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細動

 王都エスカテリン。この都市はなだらかな盆地に建設され、セポイ市と繋がるフォン川を水源とする巨大なアンバンス湖を擁し、その周囲には人によって管理された森が深く根付く。この季節、緩やかな山に阻まれて雲は薄く広がりながら都市の周囲を這うように漂う。

 エスカテリンは初夏を過ぎようとしていた。

 土地が移ろえば季節の意味は変わる。この土地の夏と呼ばれる季節は自身の知る夏とは全く違う。窓越しに冷気を感じ、感じたことのない淡い季節の香りがする。

 イサイは部屋で過ごす殆どの時間を窓際に腰掛けて過ごしていた。

 窓の外の整然とした庭の向こうには奥深い森が続く。僅かに見える湖は木々の影を反射して深緑に輝き、静かに風を受けて水面が薙ぐ。その森の奥に淡く霞む山が折り重なる。

 時折強い風が吹いてガラスが震える。

 高く青かった空は翳り、空を囲っていた雲が伸びて空を覆う。空を覆った雲は落ち始めていた空を一層暗くした。窓の隙間から大地を湿らせる風の香りが入り込んでくる。

 雨が振った。

 雨に濡れて木々は暗さを増した。揺れる湖面が灰色に染まる。遠く霞んで見えた山は雨に掻き消されて、空が落ちてきたかのように景色を煙らせる。

 ただ外を見ていた。なのに、外で変化していく景色のように変化があった。体が重く、その場に縫い付けられてでもいるように錯覚する。そしてようやく頭が動きだす。

 雨は見えているようで見えない。雨は降っていることはわかるのに、全体を捉えられても一粒一粒を見ることができない。それでも時折窓の近くを落ちて消える一粒は捉えることができる。

 過去のこと、ここに来て思い出させられることが頻繁に起きる。あんなにも見なくなっていたのに。見なく、なっていたのか俺は。そして、過去を振り返る時激しくなるこの違和感は一体なんだ?

 過去を思い出そうとすると、所々で心臓が鳴り、別の場面では違和感が激しく体に伸し掛かりその場で時間が止まってしまう気すらした。

 銀狼・・・

 覚えているようで、思い出せなかった。確かに彼の幼い頃を知っていた。その亡骸を目にした時腹から沸き起こったなにか。しかしそれを押し戻した違和感。違和感に押し戻されそれがなにかを知ることもできずにどこかへ消え去った。

 イサイは傍らを視界の端で見る。何度見ても、そこにはなにもいない。

 雨が止む。雨上がり空は黒く、響く雫の音。

 いつの間にか光を失った空の雲の合間に時折月が見え隠れした。空の風は強く、セピアの雲の移動は速い。明るい月が景色を照らしたり、隠したりする。月が出るのが待ち遠しくもあり、もういっそのこと月など出てくれないでいて欲しかった。

「貴様、いるのなら返事をしろ。」

 扉を叩く音がしていたことに気付いたのは、扉が開く音がしてからだった。

 ベアトリーゼは声をかけるがイサイは窓の外を見たまま動かない。暗い部屋で唯一差し込む光がイサイを浮かばせている。部屋を見渡す。ベッドは端女が整えたままに乱れがなく、置かれた水差しの水はなみなみと注がれたまま光を透かしている。

「・・・聞いているのか?」

 訝しんで再度彼女が問いかけると、ああ、と彼は背中越しにようやく返事をよこした。

「今夜我が王が貴様と食事をされたいそうだ。」

「なぜ。」

「なぜ?貴様にそんなことは関係ない。貴様はただ従え。」

 イサイはまた返事をしない。

「おい、聞いているのか。」

「勝手にしろ。」

 横柄な態度にベアトリーゼは苛立ったが、そのまま踵を返して部屋から出て行く。

 窓の外で霞む世界。

 なにが違うのだろうか。あの国の、ドブのような世界と。なにか違うのだろうか。



 エリザは衝撃的な場面を目撃した。高鳴る胸を抑えながら身を隠し、そのままそこを去るかどうか悩んだ。しかし確かに今日は彼女に尋ねると伝えていた。エリザが悩んでいると無事彼は診療所に入り、そして彼女は門の前でエリザの到着を待つように立った。

