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要塞

要塞について補足が必要であれば第四話の最終部分もお読みください。

 街に紛れてから追手の心配をしたがどうやらそれどころではない程に市内は混乱していた。家財道具をまとめて逃げ出そうとする民衆は非常招集の鐘に急かされるように逃げ出していた。

「どうして民は非常招集に従わないのでしょうか。」

 市内中央広場から伸びる大通りを市民の流れに逆らいながら進み、ふと疑問に思ったベアトリーゼはネイに聞いてみた。彼女は不思議に思う。ハタウ出身の彼女はこのように非常招集が鳴り響く状況を幼少期に数度経験している。その時の大人達はこのように逃げ出すことは一切無く、皆少しでも早く非常招集に応じられるように詰め所へと駆け寄っていたものだった。このように国に逆らうような民衆を見たことがない。

「なんとも言えない、が、前回の時もタルクザレは国防軍が兵を整えるまでに時間を必要としていたな。」

 そう答えながらもネイには分かっていた。この国の臣民らはあまりに国家から受ける恩恵が少ないのだ。平時であれば他の構成国フィーグと同様に官権で民衆を抑えつけられることもできるだろう。しかし有事にもなれば国を守る意識よりも"これ以上国に利用されてなるものか"そんな意識が優先されたとしても不思議ではない。というより、ほんの五十年も前まではそんな意識がハタウにおいてさえ当然ですらあったのだ。

 民には国家に、女王に、構成国の首長に忠誠を誓わせその引き換えに生命の保障や明日のパンを約束し平穏を与える。その構図があって初めて民は忠誠を誓うものだ。この国の流儀ではそれが既に破綻してしまっているのかもしれない。

 広場に近付き人の流れが緩やかになり、引き換えに一層の人々の喚き声、怒声が響きだした。複数の大通りの発着点である広場には私軍の担ぎ銃をする歩兵らが市の外へと続く道の全てを塞ぐように横一線に戦列を引き、前に出て市民らを従わせようとする将校らと、道を明け渡さない兵隊に向かって群衆が互いに怒って今にも暴動が起きそうな気配を醸し出していた。

「なんだこれは。」

 ネイが不快に顔を歪めてベアトリーゼに問う。彼女にそれがどういう状況か分かるはずもなく、慌てて彼女は周囲を見渡し部隊長らしき人物を探した。

 ベアトリーゼは暫くして広場中央に位置する複数の副官を抱える私軍佐官を見付け、近寄り事情を聞き出そうとした時変化は起きた。その少佐は憤怒の表情で着剣を伝える。副官が復唱を叫び、各隊の指揮官は兵に着剣を指示し、兵は訓練された動作で小銃の銃口に銃剣を取り付けた。そして更に副官らの復唱から始まる命令でその銃口は市民に向けられる。市民らは弱い日の光を鈍く反射する銃剣の切っ先と奥底の見えない銃口の暗さにすぐに静まって硬直した。

 しかし今度は静まり返った民衆と相対的に大きくなった言い争いが聞こえだした。白味の強い灰褐色を基調とした軍服の中でただ一人緑がかった土埃色の国防軍軍服を着た女性尉官が部隊長らしき佐官に食って掛かっていた。

 二人の口論はすぐに激しくなり、発砲指示を待っていた隊の指揮官達が背後に気を取られるように振り返ったのその隙を見て民衆は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。

 緊迫した場面が避けられユーリは胸を撫で下ろしたが、逆にネイは血相を変えて両将校に近付いていった。

「あっ、ネイ様、お待ちを・・・」

 ベアトリーゼがすぐに気付いて彼女の肩に触れようとしたが、触れる寸前振り返った金瞳が彼女を射抜き、ベアトリーゼは一瞬固まって止まった。

 突き進んでいくネイ。ユーリは同情の気持ちを込めて中尉を見た。彼女は泣きだしそうな顔で少尉を見返した。 

 非常時である。どうしても民衆を従わせなければいけなかった私軍少佐と、銃口はいかなる場合でも敵に向けるものだと信じて疑わない国防軍大尉は互いに激論し、既に昂っていた大尉は思わず拳を握り締めた。その二人に向かって一人の少女が大股で近付いてくる。先に少佐がその存在を視界の淵に入れ彼女を認識しようとした瞬間、ネイは彼の襟首を掴み力任せに引き寄せた。

「貴様、今何をしようとした。」

 中腰になり目の前に少女の金瞳を突き付けられた少佐は事態が飲み込めず、それが誰であるか認識できなかった。

「ネイ様!」

 事態を客観視できる立場にあった大尉は彼女に気付くと敬礼し、その声で少佐は相手が誰であるかを認識する。同時にネイがこの場にいることを知った兵達も指揮官の制止も聞かずネイの姿を目に入れようと振り返り歓声をあげようとしたが、思いもよらぬ場面を目にして歓声は不発に終わる。

