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船上にて

次回更新は水曜日になります。

申し訳ありません。

 時節は短い春の終わり。川を遡上するに適した季節風を捉えるにはまだ猶予はあったが、セポイの港からは妙に慌ただしく本国へ向けて出航する船が目立った。

 セポイの要塞の病棟に訪れたゲルティは港内を見下ろせる窓越しにその様子を横目に病室へ向かっていた。時折周囲を見渡すが誰にも出会わない。

 ユーリ達は個室を宛てがわれている。直に士官になるとはいえまだ学生である彼らに個室が宛てがわれている事実は、平時で病室が余っているとはいえ近衛が優遇されている証であり、彼らの怪我が軽症でないことを示していた。

 ゲルティは病室のノックをそこそこに返事も待たず扉を開けた。

「元気そうじゃないか。」

 開口一番ゲルティは言う。ユーリは窓際に立って外を見ていたようだった。

「これくらいの怪我で寝込んでられるか。」

 そういうユーリは顔が青ざめているばかりか薄く汗を掻き、色濃い隈の上にある目が妙にギラついてどうみても平気なようには見えない。大層に巻かれた包帯にはまだ血が滲んでいる。

「まぁユーリ、座れよ。」

 なんの断りもなくベッド際の椅子に座りユーリにも促した。相変わらずの友人にユーリは思わず顔を緩めた。

「寝てなくていいのか?」

「お前までここの看護婦みたいなことを言うなよ。自分の傷の具合くらい自分で分かる。」

 ゲルティは顎先に手を宛てがって何度か撫でた。彼は出航が決まったことを伝えに来たようだった。出航は三日後。自分の怪我具合からして自分は船には乗れないだろう、そう思うと情けなさから親指を噛んだ。

「わざわざ伝えに来てもらって済まないな。」

「で、どうするんだ?」

「どうするも何も行けないだろ俺は。このザマだからな。」

「ところがそうでもない。たまたま俺達の船に医者と看護婦が乗りそうなんだ。いや違うな。お前が希望すれば彼らが乗る。だからお前は希望しろ。頼む。」

 ゲルティは脇を掻く。ゲルティにしては妙に落ち着きのない態度と、いつもに増して冷静な表情と裏腹に熱の入った口調にさすがにユーリは怪訝に思った。

「そうか。それは嬉しいな。でもゲルティ、お前何か隠してるだろ?」

 ゲルティが硬直し、なにも喋らなくなった。ユーリはその態度に緊張する。もしや、自身に言いづらいことでも起きたということか。クルトが頭に浮かんだ。

「実はだな・・・」

 ユーリは唾を飲み込む。

「お前を看てる、修道学校の女の子達は、可愛いんだってな。」


 連邦国、女王が直轄し治める連邦国の構成国の一つ、ハタウフィーグ。それに属するセポイ市は連邦国の遥か北、沿岸沿いに位置する。市への陸路が獣達に封鎖された結果飛び地の形で存在し、海や河川といった水路を利用し他都市と連絡を保っていた。

 市は連邦国が保有する唯一の海洋と繋がる貿易港であり、西の大国シルブハス、連邦国よりも南に位置する内陸国エスロームを中心とした貿易で栄える都市であった。更には貿易から派生した金融、流通など、そして貿易港という利点を活かして原材料の調達コストが安く、造船、製糖、製材、製粉などと、特に連邦国内で工業が発達している都市でもあった。この都市の重要性は王都エスカテリンに次いでいる。

 この都市はそれらの理由から特に要塞化が進められた。都市の中心に据える小高い山脈の全てを削って砲台、砦が築かれ、本国との連絡路であるフォン川の水流を利用して都市全周を水路を兼ねた水堀で囲い、更に内側には堡塁を設けた。

 港には多数の船が繋がれ、家屋のような形、高さの起重機が幾つも並んで船から荷積み、荷下ろしを行い、街には工業を支える風車が沿岸に、河川沿いや街の奥深くまで引かれる水路沿いには水車が多数稼働して機械達が街の賑わいに拍車をかけている。特に市ではシルブハスからもたらされる貴重な熱帯生産物である粗糖の精製に熱心であり、安定した高出力の得られる水車は軒並み製糖に充てられていた。この水車工場で精製される白い純粋な甘さは、過去粗糖を口にするのもやっとだった庶民の口にも入るようになり、輸出品としてもそうだが、国民にとっても無くてはならない存在となりつつあった。


 二隻の小型船が内陸部に向かって出港しようとしていた。船は水流が複雑に入り組んだ川と海の交流点の汽水域もなんなく乗り越え、遡上船とは思えない速度で川を遡り始める。その船は少し麻色がかった大小様々な鋭い三角帆を重ね、船体がこれまでのどの船首よりもすっきりとしており、そんな見慣れない船は川沿いの堡塁に立ち歩哨を続ける兵達を遠くまで見送らせた。

 テオフィルスは溜息をついてから二番船から移乗させたエリアスに仕事に戻るよう怒鳴り指示した。一体見習い士官達を怒鳴るのはこれで何度目だろうか。彼らはとても優秀で、それまでこんなことはなかったというのに。

「仕方あるまい。あやつら女を知らん上にもう長い間女の影姿すら目にしておらんかったのじゃからな。」

「いえ、またそんなご冗談を。」

「何をいう貴様とてかつては嫁さん抱くまで女知らずだったんじゃろが。ルニィからも、よーく聞いておったぞ。お前さん、妙に堅物だったからの。」

 悪友の名を出され、思わず大尉はぐぅっ、と言葉を詰まらせた。彼は一体ハンスになにを伝えやがったのだろうか。ハンスはニヤニヤと笑いながら筆を置いた。

「そ、そういえばそれは例のヂヅチの報告書ですか?」

 うむ、とハンスは答えた。アルフレートにも言われた通り、報告書は少しばかり慎重にならなければいけない。機密だらけのこの船に素性の知れぬ外国の者を乗せた。これは確実に議会で取り沙汰されるだろう。

