第十三話『-心道編- いつの日か心中して』其ノ伍
ズキズキと、治らないままの傷が痛む。何も音にならない口からは、ただただ空気が漏れるだけで。竜胆先生を見上げれば、やっぱり真っ直ぐ僕を見つめて逃げる事を許してはくれなかった。
「そうやって分かった気になって、全て受け入れた気になって、笑子との思い出も、自分の気持ちも、その全てを過去にしようとするのはもう止めなさい」
ドクンッと心臓が止まってしまったかのような感覚を覚えて、震える手で心臓を押さえるとやはり僕の心臓は規則正しく動いている。
すると竜胆先生は、そんな心臓を押さえる僕の手を掴んで____
「気の所為にするんじゃない、ちゃんと痛いものは痛いでしょ」
その言葉と共に、僕の感情に悲しいという名前が付いた。竜胆先生は僕の手を掴んだまま、僕から目を逸らさずに言う。
「感情の名前が分からないのなら、僕が教えるよ。それが僕達教師の役目だからね」
その言葉に思い出す。
いつの日か興味本位で聞いた竜胆先生の異能力は「共感覚」、自身が対象にしたものと感情、感覚、五感を共有して共感する能力だ。言わずもがな精神系の能力者である竜胆先生は今、僕と感情を共有しているのだ。だから僕の感情を知って、その感情の名前を教えてくれた。
でも、それだけじゃない。
相手と感情を共有すると言うことは、僕にも竜胆先生の感情が分かると言うことで。流れ込むようにお互いを行き交う感情はどれも苦しくて辛くて叫び出しそうなものばかりで、竜胆先生も僕と同じ感情を持っていた。
そして、僕を真っ直ぐに見つめる竜胆先生の瞳からは、ただ一筋涙が零れ落ちて、それが頬を伝っていった。
「り、んどうせんせ……泣いて…」
「泣くでしょ、そりゃ。人は悲しいと泣くものなんだから」
ただ一筋流れた竜胆先生の涙が、僕のずっと守っていた柔らかい部分を刺激する。
「こんな感情、ずっと何も言わずに自分の中で抑えておくのは辛かったでしょ」
そんな事を言われてしまえば、僕はもう見ないふりは出来なかった。
目が、熱くなる。
ああ、目が痛かったのは、乾いていたからではなかったのか。
「……た、えられない、んです」
グッと奥歯を噛み締めながら、耐えるように僕は言葉を吐き出した。
「笑子ちゃんが、居ないのが……僕には、耐えられないんです」
感情は、思っていたよりも簡単に言葉となって僕の口から零れ落ちて行った。
「笑子ちゃんが居たことが、どんどん、過去になっていくんです……だから、僕も過去に置いて行かないとって、思って……」
五人で騒いだお昼休みの特別支援室は、やがて四人で騒ぐお昼休みの食堂になっていく。
高等部心理学科三年の教室からは、一人分の席が消えていく。
笑子ちゃんの怒った顔も、嬉しそうな顔も、照れた顔も、笑った顔も、どんどん靄がかかって思い出せなくなっていく。
そんな日常が、当たり前になっていく。
「受け入れても、どうしても笑子ちゃんは過去になってしまうから、僕はそれが耐えられないんです……っ
そんなの、僕はどうしたら、良いって言うんですか……ッ」
ぼやけた視界はあの日の雨のように見えづらくて。
酷く情けない声で助けを求めた僕を、竜胆先生は優しく救い上げた。
「____全部一緒に連れて行きなさい」
予想もしていなかった答えに、僕は大きく目を見開いた。
「思い出になんかしなくて良い、受け入れなくて良い。だから過去になんかしないで、ちゃんと今の廻と一緒に笑子の死を連れて行きなさい」
唇が震える。
目が焼けるように熱くて、滲んだ視界は何が何だか分からないくらいにぼやけている。迫り来る嗚咽を堪えるように奥歯を噛み締める僕に、竜胆先生が止めを刺す。
「その傷跡を抱えて生きていきなさい____」
その言葉に笑子ちゃんの最期の言葉が頭に響いて、僕はもう駄目だった。
「っふ……ゔぅ……ッ」