 華の王都、そして女王の館での生活は刺激的であり、同時に退屈でもあった。クラウスやアリアネは違ったが、まだ実修も終えていない彼女が士官達の遡上船に乗ったのは一つ事情があった。もうすぐ獣が攻勢をしかけてくるかもしれない、そんな情報を掴んだ彼女の父が孤立している都市セポイから彼女を疎開させるために手を回したのだった。エリザはそのようなことを知らず、次の実修先が決まるまで待機し、引き続き本来であればまだ怪我が治っているはずのないイサイの看護を継続することが課されていた。

 この土地に知り合いが殆どいない彼女にとって、唯一心許して話をできる先輩であるアリアネに会うのは非常に楽しみなことであり、彼女が働くことになったクラウスの開いた診療所に訪れたのだが、まさかあんな光景を目にしてしまうなんて。

 アリアネの部屋でエリザは妙にそわそわと落ち着きのない態度で会話を続けていた。いつもならまだ女王様を見たとかネイ様を見たなどと騒がしくしている時間なのだが、なぜこの子はこのように分かりやすいのだろう。アリアネは彼女をおかしく思った。

「で、何があったの?」

 脈絡のない突然の突っ込みに驚きアリアネを見る。アリアネは既に修道学校の制服を脱ぎここでの看護服に着替えている。自分と違い髪を出したアリアネがそれまで以上に女性らしく見え、なぜかエリザまでもがどぎまぎとしてしまう。エリザは聞こうとして、しかしためらった。このような都会に自分と違い既に馴染んだように見えるアリアネは自分などとは違うのだ。

 彼女は中々口を開こうとしない。なにかあったのかを聞いて、返答に詰まるということはなにかがありましたと言っているようなものなのに。

「もうエリザ、早く言いなさい。」

 アリアネに睨まれ、エリザは机の下に隠していた手を強く握り意を決した。

「あの、その、男の人とお付き合いするのって・・・どんな感じ、ですか?」

 えっ?突拍子のない質問にアリアネは返答に詰まった。時々分からないことを言うのは知っていたが、今度ばかりはなにを言い出したのだろう。いや、彼女は思った。

「おっ、付き合いって、なんの話?」

「さっきアリアネさん、門の前でクルトさんと出かけた帰りで、その、クルトさんアリアネさんの肩に手を・・・置いてました。」

 口にするだけでも二人のあの姿をまた思い出して胸が浮くように高鳴る。そう、ただ置くだけじゃない。エリザからは彼が彼女を抱き寄せる寸前、彼女が慌ててそれを制止するように見えていた。情熱的な叙事詩などエリザ達のいた修道学校などでは目にする機会があるはずもなく遠い昔に読んだきりだったが、エリザにとってあの光景は思わず遠い昔に読んだその一遍が蘇るほどに刺激的だった。

 やっぱりそうか、アリアネは思った。門前でのクルトとの様子を彼女は目にしていたのだ。しかし事実は違う。予後がまだ思わしくないクルトは目眩を起こすことがあり、リハビリを兼ねた散歩の帰りに彼が目眩を起こし、それをアリアネが受け止めたに過ぎなかった。

 しかしそれでもエリザの言うことに思わず血が巡った。エリザはなにかと勘違いしているようだが、実のところ自分だってエリザとそう変わらないのだ。

「何言ってるのよ!そんなわけないじゃない!」

 アリアネは慌てて語調強く言ってしまい、ごめんなさい、エリザはそう言って小さくなって黙ってしまった。きっとこれは誤解が解けたわけではなく、無神経なことを聞いてしまったと反省しただけの態度なのだろう。

 その日、誤解が解けぬままにエリザは足早に館へと戻った。

 夕食後、健診のため彼女はイサイの部屋へと向かう。ものの数分で終わる健診だ。自然と溜息が出た。セポイで感じた気の重さとは違う重さ。異常などあったことがなく、最近では会話も殆どなく無言が続く。なるべく笑顔で接するがアリアネやクラウスに幾ら励まされても心が折れそうになる。なんとなく、アリアネならば患者との関係がうまくいっていたのではないかという気がした。