 大尉は危惧する。もし奴が間者だった場合。自身は勿論ハンスだって無事には済むまい。

「ま、なるようになるわい。ワシはの、そんなことよりも我が王のへそを曲げぬよう好みに合わせた行動を取っていくだけじゃわい。」


 船は順風を受けて進んでいた。時折気まぐれに風向きを変える季節風も、鋭角な縦帆が風を逃さず捉えて船は進む。

 航行も幾日かが過ぎた。

 修道学生の一人のエリザに付き添われてユーリは甲板に上がった。

 ようやく熱と痛みが引き始めて歩けるようになり、久しぶりに外の空気を吸う。ユーリに宛てがわれた部屋はセポイでの病室と違い、他の船室よろしく狭く暗い。エリザの献身的な看護によって随分と清潔に保たれていたが、どうしても空気が淀んで息苦しかった。

「ユーリさん危ないですよ。肩貸しますから。」

 船は揺れる。まだふらつくユーリを心配してエリザは声をかけた。

「ほ、本当に大丈夫だ。杖使うし、危ないと思ったらちゃんと手を借りるから。」

 ユーリは慌てて近付こうとするエリザを止めた。彼は妙にエリザに大して気恥ずかしさを感じていた。あれから痛みと熱にうなされ一日朦朧としていたこともあり、その都度献身的な介護を受けた。食事は勿論排泄も一人でできないことがあり、受けていた時はそんなこと意識するどころではなくただ有難かったが、こうして体力が回復してくると顔を見るのも難しくなっていた。

「お、ユーリじゃないか!エリザさんもご一緒で!」

 もう一つの肩を借りない理由がやってきて気安く声をかけてきた。エリアスに挨拶するエリザを尻目にユーリは彼を無視して通り過ぎる。他の連中と同じく互いに蔑み合っている仲だ。ユーリと話したいというより、彼は明らかにエリザと話したいのだろう。

「おーいユーリ!耳もやられたのかー!?」

 後ろでまだ声をかけている。

「あ、あのいいんですかユーリさん。」

「何が?」

「あの方、えぇとエリアスさん。ユーリさんに話しかけてましたけど。」

「いいんだよあんな奴は。」

 戸惑いながらもエリザは後ろを振り返った。すると彼と目が合い、にこやかな笑顔でエリザに向かい手を振った。慌てて会釈しユーリの背に向き直る。

 最近忘れていたがここは男性ばかりだったことを思い出し身に緊張が戻る。ユーリのこともすっかり患者として見ていたが、彼も列記とした男性であった。


 修道学生達の為に設けられた船内の一室でエリザは溜息をついた。アリアネはその様子を横目で見ていた。二人は部屋で患者達の日誌をつけている。

「エリザ、さっきから何溜息ついてるの?」

 えっ、と声を出し、慌ててアリアネに向き直った。

「溜息なんかついてましたか?私。」

「うん何度も。何かあったの?」

「何も、ないです。」

 アリアネから見て、エリザは分かりやすく視線を逸らしてから答えた。

「あのねぇ、そんなに溜息いっぱいついてる子が何もないわけないでしょ?」

 上級生であるアリアネの尖らせた視線に射抜かれ、エリザはうっ、と言葉を詰まらせ、改めて溜息の原因を考えた。

「その、皆男性なんだなって思うと、妙に緊張しちゃって。どういう態度でいればいいのかよく分からなくて。」

 それを聞くとアリアネは大口を開いて笑った。

「なぁにそれぇ!まぁ確かにここは若い男も多いもんね。エリザったらもう。」

 なにか勘違いされたように感じてエリザは慌てる。

「ち、違います!」

「何が違うの?」

「今日お昼にユーリさん元気になってきたから外に出たんですけど、危ないと思って支えようとしたらいいって断られたんです。いつの間にか患者さんだって思えてたのに、難しいなって。うまく言えないですけど。」

「まぁ患者さんとの距離感は確かに難しいところよねぇ。」

「それにここの士官さんにもよく話しかけられますけど、今までこういうことがなかったからどうしたらいいんだろって戸惑うんです。」

「あらら、随分と初々しいのね。」

 エリザは今のアリアネの発言に小さく衝撃が走った。彼女はもしかして既に初々しくなくなるなにかがあったのだろうか。彼女は既にセポイで二年の実修をほぼ収めている。エリザは僅かな期間しかセポイに居れなかったが、セポイにも男性が多く、アリアネはそこでエリザが思いもよらないような経験も積んだのだろうか。

 そんなことを思うと、初めてアリアネに挨拶した時エリザと違って女性らしい体をしたアリアネを格好良くも頼もしくも見えたものだったが、エリザ自身は到底彼女のようになれないと改めて感じる。

「どうしたの黙っちゃって?」

「あ、あの、アリアネさんはそういう、その、男性に慣れるような経験が、あったんですか?」

 この子は一体なにを言ってるのだろう、アリアネは顔を赤くしながら思った。

「ま、まぁそれなりにあるんじゃない?修道院みたいに閉鎖的な場所じゃないからね。」

 意図せず否定もしなかったアリアネを見て、エリザは余計に体に力が入るのを感じた。


 ユーリに比べクルトの容態は更に深刻だった。指を二本失い、更には右目を失った彼は手術熱が酷く、アリアネが付きっきりになっていた。その関係のはずだが、エリザはもう一人の患者を受け持つことになった。彼らに比べ医師のクラウスが驚くしかないほどの回復力を見せる彼にも部屋が一室与えられている。

 アリアネとの先程の会話を思い出す。そう、男性といえばユーリや船の士官達だけではない。彼にはなんとなく避けられ、疎まれている感じがする。修道院を出てから関わった数少ない男性の内の一人にそのような態度を取られていることも、彼女自身は気付いていなかったが自身の異性に対する自信のなさに繋がっていた。

