力也と等兄ちゃん
修学旅行から一週間、D組の周りは何となくざわざわしていた。誰かがバスでの出来事を話している。気が付くと泰三は頭から滝のような汗を流している。泰三が話していたのだ。泰三に当局の恐ろしさを伝えるべく、慎伍が話した話とは。
修学旅行から一週間、D組の周りは何となくざわざわしていた。休み時間になると、ほかのクラスの連中が用もないのに教室を覗いていくのだ。しかし、教室に入って来るわけでもなく、遠くから覗いているだけなのだ。まるでアイドルでも見にくるような感じなのである。
「何だ? この人混みは」
「さあ、なんだろうね。うちのクラスに誰か有名人でもいたっけ」
「うっとしいな。人の迷惑も考えろっちゅうの」
慎伍も新次郎も泰三も何でこんなことが起こってるのか、まったくわからないようだ。
高額な宝くじを当てた人は知り合いが突然増えるという話は聞いたことがあるが、このころの僕らがまさにそんな感じだった。普段口を利いたこともない連中がやたらと話しかけてくる。街中を歩いていても、知らない学生が声をかけてくる。そして休み時間になると見学者が列をなす始末である。
「これ、誰か漏らしてないか」
慎伍が振り向いて声をかけてきた。
「まさか。自分の首をしめるだけだ」
「昨日なんか、小学生がサインを求めてきたぞ」
「ウソだろ」
僕にならともかく、失礼ながら慎伍にサインを求めてくるとは考えづらい。慎伍の言うとおり誰かが漏らしたのだろうか。
「だが、あのバスで……」
「シッ!」
突然、慎伍が言った。
「どうした? 驚くではないか」
僕が言うと慎伍は僕の後ろの席に向かって
「B組のお前が何の用だ?」
と言った。
「……」
無言のまま、僕の後ろの席から立ち上がったのは、平野である。前野の席に座っている。気がつかなかった。前野になりすましてじっと耳を傾けていたのだ。前野がいないのをいいことにしれっと座ったのだろう。平野がずっと僕たちの話を聞いていたかと思うと身震いがする。油断も隙もない。
僕らだって、修学旅行が期待外れに終わり、ほかのクラスの連中が女子高生を見たと知ったら、根掘り葉掘り話を聞きたくなるだろう。だからといって、懇切丁寧に話をしてやるわけにはいかないのだ。
事件が起こったのは、それからすぐのことだった。一時間目が授業が終わった休憩時間、やたら顔色の悪い塚チンが慎伍を呼びにきた。それ以来、午後になっても慎伍は戻ってこない。戻ってきたのは午後も四時を過ぎた時分である。
「どうした? 随分遅かったな」
気になって声をかけた。すると慎伍は目顔で僕を廊下に誘った。
「マズいことになった」
太い眉根を寄せて、声を潜めた。ただ事じゃないことは明らかだ。慎伍が続けた。
「バスでのことを塚チンに密告した生徒がいる」
「ウソだろ」
マズいなんてものじゃない。下手をすると当局に連行されるかもしれない。
「誰が密告したんだ」
「誰かは教えてくれなかった。でも、マズいことは確かだ。塚チンも焦ってる」
「なんで塚チンが焦るんだ?」
「あれがバレたら、塚チンだってただじゃ済まない。監督責任というやつだ」
「ただじゃ済まないって、どうなるんだ」
「わからない。いい噂は聞かないがな」
未だ当局がどんな組織かはわからないが、これまで聞いた話を総合すると厳重注意で済ませるほど、温情に満ちた組織とは思えない。
「……とにかく、少し様子を見よう。みんなには内緒にしておいてくれ。余計な心配をかけたくない。お前も心配するな」
この男の問題解決能力は並大抵ではない。それはよくわかっている。しかし、相手は当局である。心配するなと言っても無理というものだ。
昼休みになると相変わらず、大勢の生徒たちが廊下にあふれていた。いつものように慎伍の周りに集まって話をしていると、慎伍が急に口に指をあてて、しゃべるな、と合図をしてきた。すると、教室の外からかすかにささやき声が聞こえた。
「……最終日……パーキング……」
「……女子高生……だって」
断片的に聞こえてくる単語はどう考えても最終日に僕らのバスに乗り込んできた女子高生のことを言っている。
「聞いたか」
声を潜めて慎伍が言った。
「どういうこと? 何で知ってるの?」と新次郎。
「誰か漏らしてるとしか思えん」と僕。
「当局行きだぞ」と慎伍。
この情報はD組しか知らないはずだし、人に漏らして許される情報ではないのだ。
「青のブレザーか、いいな」
今度ははっきりと聞こえた。
「絶対話してるよ。やれやれ、困ったねぇ」
新次郎が言った。性格もあるだろうが、どこか人ごとのように聞こえる。
新次郎は頬杖をついて、チラと泰三を見て
