壁越え
今日は泰三が壁越えを決行する日。僕たちは泰三を止めるべく、中央広場にやってきた。こんなことで泰三を当局に捕まらせるわけにはいかない。壁の前には.通行証を持ったオジサンたちがハネムーンを前に並んでいる。オジサンたちが通る扉を潜り抜けようというのだ。扉が開いた。と同時にラーメン屋から、映画館から、このファミレスから、ありとあらゆるところから、大勢の男たちが一斉に扉へ向かって走ってくる。ほかにも壁越えを企んでた者がいたのだ。泰三も壁を目指し走る。そこへ本屋から飛び出した。三起也が泰三を止めるために出てきた。しかし、ほかの男たちに巻き込まれ、三起也は壁の向こうに流されていった。
日曜日、僕らは中央広場の中にあるファミレスの二階で泰三がやってくるのを待っていた。バルコニーでお茶をするには寒い季節だが、ここからなら壁の入口がよく見える。
バルコニーの右手には巨大な壁が見える。灰色の壁ははるかに高く、人々を見下すように冷たくそびえ、冬の穏やかな日光を遮った影を足元に落としている。中央広場を東西に分断する壁は広場を突き抜け、そのまま市内を二分している。
この壁が僕らと女性を隔てていると思うと、ますます冷たく感じる。三十メートルはあろうかという高さを考えると、物理的に壁を越えるのは難しく、扉が開いた際に隙を突いて抜けるしかない。
入口の両開きの扉は巨大で鉄製である。その風体はいかつく、中世ヨーロッパの牢獄を思わせる。壁抜けを試みようとする輩を威圧し、バカな考えを起こさぬよう作られたものに違いない。
扉は毎日九時、十二時、十五時の三回、屈強な男が三人がかりで開けている。このわざとらしい演出も、僕らに恐怖を与えるためのものであろう。通行を許されるのは、通行許可証を持っている男性だけである。
扉の周りには常に何人かの警官が配置され、非合法に扉を抜ける不届き者を見張っている。壁の向こうがハネムーンベルト、さらに向こう側は女だけの街である。ちなみにこれらの情報は慎伍の親父さんが酔っ払ってご機嫌なときに話してくれたとのことである。
「本気でこれを抜けようってのか、泰三は」
幾度となく見ている壁である。これまで越えるなんて考えもしなかった僕は、改めてその威容に気圧されていた。下々の小さな企みなど、鼻で笑うかのような圧倒的な大きさ。これを抜けようなんてまともじゃない。
「言ってみただけでしょ」
ダッフルコートにミトンの手袋の新次郎はカップを両手でつつむようにして、ホットココアをすすっている。
「俺は泰三の壁越えを見届けようとしてここへ来たんじゃない。止めにきたんだ」
慎伍が言った。黒を基調とした大人びた格好の慎伍は新次郎と対照的である。いつもさりげなく決まっている。慎伍のような高校生がジャンボのマスターみたいになるのかも。直感で思った。
「でも、散々考えたって言ってたじゃない」
新次郎が言うと
「決してバカにするわけじゃないが、散々て言っても、せいぜい三日だと思うんだよ。泰三は考えるのあまり得意じゃないから」
慎伍が答えた。
「そんなとこだろうね」
新次郎が同調する。泰三も随分と買いかぶられたものだ。僕は多くても三分だと思っている。
「それで人生を棒に振るなんて、馬鹿げてる。泰三は絶対に当局に連れていかせない」
「本人が嫌がっても?」
「これが原因で仲たがいをしてもいい。絶対に止めてみせる」
新次郎の問いに慎伍が答える。冷静に見えて人一倍熱い男である。D組の組長として、当局に連行されるかもしれないというこの状況で、よく友達のことをこれだけ真剣に考えられるものだ。頭が下がる。
しかし、僕とてすぐに行動した。いくら、慎伍に秘策があると言っても、何から何まで慎伍任せにはできない。ある日の放課後、前から一番怪しいと踏んでいた前野を密かに体育館裏に呼び出し、それとなくと言うか、露骨にカマをかけた。
「なんなの? こんなところに呼び出して」
相変わらずオイリーな髪の毛が頭皮にへばりついている。この男、きちんとシャンプーをしていないのだろうか?