 それに後ろめたさもあった。そのもう一人の患者については殊更細かく言動についてまでを記録し提出することが求められ、更にはその患者について一切を他言することが禁じられていた。ただの学生である彼女はなぜそのような役が要求されるのが理解できない。要するに、求められている役は監視だった。

 ユーリ達と違い鍵をかけられた部屋。他の船室同様窓もなにもない暗く狭く息苦しい部屋。日に数度士官立会いの下換気のために扉を開けることが許されているとはいえ、まだ怪我人である彼にそのような環境を与えていることにも抵抗を感じていた。

「こんにちは。」

 エリザは扉の前にいた若い士官に声をかける。ゲルティはエリザに気付くとなにか慌てたように立ち上がり挨拶を返す。

「いつも、大変ですね。」

「い、いえそんな。私のお仕事ですから。」

 控えめに答える修道女の姿にゲルティは思わず上擦る。

「そんなことはありません。こんな大変なお仕事をされているのに謙遜されるエリザさんは修道女の鑑です!」

「えっ、そう・・・なんですか?」

 ええ!冷静な人だと思っていた士官は、どこか熱く答えた。

 セポイでは下品な男性が多いから苦手なのだと思っていたが、ここの士官達のように強く押されるような調子で声をかけられるとどうすればいいのか分からなくなってしまう。

「ありがとうございます。」

 顔を伏せがちに、消え入りそうな声でエリザは答えた。小さな体が余計に小さく見え、ゲルティはそれを誉められて照れてしまったのだと思い込み、余計に心が上擦る。

ゲルティは扉を開いた。息苦しい空気が漏れだす。彼は開いた扉が閉じないよう座っていた椅子に引っ掛けて固定した。

「こんにちは、イサイさん。」

 ベッドと机を置けば一杯になる部屋でイサイは机に向かい背を向けていた。

「あ、またお勉強されてたんですね。」

 ああ、イサイは返事する。彼の机に載る紙にはびっしりと字が書き込まれていた。シルブハスの言葉にも堪能な医師のクラウスが連邦国の言葉を話せないイサイを慮って彼に言葉を教えており、一人の時間彼はその復習をしているようだった。

 会話の少ない健診が始まる。イサイはベッドに腰掛け、エリザは机に器具を置き座る。

 イサイの腕を取り脈を測る。彼の脈はいつも若干遅い。懐中時計を見ながら脈を数えるエリザは彼の顔を盗み見た。イサイはいつも顔を険しくさせ視線を遠くの方へやる。

「正常です。あの、上着をお願いします。」

 イサイは上着を脱ぐ。彼の傷は治りの早い部類に入る肋骨とはいえ、余りに骨が接ぐのが早い。それでもまだ完治しているとは言いがたく、上着を脱ぐ動作は骨に響くはずだった。それでも彼はエリザが手伝うのを拒否し、一人で時間をかけて脱ぐ。

 まだ男の半身を見ることに抵抗のあるエリザはなんとなく目を逸らす。既に抜糸を終えた彼の傷口は赤く盛り上がって塞ぎかかろうとしていた。

 水銀体温計を手渡し彼が体温を測っている間、エリザはフェノール液を染み込ませた脱脂綿をピンセットで摘み、傷口の消毒を行う。蓋を開けた瓶から、フェノール液独特のツンとした臭いが廊下にまで漂う。

 このフェノールという液体はここ数年エスロームよりもたらされた。イサイのように骨が体外へと飛び出す開放骨折をした患者は、手術後に手術熱と呼ばれる熱を発しその熱で命を落とすことが多い。患部や医療器具を消毒するという発想はそれまでの医学界に無かったものであった。これまで不衛生な環境で医療行為を行うことが当然だった医学界は、自身達が間接的に患者を殺していたという事実を受け入れられず、製造法や材料が全く不明であり、また細菌などという訳のわからない生物を認めない教会も一緒になって大反発した。

 開放骨折をしたものに限らずフェノールを使うことで手術熱の発生を大きく減らせることは確かなのだが、それでも怪我をしてから不衛生な船内で適切な治療を受けることなく時間を過ごしたイサイが、今全く熱を発することなく過ごしているというのは驚異的なことだった。

 傷口にフェノールを染み込ませたガーゼをあて、上から包帯で巻いて固定する。脈と同じように体温もやや低い。日誌に書き込んでいく。エリザは持ってきた用具から真鍮製の容器と水差しを用意し水を注いだ。布を浸して絞る。イサイはそれを受け取ろうとする。

 エリザは意を決した。

「あの、イサイさん。」

 イサイは視線だけをエリザに向けた。他の男性とは違う鋭い視線にエリザはたじろぐ。

「イサイさんはまだ怪我が治っていないんです。イサイさんは先生も驚くくらい治りが早いですけど、イサイさんの怪我は開放骨折っていって亡くなられる方も多くて本当に怖い怪我なんです。だから・・・」

 イサイは薄明かりに浮かび上がるような青白い肌の中に、鋭く切れ上がった黒い瞳をエリザに向けたままでいる。どうしたんだろう、怒っているのかな、エリザは決した心が少しずつ剥がれ落ちていくのを感じた。

「だから、無理な動きをして怪我が悪くなると本当に怖いから・・・その、やっぱり私がイサイさんの体を拭きます!」

 なんだか変なことを言っている気がした。

 後ろの部屋の会話になんとなく耳を傾けていたゲルティははっきりと聞こえた最後の一言に驚きをもって振り返りエリザと目が合った。エリザはなにかはしたないことでも言ってしまった気がして顔が急激に赤くなるのを感じた。膝に載せていた手を強く握る。布の水が染み込み、スカートの裾が濡れる。

