ハンス調査隊
夜、たき火を前に項垂れるゲルティを前にして、深刻そうな面構えをしてみせながら内心吹き出しそうな思いでハンスはうーむと唸った。背後に控える少年達もこの老人の前で緊張した面持ちだった。
第一班は坊主。第一班の報告に来たゲルティとユーリ。普段の少年達との付き合いの様子からして意外や意外案外と小心者なゲルティ。そして対照的にユーリは冷静そのものだった。ゲルティの反応には充分な満足を得れた。しかしあの背後の少年を怯えさせる手段はなにかないか、深刻な顔の裏でそんな不真面目としか言いようがないことを考えていた。
「ユーリ、何かお前からはあるか?」
ハンスはその老獪さを活かして全く表情を崩さずに問うた。
「そうですね。残念ながら。」
ユーリは先程までの表情と対照的ににこりと笑った。涼し気な目元は押し黙っているとキザに見えるものだが、崩す表情は器用としか言いようがないほどに少年らしかった。
むぅ、なにもされていないのにどこかやられた気がしてハンスは悔しく思った。自分でも子供のようだと思うが、慌てふためく若者を愛でるのが老人の特権というものではないか。心の中で舌打ちしながら第二班を呼ぶ。
「見てくださいハンス殿、我々はこのようなものを発見しました。」
エリアスはもったいつけて懐に隠し持っていた陶器とガラス蓋製の容器を取り出した。中には小さく小割りにされた黒い石の欠片が入っていた。
「炭は炭でもゴミですね。」
横から一目見てゲルティは言い放ち、その悪意のない事実を指摘した言葉を聞きエリアスはゲルティを睨んだ。それを聞いて思わずユーリは噴き出し、しかしすぐに冷静な表情を取り戻した。ゴマすり野郎がいい気味だ、ユーリは道化になったエリアスを見て心でせせら笑った。
一連の少年達の様子にハンスがジロリと見ると少年達はシンとなったが、その態度と裏腹にハンスは手を叩きたいくらいの満足を得ていた。ふーむ、そう言いながらハンスは片目にルーペをはめてその石を観察した。色は黒。表面には無数の孔があり、当然光沢もない。これはどう見ても、
「瀝青じゃな。」
瀝青炭は石炭の中では不良炭とされていた。火力はとても強いのだが燃やすと毒性があると言われ続ける独特の臭気を持った煙が立ち、調理は勿論暖房用燃料としても使えない。調理に使えば料理の隠し味に生ごみを加えたような風味に仕上がった。それらの理由からハンスが若い頃既に市街での瀝青炭の使用は禁じられていた程であった。しかしその炎の力強さは魅力があり、かつては鉱物の精錬にも使われようとしたが不純物が多すぎるのか著しく金属の品質が落ち、それらから今では見向きもされない鉱物の一つであった。
「まぁ、我が友邦はこんなもんでも買うらしいからの、最近は。」
勿論ゴミのような値段でだが。変わらずゲルティを睨んでいたエリアスはそれを聞いて顔を綻ばせる。
「ですよねハンス殿、確かに今は価値はなくともこれからどうなるかわかりませんよ。」
「しかし炭ならばなんでも買うなどと、一体友邦は何考えとるんかの。」
ハンスの言う友邦はエスロームと呼ばれる専制君主国家で、ハンス達の連邦国の遥か南方にある四方を峻険な山岳に囲まれた広大な盆地に位置する国である。その山岳の麓には連邦国と繋がる大河があり、その大河を通じて両国は貿易を行っていた。
「木はどの国でも不足しています。あちらでは民が使用する燃料といえばこのような不良炭ということではないでしょうか。」
そんなものかの、ユーリの発言にハンスは相槌を打った。
「所詮は絶対王制という奴ですよ。ハンス殿は考えすぎですって。」
アハハ、と爽やかに笑うエリアスに対しユーリは自身の表情そのままを声に出した。
「ボンクラが。」
「おい、どういう意味だ。」
ゲルティと違い悪意の込められた発言にエリアスは思わず声を荒げた。しかしそれをエリアスと一緒に報告に来ていたマテウスが友人を押さえた。
この二面性を隠さずに見せるユーリという少年を見て老人は少し不安を覚えた。ハンスにはまともな社交性を見せるこの少年は、ハンスに見せる顔からすると意外なほど人付き合いが偏る。先ほどのような攻撃性を周囲に見せつけては反感か萎縮のどちらかを買わせる。しかし今時珍しく、人付き合いは別としてなんにでも全力で取り組み、得た知識や経験を吸収する早さは中々なものなのだ。
まぁしかし、平民出のあやつらはああでもないとやっていけんのじゃろな。ユーリとゲルティを見ながらハンスは思った。ユーリは先程のエリアスへの態度がなかったかのように涼し気な顔をしていた。一見すれば爽やかな少年にしか見えないのだが、とにもかくにもハンスは単純な答えでそう決めつけた。
