泰三の決意
とある昼休み。いつものように慎伍の席のそばで昼食を取っていると、泰三が突然壁越えを宣言した。高校を卒業すれば結婚できるというのに、泰三の言っていることは常軌を逸している。幼馴染の三起也も呆れている。それでも泰三の決意は固い。決行は今度の日曜日である。
それから数日が過ぎ、見学者も徐々に減った。また密告者の新たな動きもなく、比較的平和な日々を送っていた。
「決めたぞ」
いつものように、慎伍のところへ机を付けて昼飯を食べていると、珍しく購買のパンをほおばりながら泰三が真剣な表情で言った。
「何を?」
言いながら、生姜焼きを前に、どうしても箸をつける気にならないでいた。というのも今日の料理担当が上の兄貴だからである。どこをどう調理したらここまでマズく作れるのだろう。ある種の才能を感じる。
ただ、彼は本当に尊敬すべきいい兄貴なのである。であるからして、自分の作った物を無理強いするようなマネはしたことがない。ひと口食べて、少しでも嫌な顔をしようものなら、それはそれは申し訳なさそうに料理を引っ込めようとする。その顔の悲しそうなことと言ったら……。とても見ていられない。結局、美味しそうな顔を繕って、その料理を食べなくてはならない。しかし、人には限界というものがある。
何を料理ごときで大げさな、食べればいいではないか、と思われる方はぜひひと口食べてみるがよかろう。即座に自分がどれだけ残酷なことを強いていたか思い知るであろう。
しかし、いつまでもこのままと言うわけにはいかず、覚悟を決め、生姜焼きでご飯を包んで一気に口に放り込んだ。たちまち猛烈な匂いが口の中に広がる。これを飲み込むためにはどれほどの胆力を必要とすることか。おお、神よ! なぜに貴方はかようにまで特殊な味覚を彼に与えたもうたのか?
僕が家族が抱えるゆゆしき問題について密かに悩んでいると泰三は、
「俺は壁を越える」
と言った。
「ウッ、ウソ」
思わずむせそうになる。いくらマズいからと言って、吐き出していい道理はない。豚肉には罪はないのだ。
第一こんな重要な話を、まるでピクニックにでも出かけるような気軽さで言うなんて非常識である。少なくともパンをかじりながら言う話ではない。人里離れた暗い湿っぽい小屋にこっそり集まり、見張りを立てながら蝋燭を囲んでする話である。
単語帳をめくっていた三起也も手を止め、泰三を見ている。泰三がそれに気づくと、
「バカじゃないの」
とだけ言って再び単語帳をめくり始めた。
「自分が何を言ってるのかわかってるのか?」
慎伍が言った。それほど泰三の言っていることは常軌を逸している。
結婚できるのが十八歳というのは、他市の男性と一緒である。高校を卒業すれば結婚できるというのに、高校二年生になって壁を越えるというのはあまりにもバカげている。
「大丈夫か? 違法に壁を越えた者は、子子孫孫に至るまで累が及ぶというぞ」
僕が言ったことには何の根拠もない。でも、そのような噂が流れていたのは事実である。
「そんなに我慢できないの?」
新次郎が言った。
「とにかくやめておけ。この時期に壁越えなんてどうかしてるぞ」
慎伍が念を押す。
「俺に言わせるとお前らこそどうかしてる。『まい』を見ておいて、一年半も我慢できるのか? 俺には無理だ。それにこれ以上『まい』に寂しい想いをさせられない」
と泰三は言うが、『まい』って一体誰だ? 泰三はバスに乗り込んできた女子高生を勝手にそう呼んでいるが、どこの誰かもわからない。それに運よく壁を越えられたとしても、あの子に会える確率はゼロに近いし、第一あの子は泰三のことを覚えてもいまい。それどころか、すでに親密な相手がいて、口にするのもためらわれる淫靡な日々を送っている可能性も否定できない。
何と言うひとりよがり。ひとり上手にもほどがある。でも泰三は真剣そのものである。
確かに男子たるもの好きな女子のため命をかけるということはありうることだが、それはほとんどは両想いの場合であって、泰三の場合、どう考えてもストーカーである。
「とにかく、俺はどうなってもいい。壁を越えてあの子に会えればな」
妙に格好をつけて泰三が言った。
「失敬、僕の前であの娘のことを二度と話さないでくれますか?」
背後から声をかけてきたのは前野である。二度と、をやたらと強調して言った。変に迫力がある。
「何せ、君のせいであの娘を見られなかったんですから」
いつになく強気である。と言うより、半ばやけっぱちなのだろう。泰三は大人しくそれを聞いている。もともと変わった振る舞いが多かった前野だったが、旅行後はそれに危うさが加わった。
「……あの子に会うなんて絶対許さない」
前野は言いたいことだけ言うと、なぜかニヤッと笑い、サッサと教室を出て行った。奴も段々平野めいてきた。
前野のメガネが壊れたのは、泰三も無関係ではないだろうが、あれは不幸な事故である。
「前野の気持ちはよくわかる。だがあれは不幸な事故だ」
「いや、それは違うぞ」
僕が珍しく泰三をかばったというのに、それに異を唱えたのは、誰あろう、泰三である。「あれを見逃すなんて、修学旅行に来た意味がない。事故だなんて言われてお前は納得できるのか?」
なぜか責められた。加勢に入った味方に背中からバッサリ切りつけられた気分である。
「でも、泰三。気をつけた方がいいぞ。ありゃ、相当恨んでる」
慎伍が言った。
「ああ。あんときゃ俺もイライラしてたからな。つい前野に怒鳴っちまった。まあ、怒る気持ちはよくわかるよ」
泰三は一人納得している。僕はまったく納得できない。
「とにかくやめておけ、泰三」
「いや、散々考えたんだ。俺は行くぜ。決行は今度の日曜日の正午だ」
慎伍の制止など聞かず、泰三は三起也の顔の目の前に自分の顔を寄せた。
「バカじゃないの」
三起也が繰り返した。いつになく険がある。そしてサッサと教室を出ていった。
「ケッ、バカバカ言いやがって」
忌々しげに泰三はその後ろ姿を眺めている。
「お前、本気かよ」
慎伍が言うと
「もちろんだ」
と親指を立てた。