 彼の部屋の前には常に衛兵が立っている。しかし今日は遠目に人数が一人多いことに気がついた。しかも普段と違い椅子に腰掛け、その上談笑までしているようだった。

「あっ、ユーリさん。」

 声を掛けられユーリは振り返る。そこには女王の館にいるはずのないエリザがいた。

「あれエリザじゃないか。何やってるんだ?」

 ユーリは当直の衛兵と興じていたカードを分からないように懐に隠し立ち上がった。

「私はイサイさんの健診です。ユーリさんこそ一体どうされたんですか?」

「あー、イサイを監視する責任者になっちゃって。で、俺自身も現場知っとかなきゃって思ってさ。あいつ怪我治ってるのにまだ健診やってたんだな。」

 一方ユーリはまだ包帯が取れておらず、左手を固定したまま腕を提げている。

 エリザは苦笑いする。ユーリはその表情に首を傾げた。

「何かあったの?」

「えっ?いや、なにも・・・」

 ユーリは当直の衛兵を見た。チップは相手が山積みで、歳がほぼ同じなので言葉遣い意外ではほぼ遠慮のない相手に対し、そろそろ士官権限を活かしたイカサマ行為に対する暴力に持って行こうかと悩んでいたところだった。

「あいつは一回くらい健診しなくたって死にゃしないだろ。久しぶりだしあったかいものでも飲みに行こうよ。ちょうど休憩に入りたかったんだ。」

 唐突の突飛な申し出に、思わずエリザは頷いてしまった。

 ユーリはエリザを連れ立って館入口に立っている衛兵に声をかけ、幾許かの硬貨を手渡した。衛兵は掲げている篝火からポットを降ろし茶を入れ始める。

「ありがとう。行こうぜ。」

 ユーリから回されたコップを受け取りながらエリザは関心した。夜、こんな場所にお茶を飲める場所があるなんて。

 夏とはいえ、本番を迎えたばかりのエスカテリンの夜はまだ肌寒い。特に今夜は雨上がりの空気が衣服の隙間からじんわりと入り込んで体を冷えさせる。

 狭い内庭の高い鉄柵の外、広い外庭に出る。外庭に出てすぐに石椅子があった。雨が降った後で石椅子は雨に濡れ、ここに座るのかな、ためらうエリザの目の前でユーリはさっと水を払って躊躇なく座り、当然のようにポケットからハンカチを取り出して隣に敷く。座りなよ、言うユーリに対してなぜかエリザはお礼が言えず、妙に緊張する自分を感じた。

 外庭には女王が好む木々や季節の草花がたくさん植えられている。

 この庭は普通ならばある外庭を大きく囲む柵や塀といったものがなく、代わりに川に見立てた水堀を引いて内側に低く柵を設け、外庭と庭の外の世界との境界を感じさせない。庭の外縁にある高い木々はその奥に見える森や低い山々と一体化し、まるで奥深い森が庭のすぐ外にあるかのように錯覚させる。

 昼間なら目に鮮やかな芝の緑と、色とりどりの花々を足元に抱くバラのアーチが噴水によって生まれる飛沫を浴びてより鮮やかに色彩を放つ。今日は夜とはいえ月が明るい。月は全てを青く染めてはいるもののそれらの様子が目に見えて、雨に濡れた景色は不思議な美しさを孕んでいた。

 そんな景色を見ながら、ミルク入りの甘い紅茶をユーリと並んで飲んでいることがエリザには不思議に感じられた。遠く見える木々が生み出す新緑の風は少しだけ冷たく頬に当たり、紅茶の甘い暖かさで優しい。

 エリザは横目でユーリを見た。以前は患者衣を着ていたのが、今も左手を吊っているのは変わらないのに白いシャツの上に青い士官服のブレザーを羽織り、景色を見ながらコップを口に宛てている。今の彼は自分の知っている怪我で弱々しかった彼とは別人のように思えた。

 ユーリは一口茶を含み、ついた息が思いの外深くでた。目の前に広がる見たこともない豪華な景色。こんな場所で、なにをすることもなく時間を過ごす自分は一体なにをしているんだろう、思わずそんなことを考えてしまう。

「ユーリさんこそどうかされたんですか?」

 声を掛けられ隣に座るエリザを見た。彼女はすぐに視線を外した。

「なんで?」

「今、溜息つきました。」

 溜息に聞こえたのか、ユーリも視線を戻す。そりゃ溜息もつきたくなるだろう。結局自分だけだ。いや、あいつもか。

「ちょっと今宙ぶらりんしてるからさ。やっと士官に着任できたってのに。半人前以下の少尉がのんきなもんだなって思ってさ。」

 半人前以下の少尉。ユーリ達と会った時彼らを士官だとばかり思っていたがそうではなく、下士官以上士官未満だとアリアネから教えられた。しかし世間を知らない彼女には容易に理解できなかった。そして更に今、士官であるのに半人前以下だとユーリはよく分からないことを言う。