ハンス調査隊。本来は防諜を主目的とした組織であり、連邦国の元首たる女王に直接隷属した組織である。しかしそれは最終像に過ぎずまだ名ばかりの組織であり、その組織像は女王とハンスの間で共有されているに過ぎなかった。現在はこうして資源調査にかこつけた敵勢把握、地図制作などを行い、更には機密扱いである新技術の運用を試験的に行うことも兼ねるに留まっていた。
不定期的に行われる今回のような調査にハンスほどの高官が参加するのは本来は不自然なことであったが、彼自身はこの調査を旅をする程度に思っており、多少の我侭を通して参加していた。
しかしこのような調査を行うにもハンスの手元に人材が足りておらず、女王の裁可をもって近衛から二名の士官と八名の士官学校の学生達と若干名の水夫を借り出して調査隊を組んでいた。
ハンス達は二隻の新型帆船を用いて調査を行っている。この新型の帆船はそれまでの帆船に比べ見た目が細長くすっきりとしており、全てが縦帆で構成され操船性に優れていた。代わりに荷の積載可能量が少ないため居住性が良くなく、今日のような戦術上良とされる地形を発見した場合は船に留まらず野営することが常となっていた。しかし本来は船やそれに使用される帆の他、武器、調査器具など全てが機密扱いであり、船から離れて野営することは望ましくなかったのだが、そこがハンスという老人の特性というものであろう。
ハンス達が今いる地形は高低差三十メートル程のなだらかな丘であり、周囲をよく見渡せる。北から西にかけてが断崖絶壁で、その反対側は見渡す限りの平原が広がっており、その崖の下をつかず離れず夜には向こう岸が見えない程に広い川が流れていた。
野営をする前、ハンスは平原に馬を駆りだして兎を仕留めていた。その肉を彼の妻が持参させた塩とハーブの混合調味料で焼いて川の水で冷やしたビールを飲み空を見上げると、月はその満ちかけた明るさで空の一部を霞ませ、残った夜空には星がばら撒かれ、雲が月にかかる様をゆっくりと眺めているとハンスの老骨に精気が還ってくるかのようだった。
「しかし本当に大した発見がないな。」
相変わらずの能面で、将来の武官というよりは文官のような風貌のゲルティがユーリに呟いた。
「ああ、まぁでも、お前は気にしすぎだろ。」
ユーリは答えながらも、調査隊員に選ばれせっかく突貫で人一倍必要な知識を詰め込んだというのに、このままでは覚え損だという気がした。
ユーリはふと女王の姿を思い浮かべた。この調査でもしめぼしい発見があれば、今回の調査をもって半人前の少尉として着任すると同時に女王から勲章が授与される可能性があった。女王はこれまで見た誰よりも美しく、その妖艶さにまだ男性として未熟なユーリは夢に何度も出てくるほどに衝撃を受けた。ゲルティもきっと同じなのだろう。彼もきっと誰よりも叙勲を望んでいるに違いない。
「皆黙れ!」
唐突に第一班の指揮官である大尉、テオフィルスが叫んだ。
何事か、ハンスが彼の方を見ていると、その麾下のフレートが走りハンスの元へ駆けてきた。既に緊迫した表情の彼の報告によれば、先程から狼の遠吠えが聞こえるという。
「ほう、聞こえたか?」
ユーリ達四人は一様に首を振る。ハンスは耳を澄まして聞いてみるが、聞こえるのはたき火の弾ける音ばかりであり、夜の平原は音もなくとても静かだった。
どういうことなのだろうか。ハンスは報告に来た学生に両大尉を呼ぶように伝え、暫くしてテオフィルス、ルニィがやってきた。両大尉はまずハンスに対し敬礼を行った。ハンスは返礼の後両大尉を座らせ事情を聞いた。
「船上からは微かに聞こえるようです。斥候に出ようと考えているのですが。」
生真面目なテオフィルスはハンスの許可を求めているようであった。確かに調査隊の指揮はハンス自身の手にあるが殆どを両大尉に任せており、そんなテオフィルスが苦くもあり、まだ若く可愛げがあるというものか、そんなことを髭をわしりながら思った。
「まぁよし。せっかくじゃ、ワシも出る。士官偵察としゃれこもうではないか。馬を用意せよ。」
ハッ、両大尉は返事し、指示を下すために散っていく。ルニィがテオフィルスの肩を突付くのが見えた。きっとまた生真面目さをからかっているのだろう。
士官偵察か、ハンスは顔がニヤつくのを自覚した。
「これだからやめられんわい。」
白い髭がびっしり生えているのにも関わらず伺える、頬から首元まで伸びる傷がうずいて思わずハンスは髭を触った。そんなハンスを見てユーリは肩を竦め隣の友を見たが、見返す友の表情は変わらずの能面で、ユーリは思わず苦笑した。
なにかお伽話でも見ているかのようだった。巨大な影と人の影が明るい月の下で戦っている。人の持つ剣がキラキラと光を放ち、何度もあの巨体を斬り付けていた。
ハンス、テオフィルスとその麾下の学生達四人は皆一様に目を奪われていた。
「どう、報告書を書けばよろしいのでしょう・・・」