「陛下の臣民に銃口を向けるなど許されることだと思うな。幾ら貴様が私軍の将校であったとしてもこの私が絶対に許さん。所属と名を・・・」

 しかしネイと部隊長の話が一段落する前に傍らの大尉が話に割って入った。 

「失礼ながらネイ様を探しておりました!私はジル=スム要塞稜堡付き副官のベリヤ大尉です!」

 ネイは啖呵を途中で邪魔され殊更不機嫌な顔でベリヤなどという大尉に視線を移した。なぜ前線にいるはずの国防軍所属の副官とやらが一人こんなところにいるのか。

「ネイ様には北方守備軍の将官として代行して頂きたく、同要塞司令官代行のホブス大佐からの伝令です。」

「どうして私が、ホブスと言えばあのデブのホブスか?あいつが司令官代行なんだろ?北方守備軍の将官代行をするのもあいつの役割であって私の役割ではないだろ。」

「大佐はとても要塞に連なる国境線を指揮できる状態になく、国防軍から将官が派遣されるまでにはまだ半日、いや今得ている通信所からの情報では開拓地に敵の主力らしき集団を発見したらしく王都はその対応の為にそれ以上が必要かもしれず、今この一帯に将官がおらずしかし今ちょうどこの地にネイ様がおられると知りそして大佐は・・・」

「待て、待て。」

 ようやく話が長引きそうなことに気付いたネイは、まだ掴んでいた少佐の襟首を突き放すように手放して薄い髪色の女性士官に向き直る。

「なぜ指揮できる状態にない。ここの地域防衛戦略はあの要塞が主軸なはずだ。それが指揮できないなどと幾ら代行と言えど認められる話ではないぞ。」

 大尉に向き直りそこで彼女が逼迫した表情を見せていたことに気付く。その彼女が一度空気を飲み込む。

「要塞は、ジル=スム要塞はジキに突破されます!」

 場にいた私軍少佐も真剣そのものの表情で頷いた。ネイは彼を見てこの国防軍大尉の伝えることが本当のことであるならば先程の状況がどのようなものであったか理解できた。一刻も早く前線に開いた穴を埋める為の戦力を用意しなければならない戦況、そういうことなのだろう。しかし・・・

「大尉、一度落ち着け。あの要塞すらを獣がこの短時間に突破できるとすれば連邦は丸裸も同然だ。普通ではあり得ないことだ。」

 ネイは大尉を観察する。大尉まで昇進している女性士官は特に国防軍ともなると珍しい。肌や髪色の薄さ、典型的な血の気の多い北方人種に見える。しかしよく見れば彼女の軍服は汚れが目立ち、乱れた髪、蒼白な唇は噛み締めた後が複数残り血が幾つも滲んでいる。

 大尉はネイの言葉に彼女に状況を伝えきれていない事を悟り焦って再度唇を噛み締める。

「だが話は聞く。頭から状況を聞かせろ。その話が本当ならば判断を違えるわけにはいかないからな。」

 



 その日、日が昇る少し前、空が白みがかる頃。

 ジル=スム要塞。

 七個砲兵旅団に相当する砲兵隊、それらの砲は要塞屋上の砲座に据えられ、その階下の銃座には八百名を越える歩兵が配置され総員二千名を越える兵員を擁する。

 この要塞は国境線に築城された要塞の中でも最も堅固とされる要塞として築城された。それは後背地に広がる連邦の主要産業の一つである製鉄産業地帯、連邦の全周と国内を血管のように張り巡らされた水路を兼ねた水濠に流れる水の始点の一つである巨大な三連揚水水車などがあるこの一帯が連邦にとって最重要の要衝の一つであるためであった。

 同要塞、第三稜堡砲兵隊指揮官のグリルス中佐は突如として地平線の彼方から現れた獣の群を見て胸騒ぎを覚えた。敵が出現するタイミングが良すぎるのである。獣の群が連邦国の外を移動する姿が多数報告されるようになり数ヶ月、南方の前線であるフォン側の対岸、クマンの開拓地を守るために設立された南方方面軍に地域の機動防御兵力の主力であった通称ハンス軍団が引き抜かれたばかりだったのだ。

 彼の副官である女性士官のライヒがその部下らと共に半地下壕の円座に入り、伝声管に向かい各砲座へ砲撃準備を急ぐように怒声を張り上げている。こちらの準備は整っているとは言い難い。それはそうだ。ここいら一帯は他所と違い斥候からも周辺に獣の大群がいるなどという報告は全く入っていなかった。完全に不意を突かれた。

 獣の来襲を知らせる大声と早鐘の音を聞いて慌てて持ち場に急行しようとする数百人の砲兵達で通路は大混雑となっている。その様子に冷静なグリルスの表情が僅かに歪む。

 特徴的な五角形の稜堡。その頂点は国境の外に向かっており、頂点から伸びる二辺には砲が二門ずつ据えられた砲座があり、一辺それぞれに六ヶ所ずつ、計二十四門の長大な十七口径百六十二ミリ三十二ポンド要塞砲があった。

 更に稜堡中央に盛られた正三角形土台、その頂点には指揮所用円座があり、その円座を頂点として放射状に榴弾砲円座が六つ据えられている。それぞれに一門ずつ五口径百五十二ミリ二十四ポンド榴弾砲があった。

 それら計三十門の砲をグリルスは指揮する。

 グリルスは今彼の副官らが潜り込んでいる円座には入らず正三角形土台の頂点に立つ。ここからなら要塞砲砲座背後に設置されている弾薬庫越しに要塞砲の様子や、地平線から姿を現しつつある獣の群を見ることができる。