「知ってるか。あのバスのことを密告した輩がいるらしい」
「それが?」
素知らぬふりである。まったく驚かない。瞬時に悟った。コイツが密告者だ。
「誰か知らんが、さもしい奴だと思わんか」
「君は近くで見たからそんなこと言えるんじゃない? 君にはわからないの? 見られなかった人の気持ちが」
「見られなかった人の気持ち?」
「そうだよ!」
「どんな気持ちだ?」
「そんなこともわからないの?」
そう言うと、続けて
「僕が購買のカレーパンが好きなのは知ってるよね」
と突然訳の分からないことを言い始めた。そんなこと知らん、と思いながらもヘタに刺激してはならぬと黙っていると
「そのカレーパンが僕の目の前で売り切れになった気持ちだよ」
と肩を落とした。タイミングを測ったように、どこぞでカラスがカァーと鳴いた。
「……そういう気持ちだよ……」
やけに悲しげに言うが、オノレはカレーパンが売り切れたぐらいで、クラスメートを当局に売るつもりか! 危うく口を衝いて出るところであったが、今前野の機嫌を損ねるわけにはいかない。
「第一、君にそんなこと言う資格はないよね。君は見ることができたんだから。わかる?」
迂闊にもその圧にたじろいでしまった。目がいっている。体育館から漏れる光が前野の顔を妙にオカルトチックに映している。
「僕は絶対泰三君を許さないよ。絶対あの子には会わせない」
危機迫る表情で言った。普通に考えれば泰三があの子に会うことはできないことぐらいわかるはずだ。でも今の前野にはわからない。
「お前の気持ちはよくわかる。しかし、密告だけはやめてくれ。そんなことをしたら、自分自身が後悔するぞ」
「気持ちがわかる? わかるわけないよね。何せ君は見られたんだから」
体育館にまで聞こえるんじゃないかと思うほど大きな声だ。こりゃ相当根に持ってる。
「第一僕が密告した証拠はあるの? あるわけないよね。ならこれ以上話しても時間の無駄だね。じゃ失敬」
前野はオイリーヘアをなびかせながら、校舎へ帰っていった。こうして僕と前野のファーストコンタクトは前野を怒らせただけに終わった。かくなる上は一刻も早くセカンドコンタクトをセッティングしなくてはならない。
なにはともあれ、泰三の壁越えである。
物々しい雰囲気と人を圧倒する規模の大きさにも拘わらず、壁の周りには人が多い。考えられる要因として、壁にまつわるさまざまな都市伝説がある。
両手の親指を隠しながら、ミクドのマンモスバーガーを息をしないで一気に食べると壁が透けて見える。雨の日に鼻をほじりながら、百人一首をそらんじると、突然扉が開き中から女性が出てくる。満月の夜、壁を見ながらカズキルーペをかけると世界が変わる、などなど。
それもこれも壁の向こうの妻やまだ見ぬ恋人が見たいために、希望と現実がゴチャゴチャになり、広まっていくうちにいろんな尾ひれがついた結果の産物なのかもしれない。
ほかにも愛しい人の声が聞こえないかと、壁際に立って耳をそばだてる者や、壁に寄り添うように身を寄せる者などが後を絶たない。僕らもこれといって用もないのに、壁の周辺に出かけることは、よくあることである。修学旅行前の慎伍のように、さまざまな願をかける輩もいる。
特に月が美しい夜、桜や紅葉の季節には、壁のそばで酒をたしなむ輩が増えるという。その際には必ず壁に向かって杯を傾ける。そう言えば、うちの父親もよく壁に出かけたがる。お酒も飲めないというのに。
とにかく、壁の周りには人が多い。人が集まるところには店ができる。そんなわけでここには飲食店をはじめ、理髪店、映画館、本屋など、多くの店が軒を連ねている。
もうすぐ正午、扉が開く時間だ。扉が開くのを見るのは初めてである。いろんな意味でドキドキしてきた。ひょんなことから、あの扉のから女の子が飛び出してきたら……。それが、当局が制御できないほどの人数で、中央広場一体に女の子があふれてきたら……。そのうち、とびきり可愛い女の子が、僕にひと目惚れをしたら……。絶対ないと誰が言い切れよう。ただそんなことが起こりうる可能性は限りなくゼロに近いというだけである。