テオフィルスが呑気とも思えるような発言をした。そんなもの、とハンスは返事しようとしたが確かにそうだ。無人の荒野で獣の声が聞こえ、敵勢偵察を行おうとした所遥か崖の上で人外と人との決闘を目撃した。なんだそれは、意味が分からん、書きなおしてこい。自分ならそう言う。
いやいや今はそんなことどうでもいいであろう、テオフィルスに向かってそう言おうとした時学生達が声を上げた。一瞬の出来事だった。人外がなんとも鮮やかに足を振り回し、流れるような動きで人を突き吹き飛ばした。あっという間に人影は空を舞い失速しそのまま崖から落ちハンスが歯を食いしばって落ちる様を見届けてやろうとした時、大きな水柱を立てて川に落着した。
暫く間が開き、間に気付いてハンスが指示を出そうとした時には既にテオフィルスが上着を脱ぎながら「付いて来い!」学生達に指示を出し走りだしていた。それを少しばかり悔しく思いながらも崖を見上げると、人外が崖の淵に立っていることに気がついた。人外は月灯を浴びて白く輝き、おぼろげにその顔が見えた。狼だ。テオフィルス達が言っていた遠吠えの群の主はこの人外だったのだ。
そんなことをハンスが考えていた時、巨躯の狼はおもむろに咆哮を上げた。遥か遠くで唸るその声はハンスのいる場所まで震わせ、その大きさにどこからか群が降りてきて戦いになるのではないか、思わずそんな危機感をハンスに抱かせた。
華奢な少女が厳しい石材がむき出しになった廊下を歩いている。紺地のヴェールにワンピース、胸元からは白いブラウスが覗き、そこには銀の細やかな細工が施された聖具が光っている。医療器具が詰められた真鍮製の容器を胸に抱え、小幅な足取りで病室へ向かう。
修道学校の学生であるエリザはどうしても弾んでしまう心を抑えきれなかった。セポイの要塞での実修が始まりはや二ヶ月、外の世界の男性というものに幻滅しかけていたところだったのが、それがなんということだろう。今回出会った調査隊の面々はエリザが抱いていた男性へのイメージに近いものであり、心から安心していた。彼らは近衛の士官達だという。さすがあの麗しき女王様の直属の兵士であり、士官。世の男性は粗暴な男性ばかりではなかったのだ。
エリザはまだ彼女が幼かった頃から修道学校へと入り、そこで外界から閉ざされた環境で五年を過ごした。それまでもエリザは学者であった父から直接に家庭内で教育を受けていた為、彼女が関わったことのある男性といえばその父と弟くらいのものであった。
病室の前に立ち、エリザは緊張から心臓が鳴るのを感じた。
一昨日、エリザは初めて男性の体を見た。最初は触れるのは勿論見るのも怖かったが、想像していたような厳しい顔付きの男性ではなく、自分よりも歳は上だろうが似たような年頃の男性で、何より汚れを落とすと現れたのは気品すら感じさせる肌をした男性だった。しかしその体は全身がゴツゴツと荒々しく、なのに無駄な肉が一切ない。全ての筋肉が盛り上がり、なのに全てが引き締まっている。
家にいた頃は父親が上着を脱いでいるのを見たこともなかったし、弟なら彼がまだほんの小さな頃湖に一緒に泳ぎに行ったことがあったが、子供だった弟と比べ物にならない体をしていた。
エリザはノックを前に、緊張からゴクリと唾を飲み込んだ。彼も調査隊の若い士官達の一人なのだろうか。いやでも外国から来たらしいということは上級生のアリアネから聞いている。ならば彼も粗暴な男性なのだろうか。
「失礼しま・・・」
あれっ?エリザは目を丸くした。窓際のベッドで眠っているはずの彼がいない。部屋は窓が開き、パタパタと白地のカーテンを揺らしている。
「あ、皆様!」
エリザは走りだしてすぐ三人の士官達を見つけた。声をかけられ三人は敬礼する。
「どうかされましたか、エリザ殿。」
「エリザで結構ですわ。・・・アンダース大尉殿。・・・えっと・・・」
テオフィルスの名はなんとか思い出せたが、大尉と並ぶ二人の士官達が思い出せない。
「あ、失礼。自己紹介してさしあげろ。」
「はっ、エリアス・ジャシス準士であります!」
「同じく、ゲルティ・ザカ準士であります。」
慌てていたエリザは大尉の名前が中々出てこないばかりか、若い士官の二人から自己紹介を受けていたかどうかもわからなかった。恥じらいを感じ、俯きそうになる。それを見たエリアスとゲルティは男性三人を前に頬を薄く染めて俯く少女の姿に胸が高鳴った。
「エリザ・レーマン修道女と申します。」
エリザは軽く膝を曲げ顔を伏せて挨拶を行う。
「どうかされましたか?」
テオフィルスの柔らかな口調に心持ち安心を得ながらも、ハッとエリザは思い出した。
「あの、それが、健診に伺いましたところ、私の担当の外国の方が部屋にいらっしゃらなくて。それでその私慌ててしまって・・・」
