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巨躯の狼

「業を恐れるな。生きよ。生かねば、貴様を殺す。」

 目の前でタカラオは刀を抜いた。彼を象るようにおどろおどろしく煙る白刃が少年の恐怖を煽った。

 少年は震える小さな手で自身の脇差を抜いた。

「貴様にこれは必要がないはずだ。」

 タカラオはそう言うと、少年の鉄槌を目の前の空に放り投げた。

 空気が震え、闇に一閃が走る。

 少年の首元から血が垂れた。鉄槌は二つに割れて地に落ちる。

 少年の呼吸が上がる。膝が震え、目の前のタカラオが大きくなったり、小さくなったりする。脇差を落としそうになり、それだけはしてはいけないと知る彼はありったけの力を込めて脇差を握り締めた。力を込めれば込める程、体の震えは大きく、寒さに震えるが如くガタガタと揺れた。

 無言で彼を見下ろすタカラオに背を向ける。体が言うことを利かず、背を向けるだけでもその場に倒れこみそうだった。しかしそれだけはしてはいけない。

 女が小さく悲鳴を上げた。縛り上げられたその女は、少年が一歩を踏み出すと小便を漏らした。少年は脇差を正面に構える。

 なにかが喉元までこみ上げてきたが、代わりに涙が漏れ出た。

 脇差を握る手が氷のように冷たい。脇差を振り上げるとその手は鉛のようで、重く苦しく、早く下ろしてしまわねば、自身が潰れてしまう、そう思った。

 無音の小屋に少年の浅い呼吸だけが響く。

 少年は合わない歯根を噛み潰した。

 猿轡サルグツワを嵌められた女はその表情を見て叫びを上げる。

 

「業を忘れるな。貴様にカテは必要ない。そう生まれついたのだ。」

 血の臭い。

「忘れるな、クロ。」

「忘れない。」


 


 若いブナの木々の隙間からは薄く月の光が差し込み、薄く地上を照らしていた。ところどころ苔むされている森からはどこからか流れる清流の清涼な香りが漂う。

 森には時折人が生きた痕跡があった。その痕跡は森にぽっかりと空間を作りだし、月明かりの下でも焼け焦げた柱がむき出しになった崩壊した家屋が立ち並ぶ様を見ることができた。

そのかつての村落を一人の人が走り抜けた。人はイサイと自身を呼んだ。

 イサイはこの二日殆ど眠らず、食べ、飲む時間以外は走り続けた。人に在らざるその体力は、彼を追う獣達から次第に距離を離していった。蓄積されつつある疲労は感じていたが、止まることはできない。ひたすらに進むと決めたのだから。

 ふと、前方に光が見えた。イサイは思わず立ち止まり耳を澄ました。草木のかき分ける音は消え、呼吸の音。呼吸を欲する体にさせるがままに肩を揺らせ、水を欲する唇はかさかさだった。

 あの光はなんだろうか。森が途切れるのだろう。また、人の痕跡を見るのだろうか。それとも、湿地かなにかが広がるのだろうか。

 イサイはその先を注意深く歩き進んだ。森が途切れると地面は岩肌が露出し、露出した岩肌は森の縁を沿って隈取るように続いていた。岩肌は遮るものがない月灯を受けて光を放っている。その向こう側は暗くてよく見えない。イサイは周囲を見渡し、空へと伸びるように高く突出する岩肌を見つけ、そこから岩肌の向こうを見ようと思い歩いた。

 そこから見えた景色。眼前に広がる世界。思わず呼吸を忘れた。森の切れ目は大地の裂け目だった。視界が広がった。広大に、限定的でなく、全てが見渡せる。崖だ、左右を見渡せば延々と崖が続く。

眼前に広がる世界は乾いていた。ひたすら彼方まで草に覆われた荒野が広がって、月に深く青に光る大地が非現実的にさえ思えた。その荒野を大きくうねるように線が走り、足元に来る頃には大河となって流れていた。荒野が地平線に沈む頃には大きな水溜りが月と空を浮かばせて無数の星々を反射し、小さな空が地面に侵食している。背後で少し強い風を受けた木々が不定期に間を置いて揺れて、とても静かに葉を鳴らす。