扉の前には黒の革のジャケットに身を包んだ男たちがスタンバイをしている。世紀末映画の悪役として出てきそうな三人は鎧のような筋肉に身を包んでいる。やたら露出が高いジャケットはわざとその肉体を見せつけてるようにも見える。
扉の手前には通行証を持った男たちが整然と並んでいる。強面の男たちとは対照的にどの顔もヘラヘラしまりがない。
「いいなあ、オジサンたち。これから奥さんと会うんだね」
「そうだな。うらやましい」
二人の会話を聞いて、僕はあの娘を思い出していた。魅惑的な容姿、白い肌、可愛らしい仕草、愛くるしい声、想像するだけで目眩がしてくる。これまで長年培ってきた能う限りの想像力をもってしても、足元にも及ばないケタ外れの魅力。うらやましいにもほどがある。
「並んでるオジサンたちを見てると、泰三がやろうとしていることの方が正解かもって思ったりもするよ」
慎伍が苦笑いを浮かべた。ちょっとほほが赤い。驚いた。冷静沈着な慎伍がこんなことを言うとは。慎伍も男、頭の中は僕と大して変わらないはずだ。こんな顔してとんでもなくスケベな奴だ。
正午まで三分を切った。
「あきらめたのか」
「そうかもね」
新次郎が僕に答えた。いくら泰三でも直前になって怖くなったのかもしれない。冷静になればやはり無謀だとわかるはずである。まともな神経が通っていれば当たり前のことである。あくまでも泰三にまともな神経が通っていればの話であるが。
「あれそうじゃないか」
慎伍が指さす。そこには尾戸高校陸上部の黒いウィンドブレーカーを身につけ、ズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、歩いている高校生がいた。間違いない。泰三だ。もし本気で壁を越えるなら高校名が入っているウィンドブレーカーを着てくるのはいかがなものか、と余計なことを思いつつ、僕は泰三の動きに注目した。
泰三はなんとそのまま真正面から扉に向かって歩いていった。まだ扉は開いていないというのに。さすがは泰三、大胆不敵にもほどがある。
三人組が泰三に迫る。まずい、下手したら連行される、と思いきや泰三はさっさと踵を返した。
「ありゃ、どうしたのかな」
新次郎がほおづえをつきながら、のんきに言った。
その後も扉のそばを何度も行ったり来たりしたり、必要以上に辺りをチラチラと伺ったり、警官が近くに来ると露骨に離れていったりと、怪しいことこの上ない。泰三が壁を越えると言った時点である程度は予想していたが、確信した。この壁越えには、詳細な計画など何もない。行き当たりばったりである。
「……怪しすぎる」
慎伍が頭を抱えた。
「止めてこよっか」
新次郎の口調はもう泰三が壁を越えるとはこれぽっちも信じちゃいない。
「いや、もういいだろう。いくら泰三でも無計画で壁を越えようとはしないさ。とにかくよかったよ」
慎伍が答えた。僕らの間の緊張感がゆるゆると解けていくのがわかる。ただ一つ、不安があるとすれば、いくら泰三でも、の部分である。泰三を甘く見てはいないか? 僕らはこの男のケタ違いの阿呆さ加減を目の当たりにしてきたのではないか。僕はゆっくりと冷めたカフェオレをすすった。嫌に苦い感じがした。
正午を告げる鐘がなる。
「お、十二時だ」
慎伍が言った。同時に扉の向こうから大きな音が聞こえてきた。
「なんの音?」
新次郎が扉を見てつぶやく。
「扉の向こうで、閂をはずしているんだ」
慎伍は椅子から腰を浮かせ、下の様子を眺めている。
「こんな音するの?」
新次郎の声がひっくり返ってる。かなりな大きさの上、非常に不快な音である。それでも断末魔のような音を最後に静かになった。
「やっと終わったな」
僕はほっとひと息ついて、カフェオレをさらにひと口飲んだ。
すると慎伍は、
「まだ終わってない、本番はこれからだ」
と言って素早く耳を押えた。
まもなく
「ギャアアアアアアアアギャギェギャア」
凄まじい音が聞こえてきた。黒板を爪で引っかく音を何倍にも増幅したような、神経を逆撫でる音。全身の毛という毛が総毛立つ。
見ると三人組が全体重をかけて扉を一枚ずつ押している。あの筋肉男を以ってしても、少しずつしか動かない。普段油を差していないのだろうか。品質管理はどうなっているのだ。責任者を呼んで申し開きを聞いたあと、たっぷりと説教をしたくなるような音である。
