第四話『陰の名前 下』其ノ参
何の前触れもなく走ったその痛みに、僕は反射的に痛む腕を強く抑え付けた。じゅくじゅくと熱を持ちながら痛むその左腕に、何だ……?と困惑していると、そんな僕の声に3人が振り返る。
「あ、忘れてた。狼、御水持ってきて」
「おー」
弥子君は素早く僕の腕に触れて狼君に声をかける。そして弥子君がそっと僕のシャツを捲り上げると__
「ヒッ……な、なに……これ」
露わになった自分の腕に僕は小さく悲鳴を漏らした。
そこには身慣れた自分の腕ではなく、血管が飛び出そうなほどビキビキと浮き上がって、皮膚が赤黒く変色してしまった腕があった。何よりも恐ろしかったのは、注意深く見ていないと見逃してしまいそうなほど僅かにだが、それが僕の身体を侵食するように徐々に広がっている事だった。しかも、なんだかその腕から体力が吸い取られていくように身体はどんどん重くなっていく。
「なんでェ觸ってたのか?その感じじゃ禊までは要らねェみたいだが……」
「妖に干渉した時にちょっと……。一応水持って来てて良かったスわ」
僕の腕を覗き込むように見た奥墨さんがなんて事ないように言うと、狼君がペットボトルに入った水を弥子君に手渡しながら答えた。
「ど、どうしよう!これ、広がってる……なにこれッ」
「落ち着いて回道、これくらいだったら大丈夫だから」
見た事もない状態の腕に慌てふためき動揺する僕に、弥子君が落ち着かせるように声をかけた。そして弥子君は狼君が持ってきたペットボトルの蓋を開けて、なんの躊躇いもなくその水らしき透明な液体を僕の腕へとバシャバシャと満遍なくかけた。
「冷たッ」と体の芯から冷えるような冷水を浴びて肩が跳ねる。一体何をしてるんだ、と自分の腕を見ると水をかけられた腕は熱が引くようにじわじわと元通りの皮膚を取り戻していた。
瞬く間の出来事に僕の理解は到底追い付かない。
「これは……」
「これがさっき言った觸るって事だよ」
さっき?と何時の事だろうと先程までの記憶を探る。そういえば妖に呑まれそうになった僕を助けてくれた時、2人が觸るだとか、戻って来れないだとか、そんな事を言ってたような……と思い当たる節を見付ける。そんな僕の心情が顔に出ていたのか、弥子君は話を続けた。
「妖に共感すると穢れをもらうって言ったでしょ?回道はさっき妖に共感しちゃったからね。穢れをもらってたんだよ。そうすると、こうなる」
そう言って弥子君はすっかり元通りに戻った僕の腕を指差した。
「今のが、穢れ?」
「そ。穢れは基本痛みも無く静かに身体を蝕んでくからな、中々気付かねぇんだよ」
「え、でも今、すごく熱くなって……」
「あー、穢れは血管に沿って侵食してくんだけど、たまたま神経に掠ったんだろな。神経が觸ると一気に身体が自覚する」
「だから急にきただろ?」と、狼君は自分の腕をトントンと指しながら僕に言った。狼君の言った様に、確かに急に腕が攻撃されたかの様に痛んだ。
「まあそうは言っても、俺達觸った事ないからどんな感じなのかなんて詳しく説明出来ないんだけどね」
「基本觸っちまったらお終いだしなァ」
「えっ」
弥子君に続いてさらりと怖い事をいう奥墨さんの方をバッと振り向く。そんな僕を見て奥墨さんは「そんなビビんなさんな」と可笑しそうに笑うが、僕は全然笑えない。
「觸っても基本気付かねェからな。気付いた時にはもう身体中が穢れで觸られちまってるから、御水じゃ清めきれねェんだよ」
「御水ってこの水のことですか?」
「おう」
僕は自分の腕にかかった水をみて問い掛ける。ペットボトルに入ったただの水にしか見えないけれど、どうやらこれが御水というものらしい。
「そりゃただの水じゃなくてな、穢れを落として清める事が出来る水なんでェ。神社の手水舎なんかが良い例だな」
そう言われて、神社に行くと最初に手を清める場所である手水舎を思い浮かべる。僕がさっきしてもらったのは恐らくあれと同じ事なのだろう。
「ただ、御水で清められンのは軽度の穢れだけだからな……、全身にまで広がると穢れはもう精神と干渉しちまってるから清めンのは格段に難しくなる。そうなると禊じゃなきゃ清めらンねェ」
