第三話『陰の名前 上』其ノ伍
辿り着いた踏切内は騒然としていた。先程の突風で遮断機は吹き飛ばされて、折れ曲がって壊れた遮断機からはカンカンカンと警報音が鳴り響き、切れた電線がバチバチと音を鳴らしていた。折れた電柱が周辺の建物に倒れて、辺り一面に瓦礫が散らばっていた。
狼君と弥子君によって付近の人達は全員無事な様だったけれど、只事ではない事態にパニックになり悲鳴をあげながら逃げ惑っていた。そのお陰で踏切付近には人が消え、狼君と弥子君の2人だけが静かに事の顛末を見守っていた。
「ダッテ、イキテ、テ、モカヮラナ、ィシ、ダレニモミ、ェテナイシ」
妖は覚えたての言葉を話す子供の様に嬉しそうに喋り続けていた。
この刀で一体どうやって祓えば……。確か狼君達は妖の目を潰すって言ってた。でもこの妖の目は一体何処にあるのだろう。狼君達の言っていた目は、このギョロギョロと動く不気味な目ではなく、心の目だ。
「コッチ、コッチ」
妖はその人間の様な5本指を器用に動かし、僕に向かって手招きの仕草をする。すると次の瞬間、僕の身体は謎の追い風によって前方へと飛ばされ、一気に妖の目の前まで吹き飛ばされた。
一瞬事で理解が遅れる。いざその黒い姿を目の前で見ると、不気味に蠢く目だけがそこに浮かび上がっているように見えた。
妖は自身の体の靄を広げ、僕と妖の周りを黒い靄で包み込んだ。
「ォイデ」
「ゥゴボッ」
思わず黒い靄を吸い込んだ途端、肺が切り裂かれる様な鋭い痛みが走った。感じたことが無い程の痛みに僕は堪らず地面に這い蹲る。ビチャビチャと汚い音と共に口から大量の血が零れ落ち、真っ白なシャツを赤く汚した。ゴロゴロと肺が聞いた事のない音を立てる。
____何だ、これは。何が起こった?
やがて辺りを覆い尽くしていた黒い靄は妖の身体へと収縮し、視界が晴れる。明らかな致命傷を負わされた僕はただ地面に横たわるしか無かった。傷の治りがいつもより遅い。駄目だ、これでは修復が追い付かない。
ギリッと歯を食いしばり、必死に身体を起き上がらせる。靄の晴れた新鮮な空気を吸っても、肺は切り裂かれる事はなくて、このダメージはどうやらあの黒い靄が原因のようだった。
何故か死なない僕に妖は不思議そうに首を傾げた。すると今度は、妖はその指をぎゅっと閉じて拳を作った。次の瞬間、突風が僕に向かって全方向から押し寄せてきた。辺りに散らばる瓦礫諸共押し寄せ、硝子の破片が皮膚を裂き、瓦礫が当たると簡単に僕の骨は砕かれた。
「ぁあ゙あ゙ッッ」
全身の至る所に鈍い痛みが走り、僕は思わず悲痛な声をあげた。一度に押し寄せる重たい攻撃に、傷の修復が間に合っていない。切り裂かれた肺のダメージが、傷の修復を妨げているようだった。
駄目だ、このままでは死んでしまう……と、骨が砕けて感覚がない左脚を庇う為に、僕は未だに地面に大きく広がる黒い影に刀を刺して立ち上がろうとする。
すると、刀が地面に刺さる直前、急に攻撃が止まった。地面の影は逃げる様に動いた妖と共に僕から距離をとった。
何だ……?と思ったけれど、何にせよ僕にとっては都合が良い。荒い息を何度か繰り返して、漸く肺の修復が終わり傷付けられた他の傷が治り始める。やがて左脚の感覚も戻り、僕は刀を強く握り直した。
しかし一度傷付けられた僕の身体は簡単に恐怖に怯え、カタカタと小さく震えてしまっていた。
こんな化け物を、僕なんかがどうやって祓うっていうんだ。チラリと狼君達のいる方へと視線をやるが、彼等はやはり手を貸す気は無いようで、ただジッとこちらを見つめているだけだった。
そんな事をしているとまたもや妖が「コッ、チ」と僕を手招きする。またくる!!と、身構えたが時既に遅く、僕はまたもや後ろからの凄まじい突風により妖の前まで吹き飛ばされる。そして先程と同じ様に黒い靄が辺りに広がり、僕達を覆い隠した。この靄を吸ってはまた肺を裂かれるッ!と、僕は腕で鼻と口を覆った。