「でも、ユーリさんはイサイさんのその、責任者だって。立派なお務めじゃないんですか?」

 そう言われユーリは苦笑いするしかない。

「立派でもなんでもないよ。ほんとなら士官に着任したら新米士官は下積みで下士官としてどっかの部隊に所属してこき使われて、その後兵科学校に進んでまた教育受けたりしてやっと半人前の士官になるんだ。でも、これだから。」

 ユーリは左腕を示す。調査隊に選出されるということは、スタートは多少遅れてしまうがその代わりに進路希望は最優遇されるということだった。しかし怪我が治る時期を考慮すれば更に自分のそれは遅れるのだろう。こんなところで油を売っていて良いわけがないのに。特に自分だけは。

 背中が逆立つ。見える景色や飲んでいる茶の甘さにまで苛立つ。慌ててもしょうがないなんて、時間が過ぎるほどに思えなくなった。

「じゃあ、ユーリさんも私と一緒なんですね。」

 エリザは笑う。

「私もなんだかよく分からないんですけど急に実修先が変わってしまって、イサイさんの看護だなんて理由でここにいますけど、イサイさんの怪我はもうクラウス先生が太鼓判押すくらいなんです。でも確かに今は退屈ですけど、そのおかげで女王様のお館に住まわせて頂けてますしユーリさんとも仲良くなれました。あんなことがなければこんなことなかったです。」

 あんなこと、思わずユーリは自分がしてもらったことを思い出して急に恥ずかしくなり慌ててエリザから視線を逸らした。そうかもな、精一杯平静を保ったつもりで返事をする。

「でも最近は少し落ち込んでしまって。イサイさんの健診が今の私のお仕事なんですけど、イサイさんに嫌われてるみたいで思うようにいかないことばかりで。女王様のお姿に憧れて私も私にしかできないことをしてみたいって思って家を出たんですけど、このお仕事は私に向いてなかったのかなって。」

 向き、不向きか。ユーリは自分がそんなことを今まで考えたことがなかったことに気付いた。これまで自分は軍人になるしかない、そう思いあの日から今日までを生きた。一日も遅れず、むしろ一日でも早くと思いながら進み強い自分を築いてきたつもりだった。なのに・・・

 不向きか、思わずユーリは呟いた。エリザは彼を見た。

「エリザはきっと向いてるよ。俺はあの時、エリザに色々してもらって凄く嬉しかった。こんなことまでしてもらっていいのかなってさ。ずっと一人で必死にやってきたから、誰かにああして支えてもらえるって少し大袈裟だけど救われる気がしたよ。」

 何気なく言って、エリザを見た。エリザは固まったようにユーリを見つめており、ユーリは驚く。どうしてこんな反応をするのか、少し考えてユーリは自分がしてもらったことを意識していたことがバレたのではないかと思い慌てる。

「いやっ、エリザは看護婦だし修道女だから、なにも変な意味じゃ・・・」

 エリザの胸元の銀の聖具が光る。

「ありがとうございます。ユーリさん。」

 きっとユーリも家族から離れ、孤独と未来の不安を思うことがあったのだ。そんなユーリを少しでも自分が支え、彼の力になれていたのだと思いエリザは嬉しかった。

 彼女の笑顔は月灯の下、背後に映る花々のように瑞々しかった。ユーリは取り繕いの言葉も忘れてその笑顔に見入り、口は開いたが結局なにも喋れずまた前を向いた。


 館の窓から一つの影が外庭の石椅子に腰掛ける二人の様子を眺めていた。

 会食に向かう途中であったアイシャは二つの影を眩しそうに見つめる。

 春になると咲く淡い桃色の花。バラのような華やかさはないが、とても愛らしい五弁花。そんな色彩が青い月灯りの下で眩く見える。

「バーベナの季節はもう終わってしまったかしら。」

 呟き、微笑し、アイシャは立ち去った。



 心の色が見えた。色は水中に差し込む光とも、溶けて混ざり合う染料のような、或いは炎とも呼べる姿をしている。

 幼い頃から人の喜怒哀楽、虚言や企み、自身に向けられる色情、様々な感情をその色を通して知ることができた。

 心の色とは恐ろしいほどに禍々しい色彩も、思わず見惚れ目が離せないほどの色彩も放つ。特に美しいと感じる色を見た時などはその色を出す理由を知りたくなる。時に狂おしいほどにその色を求める。常にそれが美しい理由から発されるとは限らない。それでもその美しさは心を埋めてくれる。美しさの中にある醜さはとても私をソソらせる。

