魔丸
佐藤圭介は、工場の製造課長だった。
仕事には厳しい。決められた手順を守ること、確認を怠らないこと、報告を後回しにしないこと。どれも当たり前のことだと思っている。
だから、同じ注意を何度も繰り返すのが嫌いだった。
「前にも言ったよな」
部下にそう言うことが多い。怒鳴るわけではないが、声が少し低くなり、言葉も短くなる。周囲もそれを知っていた。
昼休み、食堂で一人で弁当を食べることも珍しくない。誰かに誘われれば一緒に食べるが、自分から輪に入っていくことはなかった。
家でも似たようなものだった。
妻からは、よく言われる。
「会社でも家でも、そんなにきっちりしていたら疲れるでしょう」
「別に、普通だろ」
「その普通が厳しいのよ」
妻はそう言って笑う。圭介は返事をしない。
使ったものが元の場所に戻っていないと気になるし、テーブルの上が散らかっていると、つい片づけてしまう。自分でも、少し面倒な性格だとは思っていた。
そんな圭介には、もう一つ楽しみがあった。
植物を育てることだ。
休日になると園芸店を回る。特に好きなのは、アガベや塊根植物だった。形の整った株を眺めていると、仕事のことを忘れられる。
ある土曜日、圭介は千葉県市原市の郊外にある園芸店「根の庭」を訪れた。
ハウスがいくつも並び、入口から奥まで、さまざまな植物が置かれている。店主の緑川雄三は、七十を少し過ぎた男だった。植物の話になると饒舌だが、客に無理に買わせようとはしない。
圭介はアガベの並ぶ棚の前で足を止めた。
そこにあったのが、アガベ・チタノタの「魔丸」だった。
株は低く、全体が丸くまとまっている。短く肉厚な葉が中心に向かってぎゅっと重なり、上から見ると小さな球体のようだった。
目を引くのは、葉の縁に並ぶ鋸歯だった。太く、大きく、少し不規則に波打ちながら伸びている。葉の丸みとは対照的に、鋸歯は荒々しい。かわいらしさと獰猛さが同居しているようだった。
「それ、魔丸だね」
背後から緑川の声がした。
「ずいぶん、いかつい名前ですね」
「見た目もなかなかだろう。短くて厚い葉に、大きな歯。丸く詰まった姿がいいんだよ」
圭介はしゃがみ込み、横からも眺めた。
「これ以上、大きくなるんですか」
「もちろん。ゆっくりだけどね。置く場所や育て方でも姿は変わる。光が足りないと葉が間延びすることもあるし、締まった形に育てるなら日当たりと風通しが大事だね」
「水は?」
「土が乾いてから。水をやりすぎないこと。寒い時期は成長も鈍るから、様子を見ながら控えめにね」
緑川は株を手に取らず、棚に置いたまま話した。
「この株、二万八千円。どうする?」
圭介は値札を見た。安くはない。
それでも、何度か棚の周りを回り、最後には購入を決めた。
「これにします」
「いいねえ。気に入ったかい」
「形がいいですね」
「そうだろう。魔丸は、そこが面白いんだよ」
緑川は新聞紙で鉢を包みながら、少し笑った。
「きれいに育てようと思いすぎないことだね」
「もちろん、きれいに育てますよ」
圭介はそう答えた。
家に帰ると、魔丸を窓際の棚に置いた。光の当たり方を確かめ、少し位置をずらす。鉢の向きも調整した。
妻がそれを見て言った。
「また買ったの?」
「魔丸。アガベのチタノタ」
「名前からして強そうね」
「葉の形がいいんだよ」
「あなたに似てるんじゃない?」
「どういう意味だよ」
妻は笑って、台所に戻った。
圭介は魔丸を見下ろした。丸くまとまった姿の中に、大きな鋸歯が並んでいる。見ていると飽きなかった。
翌週、工場でのことだった。
圭介は製造ラインの脇で、田中が検査記録を確認しているのを見つけた。
田中は入社三年目。仕事を覚えようという気持ちはあるが、まだ抜けが多い。特に記録の確認では、何度か同じ指摘を受けていた。
圭介が記録表をのぞき込むと、確認者の欄が空白になっていた。
「田中」
呼ばれた田中が、手を止めた。
「これ、確認者の欄が空いてるぞ」
「あ、すみません。あとで記入します」
「あとでって、いつだよ。記録はその場でつけるように言ったよな」
声が少し大きくなった。近くにいた作業員が、ちらりとこちらを見る。
田中は記録表を見たまま、「はい」と答えた。
圭介は続けて言おうとした。
前にも言った。何度同じことを言わせるんだ。