 空には少し下弦に欠けた丸い月とばら撒かれた星。月の光の輪に照らされた星たちは姿を隠し、その下を少量のまとまった雲が闇に輝いている。

 自身の中に違和感を覚えた。なにかが眼前の景色にある気がした。きっとその違和感は目の前のなにかと同じもの、違う、同じではないけれど、対になったなにか。それがなにか、なにかとても大切だったものな気がして、イサイは足を縛られたように動けなくなった。背後では木々が音を鳴らして揺れているのに、少し強い風を受けた雲は音もなく流れていて、忘れる呼吸を恐怖に感じた。

 乾いた目が焦点を失ってしまう。どこを見ているのか分からない。景色が風の音と一体化して眼の奥を突き破って体が侵食されてしまう。頭が痺れて思考がまとまらない。あった、確かにあったんだ。以前、これに似たなにかが。それがなんだったか思い出したいのに、酷く体が重い。腹がぐねぐねとウゴメく、下へ、下へ。とても息苦しい。

 景色は不動に見えて全てがゆっくりと動いている。雲の形、月、星の位置、川の流れ、木々が鳴らす音。なにもかもが不動に思えて、なのに不変なものなどなに一つない。森の香り、乾いた荒野から吹く少し粉っぽい風。

 ここは、一体どこなのだろう。一体自分は、何をしている?

 空に浮かぶ欠けた月が光の輪を頂いて低い雲を照らして、照らされた雲は空を遮って地上に暗く影を落とし、その下で川が土を削って大きく曲線を描いて流れる。大地が割れて樹々と草原に分かれ、一方は闇に落ちて一方は光に溢れている。

 なにか意味があるようで、きっとなにも意味などない。全てが繋がっているのに、全て無意味に繋がっている。その理由を知っていた。確かにそれを知っていたんだ。この胸に溜まる重い感覚も、とても苦しくて逃れたいのに逃れられないその理由も、全て、それなのに、なぜ分からなくなった。とても大切だったなにか。

 俺は、何かを忘れた?

 とても無防備な気がした。全てを曝す目の前の景色に対して自身はなにも備えておらず、思わず恐怖を感じた。


 遠く、こだまが静寂を破る。イサイは我に返った。乾いた目を何度か瞬きさせて目の焦点を戻し、俯き、目を強く瞑った。

 何をしている、俺は。

 一体どれほど立ち竦んでしまっていたのだろう。気付けば月は大きく位置を変え、地面に侵食していた空からも姿を消してしまっている。

 自身に苛立ちを感じた。その心はイサイの目にいつもの鋭さを幾分か取り戻させる。

 遠吠えは遠吠えを呼び、応酬し合う遠吠えはゆっくりと近付いているようだった。その遠吠えを聞きながら、ふと思った。なぜ、こうも追われるのだろう、と。

 銃に弾を込める。油紙の包みを噛み切り、零れる黒い火薬を銃身の先から流し込み、突固め、包みから弾も取り出して放り込み、また突き固め、撃鉄を半起こしして火蓋ヒブタを開いて点火薬を流し込み、そして火蓋を閉じた。

 森と空の境目が風に吹かれわなないている。

 撃鉄を全起こしにした後、まだ鋭さを取り戻せないでいる目で照準を覗きこんだ。なにも見えない。森は光を閉じ込め、光に溢れるこちらからは森の中の光を捉えられない。

 イサイはまた空に視線を投げた。先程の疑問が増えいく遠吠えに混じって頭に反芻した。

 森の頭上の空は月の光が届かず、黒い。森も黒い。なのにその黒さには差があった。なぜなのだろう。同じ黒なのに、空には星があり、森には・・・森にも、いつの間にか星のように光点が浮かんでいた。二つで一式のその光点はじっとイサイの様子を見ていた。次々と増えていく光点。その光点の主を思った。珍しく思考が噛み合い、まだ小さかった彼らを思い返せた。思わず顔が綻び、彼らを懐かしく思った。

 また違和感を覚える。

 その違和感の理由を考えようとした時、先程の遠吠えとは明らかに異質の叫びが地面をビリビリと揺るがした。聞き覚えのある叫び。そうだった、そうだったな。

 少しの間。突如森の奥から光を浴びた巨大な塊が姿を現した。

 四つ足で駆けてきたその塊が立ち上がるとゆうに三メートルはあった。銀色に光る毛皮を纏った巨躯。肩を震わす大きな呼吸音は彼の怒りを思い出させた。肩は盛り上がり、腹や胸は鍛え上げた人の筋肉のようであり、しかし全身に毛皮をまとった巨躯。そしてその巨躯の頭部はおよそ人ではない。狼の頭部を持っている。

