第三話『陰の名前 上』其ノ陸
目を閉じた瞬間、空気を切り裂く様な音と共に体を蝕んでいた感覚が消え、暗闇から解放された僕は地面に転がり込んだ。新鮮な空気が肺に広がり、僕は勢いよく咳き込んだ。
「ゔッ、げほッげほッ」
ヒューヒューと喉を鳴らしながら、晴れた視界に目を凝らすと、あの日と同じ2つの背中がそこにはあった。その名前を呼びたいのに、ダラダラと溢れ出る血が邪魔をして言葉にならない。
「しっかりしな、回道」
そう言った弥子君の右手には、いつも背中に背負われている日本刀が握られていた。恐らく先程の空気を切り裂くような音は、弥子君の持つその日本刀が靄を切り裂いた音だったのだろう。
「や゙、こくん……」
やっと出た声は濁りを含んでいて覚束なかった。何とか肺の傷は治せたが、その他の傷付けられた全身の傷はまだ癒えておらず、その痛みで涙が込み上げる。
痛む体に鞭を打ち、ぐっと上半身を起き上がらせると、弥子君は片膝をついて僕に視線を合わせてきた。
「回道、その一線を超えるとこっちに戻れなくなるよ」
「ゲホッ、な、に……」
「そうやって妖と交ざると駄目なんだ。一線を引かないと……觸るよ」
「さ、わる……?」
真剣な目をして僕を見詰める弥子君は、そっと僕の左腕に触れた。
さわるって何だ……?僕の腕に触れた事だろうか。
僕の腕に触れた弥子君は「ギリギリか……」と、何やらホッとした様子で小さく呟いたけれど、僕には上手く聞き取れなかった。
そうこうしていると弥子君の背後で、ドゴォッと地面が叩き割れる音がした。音の方へと目を向けると、狼君が靄の妖を地面へ叩き付け、靄が辺り一帯に散らばっていた。そのせいか、妖は暫く動けそうにもなかった。
「禊か?」
「……いや、ギリギリセーフ」
僕達の元へとやってきた狼君は弥子君へと問いかけた。弥子君の答えに狼君は「そうか」と静かに呟き、僕を見た。そしてあの日と同じ様に「……大丈夫かよ」と僕に手を差し伸べ、僕はその手を借りて起き上がった。
「あ、りがとう……」
「…………」
「狼君……?」
僕をじっと見つめたまま、何も話さない狼君に少し戸惑う。
結局一人じゃ妖を祓えず、助けられた僕に怒っているのだろうか。そんな事をぐるぐると考えていると目が熱くなる。そんな気持ちが顔に出ていたのか、狼君はポンと僕の頭に優しく手を置いて、「怒ってねぇよ」と一言呟いた。
「回道、お前の優しさは正しい。なんも間違ってねぇ…………。ただ、お前の優しさは正し過ぎる」
「え……」
狼君の言っている意味が分からなくて、弾かれたように顔をあげた。
「妖は人間の負の感情から生まれたもんだ。だからその根源に触れれば、その妖が生まれる事になった人間の感情にも触れる事になる。
さっきお前に聞こえてたのは、あの妖を生んだ人間の声でもあり、妖自身の声なんだよ」
やっぱり、あの声は妖の声だった。ちらりと地面にめり込んだ妖を見つめる。先程の妖の声を思い出して、僕は自然と眉が下がる。
「それだよ、それ」
「へ……?」
人差し指で僕の眉間をグッと押した狼君が呆れたように言う。僕は未だに話が読めなくて困惑する。
「お前は優しい。ただ、その優しさは真っ直ぐで正しいから、どんなものにでも同情して、共感して、救おうとする……たとえそれが、妖でもな」
「ッ」
そう言われてハッとする。狼君の言いたい事が漸く理解出来たからだ。
「お前、あの妖を祓えねぇって思っただろ」
「ぁ……」
小さく声を含んだ空気が口から零れ落ちた。
そうだ、僕はあの時、妖の声を聞いて思ってしまった。
あの妖の声が2人に出会うまでの僕と同じだったから。