「その、さっきから言ってる禊って言うのは……?」
先程から何度か耳にするその「禊」という言葉が気になっていた。その言葉の意味から何となく想像は出来るが、きっとそう簡単な事ではないのだろう。ゴクリと固唾を飲んで言葉を待つ僕に、弥子君は静かに話し始めた。
「禊って言うのは、そうやって精神にまで觸ってしまった者の穢れを清めるために、7日7晩を使ってその身を清める禊と呼ばれる術だよ。
……ただ、この禊の術は精神にかなりの負荷がかかる術だから、殆どの人間はその負荷に7日7晩も耐えられずに精神が崩壊する」
「精神が崩壊するって……」
言葉を繰り返した僕に、弥子君はゾッとする程綺麗で妖艶な笑みを浮かべる。
「廃人になるってことだよ____」
「っ」
その言葉に声に鳴らない悲鳴が出る。だって、それってつまり、助からないって事だ。
「ま、そもそも禊にまでいく前に觸に精神が呑まれて穢になっちまうから、禊が出来る奴なんて殆どいねぇから安心しろよ」
そう言って弥子君にもたれ掛かるように腕を組みながら僕を見た狼君はニカッと眩しい笑顔を向けた。そんな笑顔で言われても何のフォローにもなってないし、余計怖いんだけど……と青ざめる僕を無視して、目の前では「狼、重い」なんて文句を言われながらも弥子君と狼君はやはり仲良さげなやり取りをしていた。
「てかさっきの回道だって、結構危なかったんだよ?」
「へ?」
グイッと狼君の体を押し退けた弥子君が僕の顔を覗き込みながら「ちゃんと分かってる?」と再度問いかけてくる。そんな弥子君に全く言葉の意図が読めない僕は素っ頓狂な声を上げた。
「あの時の回道、かなり妖と共感し合ってたし、切り離すのがもうちょっとでも遅れてたら、精神にまで穢れをもらうとこだったんだよ」
「え!!?」
「そうなの!?」と驚いて声をあげれば、弥子君はやれやれと言いたげな目を向けてきた。
「觸に精神が呑まれて穢になるっていうのは、妖と似たものになるって事なんだからね。
俺達能力者はこの血のおかげで妖を生むことはないけど、觸に呑まれるとその血は妖と交ざって穢れたものになる。そうなると、もうこっち側……人間に戻れなくなるよ」
声を落として射抜くように僕を見てそう言った弥子君の言葉に、背中がひんやりと冷たくなる。もしもあの時、2人が助けてくれていなかったらと思うとゾクリと震えた。
そんなに僕は危ない状況だったのか……と、自分の不甲斐なさに僕はやはり落ち込んでしまう。
「ま、今回の事で身を持って知っただろうから、次からはちゃんと一線引くんだよ」
目に見えて肩を落とした僕に、弥子君は眉を下げて少し困った様に笑った。「そんな落ち込まないでよ」と優しく慰める様に頭を撫でられて、思わずじわりと涙が込み上げてきた。
「……ぐすっ」
「えっ泣くの!?」
込み上げてきた涙を止めることが出来ずに、重力に従ってボロボロと溢れさせた。滲む視界に珍しく焦った様な顔の弥子君が映る。弥子君はおろおろと「これじゃ俺が泣かしたみたいじゃん……」と僕に目線を合わせてまた一つ頭を撫でた。
そんな僕の元へ狼君や奥墨さんもやってきて、僕は3人に囲まれながら涙を拭った。
「お前結構泣き虫だよな」
「おーおー泣いとけ泣いとけ」
「ちょっと見てないでどうにかしてよ」
涙を流す僕を必死に慰め続ける弥子君を見て、狼君と奥墨さんは揶揄うように笑っている。いつも余裕そうで器用に何でもこなして見せる弥子君とは違って、今の彼は不器用に何とか僕を慰めようとしている。
僕を囲んでわちゃわちゃと騒ぐ3人を見ていると、頬が何やら涙ではない何かで濡らされた。
「ぐすっ……雨?」
頬に付いた雫を拭うとそれは透明な水の様で、雨でも降り始めるのだろうかとぼやけた視界で空を見上げる。空には見た事のある鳥数十羽が羽ばたいていた。
霧吹きをかけているかのような細かな粒子の雫はどうやらこの辺り一帯に降り注いでいる様だった。すると風に乗ってふわりと、なにか甘いようなとても良い匂いが鼻を掠めた。それらをどうやら狼君達も感じた様で、僕と同じく空を見上げて呟いた。