エリザが言い切る前にテオフィルスの柔らかかった表情が一気に険しいものに変わり、エリザは思わずたじろいだ。
「エリアス!今すぐハンス殿に伝えろ!ハンス殿は今執務室にコルフロフ閣下と一緒に居られる。くれぐれも失礼なく火急急げ!ゲルティ!貴様は今すぐクナート大尉にこのことを伝えろ!大尉は船だ!両名ともその後私に合流せよ!」
緩んだ表情になっていた二人は表情を引き締め、カッと踵を鳴らし散っていった。三人の素早いやり取りの前にエリザは呆然とした。
大尉も病室の状態を確認するために歩き出そうとした時、怯えたエリザに気付く。
「あ、こ、これは・・・」
年若い、少女と呼べる可憐な女性が泣き出しそうな表情をしているのを見てテオフィルスはたじろいだが、「失礼!」強く言い放ってエリザを後にした。
アルフレートは久しぶりにうまい酒に上機嫌だった。旧友が訪れ、なんとも面白い話を聞かせてくれたのだ。彼は余りの上機嫌に旧友の仏頂面にも気付かなかった。
「それで、連れて行く気なのか?このまま。」
ああ、答えながらも、半分隠居でもしたかのようなこの旧友に対し苛々が募っていた。
「知らんぞぉ。最近何かにつけてあいつら我が王を攻撃しよるみたいじゃからの。沙汰があるまでだけでもここに置いていけばよかろうに。」
「報告書は読んだぞ。いつ何が起きるか分からん。起きれば遡上船がいつまで止まるやも知れん。そうすりゃわしゃ陛下の機嫌を損なうわ。」
「まぁ、そうかもしれんがの。お前さんじじいらしからぬ軽率を起こすでないぞ。」
「だーっとれわかっとるわいそんなこと!それより主ぁさっさと・・・」
誰かが駆けつけてくる慌ただしい足音に気付き、ハンスは後ろを振り返った。
「失礼致します!」
「誰か。」
「ジャシス準士であります!」
準士?思わずアルフレートはハンスを見た。遥かに懐かしい響きである。というよりも彼が若い頃にはそんな官名はなく、それが卒業を控えた学生だということに気付くのにハンスが全く返事をしてくれないので時間を要し、ああ、と声をあげ酒盃を手慣れた手つきで隠し、威厳のある顔つきを作った。咳払いの後、入れ、と声をかける。
入ってきた少年は大声で閣下!と叫び敬礼を行った。その明らかに緊張している若さに一瞬吹き出しそうになりながらも、威厳を崩さず要件を問う。
「ハッ!保護致しました外国の者、逃走をはかった模様です!その旨、お伝えに参りました!ただいまアンダース大尉とクナート大尉が捜索しております!」
「逃走ぉ?なんで逃走する必要がある。」
ハンスは首を捻りながらエリアスに問う。
「そ、それはやはり、あの者が間者であり・・・」
「間者するにしろまだ奴は何も間者しておらんだろ。」
「やめてやれハンス。見習い士官に聞いても仕方なかろう。」
両高官を前に緊張していたエリアスはそれを聞きほっと息をついた。
どうせまた大尉の苦くも可愛げのある生真面目だろう、ハンスはそう思った。しかし今度は少し苦味が強い。ハンスはそんなことを考えながらうーむと唸り思考をまとめる。
「分かった捜索は続けさせろ。ワシもすぐ行く。だが見つけても何もするな。気付かれないように遠巻きに観察しておれ。ワシが行くまで何もするな。」
準士は最初と同じく大声で返礼すると、また慌ただしく部屋を出て行った。
「お前さんが来てからなんだか騒がしいのぉ。ああそうじゃ、手を貸すか?」
別段慌てるような状況ではないが、それでもかつての戦友の間延びした声にハンスの苛立ちは最後まで収まらなかった。
「いらんいらん!腰がこーんなひん曲がったじじいが二人も手を出してみろ。若造どもが年寄りの介護にいきりたって手がつけられんようになるわい。」
「酷いこと言いよる・・・」
目が覚めると薄暗い日差しが部屋を包んでいた。頭はもやがかかったように鈍く、うまく回らない。手を少し動かすと、清潔な布と肌が擦れた。頭を傾け視線を落とすと、とても清潔な寝具に寝かしつけられていることが理解できた。視界の中に窓があることに気付く。窓にも清潔な白い布がかけられており、布越しの弱々しい光が部屋に注がれているのだと気付いた。
ここはどこだ、ぼやけた頭でイサイは思った。覚えていることを思い出そうとするとなぜか胸のあたりがとても苦しく、それから逃れたくて外を見たいと思った。
粘つくような体を動かそうとすると脇腹が激しく痛んで小さく呻き、痛みに顔を歪ませながら起き上がると腹に幅広の包帯が巻きつけられていることに気付いた。痛む箇所には血が滲み、そこに触れると線状に痛みがあって、切り、縫われたことを理解した。