 イサイは引き金を引いた。火蓋が引金に連動して当金となり、撃鉄の燧石ヒウチイシと激しくぶつかってイサイの顔を照らす。

 胴を狙い撃ったが三十ヤード程あるこの距離では胴には当たらず、弾は浮き上がり左胸付近に当たった。しかし弾は火花を散らして弾かれ、銀色の毛が宙でキラキラと舞った。

 照準から目を外し、巨躯の狼の顔を見た。暫く互いに無言でその姿を見据えあった。

「フザケルナキサマ。」

 彼の声を聞き、思わず笑みが零れた。

「お前も、言葉がうまくなったな。」

 巨躯の狼は吼えた。怒りしか見出だせないその咆哮に、イサイの違和感は大きさを増した。もう昔のように言葉を交わせることはないのだろう、それだけが理解できた。

 巨躯の狼に連れられて背後からも次々と光る毛並みを持った狼達が姿を現した。しかし彼らは巨躯の狼のように立ち上がることはなく、皆四つ足だった。彼らはイサイが森へ逃げられないように半弧を描いて位置取った。

 群の中に成長した白銀の狼達を見た。彼らの子供達が混ざっているのだろうか。群の大半は少し白さを失ったが光る毛並みを持つ銀狼で構成されていた。

 彼らの集団を見て、なぜか幾分軽くなる心に気付く。それに気付いたと同時に、巨躯の狼に伝えなければいけないなにか大事なことがあったように感じ、イサイは自身の中の言葉を探した。

「タタカエ!」

 言葉を見つけきることもできず、その間に巨躯の狼は突進してきた。きっと同じだ。見ていた景色と変わらない。きっとなにもない。胸で更に育つ違和感。違和感に力を奪われる。でも、なにもないんだ。

 イサイの間合いの遥か外、巨躯の狼は人の頭程もある巨大な拳を振り上げ打ち下ろした。

 それを受ければ全てが終わる。しかし、彼にそれをさせてはいけないと感じた。なにかとても都合がよく、矛盾している。イサイの迷う心は自身の動きを鈍らせ、避けたつもりが拳を避けきれず掠って体を軽く飛ばされた。

 受け身を取って着地する。受けた衝撃で鈍っていた頭がようやく冴え始めた。

 イサイは腰を落とす。刀に手をかけ、更にイサイに向かい迫る巨躯の狼の目を見る。進むと決めた。どこかへ。決めたんだ。生きなければならない。

 巨躯の狼は大振りの拳を放った。その真っ直ぐな弾道を見やって紙一重の差で避ける。黒い髪が風圧で薙ぐ。鞘抜きに斬りつける。火花と銀毛が薄く舞う。

 巨躯の狼の腕を斬りつけたが逃げ様に体重も乗らない一撃では厚い針のような毛の層をを割れず、イサイはそのまま横に跳び距離をとって正中に構えた。

 巨躯の狼はまた近付き自身の間合いで薙ぐがイサイは後ろに下がり避け、更に巨躯の狼は踏み込み拳を槌を払うように薙ぐ。怒りに飲まれた大振り。イサイはそれを見ず、猛る巨躯の狼の表情を見ていた。強い怒りを表すその顔は、戦いの最中であるというのによりイサイの違和感を大きくさせた。腹から湧き出て、胸の辺りでつかえる違和感。巨躯の狼の放つ槌がイサイを捉えようとした時、イサイは垂直に飛びそれを避けた。

 巨躯の狼が驚き目を開く。彼は踏み込み、イサイの間合いに入り込んでいた。

 イサイは上段に大きく刀を振り上げながらも、違和感の理由を考え続けていた。巨躯の狼と目が合う。

 何故だ。

 イサイは気合いの呼気を発すると同時に目の前の銀狼に一撃を叩き込んだ。しかしその刀は巨躯の狼が腕をかざし受け止め、銀毛に食い込む刀は滑らず、銀毛の層を割って皮に食い込んで止まった。血がゆるりと流れた。

 巨躯の狼が走る痛みに顔を歪めた。痛みは彼の奥底にある怒りを更に呼び起こす。

「キサマァァ!」

 巨躯の狼は咆哮する。目の前に浮くイサイを握り潰す、しかし伸ばした手は届かず、イサイは空中で後転し逃げた。巨躯の狼は怒りでなにも見えなくなった。

 何故、何故当たらない。奴も人、なのに何故奴だけは潰すことが出来ないのだ!