 まるで私そのものだ。この醜さをもっと、もっと誰かに見せつけたい。

 昔も、今にも私のことを魔女だと呼ぶ人々がいる。

 私のことを魔女ではなく聖女だと擁護する人々のおかげで今の地位がある。おかしなことだ。教会の言う魔女の定義からすれば、どう考えても私は魔女だ。

 しかし私はこの国を創り、そして守ってきた。あのような色を、これからも守り続ける為に私がある。

 その思いが強くなればなるほど、私は渇く。この渇きを癒す色が少しでも多く私の腕の中に欲しい。大切で、時に狂おしいほどに愛おしい。



「そういえば、あなたは議会でも堂々としていたわね。」

 アイシャはイサイの無作法だがその堂々っぷりに苦笑しワインを口に運んだ。その無作法さは少年らしいといえばそれまでだが、それならばもっと少年らしく目を輝かせる可愛らしい姿を見たかった。コースで運ばれる食事など彼が食べたことがあるはずもなく、なのにそれを慌てる様子も迷う様子も見せず淡々と食事を進め、メインなどは骨付きの子羊の肉を手で掴み平らげた。

 イサイは改めて部屋を見た。

 天井の高く広い部屋。一方の壁一面は小割りされた板ガラスがはめ込まれ、夜の光が最大限に入り込む。その壁に沿って置かれた食卓。食卓に敷かれた白いリンネルクロスが蝋燭に照らされ光沢を放ち、薄暗い部屋で食卓だけが浮かび上がっている。

 そして妙に鼻につく香が焚かれていた。一国の王が好むには少しありふれた香りに思う。自然の中でよく香る、そう、少し青臭いような香り。

 部屋に入ってすぐ妙な感覚に襲われた。体がふわつくような、と思えば重くなるような。

「お味はいかがだったかしら?」

 彼女の手元のワイングラスが放つ光や、胸元で輝く宝石がやけに気になった。そして宝石に目が行くと、女王の肌に目が移って妙に眩しく見えた。

「食べたくて食べるわけじゃない。必要だから食べている。」

「あなたらしいわ。」

 女王は目を細めてから微笑し、回すグラスに視線を移した。

「俺らしい?どういう意味だ。」

「そのままの意味よ。」

 この女が俺のなにを知っているという、鼻につく香を感じながら、しかし不思議なほど自身はその言葉の意味を知りたがっていることに気付いた。普段の自身であればこのようにあるだろうか。

「言葉遊びなんてする気はない。」

「じゃあ、今日はもうお開きにしちゃう?」

 自身を見透かしたような言葉に思わず返す言葉に詰まる。女は相変わらずグラスを回しながら、一度イサイを見た後クスリと笑う。

「教えろ。」

 隅に控える女性にしては長身の端女が給仕らしく顔を伏せながらも、女王に対し不遜な口を利いているイサイに殺意を込めた視線を投げかけていた。彼女は近衛衛士であるベアトリーゼだった。この会食は近衛衛士の総監たるネイから反対されており、しかしただの食事に兵を配するのは無粋だと考える女王との折衷の中で、女性衛士が給仕兼護衛役として控えることになった。

「あなたの印象は、そうね。まるで僧侶ね。」

「僧侶?」

「そう。それも生臭い僧侶じゃなくて、その身の全てを信仰に捧げてきたような僧侶よ。全てを捨てることに成功して俗世に全く興味を失って信仰に生きてしまったような人ね。きっと、あなたはそれに似てる。」

 なにを言われたか理解ができなかった。まず自身はそのような僧侶を見たことがなかった。そして自身はそのような僧侶がいたとすれば正反対の存在だ。自身の知る僧侶など、快楽や富、名声を得るためにスラムの民を食い物にしていたような連中ばかりだった。それはそうだろう。そのような者の手先になっていたのだから。生きるために・・・

 思考が飛ぶ。憎しみを込めた視線を受けながら薄汚れた道を歩く自身の姿が浮かんだ。親と引き剥がされ泣く子供、子や夫を求め泣き叫ぶ母親、斬り伏せられ道の汚れの一つと化した男の死骸、唇を震わせる少女・・・

 浮かんだ光景に思わず目を逸らした。どうして、それを意に介さなかったのだ。いや、違う。意に介さなくなったのだ。生きるために。いや、どうして生きるためにこれを選んだ。違う、どうして、俺は、生きていた?

