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憧れの水清寺

結局、宿でも女子高生は見られなかった。

しかし、明日は憧れの水清寺である。慎伍が調べたところによると、水清寺はほかになく、あの有名な水清寺ということであった。これまで藻田市の修学旅行で水清寺に拝観に行ったことはない。期待は高まる一方である。

しかし、教師陣はその一歩上を行っていた。世間一般に流布する常識など、教師陣には通用しないのだ。

 夕食はお通夜のようだった。折角のすき焼きにも生徒たちの箸は伸びない。普段と変わりないのは、三起也と平野たちだけである。三起也が変わりないのはいつも通りだが、平野たち落ち武者軍団も、もくもくとすき焼きをつついている。会話ひとつするわけでもなく、豪華な食事を喜ぶでもなく、ただ機械的に食事を口に運んでは咀嚼をし、飲み込む、その作業を延々と繰り返している。

「なんだ、アイツらは? ちっとは悪いとか思わないのかね」

 泰三が忌々しげに言った。

「まあ、平野たちだからな」

 慎伍が鼻で笑った。

「でも、なんでうちの学年は似たような輩が同じクラスになってるんだ」

 僕は常日頃疑問に感じていたことを口にした。A組は巨漢が多く、B組は老け顔が多く、C組は一見ヤンキー連中が多いのである。その他あぶれた連中がD組という印象である。

「うちの教師が楽しんでるとしか思えん」

 慎伍はA組のさらに向こう側で食事をしている塚チンたちに視線を走らせた。

 当の教師陣はさも楽しそうに昼間の出来事を話している。特に塚チンは人一倍大きな声でしゃべって、大口を開けて笑っている。そして、立ちあがって相撲をとる振りをしたり、電話をかける真似をした。我々の目的をどのように潰したのか、自慢しているようだ。

「あれが塚チンたち教師陣の本性だ。奴らは我らをいたぶって楽しんでいるのだ」

 いつになく挑発的に慎伍が言った。結局、一日目、あれだけ練りに練った計画はすべて失敗に終わった。

「なんだよ、さおりんのあの強さは。人間じゃないだろ。あのパワー、家庭科に必要か?」

 泰三はあきれ顔である。

「いつもさおりんにご馳走してるかと思うと釈然としないな」

 慎伍の言葉に泰三は「どういう意味だ?」と首を傾げた。

「この前だって、やったじゃないか、我が家の自慢料理。あれ給料日前になると必ずやってるぞ。この間なんかタッパを持ってきてた」

 慎伍が言った。ちっとも気づかなかった。そう言えば、あの日もあちこちの班を巡っては食べまくっていた。

「マジかよ、じゃあ槌田たちが投げられたのは、俺らの料理がパワーの源になってるのかよ。バカが投げられるのは大歓迎だが、それで女の子が見られねんじゃな。納得できねぇ」

 泰三は大げさに体を横にしたかと思うと、すぐに身を起こして、

「でも、明日は天下の水清寺だからな」

 と言った。

 水清寺。なんという魅惑的な響き。そこは我々の夢であり、希望であり、未来である。

「そうだ。いつまでも過ぎたことを悔やんでみても何もならない。今日のことは忘れて明日にかけよう。なにせ茂田市の修学旅行で水清寺に行くのは初めてだ」

 慎伍の言うとおりである。この旅行の主たる目的、それはなんと言っても二日目の水清寺である。水清寺であれば、人がいないなんてことはありえない。

「明日こそは見られるな。いろいろあったな、今までな」

 タクアンを食べながら泰三が言った。

「おそらくな。旅のしおりのどこかに落とし穴があるかと思って隅から隅まで見たが、そんなものはなかった。一応、ネットでも調べてみたが、同じ名前の寺はほかにはなかった。間違いない。あの水清寺だ」

 さすがは慎伍。この僕が軍師と認めた男だけのことはある。事前チェックは抜かりない。

「問題ないと思うが、ただ鹿苑寺の例もあるしな」

 僕が言うと

「ああ。塚チンのことだ。何か企んでるのは間違いない。大丈夫だとは思うが、警戒するに越したことはない」

 とあくまで慎重姿勢は崩さない。

「大丈夫、大丈夫だって。今日こそは間違いないよ。なにせ、天下の水清寺だぜ」

 泰三が言った。普通に考えれば、まったく問題はないのである。水清寺を見学して女性を見るな、という方がずっと難しいに違いない。一抹の不安は底意地の悪い、狭量極まりない教師陣の存在である。しかし、どんなに塚チンが知恵を絞ろうとも水清寺から女性を消すことは不可能である。