 しかし、獣の群は当初の胸騒ぎをよそに七年前と規模が大差ないように思えた。所詮は獣の知能、前回からなにも学ぶことなく斥候の目を掻い潜りながら小規模の群が潜み、そしてなんらかの習性に従いあの集団を形成した、というところなのだろうか。

「中佐!第四砲座一番砲の砲員が揃ったようです!」

 ライヒが円座から顔を出しグリルスは振り返る。

「よし、以下を伝えろ。各個砲撃、榴弾、敵真正面を撃て。第四砲座一番砲は栄光の一番槍を得る。各員第四砲座一番砲に続け。以上だ。」

 ライヒは返礼の後円座に潜り伝声管の警笛を押し鳴らす。各砲座では警笛を聞き伝声管の蓋が開かれた。

「中佐より伝令!各個砲撃!榴弾!敵真正面を撃て!第四砲座一番砲は栄光の一番槍を得る!各員第四砲座一番砲に続け!そして私からだ!今晩は貴様らに肉だらけのシチューを食わせてやる!狩りに励め!以上だ!」

 了、解!!

 伝声管奥から割れんばかりの声が返る。ライヒは伝声管に対し耳を澄ませる。

 大尉が今晩肉だらけのシチューを振る舞って下さるそうです・・・!

 貴様ら麗しのマダムに感謝せよ・・・!

 歓声の内容にライヒはよし、と満足そうに顔を上げた。

「火薬臭くてとても食えんぞ。」

 えっ?ライヒはグリルスを見たが、冷静な上官は既に遥か地平線を注視していた。


撃角一番五分ゲキカクイチバンゴブ榴弾信管七分リュウダンシンカンナナブ!グリーシンザハコフ急げ急げ!」

 第四砲座一番砲指揮官のグリンカ中尉は顔を真っ赤にしながら部下らに号令を下した。

 三十二ポンド砲の弾薬は半一体型で、火薬と緩衝材を包んだ装薬と砲弾とに分かれている。装填手である伍長のザハコフらが榴弾に七分に切り取った信管を打ち込んだ後砲口から装薬を押し込み、砲尾上部にある点火孔からワイヤーを刺し入れて装薬袋に穴を開け、信管に点火した後

榴弾を砲口から押し込む。

 グリンカは砲撃準備が一つ一つ進むごとに高揚するのを感じた。初の実戦だというのに一番槍が目の前にある。全ての作業が整ったのを確認し、今から大声で叫べるのだ。

「撃てぇ!」

 彼の叫びと同時に全身に響く重い発砲音が要塞を震わせる。ようやく要塞から放たれた第一弾は敵群集団先頭に見事着弾し、ほんの僅かな間の後に爆発を起こす。白煙と土煙と共に獣が宙に舞う。

「よっしゃぁ!」

 坊主頭のグリンカは興奮を抑えきれず立ち昇る白煙に頭を叩いて喜んだ。


 次第に砲撃準備を整えていった要塞は各個が乱射を始め、一時間に二十発以上を撃ち込める長射程の三十二ポンド砲は二マイル近い距離をものともせず迫り来る黒い獣の波を見る間に萎ませていった。

 グリルスはその様子を要塞を包む硝煙の白煙越しに双眼鏡で確認していた。獣は野牛で構成されている。四肢と首と角が異様に太く見たことがない野牛だ。恐らく何かしらの人外の血を受け継いでいるのだろう。最近はこのようなことが増えた。グリルスがまだ士官になりたての頃であれば人外の血を受け継ぐ獣など少数でしかなかったのに。

「ライヒ、あれが見えるか?」

 なんです?副官が円座から顔を出しながら答える。

「奴ら何か咥えている。」

 獣は口に土嚢袋のようなものを咥えている。奴らの咥える麻色の袋は堀を埋めるためなのか、外壁を越えるための足場を築くためか。いやそれより・・・

「奴らはどうやってあんなものを揃えた・・・」

 グリルスは呟く。獣が人の道具を持つ。遥か昔より知能を得た獣は人の道具を使ってきた。しかしそれは人との交易や収奪の結果の物であったはずだ。これではまるで奴らが自ら生産し、自ら大量に揃えたように疑える。

「視界が酷いですね。後方が見えません。」

 ライヒが言う。やけに土埃が酷い。

 群は自らが起こす土煙と爆煙に掻き消え、最も砲の威力が効果的になる一マイル圏内に入った今もその全体が把握できなかった。

 あれはそのためのものなのか?奴らの咥える土嚢袋。そこからは獣が地を蹴るたびに土煙が漏れ出し、それがこの視界の悪さの主因であるようだった。しかしなんのために?

「相変わらず何も学ばない奴らですね。きっと大した数ではないのではありませんか?」

 確かに彼女の言う通り土煙で群が隠れているとはいえ、要塞に近付いた群の最後方は既に地平線から姿を現しているように思える。それを示すように土煙は尻すぼみになっていた。しかしグリルスの胸騒ぎは消えない。

 前回と同程度の規模。前回通りならばこちらへ辿り着く頃には大した数も残らないはず。それを回避するための目隠し?しかし例え砲の死角に入り込んでもあの程度であれば歩兵だけでも食い止められる。

 こちらの戦力の増減を見計らったような攻勢、獣にあるまじき大量に揃えた人工物。獣は確実に知恵を蓄えている。それなのにあんな土嚢如きで要塞の壁を登ることができると判断するものだろうか。なにかを隠している。そう、あの群も、いや煙も、遮蔽のための行動ととるよりは目隠しのためと考えると自然だ。