そこまで言葉が出かかったところで、田中の手元に目が留まった。記録表の端には、確認した項目に小さな印がつけられている。何かを見落とさないように、自分なりに工夫しているらしい。
「……お前、いつもどういう順番で確認してる?」
田中が顔を上げた。
「え?」
「記録をつけるとき。どこから見てるんだよ」
「先に検査結果を確認して、それから記録をつけています」
「確認者は?」
「最後にまとめて書いています」
圭介は腕を組んだ。
「それだと、忘れるだろ」
田中は少し考えてから答えた。
「そうですね。検査結果を確認していると、そっちに集中してしまって。確認者の欄は最後に書こうと思っているんですが……」
「だったら、確認した時点で書けばいいだろ」
言いかけて、圭介は口を閉じた。
それは、先ほど自分が言ったことと同じだった。
「……いや。確認する順番を変えた方がいいかもしれないな」
田中が、意外そうな顔をした。
「検査結果を記入したら、その場で確認者の欄も埋める。最後に記録表全体を見直す。そうすれば、記入漏れも減るんじゃないか」
「はい。やってみます」
「やってみますじゃなくて、どうするか決めろ」
また、いつもの言い方になった。
田中は少し表情を硬くした。
圭介は息を吐いた。
「……明日から、その順番でやってみろ。記録表も一度、自分で見直してみてくれ」
「わかりました」
田中は記録表を持って、ラインへ戻っていった。
圭介はその背中を見ながら、何となく落ち着かない気分になった。
今の言い方でよかったのか。
そんなことを考える自分が、少し面倒くさかった。
翌日、田中が記録表を持ってきた。
「佐藤さん、昨日のやり方でやってみました」
「どうだった」
「確認者の記入漏れはなくなりました。ただ、最後の見直しに少し時間がかかって……」
「どれくらいだ」
「五分くらいです」
圭介は記録表を受け取った。確認者の欄はすべて埋まっている。検査結果にも抜けはなかった。
「五分なら、別にいいだろ」
「はい」
「慣れれば、もう少し早くなるかもしれないしな」
田中は記録表を見つめたまま、小さく頷いた。
圭介は返そうとして、ふと手を止めた。
「……ちゃんとできてるな」
田中が顔を上げる。
「え?」
「昨日のやり方で、問題なさそうだ。続けてみろ」
「はい。ありがとうございます」
田中は少しだけ笑った。
その笑顔が、圭介には妙に気恥ずかしかった。
「礼を言うほどのことじゃない。仕事だからな」
そう言って、圭介は記録表を返した。
その日の夜、妻が食卓で言った。
「最近、会社の話をあまりしなくなったね」
「そうか?」
「前は、田中さんのことでよく愚痴を言っていたでしょう」
「そんなこと言ったかな」
「言ってたわよ。何度言っても覚えないって」
圭介は箸を動かしながら、少し考えた。
「まあ、まだ覚えることはあるけどな」
「ふうん」
妻はそれ以上聞かなかった。
食事を終えた圭介は、窓際の棚に向かった。
魔丸の葉の中心に、小さな新しい葉が見えていた。
まだ短く、色も少し明るい。外側の葉のように厚くなるには、時間がかかりそうだった。
圭介はスマートフォンを取り出し、上から写真を撮った。
翌週、根の庭を訪れたとき、その写真を緑川に見せた。
「新しい葉が出てきました」
「おお、いいねえ。ちゃんと育ってるね」
「まだ小さいですけど」
「これからだよ。ゆっくり大きくなるから」
緑川は棚の別の魔丸を眺めた。そちらは圭介の株ほど丸く詰まっておらず、葉の開き方も少し違っていた。
「同じ魔丸でも、ずいぶん違いますね」
「育った環境も違うしね。こっちはこっちで、いい形だよ」
圭介はもう一度、自分のスマートフォンの写真を見た。
「まだまだだな」
「まあ、焦らずに」
緑川はそう言って、別の鉢の葉をそっと確かめた。
店を出ると、秋の風が吹いていた。
圭介は車に乗る前に、もう一度、魔丸の写真を見た。
職場では、田中が新しい記録のつけ方を続けていた。相変わらず、気になるところはある。注意することもある。
ただ、圭介は以前より少しだけ、言葉を出す前に相手の手元を見るようになっていた。
それがいつまで続くかは、自分でもわからない。
圭介はスマートフォンをしまい、車のドアを閉めた。