重い体をなんとか動かしベッドから立ち上がると激しい動悸がして悪寒が襲い、更には喉がひりつくのを感じ、視界が黒く霞む。狭い視界で左右を見渡すと小さな机の上にガラス製の水差しが置かれていることに気付き、それを掴んで喉に流し込んだ。流しこむと脇腹が痛んでむせそうになり、むせると更に脇腹が痛んだ。はぁはぁと呼吸を整えながら時間をかけて水差しの水を飲み干していく。水を飲むと体中から汗が滝のように流れだす。熱が内に篭っていたのだろう。
汗を拭いながら部屋を見渡した。壁は漆喰で白く塗り固められ、床は木造。簡素だがとてもしっかりとしている。豪勢なものだ。霞む瞳で改めて窓を見る。誰かに運ばれ、治療を受け、ここに寝かされたのだ。
カーテンを開いた。光が零れ、見たことのない景色が広がった。窓を開けた。
窓の外には信じがたいほどの巨大な水溜りがあり、その水溜りは水平線の向こうまで続いて、これが海か、思わず呟いた。
小高い山を海が削って湾となり、多数の船が石材造りの埠頭に繋がれている。湾を見下ろすごつごつとした山の稜線には砦が連なり、山が幾つも削られて砲台が築かれ長大な青銅砲が山に緑釉を載せている。
空は灰色の雲がうねって薄く全体に広がって空を消し、その下に鏡面のような灰黒い海がどこまでも空と競り合って水平線の向こうへと水を落としこんでいた。
湿気の強い潮っぽい風がはたはたと頬を撫ぜていく。
ふと見ると港湾の外れに大河が流れ込んでおり、隣の静かに海が寄せている場所に気付いた。窓の下を見る。高い。急斜の地面に短い草が風に揺さぶられ、さわさわと音を鳴らす。
もう一度なだらかな海を見た。
ハンスは苦味の強い若さにさすがにテオフィルスを強めにたしなめ、ルニィの報告を受けて港湾の西外れにある砂浜を訪れた。砂気の多いこの港は数年に一度底を浚わないとどうしてもこうやって砂浜ができてしまう。
少年は防波堤の上で座り、風を受けながら海を眺めていたようだった。男にしては長めの黒い髪が風になびいている。ハンスは少年の血の滲む包帯を巻いた後ろ姿を見ながら、鍛えられてはいるが少年に過ぎない体躯のこの若者があの人外とあのようにやりあっていたことが不思議に思えた。
「よぉ、若いの。目が覚めたのか。」
ハンスは十年近く話していなかった外国語、シルブハスの言葉で声をかけた。恐らく連邦国の言葉は通じないだろう。
少年はゆっくりと振り返る。少年の顔は思っていたよりも白く、大きな切れ長の鋭い目をしている。その鋭さと白い肌と相まって、氷のような冷たさを感じさせた。
ハンスは分厚い体の腰をどっこらせと少年の横におろした。
「お前さん、なんだか表情に乏しいのぅ。」
少年は返事もせず、じっとハンスを見返した。
「ワシの名はハンスじゃ。お前さんは?」
ハンスは右手を差し出すが、少年はそれを見た後少しだけ首を傾げた。
「ヂヅチ。名はイサイ。」
「おお良かったシルブハスの言葉は通じるのか。」
「あまりうまくはない。」
「何を言う中々達者ではないか。ところで自己紹介をした後は握手をするもんじゃぞ、若いの。」
ハンスが再度右手を差し出すと、イサイは首を傾げながらも握手を交わした。
「ところでシルブハスの言葉が母国語ではないとすると、お前さんはシルブハスが故郷ではないのか?」
「ああ、もっと西方の出身だ。」
「なんというところだ?」
イサイは心持ち目線を下に向け考え、その後答えた。
「今はもうない。地名はあったかどうかわからない。」
「なんと、それは気の毒にの。」
イサイは返事の代わりに静かに首を振り、海に向き直った。若いのに寡黙なやっちゃの、ハンスも海を見た。
「海が珍しいのか?」
「海は、青いと聞いていた。黒いんだな。」
「まぁここいらの海はな。ここだって天気が良けりゃ多少ええ色になるぞ。」
そうなのか、呟くイサイの横顔を見て、ようやくハンスはこの若者が上の空になっているということに気付いた。目の前に広がる海は、どんよりと油がうねるように暗い。
「こんな海眺めていて楽しいか?」
「水の瀬戸際が・・・」
瀬戸際?ハンスがイサイの目線の先を追うとそこには浜辺があった。
「ああ、波打ち際かの?」
「波打ち際か。光るんだな。」
確かに憂鬱な景色の中、空が薄暗くとも浜辺は飛沫をあげ光るように見えた。ハンスはイサイの横顔を見る。あんなものに心奪われるとは、どこか淋しげな少年だと思った。
「傷はどうだ?かなりの大怪我だと聞いていたがの。」
イサイはぼんやりと包帯を見た。ああそうだ、彼らがこれをしてくれたのだ。
「お前達がこれをしたのか。」
「そうじゃぞ。あの戦いも見ておった。中々の迫力じゃったのう。」
戦い・・・、呟き、イサイの目が開く。巨躯の狼。奴ともう一度会えることはあるのだろうか。彼の咆哮を思い出し、咆哮に押さえつけられるように体を重く感じた。
「俺の持ち物はあるか?」
「おおあるとも。全てかどうかは分からんが。」
「返してもらえるのか?」
「残念じゃが、今は返せない事情があっての。」