「ライヒ、榴弾砲に敵最左翼のみを狙わせろ。要塞砲は実体弾に変更だ。」

 ライヒは命令の意味を考えたが、すぐに伝声管に向かい上官の命令を伝える。

 榴弾砲は要塞砲に比べ射程や威力に劣るが、軽量で取り扱いが容易であり野戦砲としても転換できる利点があった。そして円座に入った榴弾砲は特殊な砲架と相俟って射角が広い。すぐに榴弾砲は敵集団最左翼に砲口を揃えた。

 他の二つの稜堡は変わらず榴弾を打ち続けたが、右翼に位置する第三稜堡だけは一部を残して実体弾に変更したために獣の左翼の煙が薄まる。

 榴弾砲の砲撃が始まった。着弾精度の誤差を埋めるために放射状に斉射を行い、斉射を繰り返すごとに群の左翼は吹き飛んでいった。

 土煙を突き破って進む数台の戦車。鉄甲を纏った一際巨大な野牛が二輪の車を引き、それにはまた鉄甲を纏い、全身を鱗に覆われた人外が乗っている。それにまず気付いたのは着弾観測を続けていた榴弾砲中隊の中隊長の大尉、ジャダンだった。

「中佐!副官殿!何か妙なのがいます!」

 ジャダンは咄嗟に普段の癖でライヒを副官殿と呼んでしまい、普段であればライヒはそれを嫌って「ふざけるな」、そう抗議の声を上げるのだが、両者ともにそれに気付かないままに双眼鏡から敵左翼を注視した。

 鎧を着こむ人外。しかもそれは数多くいる。

「なに・・・あれ・・・」

 ライヒは思わず驚き声をあげる。同じ種の人外が同時に複数出たという報告を聞いたことはある。しかしあれは数が多すぎはしないか。しかもあのように時代がかった戦車に乗っているなど聞いたこともない。

「ライヒ、大佐に現状と以下を伝えろ。獣が煙幕を焚き牛車に乗った人外複数を隠蔽しつつ前進している。以上だ。」

 人外の乗る戦車は群の中央、横隊にて散開していた。ライヒは第四稜堡、後方の司令室に向け伝声管越しに報告を始める。全砲を榴弾に戻し、榴弾砲には人外を狙わせるが人外の遥か後方に着弾するばかりで全く当たらない。

「中佐!何の人外かと大佐は尋ねておられます!」

 人外はこれまで数多く見てきた。しかしこのように何匹、いや何十匹も、しかも均質の装備を揃え戦車に乗った異質の人外。二本足に巨大な尾。重厚な鱗、腹に鉄甲、腰に大剣、背には様々な武器を背負う。

「・・・大トカゲ?」

 群の先端は要塞の目と鼻の先まで近付き、階下の銃座からは歩兵達がそれら先端を狙う一斉射を放った爆音が響き、同時に母体稜堡から放たれる十二インチ臼砲の轟音が要塞を震わせた。


 その頃、要塞砲砲座や銃座でも兵達が人外の存在に気付き始めていた。

「中尉!中尉!なんか妙なのがりやすぜ!」

 ザハコフが興奮気味に叫ぶと、それに気を取られ振り向いたカザコフ二等兵が装薬を床に落とした。グリーシン曹長がそれを怒鳴るよりも早くグリンカは殴らんばかりの勢いで怒鳴り声を上げた。グリーシンはその様子に屈強な肩をスボませる。

「カザコフ!早く拾いあげろよ!」

 慌てふためく二等兵に怒りを覚えながらも中尉はザハコフの言う妙なのを見るために砲尾から胸墻キョウショウ際まで移動する。

 中尉が胸墻に足を掛けて外を見ると隣の砲座は勿論、階下の銃座からもそれを指差す歩兵の腕が見え皆が大騒ぎしており、それらを叱る同僚達の怒鳴り声が響いていた。

「なんだぁ?」

 その様子をイブカしがりながらもグリンカはその方向を目を細めて眺めた。

「ザハコフ・・・なんだよありゃ?」

「中尉もご存知じゃないので?」

 分厚い黒鉄の胸当てをし、巨大な顎と尾を持った見たこともない生物が二輪の車に乗り、これもまた黒鉄を纏う巨大な野牛に引かれて走っている。榴弾がそれを狙っているのか近くで炸裂するも全く当たらず、まだ遠すぎるというのに階下の歩兵達が狙うが当たる数は少なく、時折人外の体が銃弾を弾いて火花が散っていた。

「大将、あっしぁなんだか嫌な予感がいたしやす。」

「・・・奇遇だな兵長、俺もだ。」

 二人が顔を見合わせようとした瞬間、目の前が茶色く染まってなにも見えなくなった。


 野牛の先端が水堀に辿り着き銃座の歩兵達の的にされる。進むべき方向を無くし、更に次々と吹き飛ばされる仲間を目に野牛達は恐慌状態に陥った。獣共は押し合い、そして止まれない後方の野牛達がそれらを押し、倒れたものを踏み潰し、踏み留まれない野牛達が次々と水堀に飛び込んでいく。飛び込んだ彼らが咥える土嚢から空気と一緒に大量の土煙が立ち昇るように噴き出し、茶色い霧に包まれて銃座の歩兵達はなにも見えなくなった。更に煙は噴き上がって砲兵達の視界をも奪う。