 いや、変なことなんてなにも言ってない、エリザは心を締め直して視線を上げた。意外にもイサイは伏し目がちに視線を逸しなにか考えているようだった。エリザはそれをイサイを説得できかけているのだと思い、思わず達成感がよぎった。

もう一押ししようとエリザが口を開いた時、どうしても、イサイの声が制した。

「触れられたくないんだ。抵抗がある。」


 ユーリはある船室の扉の前に立っていた。彼は何度か扉を開けようとし、しかしどう伝えたものか、迷っているうちに時間が過ぎていった。

 何を躊躇しているんだ、俺は。足元には両足に杖。情けさなの象徴だ。

 ユーリは顔をあげた。

「あれ、どうかしたの?」

 声をかけられ横を向くとアリアネがいる。ユーリは驚き、声を継ぐのが遅れる。

「お見舞い?」

 お見舞い・・・そうだ、見舞いに来たんだ。間違ってない。

「ああ、そうなんだ、奴の見舞いに来たんだ。」

「まだあまり喋れないけど、少しの時間だったら大丈夫よ。」

 そう言ってからアリアネはユーリの左腕と右腕の杖を見て、ああ!と言った後にこりと笑う。一体なんの笑顔なのか、ユーリが戸惑っているとアリアネが近付き扉に手をかけた。

「開けれなかったのね。」

「いやそういうわけじゃ・・・」

 じゃあなんだというのか。自分でも思うのに、彼女がこちらを向いて答えられるはずがない。

「いやなんでもない。ありがとう。」

 アリアネはまた笑って扉を開ける。

「アリアネ、目が痛むんだ。先生に言って・・・」

 扉が開いてすぐにクルトが彼らしくない妙に力のない声をあげた。しかし彼はすぐユーリの姿に気付き黙る。

「お前も元気そうだな。」

 ユーリはその声に気付かなかったふりをするために先に声をかけた。自身もそうだったが、彼はまだ手術後の熱に苦しんでいるようだった。残った左目の下には隈ができて、頬が少し痩けてやつれたような印象を受けた。

「まぁな。でもさすがに辛いな。」

 青い顔で意外にもクルトは笑った。笑ってすぐ右目が痛んだのか顔を歪める。

「こら!目動かしちゃダメでしょ。横見たい時はなるべく目を動かさないように顔だけ動かすの。」

「へーへー。」

「ほんっとに怪我人のくせに生意気ね。あんたの怪我なんだから私の言うことちゃんと聞かなきゃ治るものも治らないのよ。」

「分かったって。悪い悪い。」

 二人のやり取りを見てユーリは驚いた。ユーリを看護してくれるエリザは丁寧で大人しく、看護婦とはそういうものなのだと彼は思い込んでいた。

「まるでお前のかーちゃんみたいだな。」

 クルトはその発言に声をあげて笑った。

「アリアネ、かーちゃんだってよ、良かったな!」

 うるさいわね、言い返しながらも彼女は健診の用意をしているようだった。

「でもユーリ、俺みたいな高貴な貴族様はかーちゃんなんて呼ばないんだぜ。お母様だ。」

「お前みたいな下品な奴も貴族か。」

 ユーリもようやく笑った。クルトはユーリのその表情をみて意外そうな顔をした。

「どうしたんだ今日は。いつもみたいに憎まれ口叩きにわざわざ来たんじゃないのか?」

いや、今日はだな、歯切れ悪くユーリは口ごもった。

「なんだ気持ち悪いな。愛の告白か?」

 いつもなら気分を悪くする最上級の返事を叩き返してくるユーリが妙に改まり、クルトはそれを不審に思う。

「今日は、詫びに来たんだ。」

「詫び?なんの詫びだ?」

 ユーリは腹に力を込め、頭の中にあった言葉を一気に吐き出す。

「俺はお前たち貴族をボンボンのボンクラだと一括りにしていた。大した能力もないくせに出自を鼻にかけて思い上がった奴らばかりだってな。でもお前は俺やあいつらと違ってずっと別け隔てがなかったよな。あの時お前が俺達をまとめてくれなかったら俺達は全員死んでいたかもしれない。俺は士官を志す身でありながらお前達なんかあてにせず一人でなんでもやる気でいた。でも俺はお前なんかよりよっぽど不甲斐なかった。だから詫びたい。今までのお前に対する態度、済まなかった。」

 ユーリは面を伏せた。クルトは思わず噴き出し、苦痛に顔を歪めながらも笑う。

「お前さ、昔言ってたよな。近衛は国の要で、俺達はそれを背負って立つ士官の候補生で、誰よりも能力がある奴が選ばれるべきで、なのに俺達貴族は七光りばかりでしかも誰も国の惨状を理解してない、だから口だけなんだってな。」

「ああよく覚えている。俺は常にそう思っていた。でも実際の俺は・・・」

「貴族ってのは皆無駄にプライドが高いからな。俺がそう思うんだ間違いない。お前のあの減らず口聞いて皆腹立ててたけどな、俺はお前の言う通りだと思ったんだ。俺は自慢じゃないが貧乏貴族で七光りどころじゃない。だから誰にも負けないよう努力してきたつもりだ。それでもお前の言うとおりでさ、俺はお前みたいに惨状を直接お目にかかったことなんてなかったよ。確かに口だけ野郎さ。おい、顔上げろよ。」

 顔を上げるユーリを見てクルトはニヤリと笑う。

「今回は俺が凄かっただけだ。それとゲルティだな。ヘタレのフレートは論外で、お前はまぁギリギリだな。大尉も言ってたぜぇ見習いなんかフレートで当然だってな。結局お前の言う通りなんだよ。だから、」

 クルトは右手を差し出した。

「謝んなよ。」

 クルトはもう笑わない。やつれた顔で、しかし目にはいつもの力強さが戻っている。

 ユーリは思った。自分は出自を鼻にかける貴族を蔑みながらも結局は自分もそれに拘っていたのだと。それでは彼らとなにも変わらない。一方クルトはそうじゃない。正しいことを見極めそれに従い行動していたのだ。それは、自身が目指すべき本来の姿だったんだ。