 ふと、平野を思った。奴も今頃、『出会ったばかりの女の子と恋に落ちる方法100』を参考に、水清寺対策を練っているのだろうか? 牛肉をもたらもたらと咀嚼しながら……。

***********

 ……翌日、水清寺は予想通りの混雑であった。私は世界に名だたる歴史的建造物を静かな中で落ち着いて見学できないことを心から残念に思っていた。なるべく人混みをさけ、足の向くままに散策しながら、表の都に連綿と続く悠久の歴史に思いをはせていた。

 境内を渡る秋の風が頬をなでる。私はこの秋の風が好きだ。日々の喧騒も屈託もすべて洗い流してくれるような気がした。

 目に染みるような紅葉に覆われた小径を本堂に向かって歩いていると、赤い帽子が風に流されてきた。私は反射的に帽子を掴むと、帽子を汗だくになって追いかけていたサングラス、角刈りの男に、これですか、と帽子を見せた。

 男は下品な笑みを浮かべると、私の手からひったくるように帽子を奪いとった。

「吉田、それはあまりに失礼ですよ」

 若い美しい女性だった。艶やかな着物に身を包んだ女性は、見るも優雅な立ち居振る舞いで、つつと私の元へ歩いてきた。

「大変失礼いたしました。育ちのいやしさからか礼儀を弁えない男で、ほとほと困っております」

 女性は男を大きな瞳で見つめ、ほほを小さく膨らませてみせた。男は筋肉質の体をギュッとさせて恐縮しているが、鼻の下をだらしなく伸ばして不気味な笑みを浮かべている。

「なに、謝るには及びません。どうか、その者を叱らないでやってください」

 鷹揚に言うと、女性は小さくうなづいた。そしてなぜかほほを仄かに染めて、

「……あの、よろしければ、お礼をさせていただきたいのですが……」

 と言った。

 貴重な時間を割かれるのを恐れた私は、

「いえ、それには及びません。では、失礼致します」

 と言って、そうそうにその場を立ち去ろうとした。すると彼女は、

「……ぜひ」

 と言って私の袖をそっと掴んだ。その刹那、私は彼女の瞳の奥に熱い想いを見てとった。困惑して立ちすくんでいると

「お姉さま」

 彼女の背後から見るも華やかな着物を着た少女が声をかけてきた。

「この帽子は私のよ、お礼なら私が……」

 と言って、少女は反対側の袖を掴んだ。ちょっと怒った表情が驚くほど美しい。

「貴方はまだ子供じゃないの。こういうことは大人に任せておくものよ」

「ずるいわ、お姉さまばかり。しかもこんな素敵な方と……」

 やれやれ、わざわざ人混みを避けていたというのに……。なぜそっとしておいてくれないのだろう。しかし、もうこうなっては仕方がない。二人とも私をあきらめてはくれないだろう。

「では少しだけなら」

 私の言葉に二人はぱっと顔を輝かせ、ためらいがちに白い手で私の手を握った。

 今日は少し時間がかかるやもしれぬ。水清寺はまた日を改めて来るしかなさそうだ……。

**********

……「ニヤケてる場合じゃない。いい加減起きろ」

 慎伍の声だ。何が起こったのかさっぱりわからない。よく見れば宿の寝室である。時計を見る。まだ夜中の十二時だ。

「どうしたんだ? こんな時間に起こしたりして」

「どうしたもこうしたもない。これから水清寺だ」

 寝ぼけてるのか、事態をうまく把握できない。目を覚ますため、ほほをバチンと叩いた。

「どういうことだ」

「俺もわからんが、これから水清寺に行くらしい。さっき塚チンが起こしにきた」

「え、こんな時間にか」

「こんな時間にだ!」

 ようやく事態を把握できた。最悪である。慎伍の顔が怒っている。

 わけもわからないまま、支度をさせられ宿を出たのが午前零時五分。バスに揺られること約二時間、寺に着いたのは深夜二時である。

 お寺の特別なご配慮によって、わざわざこの時間に開けていただいた。感謝するように、とのことだが、こちらはそんなこと頼んじゃいない。天下の水清寺とは言え、深夜二時では人がいるわきゃない。

