。その瞳が大きく開かれると、ジロリとユーリを見た。
「私は私の任務を詳しく知らされておりません。一体どのようなことなのでしょうか?」
ネイは暫く鋭く彼を見ながら間をあけた。なにかまずいことを聞いてしまったのだろうか。
「光栄に思え。」
彼女はそれだけ言うとまた元の姿勢に戻った。
は、はぁ、とユーリは気の抜けた返事をした。なにを光栄に思えというのだろう。
ハンスの館では彼の夫人が出迎えてくれた。彼同様白髪のアンナ夫人に対し、意外なほどネイは慇懃に挨拶を行った。少女の風貌のネイがそれを行うのは見た目には自然な風景なのだが、議員に対してでさえ猛烈な態度を取ると聞く彼女がそんな態度を取るとは不思議に思えた。
「あなたがユーリさん?」
はっ、ユーリもネイに倣いアンナ夫人に対し近衛衛士式の敬礼を行う。
「ハンスからもあなたのことはよく聞いておりました。応援していますよ。」
彼女はそういうと笑う。その笑顔にどこか懐かしさを覚えユーリは一瞬気を取られたが、すぐにありがとうございます、礼を述べた。
その懐かしさの理由を部屋に案内されてからもずっと考えていた。
「母さん。」
結果、頭に過ぎったのは母親だった。それに気付き、ユーリは思わず顔を険しくさせた。
一行はその館に一泊することになっており、夜半に差し掛かる頃ユーリはハンスに呼ばれた。
久しぶりに会うハンスは、船上では威厳を崩さないようでただのとっちゃん坊やほどにしか思っていなかったが、妙に落ち着き貫禄があった。やはり女王の信任厚く、近衛、国防両軍に精通しているとされる彼はただの爺さんではないのだと改めて思った。
話が始まり、ユーリは当初なにを言われているのかよく理解ができなかった。ようするに、近衛から離れ更にはハンスの麾下にいろ、つまりはハンスも議員らしく私軍を持っており、ひいてはユーリにその私軍に所属するよう言っているように思えた。
連邦国には三種の軍があった。常備軍として最大兵力を持ち、最新鋭の装備と即応性を兼ね備えた近衛軍。有事において国民を召集し全軍の中で最大規模の兵力を持つ国防軍。そして女王が私軍として近衛軍を持つように、多くは構成国の元首である議員達も私軍を持った。ただし私軍はあくまでも領地の治安維持を目的とした組織であるとされている。
「なぜ私が、お言葉は悪いですが私は陛下をお守りし、いや国を守るためには近衛に所属することこそ最もそれに貢献できると信じこれまで努力してきたのです。ハンス殿を軽んじるわけではありませんが、私はそのようなこと了承しかねます。」
ユーリは母のことを思った。母だけじゃない。父親や、姉、弟、妹達、そして伯父さん・・・
ハンスは彼の話を聞きながらパイプに火を点け一度だけふかした。彼は興奮気味だった。
それはそうだろう。彼を勧誘するにあたって彼の生い立ちを調べた。あの学生達の中で彼が彼の人間性からして想像しがたい態度を取っていたことに納得がいった。彼は自信過剰や傲慢さからあのような態度を取っていたのではなく、それだけ本気であり、どこまで出世ができるかが頭から抜けない貴族達と相容れるわけがなかったのだ。
それだけに惜しいと思った。きっと彼はあの組織に放り込まれれば潰される。あの組織は未だ貴族社会が色濃く残ってしまっている。セミォンが度々ハンスの下へやってきてはそれについて陳情していた。本来近衛・国防両軍に上下関係などなく互いに連携が必要であるのに、彼らは上下関係に基づいた連携を望んでいる、と。
「ユーリ、かつて近衛は我が王の私軍であったのだがな、今や近衛軍は精鋭軍ほどの意味合いになっておる。恐らくお主もその認識じゃろう。議員が私軍を持つのに対しての、今や近衛は我が王の私情で動かせぬほどに組織は肥大し我が王は手足を縛られたも同然じゃ。」
妙な切り口でハンスは語り始めた。