 ユーリはクルトの右手を握る。クルトは更に強く握り返した。


 部屋を出てからユーリは甲板に上がった。

初夏の風は爽やかで、力強い色を湛えた空を反射して川面が光る。湿気の低い土の匂いが川の香りに混じる。内陸の風だ。

まだ景色は一面の草原で、ところどころ草地が盛り上がるように丘を形成している。このなにもない景色がユーリは好きではなかったが、風のせいか妙に心地よく思えた。

 甲板から下りようとしてすぐエリザに出会った。そういえばクルトが健診の時間だということは、自分も同じくだった。先程のアリアネの姿が浮かんで気まずさを覚える。

「あの、ユーリさん。健診が・・・」

 いつも大人しいエリザの声が殊更小さい。自分を探していたのだろうか?しかしそこまで落ち込むことなのだろうか。ユーリは更に気まずくなった。

「済まないエリザ、クルトの見舞いに時間がかかったんだ。今からでも大丈夫か?戻ろう。」

 矢継ぎ早に言うと、大袈裟に思えるほど彼女は顔を綻ばせた。その表情を見て、心にもやがかかったような妙な感覚に襲われた。

「戻りましょう、ユーリさん。」

 言うエリザに、ユーリは何度か頷いた。

 船室に続く、ランプで仄暗い階段を降りながら前を歩くエリザを見ていた。陰影の濃いエリザの後ろ姿がなにかいつもと違う気がする。

「あの、一つ聞いてもいいですか?」

 階段を降りてからエリザは振り返りざまに聞いた。いつもと違うと感じた原因はエリザの小ささにある気がした。エリザと会話する時といえば病床であったり、出歩く時はユーリの後ろを歩いていたりで、普段通りのユーリの視線の高さから彼女をじっくりと見たことがなかった。彼女はユーリの胸の高さ程しかない。

 エリザは妙に口ごもっていた。そのせいかユーリは妙に緊張する。

「どうしたんだ。何かあったのか?」

 じっと黙ることに耐えられずユーリから先に口を開いた。

「・・・ユーリさんは、私に触れられるのは嫌ですか?」

「え?触れるって、な、何が?」

 なにを言い出したのか理解できず、自分でも間抜けに思う言葉が出る。

「なんでもないんです。ごめんなさい。」

 エリザは見るからに顔を伏せて落ち込んだ。

「いやちがっ・・・」ユーリは軽く咳払いする。「触れられるのは嫌だってことはないよ。」

「そうですよね・・・」

 どういうわけか悪いように言葉を捉えられた気がする。しかしなぜこんなにもこの会話は恥ずかしいのだろう、慌てそうになっている自分に気付き、ユーリは一呼吸置いた。彼女は一体なんのことを言っているのだろう。触れる、嫌、二つに合致しそうな記憶を探る。

「ああ、あれか?甲板で手を借りなかったことか?あれは、その、なんだ。周りからからかわれるだろ。それでだ。嫌だったからってわけじゃない。」

 エリザはキョトンとした顔をする。

 違うのかよ!ユーリは気付かないうちに汗を掻き始めていた。

「あの、ユーリさん?汗が・・・もしかしてまた熱が・・・」

 エリザは心配そうな顔でユーリの額に手を宛てがおうと近付いてきた。近付くエリザの唇が艶やかに光るように見えて、ユーリは思わず後ずさる。

 あっ、ユーリはまた間抜けに声を出した。エリザは明らかに傷ついた顔をして悲しそうな表情をして見せた。

「いやエリザ、違う、今のは違う。どうしたんだよ一体、なんか今日はおかしいぞ何かあったんだろ、話してみろよ。」

 ユーリはこの気まずさにもう耐え切れなかった。原因を知りたい。なぜこうも気まずいのか、なぜこうもエリザが違って見えるのか、さっきから会話が咬み合っていないと感じるのは自分だけなのか。

「さっき・・・」

 やっぱりなにかあったのか、ほっとしながらゆっくりと話しだすエリザに耳を傾ける。

「イサイさんのところへ健診に伺ったんですけど、」

「ああ、エリザはあいつの担当なのか。」

「はい。前からイサイさんは健診の時自分で体を拭くって、それで自分で体を拭いていたんです。でも大怪我だから本当はまだ体をあまり動かしちゃいけないんです。怪我を治すのに必要だから、だから私が拭くって言ったんです。そうしたら、私に触れられるのが嫌だって、イサイさんが・・・」

 ああ、そういう会話だったのか、ようやく理解ができたユーリは心底ほっとする。

「何かエリザが聞き間違いをしたんじゃないか?」

 急に顔を上げたエリザと目が合う。ユーリは咄嗟に上に視線をずらした。

「その、なんだ。・・・普通は嬉しいぞ。」

「何がですか?」

「だから、なんだ、してもらえるというのは普通はというか・・・俺は、嬉しいよ。だから・・・」

ユーリは再度軽く咳を払って視線を戻す。

「嫌だと思う奴はいないんじゃないか?わからないけど、何か理由でもあるんじゃないか?」

 酷く周囲が気になる。誰かに今の言葉を聞かれてはいないか。全身に血が巡っている気がする。この気まずさは一体なんだ。

「本当ですか?」

「本当だ。」

 エリザはまた顔を綻ばせた。その表情は薄暗い廊下まで明るくさせるように感じた。

「ユーリさん、ありがとうございます。早く戻って熱を測りましょう。」

「あ、ああ・・・」

 全身に入っていた力が抜けるのを感じた。


 夜、船は碇泊している。昼のように水切り音はなく、船底に当たる優しい水の音が船内を包む。皆寝静まり、他に物音はない。

 イサイ、どんな男なのだろうか。絶えず清潔なシーツに替えられるベッドの上でユーリは改めて思った。

 人外とその血族。ユーリはなにもすることができず食われたのみ。一方奴は人外と剣一本でまともに戦っていた。西の巨大国家、シルブハスから来たらしい。逃散民なのだろうか。間者だと言っている者もいた。どうなのだろう。どちらも違う気がする。