「ねえ、なんでさっきからひと言もしゃべらないのさ」
と言った。そう言えばさっきからひと言もしゃべっていない。
「案外、泰三がしゃべってたりしてね」
からかうように新次郎が続けた。
「いくら泰三が阿呆でも、そこまで阿呆じゃないぞ、なぁ泰三」
僕が言っても泰三は固まったままだ。十二月になろうというのに、頭から滝のような汗をかいている。
「お前、まさか」
信じられないといった表情の慎伍に泰三は
「どうしても我慢ができなかったんだ。わかったような口を利いている連中に、女ってもんはお前らの想像をはるかに超える存在なんだって。ついつい伝えたくなっちゃって」
観念したように言った。
「伝えたくなったじゃない。何をしたか、わかってるのか。当局に連行されるんだぞ」
「ケッ、当局、当局。当局がなんだってんだ」
泰三は嫌悪感をあらわに言った。
「仕方ない。お前に話すのは初めてだが、等兄ちゃんの話をしてやろう。当局の恐ろしさを知るには一番いい」
慎伍が当局の恐ろしさを語るとき、いつも出す話が等兄ちゃんの話である。
「等兄ちゃんって、何を話すつもりだ」
ただならぬ雰囲気にのまれ、泰三は生唾を飲み込んだ。
泰三の目を見つめ慎伍は話し始めた。
「これはほんの数年前に起こった実際にあった話だ。と言っても、俺も聞いた話だが……」
「僕らはいいよね」
新次郎が言ってくれた。怖いわけではないが、あの話を聞くのはいい気持ちはしない。
慎伍は話をやめることなく、目で了承の意を伝えた。あの話を一人で聞くのは大変なストレスである。購買で泰三の好きな焼きそばパンでも買ってきてやろう。
慎伍の話とは次のようなものである。
等兄ちゃんと力也は兄弟のように仲が良かったと言う。歳は力也より三つ年上で、近所に住んでいた。サッカー少年だった力也は、当時、高校のサッカー部のキャプテンだった等兄ちゃんによく相手をしてもらっていた。
中学校二年生の夏休みのこと。いつものように地元のクラブチームの練習帰りに兄ちゃんのうちに寄った。
その日、兄ちゃんはサッカーの話よりも、女の人について熱心に語った。この街では女の人の話をしてはいけないと教わっていた力也は恐くなって、そのことを父親に話した。
数日後、そんなことはすっかり忘れて等兄ちゃんのうちに出かけた。いつも優しいおじさんが玄関に出た。等兄ちゃんを呼んでもらおうとすると、誰だ、等ってと言われた。ふざけてるのかなと思ったが、親父さんの表情はふざけてるようには見えなかった。家に帰ってその話を父親に話すと父親も等兄ちゃんって誰だ、と言う。頭が変になりそうだった。
それ以来、等兄ちゃんを知っているはずの人に手当たり次第聞いてみた。近くの床屋のおじさんから、コンビニのおじさんやクラブチームのコーチに至るまで。しかし、皆そんな人知らないの一点張りである。
力也はこれ以上は無駄だと悟り、密かに等兄ちゃんが存在していた証拠を探し始めた。
翌日、それはあっけないほど簡単に見つかった。等兄ちゃんのうちの自転車置き場に、等兄ちゃんの自転車があったのだ。しかも、前輪の泥除け部分に等兄ちゃんの名前のシールが貼ってあった。等兄ちゃんは間違いなく存在していたのだ。
結局、等兄ちゃんは存在自体を消されたのだ。でもどうすることもできない。等兄ちゃんと関わってはいけないのだ。
力也はそれ以来、等兄ちゃんのことは一度も見ていないという。もしかしたら、自分が父親に話したことで連行されたのかもしれないと深く傷ついたらしい。
購買から戻ってくると、ひとしきり話し終わったところだった。ゲンナリしてると思いきや、泰三はひどく真剣な顔をしている。
「お疲れ。これでも食べて元気出せ」
僕が差し出した焼きそばパンを見るでもなく、泰三は神妙な面持ちで言った。
「慎伍、今の話間違ってるぜ」
「えっ? お前この話知ってたのか」
慎伍が言うと泰三は窓に視線を送って、
「等兄ちゃんじゃなく、太兄ちゃんだ」
と言った。さらに小さな声で続けた。
「それに、力也じゃなく、三起也だよ」
思わぬ真実の告白に僕らは言葉を失った。泰三は訥々と続けた。
「それからだよ。三起也があんなになったのは。サッカーもやめちまうし。アイツはあの事件のせいで女を好きになれないのかもしれない。三起也は何も悪くねえ。俺は絶対当局を恐れたりしねえ」
そして、焼きそばパンを受け取ると、らしからぬ小さな口でボソボソと食べ始めた。
「……そうか、これは三起也の話だったのか」
慎伍は窓にもたれて単語帳を広げている三起也を見た。
その後、泰三は二度と女子高生の話を漏らすこともなくなった。