しかし、まずはこの靄をどうにかしないと話にならない。何とかこの靄を晴らせないかと、刀を振り靄のような妖の身体を斬ろうとするけれど、悪戯に刃を傷付けてしまうだけでまるで歯が立たない。まるで水に向かって刀を振っているみたいだ。
何なんだこの妖は、目なんか何処にも見当たらない。
____
「これちょっとまずいんじゃない?」
「…………」
靄の外、黙って回道を見ていた高専寺と狐塚だったが、靄の中で薄らと見える回道の様子に、狐塚は少々危機感を感じていた。対する高専寺も言葉は無いものの、瞬きひとつせずただジッと回道の様子を見詰めていた。
「狼」
「……いや、まだだ」
「……このままいくと回道、觸るよ」
ちらりと高専寺を見詰めるが、その瞳は真っ直ぐに回道を捉えたまま動かない。
「それにこの妖、回道と相性が悪い……。回道、こっち側に戻れなくなるよ」
「…………、そうだな」
スッと目を細めた高専寺は漸く一つ瞬きをした。それを合図に狐塚も体を動かした。背中に背負っていた日本刀を取り出し、高専寺は腕のブレザーを雑に捲った。
外から見える靄はどんどん濃くなっていた。
____
靄の中、みっともなく刀を振り続ける僕の体を妖は5本の指で掴みあげた。人外のその強い力にメキメキと骨が軋む音がする。その力強さに「ぁグッ」と情けない声をあげて、僕は奥歯を噛み締めるしか無かった。妖の体に近付いた事で、黒い靄はさらに濃くなる。思わず吸い込んだ黒い靄がまたもや僕の肺を切り裂いた。
「ゔえッッ」と汚い声をあげ、ビチャビチャと口から大量の血が溢れ落ちた。腕の力が緩んで刀がすり落ちる。霞む視界の中、必死に目を開けると、さっきまで妖の体のすぐ下にあった真っ黒な影が、いつの間にか僕の足元に集まっていた。
そして、その影は僕の足元からあっという間に頭まで、僕の影を覆い尽くした。
その瞬間、僕の世界は暗転した。
____暗闇の中、頭に声が響いた
「どうして誰も僕を見てくれないの」
「きっと誰の視界にも映らない」
「誰にも私の姿なんか見えていないみたいだ」
頭がガンガンする。脳に直接語りかけてくるように、沢山の人の声がする。
いや、これは妖の声……?
「どうして僕だけが」
「羨ましい、妬ましい」
「僕には、何も無いのに、どうして、どうして、みんなばっかり」
「どうして、どうして」
駄目だ、これ以上聞いたら駄目だ。この言葉はどれも僕には毒だ。
だって、知っている。分かってしまう。この声を……。この妖を、僕は分かってしまう。
____いつも足元ばかりを見詰めていた
人の顔を見るのは怖くて、目が合っている筈なのに、そこに僕が映らないことを知るのが怖くて。誰の顔も見ずに、足元ばかりを見詰めて、息を殺して生きる方が、僕にはずっとずっと、呼吸がしやすかった。
でも、そうやって生きていくと、僕は自分の顔が分からなくなってしまった____
誰も見ないと言うことは、誰にも僕が見えないと言うことだった。
幸せそうに笑う、楽しそうに笑う、そんな人達と、僕だって同じ人間の筈なのに。何故、こんなにも違う。
苦しくて、辛くて、羨ましくて、妬ましくて__
『きっとこんな人生、誰の記憶にも残らない』
妖の声と僕の声が重なって言葉になる。全身の力が抜け落ちて、大量の靄が一気に身体に入り込んでくる。全身が張り裂かれるように痛い。何かが身体に入り込んでくるような感覚。
でも、もう身体が動かなかった。だって、だって駄目なんだ。この妖は駄目なんだ。
だって僕には、この妖は祓えない______
僕は、観念するように、深い眠りに落ちるように、そっと目を閉じた。
ザシュッッッ