 骨が鈍く痛み、また少し熱っぽい。昼間動き過ぎたせいだろうか。もっとエリザの言う通りじっとしているべきだった。

 傷の痛み。血で染まった広場、肉片になった家族、友達、村の皆。なにも、できなかった。そしてまた俺はなにもできなかった。最近思い出さなかったのは、もう自分にはなにかできると思っていたからだ。今は違う。毎日思い出す。俺は思い上がっていた。傷が痛むたびに思い出す。思い出すたびに自分が腹ただしく、じっとしていられない。

 血が逆流するのを自覚し、呼吸が浅い。ぐっと歯を食い縛り一度息を飲んだ。瞼の裏にある暗闇に向かい大きく息をつく。

 奴は、なんの為にここまで来たのだろう。獣が支配する大地を抜けて、シルブハスからあんなところまで歩いてきたというのだろうか。強い意思を感じる。奴と話がしてみたい。


 テオフィルスは医師のクラウスに一歩も引く気がなかったのだが、当のハンスは助け舟を出すどころか興味がなさそうに景色を眺めており、なおかつクラウスは連日折れずにやってきて彼を説いた。

 自分だって軍人である前に人なのだ。怪我人をあのような独房じみた場所に監禁していることに負い目を感じていないわけではない。しかし結局自分は軍人であり、今は責任ある立場なのだ。

 いつものように朝食の後クラウスはやってきて彼を説く。どんなに負い目を感じようが関係ない、いつものようにテオフィルスは自身の立場を主張した。しかしそこへいつもと違う来客がやってきた。来客は声を上げて素早く敬礼し、痛みからか顔を引きつらせた。

「おい無理するなユーリ。」

 返礼しながらも大尉は彼をたしなめた。彼は明らかに強がりを見せ、問題ありません、そう言ったが顔の歪みは中々に引いていかなかった。彼はすぐにその目先によって場の妙な空気に気付いたようだが、発言の許可を与えた。

「ありがとうございます。実は耳に挟んだのですが、例のヂヅチは第二区画の船室に収容されているそうですね。その船室の前には常に誰かが歩哨についているとも聞きました。私が、その役割を受け持つことは可能でしょうか?」

 大尉はその申し出を断った。彼はまだ怪我人であり、その怪我は軽くない。しかし彼は歩哨とはいえ座りじっとしているだけの任務であるのならば怪我人である自分には最適だ、そう主張した。クラウスは彼を後押しした。彼の容態は既に安定し、動かず健診さえ受けるのならば医師として問題ない、と。更にはハンスも別に問題ないのではないか、そう発言した。

「ところでユーリ君はあの部屋を知っているかい?」

「あの部屋とは、ヂヅチが収容されている部屋でしょうか?」

 クラウスは頷く。

「はい。使われておりませんでしたが士官室の一つです。」

「狭く暗い部屋だ。通風管はあるが窓も何もない。あの部屋にいて、やることもなく何日もの間出入りの自由もなく閉じ込められていたら・・・君ならどうなると思う?」

 ユーリは指揮所に入った際の妙な空気を思い出し、なんとなく三人がどういう会話をしていたのかを察した。ハンスは他人事のように髭を触り続けているが、大尉は険しい顔で視線を背けている。

「しかも怪我人だ。容態は良いといっても、それでも万全じゃない。君なら分かるだろう?」

「先生の仰られていることは理解出来ます。ですが私には知らされていないので詳しくはわかりませんが、こちらにも事情があります。」

 彼も特に若いがやはり軍人なのだ、そうクラウスは溜息をつく。

「大尉、何も彼に好き勝手船内を歩かせろ言っているわけではないんだ。怪我人があんな環境に置かれたら間違いなく精神に影響がでる。医者としてどうしても見過ごせないんだよ。いや、医者として患者の精神面が理解出来るからこそ余計人として見過ごせないんだ。」

「どうだテオフィルス。お前の言うことは最もだがのう、先生の言うことも同じくだ。専用の見張り要員もこうして確保出来たことだ。折衷案はどうかの?」

 大尉は頼みのハンスがあちら側に助け舟を出したことでとうとう折れ、受け入れることにした。クラウスは礼を述べ、更には握手を求めてきた。クラウスは戸惑いながらもぎこちない笑顔で握手を交わす。

「しかし色々と考えなければいかんのう。」

「それは大丈夫です。一応考えてはおりましたので。」

「おーさすがやるのお。」

「取り柄ですから。」

 先程と違う笑顔がどこか得意気なようで、ユーリは大尉の意外な一面を見た気がした。


 碇泊した船は帆が畳まれ、広い川の真ん中に二つの船が帆柱の影を緩やかなシルエットに落としている。

 後方甲板、そこに空間が作られた。空いた木箱を積み重ねただけの空間には、とりあえず置かれたような椅子が二つ並んでいた。ユーリはその一つに座ってりんごを囓り、イサイは少し離れた場所に立って景色を眺めていた。

 船が碇泊し皆が食事にありつく時間、ユーリはその時間を受け持つことになった。そしてその時間だけイサイをこの空間に連れ出し外の空気を吸わせる、それが折衷案だった。

 昼と夜の境目。遠く東の地には緩やかな山が見えるようになってきた。川幅はいよいよ広く、川沿いの草を濡らして湿原を作り出している。川沿いの草地が盛り上がり、まだ微かに残る昼に照らされて闇に影を落としている。薄く茜を残して夜とグラデーションを重ねている空には三日月が浮かび、川面は揺れながら紫の強い青に淡く染まって、湿原の草地から覗く静かな水面は宝石のようにその色を湛えていた。