僕らの元気とかやる気とかそういったものを根こそぎにして、ようやく扉は開いた。
「終わったな」
力なく慎伍がつぶやく。並んでいたオジサンたちは何もなかったかのように、わいわいと扉に入っていく。すぐ近くでこの音を聞いていたのに、オジサンたちはよく平気でいられるものだ。これから愛しい女性に会えるという喜びがなせる業か、単に不快を感じるセンサーが年令と共に鈍ったものなのかはわからない。楽しそうに扉へと消えていく背中に中年オヤジのたくましさを感じた。
「一応、泰三のところへ行くか。もう行くことはないだろうが」
「そだね」
泰三の壁越えは結局何事もなく終わろうとしていた。とんだ茶番だが、当然の結末である。いくら泰三でもここで扉に突っ込んでいけば、ただ捕まるだけである。僕と新次郎はゆっくりと腰を上げた。そのとき……。
「ちょっと待て、様子が変だ」
慎伍はそう言うとバルコニーの端まで走って、下の様子を覗き始めた。僕と新次郎も慌てて慎伍に続く。すると、ラーメン屋から、映画館から、このファミレスから、ありとあらゆるところから、大勢の男たちが一斉に扉へ向かって走っているのが見えた。壁を越えようとしているのは泰三だけではなかったのだ。
扉の周りは騒然としだした。あちこちで警官と男たちが小競り合いをしている。警官は警棒で応戦するが数が多過ぎる。泰三はただ茫然と立ち尽くしている。そんな中、背後から抜き足差し足近づいている小柄で猫背でロングヘアで貧弱な男が見えた。
「あれ前野じゃない」
新次郎が指さした。大勢がいる中で、そこだけ異様さが際立っている。なおも独特の動きで泰三との距離を縮めていく。泰三はまだ気づいていない。前野が背中に飛びかかる。同時に泰三は走り出し、扉に向かっていった。すかされた前野はその後ろ姿をにらんでいる。そこへ大勢の男たちがなだれ込んだ。はね飛ばされた前野は、あっという間に泰三を抜かして、排水口に吸込まれる髪の毛のように、扉の向こうへと消えていった。あまりのことに僕らはしばし言葉を失った。
「……何しに来たの? 前野」
「泰三があの子に会うのは許せないって言ってたからな。妨害しに来たんじゃないのか」
新次郎に答えて言った。ふと見ると、慎伍が険しい表情を浮かべて扉をにらんでいる。
「どうした? 慎伍」
「……いや、それより泰三だ。本気で壁を越える気だ」
慎伍が言った。やはり泰三はケタ違いの阿呆であった。泰三は奔流となって扉に向かっている男たちの合間を縫って、どんどん壁に近づいている。無計画にも拘わらず、突然のハプニングでもう扉は目の前である。しかし、壁が近くなるにつれ、当局とおぼしき輩に阻まれ、扉付近は渋滞を起こしていた。すると、泰三の背後から緑のセーターを着た青年が泰三の腰にタックルした。二人はもんどりうって倒れた。そこに怒涛の如く大勢の男たちが襲いかかっていく。そのままよろよろと立ち上がった二人を弾き飛ばした。その後も扉を目指す男たちは後を絶たない。
「誰かが泰三を止めたぞ」
目を細めて見るが、判然としない。
「誰だ? あの緑」
「わからん」
慎伍の問いに僕が答えた。
「待って、マズイよ。見てよ、あれ」
新次郎が言った。指さす方に目をやると、男たちの中に一段と目を引く集団が見えた。上下黄色の半袖短パン姿の巨漢の集団である。豊満な肉体を揺らしながら、ドスドスと音が聞こえてきそうである。
「豚也?」
新次郎が首をひねった。確かに豚也そっくりだが、豚也はもちろん一人である。そんなにたくさん豚也はいらないし、一人だけでも持て余している。
「いや、采女高相撲部の奴らだ」
慎伍が言った。
巨漢集団は当局を蹴散らした後、扉に捕まり、かろうじてこちら側に留まっている緑の青年を巻き込んで、扉の向こうへ消えていった。
「あれっ?」
新次郎がとぼけた声を上げた。
「どうした?」
新次郎に声をかける。
「今の三起也じゃなかった?」
「今のって誰だ?」
「緑のセーター」
「えっ」
新次郎の言うことが本当ならば、三起也は壁の向こうに行ってしまったことになる。