 見上げる要塞の手前まで辿り着いた人外は戦車から跳んで野牛達を踏み潰しながら水堀の際に辿り着き、そこから更に跳んだ。水面を泳ぐ野牛を踏み台にして水堀の内側に跳ぶ。そこへ辿り着いたものを薙ぎ倒す役目の側防銃座からは巨大な影が見えたものの、突然奪われた視界にそれがなにかなのも認識できずに機能できず、その人外達を素通りさせた。

 更に人外は跳ぶ。脚の大きな鉤爪を石塁に撃ち込み、それを踏み台にして更に上に跳ぶ。


「中尉!中尉!どうなってるんですかこりゃぁ!」

「うるさい知るか!」

 傍らで騒ぐザハコフを叱りつけたはいいが、一体これはどうしたというのだろう。視界は一面真っ茶色で、これではまるで煙幕を焚かれたようだ。一体誰が?決まっている。獣が人様のように自身を遮蔽するための戦術行動をとったのだ。

 こんなこと言ったら出世に響くな、そう思いながらも彼は彼の小隊を大声で呼んだ。

 獣が人のように思考し行動する。昨今激論が交わされるようになった評論の一つだった。マーブを遵守するのであればそう考えることすら禁忌であり、なおかつそれを前提とするならばこれまでの戦術教典を見直す必要すら出てくるかもしれない。建前と本音で交わされる激論のあらましを新聞を通じて知りながらも、現場にいる自分などはたまったもんじゃないな、どこか他人事のような感想を持っていた。

「あっしはずっとここに居りやすぜ。」

 ザハコフは言ってやったと言わんばかりにニヤリと笑う。グリンカはそのつまらなさとその顔に思わずザハコフを殴る。

「こんな時にまでふざけるな!」

 グリンカは怒鳴り、す、すいやせん、ザハコフは反省した様子を作り笑いと共に見せながらも相変わらずの口調で言う。

 すぐにグリーシン曹長を始めグリンカ砲兵小隊十名が揃った。曹長に全員の確認を問うと、彼はグリンカと対照的に寡黙に返事をよこした。

「よぉし!カリアカ!お前は中隊長を探してこい。何がどうなってんのか聞いてくるんだ。グレーブ!お前は伝声管にへばりついておけ。一言も聞き漏らすなよ。グリーシン!お前は・・・」

 ドスン、間近でなにかが落ちた音がした。なにか大きなものだ。

 ふとグリーシンの視線に気付いた。この優秀な兵の長たる部下はグリンカを驚愕の目で見ている。いや、分かっている。グリンカの背後を見て驚いている。

 嫌な予感は当たるものだ、グリンカは冷たい汗を掻きながら一気に後ろを振り返った。

 茶色の世界の中で、殊更色濃い柱が見えた。こんなところに柱なんて無かったはず。彼はゆっくりと上を見上げる。見上げきるよりも早く、突然その柱は咆哮を上げた。

 その咆哮のあまりの大きさに時間が止まったかのような錯覚に陥る。咆哮は一瞬だけはっきりと聞こえ、その後音が無くなり、キーンと砲撃訓練の後の耳鳴りが殊更大きくなったような音だけが残った。

 グリンカは下半身が冷たく溶けていくかのようだった。彼はその咆哮の主の足元におり、その咆哮の主のあまりの巨大さに、茶色の影しか見えないながらもその顎の大きさに、膝が鳴り、腰が砕けそうだった。

 なぜか、人外がここにいる。

 人外が咆哮を終える。誰もいなくなってしまったかのような静寂が訪れた。部下の前だというのに彼は思わず腰を床に着けた。同時に、彼の頭上で風が吹く。ドカドカと材木でも叩き割ったかのような音が聞こえ、顔に生暖かいものが貼り付いた。貼り付いたものがなんなのか、分かっているようでもあり、理解できなくもあった。その生暖かいものから口に垂れ込む鉄っぽいしょっぱさと生臭さに吐き気をモヨオす。

 いや吐き気よりも先に確認することがある。グリンカはすぐ傍らにいたはずのザハコフを見た。

 ザハコフがいない・・・

 いや、いないのではない。ザハコフは彼の目の前でゆっくりと倒れた。

 ザハコフ!上半身をどこへやったのだ!

 冗談めいた言葉が頭を駆けたが、先程ザハコフを殴ってしまったことを思い出して自省し、優先的にザハコフを探してやらねばと思った。グリーシンは最も優秀な頼れる部下だったが、ザハコフは最も面白い部下だった。それが、そんな良い奴を殴ってしまい、いやでも、今貼り付いてるのはザハコフじゃないか。死んでまであいつは

 グリンカは嘔吐した。

 彼は腰が抜けたままザハコフの臓腑を必死で顔からどかせようともがき部下達の名を呼んだ。しかしなにも見えず、周囲の騒ぎが大きすぎて返事が全く聞き取れない。なにが起きたというのか。分かっているようでさっぱり分からなかった。ザハコフのハラワタはまるで彼が生きていた頃のように中尉にまとわりつく。