 静かに虫が鳴く。

 夕暮れに沈む川面は大地と一体化して、遠くに見える山が水面に浮くかのように佇む。山の麓に沈みゆく三日月だけが時間の流れを教えてくれる。グラデーションに沈む薄い雲はゆっくりと濃紺に飲み込まれていく。夜が茜を侵食していく。水が流れてゆく。

 船から眺める景色。なぜ目を離せないのだろう。イサイは目を瞑る。

「良い夕べだな。」

 ユーリは声をかけたが、暫く間があって、ああ、とだけ返事があった。口数が少ない奴なんだな、ユーリは思った。今のところ会話らしい会話がない。

 なにを考えて奴はこんな景色をずっと眺めているのだろう。湿原は夕暮れに沈んでいてもう殆どなにも見えない。月が三日月の今夜は暗くなるだろう。水の流れは碇を引きずるほどには強くない。夕焼けが強かったから明日も晴れるだろう・・・

 とても静かで、ユーリは既にこの景色に見飽きていた。

「この景色が気に入ったか?」

 やはり暫く間があって、そうだな、とだけ返事があった。

「俺はもう飽きたよ。やっぱり山や木がないとな。ここいらは寂しすぎる。」

「山、と木か。」

「ああ。俺達の国は山と水と木が豊かなんだ。」

 そうか、呟いたきりイサイは黙った。

 会話が続かない奴だな、りんごを齧ろうとして、もう芯だけになっていることに気付く。ユーリはそれを暫く眺めてから放り投げた。緩やかに放物線を描いてりんごは水面に吸い込まれ、柔らかい水音が一度だけ響いた。イサイはその様を眺めていた。

「どんな国なんだ、お前の国は。」

 イサイが初めて話しかけてきた。ユーリは思わず彼を見たが、彼の横顔は夕闇に沈んでよく見えなかった。

「ん、ああそうだな。そういえば何か知っているのか?」

「魔女が治める国だと聞いている。」

「魔女?失礼な話だな。」

「僧がことあるごとに魔女だと言っていた。本当に魔女かどうかは知らない。」

「まぁでも僧侶があの美しいお姿を見ればそうも思うのかもな。」

 美しいという言葉にイサイは引っかかる。確かもう高齢のはず。

「それにあの方がいなければ連邦国なんてもうとっくの昔に存在しなかったさ。」

「今は、違うのか?」

「そうだな。俺は、連邦国の東の小国出身でさ、連邦国内で一番獣の攻勢が激しかった地域だったんだ。それでもう俺の生まれた故郷は国境の外側さ。でも今は国境全域が固められたおかげで大丈夫ってところかな。それもここ数年の話なんだけどな。」

「故郷、なくなったのか。」

「ああ。俺がまだガキだった頃に。あんたの故郷はどうなんだ?」

 空はいよいよ夜を深め、景色を深く濃紺に染めていく。星が輝きを放ち始めても、まだ茜は去らない。薄く、薄く、いつまでも夜に染まりつつある雲を離さず色を残した。

「似たようなものだ。今はない。」

「そうか。あんたもか。・・・どんなところだったんだ?」

 イサイは考える様子を見せた。

「人と鉄を鍛えて売る村だ。」

「なんだそれ。傭兵でもやってたってことか?そんであんたは鍛えられた人ってわけか?」

「そうだな。」

「景色はどんなだったんだ?シルブハスは暑くて豊かだって聞くけど。」

 イサイは更に考える様子を見せた。もう喋らないのかと思うほどに間をあけたあと、忘れたな、それだけを呟いた。

「忘れたって、そんなわけないだろ。」

「本当だ。思えば、随分と長い間思い出すことなどなかった。」

「そんなことあるのか。俺なんてここ最近毎日思い出すけどな。」

 なぜだ?イサイは初めてこちらに顔を向けた。闇に落ちてその表情は分からない。

「悔しいから思い出すんだ。」

 イサイは身動きせずにこちらを見ている。

「俺も最近は思い出さなかった。いや、思い出さないようにしていた。それはもう今なら自分は何かができるって、そう思ってたからだ。今なら俺はあの時のように何もできない自分じゃない。今なら俺はあいつらを殺せる。」

 殺せる、イサイは呟く。

「そうだ。あいつらを殺して俺は国を守る。もう大事な人をあいつらに食わせたりなんかしない。次思い出すのはあいつらを殺してからだ。次思い出す時は憎しみだけじゃない。家族や村の皆の笑った顔と一緒に思い出せるようになるんだってな。」

 話しながらふと草地が香った。その香りにユーリの脳裏に様々な小さな記憶が駆け走った。友達と駆け走った村を見下ろせる丘、故郷の香り、親に反抗した日のこと、姉や、幼かった弟や妹達。左手が震え、ユーリは右手で強く握り抑える。息があがって闇しか見えない視界が歪む。

「でもお前を助けたあの夜俺は何もできなかった!この包帯見てみろよ。あのクソ狼相手に何もできずに食われたんだ。俺はなんなんだよって、悔しいんだ・・・!」

 はぁはぁと息を切らせ感情を出すユーリを見て、イサイは既視感を覚えた。これは、なんだったろうか。水、感情を隠さない少年。なんだったろうか。

 地平線から茜が消え、三日月も山に沈んだ。いつの間にか黒く染め上げられた夜は光の主も失い、星がうねるように眩く光を映し出していた。


 シルブハスは豊かな国だと聞いていた。マーブ教の聖地となり、大地は神のご加護に守られ獣も立ち入らず、人にとって最後の楽園だと。しかしイサイは言葉少なげに語ってくれた。シルブハスはスラム民で溢れ悲惨な光景に溢れていると。彼もまた自分のように身寄りもなにもないと。しかし話の途中、急に彼は黙り込んだ。なにを話しかけても一言二言の返事があるだけで、微動だにせずに闇を見つめていた。