そうか、呟いたきりイサイは海を見続けた。それだけか?ハンスは聞くが、彼の問いかけの意味を理解できなかったのか、イサイはハンスを見て首を傾げる。
「返せ!とか何故だ!とか、普通は声を荒らげるところじゃろ?それとも要らないものばかりだったのか?」
奪われたらそれはそれで別段構わない気がした。なぜ構わないのだろう。もう自身の持ち物などあれで全てなのに。
そんなことはない、まるで他人事のように呟く少年の姿を見て、ハンスは自身の性格であるおせっかいな心が持ち上がるのを自覚した。今のハンスとイサイの関係性の中でそんな心双方なんの得にもならないと、そう自分を叱咤しながらも彼は性分を抑えきれない。
「良くないの。お主、自分で聞いてきたくらいじゃ。やはり執心があるのじゃろ?それをこちらが奪う気でいるのなら仕方ないとでも言いそうなお主の性根、絶対に良くないの。」
このハンスという男はなにを言いたいのだろう。考えたが分からなかった。
ハンスはイサイを見る。目が合う。鋭い目の中にはどこか生気を感じなかった。これではまるで死人の目だ。
「何故声を荒げん。その若さで、何を人生分かったフリをしておる。もっと抗んかい。ワシにもっと食ってかかれ。そうすればワシの気が変わるやもしれんぞ。ワシがそれくらいで気を変えん人間かもしれん。じゃがそれは食ってかかってみらんと分からんぞ。」
イサイは小鼻を膨らませてがなるハンスを目の前にしていよいよ理解ができない。
「お前は恐らく、立場が上の人間だろ?」
「ん?・・・まぁ、そうじゃの。ワシはまぁまぁ偉い。」
ハンスは偉いと言われ気恥ずかしさを感じる。そんなに居丈高だっただろうか。事実偉くなってしまったハンスがそれでは威を借っているようなものではないか。それでは言葉のやり取りなどできようはずがない、そう普段から肝に銘じていたのだ。
「そんな立場の人間が、返せないと言っているんだ。これも恐らくだが、個人の事情で返さないという訳ではないだろ?」
「ん?・・・まぁ、それも、そうじゃが。」
「じゃあ何故お前はそんなことを言うんだ。」
んん?うーむ、ハンスは腕を組んだ。じじいが偉そうに言って、更に若造にこのように正論を叩き付けられてまさしく鼻を折られた。ワシでなければ気分を害する者もいるだろう。それに似たことが言いたかったのだが、なぜワシはこんなことを言っているのだろう。ああそうだ、ワシの悪い癖が出てしまったからこんなことを言ってしまったのだ。
うむ、そうじゃそうじゃ、ハンスは一人小声で呟いた。イサイはそれを特に表情無く眺めている。妙にハンスは恥ずかしくなり、彼は立ち上がった。
「まだ異国の若者とお喋りを続けたいが、今立て込んでおってのう。近いうちに良かったら飯と酒でもやりながら話を聞かせてくれ。」
「後ろを騒がせてしまったようだが、俺は、ここにいても構わないのか?」
ハンスは背後を見た。ハンスからは誰の姿も見えない。わからないよう遠巻きにいろと命じたのだから当然であった。
「お主、気付いておったのか?」
不思議であった。いると分かっているハンスが見てもどこにも誰もいないように見える。ずっと背を見せているこの若者が、なぜ気付いたのだろうか。ハンスはまた腕を組んで考えた。その時全く別の回答が頭に浮かんだ。
「お、まさかお主、後ろに人が控えていてその中からワシが出てきたからワシを偉いと思ったのか?」
そうだ、事も無げに海を眺めながら答えるイサイを見て、ハンスは思った。
「イサイよ、器用なのか不器用なのか分からん奴だなお主。」
言って、ガッハッハ、と豪快にハンスは笑う。
「ああ構わんよ。今はな。存分に海でも見ておれ。」
少年はしばらく間を置いた後、わかった、とだけ返事した。
波は絶え間なく浜辺に押し寄せている。砂を洗って消えていく何重もの音がイサイの心を離さなかった。同じ動きを繰り返しているのに全てが違う波。
この体の重さに意味はあるのだろうか。あの黒くうねる海は、深いのだろうか。
病室の窓からイサイの背を見るものがあった。左肩から分厚く包帯が巻かれ、腕は肩から吊るされ固定されている。彼の額には脂汗が滲み左肩の包帯には血が濃く滲んでいた。
痛みに臥せっていることが情けなく、じっと寝ているだけなのが耐え切れない。そう、結局自分はなにもできなかったのだ。その事実が頭を巡り、彼は悔しくてならなかった。剣の腕にはそれなりに自信があったのだ。これでも衛士を目指していた時期もあり、目指そうと思えば目指すことができるほど成績も良かった。
なのに・・・、右腕に力がこもる。
力を入れると体のちょっとした力の入り具合で骨が鈍く傷んで目が眩む。また汗が垂れ、痛みに息が上がり体が横たわることを要求する。なのにどうしても悔しくてそれができない。
あいつも怪我を負っているはずなのに、どうしてだ?