 というわけで我々は暗闇の水清寺に放り出された。厚く覆った雲のせいで、月明かりさえ差していない。明かりが灯されるでもなく、足元もおぼつかない中、我々D組は先頭を切って境内を歩いた。目指すは塚チンの持っている提灯ひとつのみである。

 何でも飯塚家に代々伝わっている伝統ある提灯で、大きく江戸と書かれている。この表都でなぜ江戸なのか? 情緒も何もあったものじゃない。

「見ろ、これが三重塔だ」

 塚チンが言った。見ろと言ったって見えやしない。本人は懸命に提灯を塔に近づけているが、そんなチンケな明かりで三重塔が見えるわけがない。

「……見えるか?」

 慎伍が言った。

「……まったく」

 僕が答えた。

 そもそもこの暗闇の中で観覧することにどんな意味があるのか? 意味があると言うのなら、百字以内で述べてみるがいい。

 それからも、塚チンの提灯を頼りに、坂あり、階段ありと起伏の激しいコースを我々は歩いた。経堂を通り、本堂を通り、阿弥陀堂を通った。その度に、塚チンは自慢の提灯を掲げ、歴史的建造物を照らした。懸命に目を凝らしてみるが、うっすらと外形が見えるのみである。

「なんだよ、これ?」

 泰三が言った。

「なんで俺らこんな真っ暗な中で寺を見学しなくちゃならないんだ?」

 尤もである。前日に塚チンが言っていた普段は絶対に見られないものとはこのことだろう。確かに絶対に見られないはずである。それはそんなことをする意味がまったくないからである。断じてこれは貴重な経験ではない。深夜の二時に大勢の男子高校生が暗闇の中、目を凝らして仏閣を眺めている。まるで変態の所業である。

 でも、そんなことはこの際どうでもいい。問題は水清寺でも女子を見ることはできなかったという事実である。水清寺でダメということは、修学旅行で見ることはできないということとほぼ等しい。つまりは結婚するまで女性を見ることはできないということだ。精神的ダメージの方がはるかに大きい。

「これで終わりかよ」

 泰三が言った。

「こんなのあるかよ」

 再び言った。

「これが修学旅行かよ」

 三度言った。

「……あきらめるな」

 慎伍が返事を返した。

「あきらめるなって、どこをどうすればそんなことが言えんだよ」

 泰三が声を荒げる。

「まだ俺達は表都にいる。市外にいる限り、必ずチャンスはある」

 泰三は何も答えなかった。

 一体、我々が何をしたというのか? 神は幾度我々に試練を与えたもうのか? なぜ、貴方はかような迷える子羊にかかる仕打ちをなさるのか。願わくば優しさの欠片もない教師陣に七難八苦を与え給え。

 わが国が世界に誇る水清寺である。普段であれば観光客でごった返しているに決まってる。世界各国から来ている可能性も否定できない。そのため、日本人のみならず、外国人にも調査範囲を広げるべく、密かに英会話の練習までしていたというのに。あわよくば、「女性の実態 第二十五巻 諸外国における性事情編」を密かに執筆しようと思っていたのに。なんのことはない、水清寺の名物『胎内めぐり』を寺全体で行っただけである。

 終わった。誰も口にしないが、皆そう思っている。あの希望に満ちた出発の朝からまだ二十四時間も経っていないのに。

 慎伍の家での熱い夜も、繰り返し行った作戦会議も、組長会議もすべて無駄になった。結局何も起こらなかった。教師の度を超えた狭量さと常識外れの権謀術数の前に我々は完全なる敗北を喫したのである。

 底なし沼のように気持ちが沈んでいく。歩を進めるごとに、ぼんやりとした失望がはっきりした絶望へと変わっていった。

 ふと、後ろから大声が聞こえた。槌田の声だ。おおかた、この仕打ちに対して文句を言っているのだろう。文句を言ったところで午前二時半、言わなくても午前二時半である。気持ちはわかるが、もはや手の施しようがない。

「髭男爵が怒ってやがる。ざまあねえな」

 泰三が言った。でも返事を返す者はいない。泰三もすごい形相で地面をにらんでいる。不思議なもので、ほぼ視界のきかない中でも、こういうことははっきりとわかるのである。

 その後、新次郎は途中階段でこけ、膝を擦りむいて半べそをかいていた。


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