「グリーシン!グレーブ!生きているか!くそったれが!」

 声が裏返り、下半身が冷たく溶けるような恐怖が抜けない。まだすぐ近くにあのバケモノがいるのだ。

 中尉!グリーシンの声がして、情けないと分かっていながらも彼に頼るしかない。

「すまんグリーシン!手を貸してくれ、ザハコフが、ザハコフの野郎が・・・」

 グリーシンのもがく声が聞こえた。グリンカは恐怖に体が硬直する。震える右手で両目の血を拭って声の方を見た。

 グリーシンが巨大な影に頭を攫まれ足をバタつかせている。彼は果敢にも腰から短剣を引き抜いて彼を攫む巨大な手に突き立てた。いや、突き立ったのか突き立っていないのか、確認することもできず彼は一度左右に振り回され大きく持ち上げられた後地面に頭から叩きつけられた。聞こえたのは硬い破裂音。それに混じって故郷で果実酒を作る時に聞こえていたりんごを踏み潰す時のような音。人の頭が割れる時、こんな音がするのか。

 頭から血が抜けさって全身が冷たく、ザハロフにだけ体温があった。


 グリルスはそれがなんだったのか、暫く理解ができなかった。土煙が一気に要塞よりも高く立ち昇ったかと思うとそれは砲座をも飲み込みなにも見えなくなった。

 ライヒ、どうなっている、砲座の視界は?報告させろ、そう彼女に声を掛けようとした時、土煙を破って次々と巨体が飛び出してきた。それらも軽く要塞の高さを跳び越え砲座へ着地する。グリルス達の前に姿を晒した巨体。前方にいる砲兵達はその煙の中で気付いていない。

 一斉にそれらが口を開いて咆哮する。ビリビリと鼓膜が震えた。

 それらが強力な捕食者であることを示す冷たい目。大きく開いた顎からは短剣ほどもある牙が見え、頭から手脚の先までごつごつとした暗色の鱗が覆い、手脚の先には黒く凶悪な鉤爪。そして人の筋肉のように盛り上がる装飾を施された黒鉄の胸甲、片手に丸い手盾、腰には分厚い大剣を、背には或いは大斧を、或いは握り手がついただけの鉄板を幾つも、或いは大盾を背負い、精密な刺繍が施され宝石や金属で彩られた前垂れを腰から垂らしている。

 人の高さなど優に超える巨体。その数数十匹。

 これはなんだ?一体なんの生き物なのだ、これは。

 突如真横から響いた異質の轟音に腰を抜かす者がまばらに見えた。それ以外の者も、あまりの唐突さに足が竦み動けない。

 正三角形土台からその様子を見ていた皆が思った。

 この咆哮がやめば、手に取って戦う武器は、持ち場は、目の前の敵は、どうすればいい?

 要塞砲兵など士官が腰に剣や短銃を、兵が短剣を持っている程度で丸腰に近い。指揮官を含め、第三稜堡砲兵隊三百余名は目の前の数十匹の異質の人外の前で一様に呆然とした。

 戦うべきか、逃げるべきか、ならば砲撃はどうする?グリルス中佐は目の前の咆哮と捕食者の巨大な威圧感の前で判断がまとまらなかった。

 咆哮が一斉に止む。異質の人外は決められていたかのように同時に鞘を払い、そして大剣で周囲を薙ぎ払う。人が吹き飛ばされ、それはまるで雑草でも刈るかのようだった。血肉が空を舞い、刈られなかった将兵達にもそれらが雨のように降りかかった。

 咄嗟に一振りを避けた幾人かが四肢で這いながら逃げ出そうとするがそれに気付いた人外は跳び、虫のようにそれを踏み潰した。地面が小さく揺れ、石材が血で汚れる。

 虐殺は始まっていたのだ。砲員達はなにに堰切られたのか叫声を上げて逃げ惑い始めた。

 グリルスは部下達のその叫声を聞きようやく自我を取り戻し振り返り副官とジャダンを見た。彼らはその部下を含めてまだ呆然とその様子を眺めていた。

「何を突っ立っている!ジャダン実体弾!直接射撃だ!ライヒ撤退命令を出せ!大佐にも知らせろ!」

 ライヒは中佐の声にいち早く反応し円座に潜り込む。

「中佐、しかし直接射撃なんて・・・」

 幾ら榴弾砲とは言え相手は集団ではなく個だ。それに野戦換装すらしていない。

「貴様が何を言いたいかくらい分かる!我々には今手段がそれしかない!やれ!」

 了、解!ヤケクソ気味に返礼しながらも部下達に振り返り号令する。思わず神を罵る言葉が衝いて出る。号令を聞き若い士官が慌てて後ろ照準クランプを回し下げようとしているのが目に付いた。

「馬鹿野郎!野戦用じゃないんだ!下げきっても一緒だろが!んなもん折っちまえ!」

 今砲に取り付けられている照準に直接照準の目盛りなどついていない。各小隊長は後ろ照準を目分量で切り落とした後砲口上部中央に切り込みの目印をつけ、百年前に戻ったような気分で砲手の腕と勘に頼った照準を行う。

 むちゃくちゃだ、誰かの呟く声が照準をつけるメトネル少尉の耳に入った。彼の照準の先には人外だけではない、圧倒的多数の砲兵達がいる。

「もっと左だ、左・・・」

 メトネルは砲身左を叩きながら部下達に伝え、部下達は砲架をゆっくりと回し動かす。

「だめだ、右だ、右に行った。」

 再度伝える。当然標的は動くのだ。当たるわけがない。しかも弾薬庫の壁が奴らの体の大半を遮蔽している。大体照準は合っているのか。もし狙いが外れて友軍殺しをしてしまったら・・・想像するだけでプレッシャーが膨れ上がり涙が滲んだ。