「行くぞ」
慎伍が言った。
「どこへ?」
「三起也を助けに行く。まだ間に合うかもしれない」
慎伍はそのまま扉に向かって走って行った。巧みなステップで男たちの濁流の合間を縫って扉を目指す。
行くぞ、ということは、僕と新次郎にも来いと言っていると推察される。しかし、未だ泰三が倒れている状況を考慮に入れると、すぐさま慎伍の後を追うのは、泰三を見捨てることになりはしないか? もちろん、豚也もどきの連中を恐がっているわけではないことは言うまでもないことだが、泰三を見捨てるわけにもいくまい。的確な判断の結果、僕は壁際で倒れている泰三の救出に向かった。
相撲部の連中は巨大な体をいかし、多くが扉の向こうへと消えていった。超重量級の男たちがほぼいなくなると三人の屈強男たちは、急いで扉を閉め始めた。それを見て焦ったのだろう、強引に扉を目指した慎伍は相撲部の連中に弾き飛ばされた。再び身を起こしたときには扉は完全に閉められていたのである。慎伍は必死に何事か訴えているが、屈強男たちは首を横に振るばかりだ。
泰三は大の字になって放心状態で倒れていた。
「大丈夫?」
新次郎が声をかけた。泰三は僕らに気づくとウィンドブレーカーの埃をパタパタとはたきながら立ち上がって
「ちくしょう、どこのどいつだ。あともう少しだったってのに」
と言った。
「三起也だよ」
新次郎が言うと「えっ!」ととても驚いている。
「本当か?」
「うん」
「アイツ、なんの恨みがあって……」
泰三は小さく舌を打った。
「逆だろ」
「ああん?」
扉から戻ってきた慎伍の言葉に目をむいた。
「お前を助けたんだよ」
「助けた? どういうことだ?」
「太兄ちゃんを思い出したんだよ。三起也の中ではつらい思い出だったんじゃないのか? お前まで失いたくなかったんだよ」
「えっ!」
「それ以外何がある。お前の壁越えを邪魔して三起也になんの得があるんだ?」
「そ、そんな」
愕然と膝を落とした泰三はたちまち涙腺を崩壊させた。
「そ、それで三起也は?」
「……壁の向こうだ。大勢の男たちに巻き込まれてな」
慎伍が唇をかんだ。
「ウソだろ!」
泰三が大声を上げた。そのままゆっくりと首を横に向け、茫然と視線を扉に投げた。よろよろと立ち上がると夢遊病者のように扉の方へ歩き出した。
これで泰三まで向こう側に行ったら収拾がつかない。仕方なく強引に泰三をファミレスに連れて行った。結局、さっきの席に戻る羽目になった。
「どうなるのかな、三起也」
長い沈黙の後、新次郎がつぶやいた。
「わからんが、警察には俺たちから説明しよう。アイツは巻き込まれただけだって」
慎伍が答えた。泰三はバルコニーの端で、ただ突っ立って扉の方をぼうっと眺めている。
「これで処罰されるようじゃこの国は法治国家じゃない」
慎伍は拳を握りしめ力説するが、僕は少なくとも茂田市に関しては、法治国家に存在する自治体であるのか疑わしいと思っている。
二十分が過ぎ、三十分が過ぎた。動かなきゃいけないことはわかっている。でも、具体的に何をすればいいのか、わからない。慎伍は我が軍師ではあるが、まだ高校生なのだ。このまま三起也が出てくるのを待つべきか? 的確な判断ができなくて当然である。
「そろそろ帰る?」
新次郎が言った。三起也が扉の向こうに消えてから、一時間半が経過しようとしていた。巨大な壁が作った影でバルコニーはすっかり覆われ、気温も急激に下がっていた。
突然、泰三が走り出した。そのままものすごい勢いで階段を降り、外に出た。わけもわからず僕らはそのあとを追った。
「三起也!」
慎伍が叫んだ。視線の先に目を向けると三起也が扉からフラフラと歩いているのが見えた。鼻血を流し、メガネは左のレンズに大きくヒビが入っている。顔は全体的に赤く、意識は朦朧としている。
「三起也、三起也。おい、大丈夫か?」
泰三が叫んだ。
「三起也、おい三起也」
「三起也、何があった?」
何度声をかけても返事を返さない。焦点の合わない目で辺りを見回し、時折口角を上げる。明らかにいつもの三起也じゃない。心配する僕らをよそに、ひと言だけつぶやいた。
「…………天使だ」