 渾身の力を込めて着地点を狙い拳を放つ。拳がイサイに当たるか当たらないかの寸前、イサイが目の前から消えた。

 イサイは腰を深く落とし避け、溜めた脚力で巨躯の狼の背後へと体を捻りながら跳び一度の後転の後立ち上がった。足元の石粒に滑り、間合いから少し離れた距離に立ち巨躯の狼の後背を見た。刀を八双に構え刃を寝かせその距離を一気に詰め気合の呼気を発する。刃の切っ先に膂力リョリョクと体重を載せ後背右、肝臓を狙い突きを入れた。

 刃の切っ先に全神経が集中する。

 巨躯の狼の銀毛の層をブツブツと寸断していく感触。分厚く硬い皮に達し、それをも切っ先は簡単にめり込ませ肉に達する。肝臓を守る肉は薄い。内臓を守る肋の硬さは無く、骨の隙間を刃は滑りこんでいく。柔らかな肝臓。

 しかしその感触を味わう前に脇腹に強い衝撃を感じた。その正体がなにか確認することもできず視界が激しく揺れ、体は全く操縦できず地面に体が叩き付けられる衝撃だけが理解できた。それでも体はまだ止まらずに視界が数えきれないほどに幾転する。

 巨躯の狼は必殺の一撃を喰らう寸前に気付き、イサイに裏拳を叩き込んでいた。

 ようやく体が止まったイサイは衝撃に歪む世界の中で素早く顔を上げ巨躯の狼の位置を確認した。巨躯の狼は傷口を抑えながら低く呻き、しかし間合いを詰めてくる様子がなかった。

 肝臓を貫いた手応えはなかったが、傷をつけたのだろうか?肝臓に深く傷を受ければ立っていられないはずだがそうでないのならば傷は浅いはず。すぐにでも奴はまたこちらへ向かってくるはずだ。

 イサイはとにかく立ち上がろうとしたが視界は大きく歪み、息が上がり、脂汗が滲んだ。それでも刀を杖代わりになんとか立ち上がると丹田から嘆息を行い呼吸を整え、ダメージを悟られない為にまた刀を構えた。汗が滲んだ肌を生ぬるく風が撫でていく。油の中に浸かっているかのようにぬるぬると、そして大地は未だ平衡を取り戻せていない。

「キサマも、ソウデアッタナ・・・」

「何が、だ?」

 イサイはその言葉の意味を理解しかね、しかし巨躯の狼は答えてくれなかった。

 どうしてもその意味を知りたくもう一度イサイが口を開こうとした時、巨躯の狼は突如咆哮を上げた。ビリビリと震えるその咆哮に、イサイの頭になにかが浮かんだ。赤く、そう、なにかが燃えている。血の色。あれは、なんだったか。炎の色、そんなものは幾つも見てきた。でもそうじゃない。教えてくれ、教えてくれよ。

 イサイはふと傍らに誰かがいる気がしてそちらを見たが、当然誰もおらずにその事実に呆然とした。

 巨躯の狼は咆哮を終えた。なぜかあらぬ方向を向いているイサイを見て巨躯の狼は再度イサイに向かい距離を詰めた。

 それに気付いたイサイは構え直したものの動揺を隠せず、未だ視界が視線に追いついていないことに気付けなかった。

 巨躯の狼の表情を見た。怒りが消えているように見えた。それを見てイサイは愚かにも思わず声を掛けようと思った。耳元でぼそぼそと声が聞こえた。そんなことをしても無駄だ、以前ならば誰かが言ってくれたことを思い出した。あれは誰だったか、教えてくれ。迫る巨躯の人外を前に呟いたがその声が届くはずもなかった。

 巨躯の人外は彼の間合いより少し外でこれまでになかった構えをしてみせ、更には不自然に体が揺れた。イサイはその動きは捉えることができたがその意味が理解できず、巨躯の人外の左膝が浮いていたのを視界の僅かなブレが見逃していた。更に巨躯の狼は後背に体を捻り、腰ほどにまで膝が上がった時ようやくイサイは理解した。

 蹴り!