 しかしそうこうしている間にも照準の先の世界では友軍が攫み引き裂かれ、噛み砕かれ、踏み潰され、薙ぎ払われ、理解できない惨劇が繰り広げられている。

「どうしたまだ撃てないか!?日頃の訓練はどうした!俺達の爺様の頃は皆お前達と同じように砲撃していたんだ!構わんからやっちまえ!」

 ジャダンの檄にメトネルは決心した。少尉は砲尾から離れる。

 撃て!点火ワイヤーを持ったマンドリーキンを見た。伍長はなにか怯えたような顔をし、飛び上がるように動いてどこかぎこちなく点火孔にワイヤーを差し込んだ。

 少尉の榴弾砲が火を噴く。同じタイミングで次々と中隊の榴弾砲から砲弾は放たれる。祈るような気持ちで彼は着弾先を見た。

 放たれた数発の砲弾は煙幕に飛び込んで、少なくとも自分が狙った人外には掠りもしなかった。しかし付近の横墻オウショウに当たったのかその壁の一部が崩れ、弾けた砲員の体の一部がこびり付くのが見えた。彼の砲弾が跳弾したのかどうかは分からない。しかし、彼は顔を真っ青に染めた。

「神がっ!くそっ、くそっ、くそったれが!もう一回だ!やれ!」

 少尉は中隊長のその声に機械のように体を動かした。砲戻せ、弾込めろ、部下に伝える。

 意思がない。自分の意思に従えば、こんなこと絶対にやらないし、やりたくない。でももうやりきらないといけない。もう引くことなんてできないんだ。

 グリルスは顔を歪めた。砲座と出口を繋げる背後の通路を人外が塞ぎ部下達は完全に逃げ場を失っている。人外に追い詰められ飛び降りる者も見えた。飛び降りたところで下には猛り狂った野牛がいるのだ。彼らは野牛達に面白いように引き裂かれボロ布のようにされた。

 彼らを救うには一体どうすればいいのだ。弾薬庫に火を点けるか?そんなことをすれば階下の歩兵まで巻き添えにしてしまう。彼らを救う手立ては存在しているのか。見捨てるべきなのか。そんなことできるはずがない。

 榴弾砲の次弾装填が終わるまでもなく人外はこちらに気付いた。人外は二度、三度吠え合い、一匹の人外がこちらを指差した。グリルスはそれを見て背中の冷たさが増した。

「ジャダン来るぞ!まだ撃てないか!」

 ジャダンは視界を巡らせた。中佐の言う通り五匹の人外が弾薬庫の屋根に飛び乗るのが見えた。こんな時だというのになぜ俺は中隊長なのだろうか、ジャダンは歯痒く思った。部下達を急かせる以外にやれることがない。

「撃てるか!?」

 彼の叫びに答えたのは意外にも小隊長として着任してから最も期間が浅いメトネル少尉だった。

 人外がこちらへ一直線に走ってくる。さっきとは違う。舐めやがって、獣如きが。的は格段に大きくなった。左右に動くこともない。周囲に友軍もいない。

 撃て、言おうとした時人外が前後に分かれた。前に二匹、後ろに三匹に分かれ、それがなぜなのか考えるよりも先に左右に少しぶれた照準を直す指示を出す。

「撃て!」

 メトネルは砲尾から離れて叫ぶ。伍長が動く。メトネルは人外を見た。この距離ならば照準が狂っていようが関係ない。当たる。

 二手に分かれた人外の前衛、その二匹は背から同じ物を外し構えた。黒鉄の大鉄盾。

 バカが、あんなもので防げるわけがない、メトネルは拳を強く握る。

 少尉の榴弾砲が火を噴いた。砲弾は一直線に人外目掛けて放たれる。一匹の人外が持つ大盾に当たり、金属が金属にめり込む聞きなれない高い音がした。人外の大盾が割れて吹き飛ぶ。しかし大盾は下半分が残り、砲弾は軌道を変えられてどこかへ跳弾していった。

 撤退しろ!中佐が叫ぶのが聞こえたが、メトネルはありえない事実を受け入れられず体が硬直した。他の小隊が間近に迫る人外に恐れ、中佐の命令を聞いてか聞かずかメトネルに遅れ次々と砲撃するが焦り合わせた狙いなど当たるはずもなく全てが外れた。

 割れた大盾を持つ人外はそれを捨てた。その顔には砕け散った鉄片が薄く大量に突き刺さって赤く濁り染まっていた。その人外は怒りにえた後大きく跳んだ。メトネルへ向け一直線に跳んでくる。彼はその大きな影を呆然としたまま眺めた。背後で部下の叫びが聞こえる。鉤爪が付いた巨大な両足の裏が最後に見え、直後彼の意識は途切れた。


 ライヒは目の前の光景を信じることができなかった。一時間前、ここがこんな地獄へと変貌することなど誰が想像し得ただろうか。彼女がへたり込むすぐ傍らには先程まで彼女の部下だったプルーマー少尉の肉塊が転がっている。