「御清めか」
「御清めって……?」
ぐすぐすと鼻を啜りながら問い掛けた僕に狼君が答えてくれる。
「御役目が終わるとその辺り一帯に「御清め」っつー儀式が行われんだよ。
お前の腕にかけたのと同じ、穢れを清める御水を伝書鳩が運んできて、御香を焚きながらその辺り一帯の穢れを取り除く」
「これが、御清め……」
空を見上げると何処から現れたのか、パタパタと羽を鳴らしながら数十羽の伝書鳩がその真っ白な羽を広げて羽ばたいている。
空気の中に含まれる細かな御水が優しく僕らに降り注ぐ。甘い御香を香せながら傷付いた身体を労わってくれるように。
「……御清めの1番の目的は、妖を視ちまった人間の記憶からその記憶を消す事だ。忘却の術がかかった御香が、人間の妖に関する記憶を忘れさせる」
「なんで、そんな事を……」
淡々と言葉を紡ぐ狼君に問い掛ける。
忘れさせるなんて、なんでそんな事を……。
「…………知らぬが仏ってゆーだろ?識らなくてもいい事っつーのは少なからず存在するからな。
今まで何も識らずに生きてこれたんなら、これからも、識らずに生きンのが幸せなんだよ」
そう言った狼君の顔は影に隠れてよく見えなくて、それがどこか無性に儚かった。まるで触るとすぐに弾けて消えてしまう泡のように。
____ねえ、狼君は今、一体どんな顔をしているの?
そんな想いを乗せるように僕は「……狼君?」と、そっと彼の名前を呼んだ。名前を呼ばれた狼君が此方を向いて、やっとその顔が見えた。そして彼はいつも通りの笑みを浮かべてニカッと笑った。
「ちなみにこれ御水だからさ、俺等も少しの穢れなら清められるぜ」
「えっ、じゃあ僕、この御清めで清められたんじゃ……」
「いや、お前のは重すぎ。御清めまで待ってらんなかったワ」
「ンな事いってオマエさんら、回道の觸忘れてたじゃねェか」
………………。
「え?」
「あ、ちょっと奥墨さん余計な事を…」
さらりと爆弾発言をした奥墨さんに弥子君が慌てて口止めしようとするが、当の本人は何ら悪びれる様子もなく、「なんでェ、ほんとの事じゃねェか」なんて言う。そしてそれは僕の耳にもしっかりと届いてしまった。
「わ、忘れてたって……」
「わりぃわりぃ、すっかり忘れてたんだワ」
と、全然悪いと思って無さそうな清々しい笑顔で狼君は言った。そんな狼君の姿に弥子君は額を抑えて深い溜息を吐いた。
「あ、そうだ回道。りんどーにはこの事内緒にしといてくんね?バレたらうるせぇからさ」
「こんだけ荒らしちゃったらもう、うるさいのは変わんないと思うけどね」
「オマエらなかなか派手にやったなァ」
「いやトドメ刺したの奥墨さんスけどね」
「俺まだこの前の始末書残ってるんだけど……」
各々わちゃわちゃと騒ぎ立てる3人の様子を眺める。
今の3人は、どう見たって能力を持たない普通の人間と同じ、ただの人間にしか見えなくて。僕にはそれが、なんだか可笑しかった。
僕がこんな奇妙な世界を識らなければ、絶対に交わる事は無かったであろうこの3人との出会いに、この出会いは運命みたいだなと少々クサい事を思った。
さっきまで涙が溢れて止まらなかったのに、いつの間にか涙なんてものは引っ込んでいた。
未だにぎゃーぎゃーと騒ぎ立てる3人の様子に、僕は自然と口角が上がる。
そして________
「ふっ、あはははは!」
僕は声を上げて笑った。
大きな口を開けて笑うのなんて、記憶を無くして以来初めてで僕自身も少し驚いた。
泣いているかと思いきや今度は声を上げて笑い始めた僕に、3人は揃って驚いたような顔をした。目に溜まった涙を人差し指で拭いながら笑う僕に、3人はほっとした様な顔をして優しく微笑んだ。
「泣いたり笑ったり忙しい奴だな」
狼君は一言そう言って優しく僕の頭を小突いた。奥墨さんは僕の肩にポンと優しく手を置いて微笑んで、弥子君は正面から僕の頭を撫でて笑った。
3人の瞳には確かに、笑顔の僕が映っていた。