 彼が黙りこむ前、なぜシルブハスを抜けだしたのかと聞くと、彼は分からないと言った。

 なぜ国を抜けだしたのか。故郷を追われ、故郷を忘れ、身寄りもなく、なぜ今旅に出たのかもわからない。彼の話を聞いていて、もしかして自分もこのままではなにもかも分からなくなってしまうのじゃないか、ふとそんなことを思った。

 本当は、思い出さなかったのは辛かったからだ。勇気がなかったからだ。今溢れる記憶を前にして分かった。なにもできなかった後悔、自分だけが助かった罪悪感、辛い記憶は自身から行動力の全てを奪い去ってしまう。記憶から感情が薄れなんとか思い出さないようになれた今、改めて過去の記憶に向き合って乗り越える勇気がなかった。もしかして彼は自身が記憶を思い出さずにいたように彼はもっと長い間思い出さず、結果大切なものを本当に忘れてしまい、そしてなにもかもが分からなくなってしまったのじゃないか。

「隠しているだけだろきっと。」

 なにか急に恐ろしくなって、ユーリは一人笑い呟いた。



 夢を見る。内容は覚えていない。なのに、何度も見ている夢だということだけ起きても覚えている。薄暗く、狭く、息苦しい部屋。ここにも自分の意思がない。聞こえる川の音が夢の記憶をすぐにかき消してしまう。川の音さえなければ、きっと覚えていられるのに。川の音が一生頭からこびりついて離れない気がした。

 あの少年との会話は、腹の底で小さくなりつつあった違和感をまた大きくさせた。この違和感の正体は、一体なんなのだろう。考えることに意味はあるのか。意味があるのかないのか分からないくらいであればいっそ気にしなければいい。ずっとそうしてきた。

 なのに、ずっと変だ。国を出た頃から、出る前から、いや、変だったのはいつからだったのか。いつからがおかしくて、いつまでが正常だったのか。

 あの少年と話していて気付いた。故郷は、どんなところだっただろうか。誰がいて、自身はどのように過ごしていたのか。会話していて大きくなる既視感。膨れ上がる既視感に思わず意識が奪われた。足元に着いているはずの地が不安定な何かでできているような、腹の底にある何かが今にも膨れ上がって破裂してしまうのではないか、そんな馬鹿げた恐怖に駆られた。

 気にしないでいたはずの違和感。なのに今はその意味を考えることが、頭からこびりついて離れない。

 目を瞑る。

 ・・・して。

 誰かの声が聞こえた気がした。まどろみの中で、無意識にイサイは体をまるめ自身を抱くように眠りについた。



 ジル=スム要塞。連邦の構成国の一国であるハタウフィーグ国、北方を束ねる都市アイシャグドエリン市に所属し、国境の要衝を固める稜堡式城郭。連邦国は国境線のほぼ全周を河川も利用した運河を兼ねる水堀や、そして内側に堡塁、更には要衝にはこのような要塞が建設されていた。

 ジル=スム要塞は幾何学状に作られた幾種類かの稜堡と呼ばれる堡塁が組み合わさってそれぞれに援護しあって死角を補いあい、縦深した火力を実現する。この要塞は四つの稜堡とそれらを繋ぐ母体から成り立っている。国境の外に迫り出す三つの稜堡は正五角形に近い形をしており、一際大きな国境の内に迫り出す稜堡は正三角形の底辺を崩したような形をしている。

 ジル=スム要塞に限らず、連邦国の要塞は水に浮いていると言われた。この要塞も例に漏れずフォン川から水を引いて要塞周囲を水で満たし、その姿を空から見れば全体が王冠のような形を成していた。

 要塞の背後では見上げる高さの巨大な三連揚水水車が飛沫を上げながらゆっくりと回転し、フォン川から引く用水を要塞への水堀や、運河へと注ぎ込んでいた。

 しかしイサイの目を奪うのはそれだけではなかった。要塞背後に広がる一帯は堤防に守られていながらも一見水浸しのようであり、しかしそれはしっかりとこの街が整備された結果なのだと分かる。

 空に突き出す半地下の巨大な円筒形の建物。その煙突のような口からは熱気と煙が上がって空を煙らせ、その口に向かって複数の作業者が延々と黒い塊をシャベルで掬って放り込んでいる。その建物にも半地下に設けられた水車が大きく回転しており、その建物に隣接する水源はその水車のための用水池なのだと分かる。

 この巨大な建築物は幾つか並び、更にその周辺には似たように用水池を保有する大小様々な建物が点々と、しかし見渡す限り存在した。

 巨大な円筒形の建物では水車が巨大な鞴を吹かせ、鞴が起こす風が大砲のような轟音を響かせ、風が起こるごとに建物は赤く発色した。

「あれは、鉄を造っているのか?」

「ああ製鉄所だ。凄いよなこの光景は。まぁ早く行こうぜ。怪我人が遅いとエリザが心配するだろうし。」

 ああ、そう言いながらもイサイはその景色から目を離せなかった。


 燃え盛る高炉に鉄鉱石と木炭を交互に投入する。足元からは定期的に赤い液体となった銑鉄が火花を散らしながら流される。

 銑鉄は鉄の鉱物から鉄を取り出した際の一番最初の姿で、その赤い高温の液体を冷やし固めればそれは鋳鉄と呼ばれる。鋳鉄は硬いが、脆い。鋳鉄を再度熱し、槌で叩いて精錬を行うと錬鉄となる。錬鉄は鋳鉄に比べ粘り気が増して丈夫になる。連邦国では、鋳鉄は鉄器や建築資材等に使用し、錬鉄は農具や工具や機械部品、或いは更に精錬して刃物等に利用していた。

 鉄そのものや鉄製品は非常に重要な輸出品であり、更には国防の要でもあった。


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