 彼女の上官の怒鳴り声が遠く聞こえた。全てが色褪せて見える。音が歪んで聞こえ、彼の言葉は頭を素通りして理解ができない。

 グリルスは彼女の胸倉を掴んだ。掴んだ胸倉から彼女の震えが伝わる。再度彼は怒鳴ろうとしたが、彼女をそのまま引きずり運ぶ。


 三角土台の影、生き残ったたった十人ばかりの砲兵達が息を潜めていた。

「いいかライヒ、ここから撤退するんだ。あそこが見えるか、ここの稜堡全周を奴らに囲まれる前に堀に飛び込め、分かるな?」

 ライヒは弱々しくグリルスが指差す先を見た。砲座と母体稜堡に繋がる大階段との間隙。大階段の前には既に人外が陣取っている。

 言葉の意味をのみ込み始めたライヒは何度か頷いた。彼女の薄い髪色は部下の血で真っ赤に染まっている。彼女の対照的に白い唇は震えていた。

「ジャダン、ライヒは錯乱している。補佐を頼むぞ。」

 大尉はグリルスから目を逸らしたが頷いた。中佐も頷き、静かに声を上げると一人立ち上がった。その様子にようやく平静を僅かに取り戻しつつあったライヒは違和感を覚えて中佐を呼び止めた。

「私が脱出するのは一番最後だ。まだ残っている部下達がいる。」

「そ、そんな・・・」

「ライヒ、上官の決定なんだ。従えよ。」

 ライヒはジャダンを睨みつけた。しかし彼は目を合わせなかった。

「中佐、一緒に行きましょう。中佐に責任はありません。もう、どうしようもないんです。」

 グリルスは首を振った。

「ライヒ覚えておくんだ。部下を置いて先に逃げる部隊長などただのクズだ。現場に居合わせたのなら尚更な。まだ生きている部下は沢山いる。私は愚かだったかもしれないがクズだけにはなりたくない。」

「何を、なら私も、私はあなたの副官です!」

 それを聞いたグリルスは微笑んだ。ライヒの頬に涙が伝う。

「ジャダン、ライヒ、部下達を頼むぞ。私は先に砲座側へ向かう。どうあっても人外の目につくだろう。少しでも私が引き付ける。」

 いけません、ライヒは声に出そうとしたが小声にしかならず、聞こえなかった中佐は飛び出した。

「中佐っ。」

 追い掛けようとするライヒをジャダンは腕を掴んで引き留めた。

「なにをする貴様!ジャダン!離せ!」

 いい加減にしろ、ジャダンは彼女の頬を叩いた。彼は振り返る。

「行くぞ貴様達、生き残るぞ・・・!」

 ジャダン達も走りだした。ライヒはジャダンに引きずられながらグリルスの姿を探した。

 大階段の前に陣取っていた二匹の人外はまず一人走るグリルスに気付いた。一匹がそれを追いかけるために走りだし、もうすぐで追いつくというところで残った仲間が呼ぶ声に後ろを振り返るとどこに隠れていたのか人間の群がいる。人外は迷った。こんな一匹よりも複数を優先するのが当たり前だが、その一匹は目の前にいるのだ。

 人外は背中から握り手の付いた鉄板を引き抜いた。それをすぐ目の前を走るグリルスに向かい投げつける。

「中佐!」

 鉄板は高速回転しながらグリルスを追いかける。鉄板が彼を薙ぎ倒すと同時にグリルスは土煙に消え見えなくなった。

 ライヒは、周囲の景色が何も見えなくなった。

 ジャダンはグリルスを追いかけていた人外がこちらに向き直ったことに気付いた。

 神のクソッタレが、毒づきながらも全力で走り彼女を引きずった。乗り越えるべき壁はすぐ目の前だ。

 壁に辿り着き、ジャダンは生き残った彼の部下のボット軍曹と共に兵達を壁の上へ押し上げていた。彼らを他所にライヒは迫り来る人外を睨みつけた。腰の短銃を引き抜いて人外へと向ける。意外にも人外はそれを見ると腕の手盾で顔を隠した。

 短銃を撃つ。この騒音の中、短銃の音はバン、と軽く乾いて聞こえた。人外の胸甲に当たって一部が砕け、カン、と軽い音。ライヒは憎悪を募らせた。

 短銃を捨て、剣を抜く。殺してやる、彼女の頭にはそれしかなかった。

 だがライヒは突然強い力で襟元を攫まれた。為す術もなく引き倒され体が持ち上げられる。

「せめて一振りあの獣を斬り付けなければ私は死ねない!」

 ライヒは叫んだ。しかし彼女は壁の上に引き上げられたことに気付いた。急速に頭が冷めて周囲を確認すると隣にボット軍曹、壁の下にはまだジャダンがいた。

「何をしている!」

「行け!」

 ジャダンの背後に大剣を振り上げる人外がいた。ボットは上官の命令を聞きライヒを抱くようにして壁から飛び降りた。

 ライヒは最後までジャダンの姿を捉えていた。目の合う彼の口元が動いた後、彼ははにかんだように笑った。

 ふざけるな!ジャダン!

 ライヒは自身の愚かさに対し叫びを上げた。


 ジル=スム要塞第三稜堡砲兵隊三百八名内、部隊長を含む二百九十二名が戦死した。




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