視界が眩み殆ど見えない視界の中でイサイを睨む。睨んでいるのは己の弱さだろう、そう思うとまた悔しくて壁を殴りつけた。左肩が叫びをあげ、呻きを漏らして蹲る。間抜けな自分を傷めつけずにはいられなかった。
あの日・・・息を切らせながらも殆ど暗い視界の中で壁を睨む。
あの日、俺は、何も、何もできなかった。俺は奴らを見下せるほど大して差はなかったんだ・・・なのに、
「チクショウ・・・」
ユーリはそのまま気を失った。
自分と同じ年頃じゃないか、ユーリは救出したイサイを見て驚いた。ハンスが急ぎこの場を離れるよう言い、数人でイサイを馬に乗せようとすると彼は呻き、胸甲を脱がせると彼の脇腹からは肋骨が飛び出していた。なにか非現実的な光景を見すぎて実感が湧いていなかったが、彼は間違いなくあの人外と戦い、あの高さの崖から落ちたのだ。
二艘の船は前後に位置し、船首三角帆だけを張って操舵性を高めて夜の川を進む。月灯の下甲板で慌ただしく作業する水夫の手伝いをしながら、崖の上を見た。
「まだ付いてきてるな。」
ゲルティは呟き、ユーリは相槌を打った。崖の上では時折白い光がちらつき見えた。
武器庫が開放された。新式の雷管旋条銃であるニーエル銃と剣が配られる。
ユーリは甲板の上で座り、その新式銃を眺めていた。この銃はこの船の機密の一つであった。従来の主力銃であるガーべ銃に比べると点火装置周辺が特に簡素化されている。それは点火薬を不要にする衝撃を与えると発火する雷管のおかげであり、更に銃身内側に掘られる旋条は、新式の弾丸が開発されたことにより軍用銃であるニーエル銃にも採用された。旋条銃は威力、射程距離、着弾精度共に抜群な成績を誇るのだが、本来弾込めにかなりの時間を要する為にこれまで狩猟用銃程度にしか使用されていなかったのだ。
ただの学生であるユーリらがそんな機密に触れられるのはそれだけ将来を見込まれているからに他ならない。
「何を笑っている?」
こんな状況でも相変わらずの能面でゲルティがユーリに問う。
「お前の顔がおかしかったからだ。」
「ふむ、ならばこの船に乗ってる全ての顔がおかしいということになるな。」
なるかよ、真顔で言うゲルティにユーリはまた笑う。
「なんだユーリ、やけに楽しそうだな。」
ユーリは声をかけてきたクルトを見た。なにか言いたげな表情でニヤついている彼を見て、ユーリはつまらないものでも見たように彼を無視し、また銃を見やった。
「おい何無視してんだよ。戦闘になるかもしれないんだ。ちっとは今くらい協調性見せろよ。」
「ならその口閉じろよ。口だけ野郎。」
「なんだと。」
「口だけ一人前聞くようになりやがって。昔みたいに喋れよ。協力し給えってよ。」
「身分卑しければ口も卑しいってか。寒気がすんぜ。」
二人のやり取りをフレートは溜息をついて聞いていた。なんであんな奴らと一緒になってしまったんだ、そう思い、ユーリ達のような輩のいない第二班を羨ましく思った。フレートは近衛の士官候補生にこのような身分卑しい者がいること自体が許せなかった。近衛は栄えある女王陛下の私兵であり、その士官ともなればその資格がある出自の者で固められるべきだ、と。喧嘩腰とは言え話すのも嫌だとフレートは感じるのに、クルトはよく会話をするものだ、そんな冷めた気持ちで思う。相手などしなければいいのだ。
クルトは日に焼けた精悍な顔で鼻を鳴らすと腕を組んで座り直した。ユーリは何事もなかったかのように銃を眺める。ゲルティは本当に何事もなかったかのように先程の会話を続けた。
「それで、俺の顔がおかしいってどういうことだ?」
お前な、言いかけ呆れた顔でゲルティを見た。到って真顔だった。
「すまん。何もおかしくない。俺がおかしかった。」
「それはよかった。」
クルトはその会話を聞いて思わず噴き出し、慌ててそっぽを向いた。
テオフィルスはそんな学生達の様子を低い船楼の指揮所からハンスとともに見ていた。
「大丈夫ですよきっと。あいつはあれで真面目な人間です。」
真面目の塊の大尉から見れば評価するところなぞそこしかなかろう、ハンスは髭をわしりながら思った。
船は進み、現れた地形に船上は緊張が漂っていた。テオフィルスはゲルティに二番船に腕木信号を送るように指示し、ゲルティは船尾に向かいそこから状況を伝えた。
フレートは緊張に銃を握り締めた。手が震えている、こちらは船、相手は崖の上、戦闘など起きるはずがない、武器を手にしても内心そう高をくくっていた。
行きしにはなかったことが起きていた。川を半ばまで埋め立てる程に大きく崖が崩れている。更には崖の頂上に狼の群が姿を見せていた。
テオフィルスは船を右岸に寄せながらも水夫に船倉へ避難するよう叫び伝え、更に見習い士官達に弾込めの指示を出した。狼の数は二十近くいる。あの群が人外の血族だとすれば、その異能をある程度引き継いだ変異種の集団に違いない。だとすればこんな少数の、しかも学生達ばかりでは勝負にならない。
群の先頭に立っていた二匹の白銀の狼に率いられるように群は崖を駆け下りてきた。崩れたばかりの地盤は脆く、足元を崩壊させながらも群は崖を下る。しかし半ばといかないうちに更に崖は大きく崩壊し狼の群は土煙に覆われ見えなくなる。しかし見える。土煙の中でもあの光を反射し輝く毛並みが。崩壊する崖よりも早く、信じられない早さで崖を駆け抜け姿を現した二匹は、崖の中腹を過ぎた頃にあった巨大な岩石を踏み台にして空高く跳躍した。空を舞う銀狼は美しく、しかし翼も持たない生き物が跳ぶにはあり得ない距離をその狼は跳んだ。
「着地点を狙え!」
その姿に気を取られていたユーリは大尉の声に意識を引き戻され、自身に舌打ちしながらも銃を構えた。
ズダッ、音を立てて銀狼が着地する。ハンス、大尉の二人は指揮所から、ユーリ達は至近距離から銀狼を狙い撃ったが銀狼達は着地と同時に横に転がり弾は一発も当たらない。
前衛と後衛に別れろ、大尉が叫んだ。クルトはその声に舌打ちしユーリを向いた。
「大尉は誰かに死ねってさ。ユーリ、お前は大丈夫だろ?俺とお前が前衛だ。」
ふん、鼻を鳴らしながらユーリは銃を投げた。
「よーし、いつもの減らず口期待してるぜユーリ。」
「お前に言われるまでもねーよ。」
「ゲルティフレート!弾込め急げよ!」
フレートの返事は聞こえなかったが、ゲルティからは確かに、ああ、と返事をする声が聞こえた。銀狼達が滑るように走りだす。
ユーリは剣を抜いた。柄を握り、先ほどまでなかった手汗を感じ、こんな時だというのに硝煙の異臭が鼻についた。ユーリは力を一度抜き、再び力を込めて握り直す。
来い、ケダモノ野郎!