あの妖が僕とそっくりだったから。
僕にはあの妖がどうしても可哀想に思えて、まるで少し前までの自分を見ているようで、とてもじゃないけど、僕には祓えないと思ってしまったんだ。
「妖は負の感情そのものなんだよ。優しい人間程、その隙間に簡単に憑け入られる。
お前にはアレがただの可哀想な妖に見えてたかもしれねぇけど、妖はお前の優しさに憑け込んで内側から殺そうとしてたんだぞ」
「そんな……、でも、あれが嘘には聞こえなかった!」
「嘘じゃねぇよ、あれは妖が生まれた感情そのものだからな。でもそれは、アイツの感情じゃねぇ……わかんだろ?」
分かるよ……。狼君が言ってる事は理解できる。
僕が聞いていたのは妖を生み出した人間の声であり、あの妖自身の感情じゃない。
でも____、
「でも、僕には同情せずにはいられなかった……ッ」
そうだ。あの妖が生まれた声と僕はそっくりだった。まるで自分自身を見ている様だった。それを無視する事なんて、僕には出来なかったんだ。
僕の言葉を聞いた狼君は下を向いた僕の顔を両手で包み込み、優しく顔を上げさせた。そして、一拍おいて口を開いた。
「同情するなとは言わねぇ……ただ、共感はするな」
いつものヘラヘラした薄い笑みではなく、真剣に僕の目を真っ直ぐに射抜くその赤い瞳に、目を見開いたボロボロの僕が映った。
「妖の声に触れて可哀想だと思うお前の優しさは間違っちゃいねぇし、その思いやりを止めろとは言わねぇ。でも、その感情に寄り添って、感情を共有して、妖と繋がる事で助けようとすんな。
そうやって繋がると穢をもらって、こっちに戻れなくなるぞ」
狼君の言った妖と繋がるというのは、さっき僕がした妖と感情を共有する事を指しているのだろう。そして妖と同じ感情を抱き、その感情に寄り添おうとした瞬間、僕の身体に何かが入り込んでくる感覚がしていた。きっとそれが繋がると言う事なのだろう。
ゆっくりと狼君の言葉を飲み込んでいると、今度は弥子君が優しく僕に語りかけた。
「いくら俺達が妖を生まない祓える血を持った能力者でも、結局は人間だからね。感情があるから同情もするし、共感してしまうのも無理ないよ。
でもね、妖の根源に触れた時、それを主観的に捉えてしまうと穢をもらって觸るんだ。そうすると妖が入り込んできて、妖と交ざって穢れたものになってしまう。そうなってしまったら、もう人間には戻れないんだ」
「さっきの回道、結構危なかったんだよ」と、弥子君は伏せていた目をあげて困ったように笑った。そして一拍おいて言う。
「だから俯瞰して視るんだ。同情はしても、共感して妖と交ざって仕舞わないように。穢れたものになって仕舞わないようにね」
「ほら、傷はとっくに治ったでしょ」と、弥子君はいつ拾ったのか、落としていた僕の祓具を胸に押し付けた。
「で、でも、どうやって祓えば……」
「目を潰すって言ったでしょ」
さも当たり前かの様に弥子君は答える。
「分からないんだ……っ、目が何処にあるかなんて……」
僕の言葉に弥子君はきょとんとした顔をした後、笑って言った。
「分かるよ、回道なら。心の目は妖の1番繊細で弱い部分だ。妖の根源に触れる事が出来た回道なら、絶対に分かる筈だよ」
微笑んだ弥子君はとても優しい目をしていた。その目に足の震えはいつの間にか止まっていた。
僕は今度こそ自分の脚にしっかりと力を入れて立った。そんな僕の様子を見てか狼君も安心した様に笑う。そして僕の背中を片手で軽くトンッと押して背中を押す。
「ほら、行ってこい」
その声に、僕は振り返らず妖を祓うために地面を蹴った。