「しかしそのためにネイ様がおり、数多くの近衛衛士がおります。それに近衛を動かしてまでことにあたることと言えば獣共の攻勢以外に何があるというのです。」
老獪な老人に丸め込まれてしまった気もした。女王は近衛軍、国防軍、議員に続く第四派を作ろうとしているという。その為にハンスに狭いながらも財政豊かな領地を与え、更に議員の権限を持たせ、領地の私軍として計上する予算をその組織に使うという。
ネイを筆頭として数多くの衛士が既にこの組織に内々に所属しており、テオフィルスやルニィら近衛軍や、国防軍からも人材は集まってきているのだという。私軍は私軍であるが、女王のやりたいように軍の編成を行い、一個の私情で動かせる軍。しかし内偵や諜報も主目的とした組織。本来の意味での女王の私軍。
「どうしたんですかユーリさん。」
エリザが黙っているユーリの顔を覗き込んだ。ユーリは驚き声をあげ、それを見て彼女は楽しそうに笑う。
夜、寝るまでの時間。エリザと二人館の庭を散策していた。
「女王様の館もとても綺麗でしたけど、ここの館のお庭も素敵ですね。」
バラを中心に背の高い草花と背の低い草花を組み合わせ、二人肩を並べるのがやっと程の庭道沿いに花壇が続く。まるで花で作られた世界の中を歩いているようで、エリザは感動したように手を組む。
腹の底で激しく回転するかのような焦りも、彼女と会話していると一時的にでも忘れられる。彼女が喜んでいる姿を見ると特に。同時に、忘れていいだなんて都合のいいことを考えるな、叱責する声が今にも耳に響いてきそうだった。
館の庭はアンナ夫人が熱心に手掛けているという。しかしエリザには少し疑問に感じられた。どこか女王の館の庭に似ている。規模は比べるまでもなく格段に違うのだが、植えられている草花や配置がどこか似ているように感じられたのだ。
どう答えていいか分からず、ユーリは曖昧に笑った。エリザはそんなユーリにも疑問を感じた。
今ユーリはその仕事にあって、更にネイのような偉い人と一緒にいたから普段と態度が違うのは理解ができた。でも館に出迎えられた時の様子や今の様子、全く普段の彼と違う。
「ユーリさん、どこか具合が悪いんですか?」
「どうして?」
「あの、お館に着いてからずっとユーリさん暗い顔されてるような気がして。」
イサイの時の態度はともかく、エリザには気取られないようにと気を張っていたつもりだった。そんなことないよ、言おうとしたが思う。どうして気なんか張るのかと。見栄を張りたいからか。クルトとの船上での会話を思い出す。自分は見栄を張れるほどできた奴でも、見栄も張らないのに自分よりできた奴がいる。そんなつまらない見栄なんか張るな。
「その、さ・・・今、ちょっと悩んでることがあって。」
そこまで言葉を紡いで、口ごもった。人に悩みを打ち明ける、思えばそんなことをしたことがなかった。家族がいればきっと家族に聞いてもらったのだろう。今のように、もっと人に心を開く努力をしてくれば級友へ悩みを話す機会もできていただろう。恥ずかしい、情けない、どう表現すればいいのか。自分でも馬鹿のように抵抗を感じた。
エリザは暫くユーリの様子を観察していたが、ニコりと笑って立ち止まる。
「ユーリさん、私は今こう見えても修道女ですよ。それは勿論将来修道女になるわけではありませんから立派な修道女だとは言えませんけど、今なら神父様の真似事くらいは務まります。」
そう言うとエリザはユーリに顔を向け、手を組み目を閉じた。
「はい、どうぞ。」
ユーリはそれを見て顔を赤くし思わずエリザから目を背けた。エリザは懺悔を聞く姿勢を取ったに過ぎないのだが、咄嗟に船上にて彼女の唇を意識した時のことを思い出してしまった。
高鳴った心臓を落ち着ける為に呼吸を整え、落ち着きを取り戻すとユーリはまだその姿勢を取り続けているエリザをチラリと見て思わず可笑しさを覚えて笑う。
「ああ、どうして笑うんですか?酷いですよ。」