二匹が同時に消えるように跳んだ。言葉を発する間もなかった。
嫌な音が聞こえた。なにかが折れる、たぶんあの音。そしてユーリの肩の上を風が過ぎ去り、同時に左肩に湯を浴びせられたような熱を感じた。ユーリは風の主を追って後ろを振り返る。白銀に輝く狼の口元が赤く染まり、その口には肉が咥えられていた。銀狼が口を開くと汚い音を立てて肉が床に落ちる。
脂汗が一気に全身を巡る。左腕に力が入らず、腕がだらりと垂れた衝撃で鋭くも重い痛みが走り呼吸が上がる。その痛みは目の前を淡く白く染め下半身からも力を抜かせ、そのまま腰を床に落としてしまう。その衝撃で呼吸が出来ないほどの痛みが襲い、苦痛の呻きを上げる。ユーリはそのまま蹲るように傷口を押さえようとしたが、溢れる血の温かさがそれを躊躇わせた。
クルトは?ユーリは痛みに歯を食い縛りながらクルトの姿を探した。クルトに向かったはずの銀狼はすぐに見つかったが、クルトがいなかった。いや違う、その下、クルトがいた。彼は伸し掛かる銀狼の口を左手で押し返し声にならない怒声を張り上げながら腰の短剣を抜いて何度も銀狼の腹に突き立てていた。しかし短剣は針のような分厚い毛皮に跳ね返され肉を裂けなかった。
銃を立て可燃リンネル弾薬を銃身の深くに押し込む。銃を戻して撃鉄を起こし士官候補生達が密かに乳首と揶揄した火導管に雷管を優しく被せる。
ユーリを抜き去ってこちらに牙を向く銀狼を目の前にしながらもゲルティは弾込めの手を緩めなかった。
「フレート何をしている!」
ゲルティは叫んだがフレートは腰を抜かしたまま震える指で銀狼達を指差した。
ゲルティはそれを見て一度顔を険しくさせたがそれ以上フレートに構わず、二匹の銀狼を見比べた。一匹はまさにこちらに向かって来ようとし、一匹はまさに今学友を食い殺そうとしている。こちらに牙剥く銀狼はゲルティの構える銃を警戒しているのか中々に向かってこない。これを外せばきっと自身が食い殺されるだろう。しかしそれを狙ったところで、このままではクルトが食い殺されてしまう。
その時二発の発砲音が響いた。その銃弾はゲルティに牙剥く銀狼に当たり、銀狼の体から火花が散って赤く毛並みが発色した。
銃弾を弾いた?指揮所から発砲した二人は驚きをもって事実を認識した。しかし銃弾を弾いた銀狼はギャン、と鳴いて後ろに大きく下がった。
ゲルティはそれを見逃さなかった。すぐさまクルトを救う為に彼に伸し掛かる銀狼に狙いを定め、しかしそれを見た下がった銀狼は短く吼えた。その声に気付いた銀狼は顔をあげ、ゲルティと目が合う。奴らは声を掛け合えるのだ。ゲルティは発砲する。
一発の銃弾が撃ちだされ、それは銀狼の頭を吹き飛ばした。銀狼の頭が跳ね上がるように上に持ち上がり、一度のよろめきの後倒れた。
ゲルティはもう一匹の銀狼を見た。次はあれが来る。銃撃は上の大将に任せて自分が前衛になるしかない。彼は剣を抜き、戦いの直前のクルトの言葉を思い出して全身に汗が引かれるのを感じたが唇を噛み締め堪えた。剣技の成績が格段にいいあの二人でさえ一瞬でやられた。俺などが前衛を務め、どうなるというのか。
銀狼はピクリとも動かずこちらの方を見ているようだった。クルトはまだ生きているのか?ユーリは体を痙攣させながら蹲っている。自分が行かねばならない。
ゲルティはありったけの声を絞り出し銀狼に向かい走り出した。あのまま身構えていればフレートのように腰を抜かしてしまいそうな程に恐ろしかった。銀狼もきっとこちらに向かって走りだしてくる。姿は見えなくとも速さは先程見ている。その速さを予想して剣を振るしかない。
しかし銀狼は足元をふらつかせながらも後ろに跳び、とても悲しげな遠吠えをあげた。ゲルティは思わず足を止めその声に聞き入った。銀狼は遠吠えの後、一度だけ死んだ仲間を見やってから甲板の手すりを跳び越え夜の川に消えていった。
「か、勝ったのか?」
大尉の怒声が聞こえたが内容が頭に入ってこず、思わず脱力し剣を落とした。横ではまだフレートが震えへたり込んでいた。