 イサイは咄嗟に構えを解き後ろに跳んだが巨躯の狼の踏み込みは深く、逃げた先をも間合いに含めイサイの丁度首元に蹴りは飛んできた。イサイはそれを上体を反らし寸でのところで避けた。

 あいつが蹴りを、いや構えを、イサイは彼が技を使うのを初めて見た。

 イサイは反らした上体を戻した時、ようやく未だに視界がブレていることに気がついた。それに気付くまでのほんのコンマ数秒の差、巨躯の人外は放った蹴り足を大地に落とし踏み込み更にイサイとの距離を詰め、イサイが知る彼の間合いより遥かに内、そして巨躯の狼の拳は腰にあった。

 今度はすぐにその意図を理解し、胸に左腕をかざし刀を立てて十字を作り、更に後方に向かって地を蹴った。しかし間に合わない。

 巨躯の狼は咆哮を上げる。

 後方に飛び退くより遥かに早く巨躯の狼の拳はイサイを追った。捻り込むような回転を伴った拳は刃をものともせずイサイを打ち抜き、十字はイサイの胸甲にめり込み彼を吹き飛ばした。その衝撃は大砲を胸に撃ち込まれたようで、イサイの意識は容易く消し飛んだ。イサイは放物線を描くように宙を舞い、そのまま崖の向こうへと落ちていく。

 巨躯の人外はそれに気付き急ぎ彼を追って岩肌の競り際に立った。その高さは巨木が灌木に見えてもおかしくない程であり、崖下は大河が黒く闇を作って彼の姿など既に虫ほどの大きさにも見えなかった。

 巨躯の狼は咆哮を上げる。彼の背後の銀狼達は号令を聞きパッと散り消えた。あの人間を追うように指示を出したのだ。

 咆哮の後の静寂。風が森をざわめかせ、とても静かなことに気がついた。巨躯の狼は牙を噛み鳴らす。また、終わらなかったのだ。奴が、あの程度で死ぬわけがない。

 ずくずくと痛む拳を見た。自身の光を放つ体毛が鮮やかに赤く染まっている。もう何も思い出すまい、何度そう思い、何度自身を殺そうとしたか。しかしそんな矢先、奴は再び現れてしまったのだ。しかし奴は一体何を・・・

 巨躯の狼は顔を上げた。彼の両目が大きく見開かれた。

 眼前に広がる景色。その景色に全てが奪われた。

 奪われたのは意識だけなのだろうか。ふとそんなことを思い、再度崖下を見やった。

「マタ、アオウ。」

 思わず彼の名を呼びたくなり、しかし代わりに巨躯の狼は呟いた。


 全身に風を纏っていた。世界は大きく歪んで、どこが天でどこが地なのだろうか。満点の星空が目の前で瞬いていたような、崖が目の前で屹立していたような。意識はまだあるのだろうか。最早意識などないのだろうか。

 どこかぼやける世界の中でイサイは世界に手を伸ばした。ゆっくりと瞬きをすると風の纏う音が遠くなる。段々と。もう一度瞬きをした時、それは無音になった。

 見渡す限りの大地。なにも視界を阻まない。空が落ちた水溜り。空には月と星があって、低い雲の塊が天に向けて真っ白く光って、地に向けては大地の色を吸ってどこまでも暗く紺色に光を宿している。

 ここは一体、どこだったか。なにをしているのだろう。今していることに、一体なんの意味があるのだろう。あの先になにがあるのだろう。

 もう一度瞬きをした。

 霞む意識の中で、誰かが笑った。顔が翳って、それが誰なのか分からない。その誰かは優しくイサイに微笑みかけた。大丈夫、生きてるよ、俺は。イサイは返事する。でも、意味を見出だせないんだ。食べること、動くこと、考えること、見ること、呼吸すること、思い出すこと。なにをしていてもどこか足元になにもないような、そうだ、今みたいだ。

 涙を流す少年の横顔。生きていて欲しい、そう思う。彼を思うとどこか誇らしく、流す涙をとても不憫に思った。その少年の背中を叩き、共に歩く。

 少女の笑顔。はっきりと見えないのに、まだ残る幼さで包まれた笑顔が瑞々しくとても美しいと思った。少女の顔をもう一度見たいと思った。でも、誰だ?少女が皆を励ます。食卓を囲む慎ましい食事、燃えるボロ小屋。激しい憎悪を宿した少年のどこまでも冷たい目。汚れても、泥にまみれたって彼女は美しかった。

 これに、一体なんの意味があったんだ。教えてくれよ、もう一度傍で笑えよ。

 伸ばした手が星に触れた気がした。

 激しく水を打つ音。体は翻弄され、ぼんやりとした意識は完全に寸断された。


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