ごめん、謝ってからユーリは思った。馬鹿にされたり、なんでもない話だと一蹴されたとしても構わないじゃないか。彼女がそう思うのなら、きっとそれは本当にその類の悩みなのかもしれない。怖がっていたんだ、俺は。
「近衛に入る為に故郷を出たんだ。それから誰にも負けないって思いながら努力してきて、その結果もそれなりだった。でも怪我しただろ。入れる予定だったんだけど、あれで入りたかった兵科学校に入れそうになくなったんだ。だから違う兵科を考えなきゃいけない。負けないなんて思ってたのにただでさえもう出遅れたし、今はもうそれなりの結果どころか下の方にいるのかもしれない。何かをする必要があるのに、今の俺は何もできてない。だから・・・」
「不安に思ってしまっていたのですか?」
エリザを見た。まだ同じ姿勢でいるのに、明るかった表情には曇りがあった。
不安を認めたくなかった。自分はそんな弱い人間なんかじゃない。そうあらねばならなかったし、そう思いたかった。でもそうだ、もう隠せない。彼女の表情を見ながら自然と思った。
「うん。不安だった。そんなこと思いたくないけど、不安だった。それを消す為に色々と考えなきゃいけないのに。考えることもできなかった。」
「どうして、考えることができなかったのですか?」
「どうして?どうしてかな。考えようとすると凄く焦って、違うか。不安になって、そんな自分が嫌で、焦っても仕方ないなんて考えたりしてた、のかな。」
「私はそういう時、神父様にお話を聞いて頂いたり、お父さんやお母さんにお手紙を書きます。お手紙は書いてるだけで心が落ち着いてきますし、お返事があるととても勇気付けられます。ユーリさんはそういうことはされなかったのですか?」
ユーリは苦く笑う。教会なんてもう何年も足を運んでない。親も・・・
「父さんや母さんは死んだんだ。姉ちゃんや、二人の妹も、弟もみんな。ずっと昔に。」
苦く笑った後、なにを笑うことがある、そんなことを思い自分に嫌悪を覚えた。ふと空を見た。短い夏が終わって、もう時期秋が来る。収穫が終わった後は常に幸せな時間が流れていた。秋の夜が好きだった。冬の燕麦の種蒔きの忙しさが始まるまでの僅かな時間。家族でご馳走を作って夜に家の外で皆で収穫を祝いながら食べるんだ。
えっ?エリザは声を上げて思わず目を開いた。目の前で、ユーリは涙を流していた。
「たぶんそうだ。怪我するまでは、あんなに大切だったのに死んだ皆のことを思い出すこともしなかった。その代わり自分は皆が喜んでくれるくらい努力して、立派になって、皆の為に敵討をして、そうしたら皆が許してくれるって、もう一度笑いながら昔を思い出せるようになるって、ずっと思ってた。もうすぐ許してもらえるって、ずっと思ってたのに、全然自分はそんな場所にいなかった。まだ許してもらえない。このままじゃ一生許してもらない。凄く怖くて、不安で、だから、何も、考えられなかったんだ。」
嗚咽が漏れでて言葉に詰まりながらも、頭の中は冷静に、鮮明にいつかの光景が流れ続ける。
「やっと、ちゃんと、皆のこと、思い出した。ずっと、思い出したかったのに、怖くて、思い出すのが悪いこと、なんじゃないかって、皆に会いたい、もう一度、皆で月と星見ながら、ご馳走、食べたい。」
自然に体が動いた。彼の頭を取って胸に抱き寄せる。
ユーリは一瞬驚いたように息を潜めたが、すぐに胸の中で静かに嗚咽を続けた。
エリザは自分でも自分の取った行動に驚いた。こんなことをするのは将来を誓い合った同士だけだと思っていた。しかし違う。この胸に湧き上がる感情は一体なんなのだろう。とても柔らかい感情。それで彼を包み込んであげたいと思った。
頭を撫でながら、静まるまで彼を抱き続けた。
草木と、花々の香りに包まれた夜の庭園。素敵だとか、綺麗だとか、そんな言葉は消え去った。降り注ぐ月の灯が、ぼんやりと二人を照らし続けた。
ようやく約半分です。