「続けても構わないかしら?」

 女の声に意識を引き戻され、激しく鳴る心臓に思わず生唾を飲み込んだ。

 アイシャは言葉を投げながらも、じっとイサイを観察していた。内面は激しく揺れ、外面にも変化がある。彼の色はさざなぐ湖面であるように鳴り止まない。

 食卓の中央で香は紫煙を燻らせ、部屋をその香りで満たす。女王はよくこの香を利用した。この香は心や体を敏感にさせる。喜怒哀楽、恐怖、痛みや快楽までも。

 ああ、イサイは低く答えながらも女王を見た。ふと、妖しく輝く女王の肌を見ていてはいけないと感じた。同時に感じる。傍らの存在感を。

「私はあなたを僧侶に似てると言ったわ。でもそんな僧侶とあなたは決定的に違うところがあるの。あなたは僧侶に似てるだけで似て非なるものよ。私の言った僧侶は信仰に生きるために俗世を捨てたの。ただあなたはそうじゃない。何かしら理由があって俗世に全く興味を失ってしまったの。僧侶は俗世を捨ててぽっかり空いた穴に代わりに信仰を埋めて信仰と一体感を得て多大な満足を得るわ。だけどあなたは違う。大きく巨大な穴を埋める何かをあなたは持ちあわせていなかった。あなたが議会で伝えたこと、きっとそれは事実だわ。でもあなたはきっと、隠していることがある。たぶん、あなた自身隠れていることに気付いていないのじゃないかしら。あなたに穴を開けたその何か、それがあなたを動かし、あなたはここへ来たのじゃないの?」

 女王の声は頭に滑らかに甘く浸透する。

「違う、俺はあの光景が、何も隠していることなど、なにも・・・」

 返事をする為の思考が、やめろ!心の叫びに掻き消される。傍らの存在感は更に増して、ぼそぼそと聞き取れない声までが響いてくる。思わずその存在に縋る。助けてくれ、教えてくれ、なにを今伝えようとしている、教えてくれよ、

「タカラオ。」

 タカラオ?

 全身が粟立つ。イサイは恐る恐る傍らを見た。しかし傍らにはなにもいない。

 タカラオ、そうだ。奴だ。でもなぜ奴が?だって、だって奴は、俺を、俺に、俺が・・・

「殺した。」

 そう、殺した。どうして忘れていた。奴の存在を。忘れようがなかったじゃないか。それに、どうして奴が傍らにいた?なぜ奴に今、助けなど求めた。おかしいじゃないか。死んだはずの人間が、どうして。

 女王はその変化に目を見開いた。

 イサイの白い水面のような色を突き破るように違う色が現れ、イサイの色と染まることなく混ざりあう。その色は灰黒く渦を巻くようで、同時に淡く薄く、彼を色のない世界に閉じ込めるように広がった。

 イサイは嫌がる子供のように体を抱いて震え、彼の頬に幾筋もの涙が伝わった。

「どうしたの?」

「殺したくなかったんだ、人なんて、でも、あいつが、でも、どうして俺は、」

 あいつを求めていた?

 アイシャはその様子に驚き席を立ちイサイに近付いた。彼はアイシャが近付くと彼女を見上げ、助けを求める幼子のような表情を見せ、それはアイシャの胸を打った。思わず喉を鳴らす。手を伸ばし、涙が伝う彼の頬に優しく触れた。

 その指はとても滑らかで優しく、以前もどこかで優しく頬を触れられたことを思い出した。

「やっ、やめろっ!」

 怯えた表情でイサイが声をあげる。しかしその声、表情に女王は更に唆られ、モヨオし、彼に向けて優しく笑みを浮かべた。

 部屋の隅から二人の様子を見ていたベアトリーゼは、会話の詳細は聞こえずとも異常な空気、不遜極まりないイサイの言動にとうとう我慢の限界を越えておもむろに近付き、イサイの腕を奪い捻り食卓に叩きつけた。

「貴様!先程から陛下に対する不遜な態度何事だ!」

 イサイは食卓に叩きつけられる衝撃で現実に返った。

「こっ、こらベア!何してるの!」

 アイシャはイサイの表情に目を奪われ近付く彼女に気付けなかった。当のベアトリーゼは思いもよらない女王の叱責の声に間抜けな声を出し、すぐに自分がなぜか軽率な行動に走ってしまったことに気付いた。

 香が尽きて煙が止まった。

 イサイは尽きゆく煙を眺めながら、意識が遠のくように眠りについた。

 

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