堰を切ったように流れ始めた涙は、止まることを知らないみたいにぼろぼろと零れ落ちてはシーツの色を変えていく。顔を覆うようにして涙を拭っていると、ビリビリと喉が痛んで、僕は自分が声を上げて泣いているのだと気付いた。
拭っても拭っても勢いを止めない涙は、僕の身体中の水分を全て持っていってしまうのではないかと思う程で。喉が痛んでも、僕の口からは嗚咽が止まらなかった。
夢で見た、いつかの日の笑子ちゃんとの会話。
さっき僕の止めを刺した竜胆先生の言葉。
ああ、ずっと分からなかった笑子ちゃんの最期の言葉の意味が、やっと分かった。
「廻____」
必死に手を伸ばした先で、笑子ちゃんが僕だけを見つめて言う。
「____私、アンタの傷跡になりたい」
それは不器用で、素直じゃなくて、恥ずかしがり屋な笑子ちゃんからの、純粋無垢な究極の愛の告白だった。
「……うっ、あぁッ……!!」
いつの日か聞いた笑子ちゃんの究極の愛に、僕は笑子ちゃんにそんな風に想われる人が羨ましいと思ったんだ。きっとその時にはもう……いや、君の笑った顔を初めて見たあの日から僕の心は奪われていた。
なんでもっと早く、気付けなかったんだろう。
僕も同じだって、そう伝えたいのに、もう笑子ちゃんは何処にもいない。
静かな病室に僕のむせび泣く声が響く。零れ落ちる涙は、もうすっかりシーツの色を変えてしまっていた。
"「____ちゃんと、泣けるといいですね」"
創一郎君に言われた言葉を思い出して、僕は自分の流れ落ちる涙に安堵した。
なんだ、僕はちゃんと悲しかったんだ。ずっと傷ついたまま、それに気付かないふりをしていただけだった。
"「そういえば、特別支援室でご飯食べなくなったよね。なんで?」"
笑子ちゃんが居ない日常を目の当たりにするのが、怖かったから。
"「最近は全然俺達と遊ばないじゃん、なんで?」"
笑子ちゃんが居ないのに、変わらず笑えてしまう自分が怖かったから。
"「俺達に心道の話をしてくれないのは?」"
言葉にして、笑子ちゃんの死を認めてしまうことが怖かったから。
"「心道のお墓に行かないのは、なんで____?」"
笑子ちゃんの死を、受け入れたくなかったから。
ああなんだ、僕はこんなにも分かりやすく傷付いていたのか。
ぼろぼろ零れる涙が、僕の感情の答え合わせをしていく。泣き崩れたままの僕に、稲見先生が静かに言う。
「狼からてめーに伝えてくれって、伝言預かってる」
そう言った稲見先生に、僕は涙を流したまま顔を上げた。稲見先生は雨の降り注ぐ窓の外を見ながら、ゆっくりと口を開く。
「"最期に見た心道の顔は笑ってたか?"__だとよ」
ああ、もう。これ以上泣いたら、僕は死んでしまうんじゃないかな。
一際大きく込み上げた涙が僕の思考を攫っていく。
手を伸ばした先____僕に究極の愛を遺した最期の笑子ちゃんの顔は、怯えるでも、悲痛に歪むでもなく。
ただ、僕だけをその目に映して、とても穏やかに優しく、春の陽だまりのような顔で、一筋の涙を流しながら微笑んでいた。
そんな君の笑顔が、僕はずっと苦しかったんだ。
「……あと、それからもう一つ」
そんな僕に追い打ちをかけるように、稲見先生はまた言う。
「"最期に見る顔が笑ってたんなら、其奴の人生は救われたんじゃねぇの"___って伝えとけってさ」
もう、ほんとに、狼君と弥子君には敵わないな。
稲見先生から聞いた狼君の言葉は、いつの日か笑子ちゃんと共にした御役目で聞いた言葉だった。
傷付いたまま治らなかった身体の傷が、僕の感情に比例するように治り始める。
笑子ちゃんは救えなかったけれど、最期に見た笑子ちゃんが僕に微笑むから、それが僕にとっての救いになった。
雨が降りやまない夜の中、僕はただただ泣き続けた。
結論から言うと、僕は笑子ちゃんが好きだった。
高校三年生、たった十七年しか生きていない人生の中で、僕は一ヶ月にも満たない一生分の恋をしたと思う。
笑子ちゃんは、僕の消えない傷跡になった。




