ホリダ綴化
片桐直子は、間違いを見つけるのが得意だった。
数字の一桁違い。日付の転記ミス。書類の端に残った古い記載。誰かが見落とした小さな不備を、直子はたいてい見つけた。
印刷会社の経理に勤めて二十七年。会社の帳簿を守ってきたという自負がある。若い社員が作った資料を確認するときも、直子の目は自然と細かいところへ向かった。
「ここ、前の数字と合ってないわよ」
そう言うと、相手は決まって「すみません」と答えた。
その言葉を聞いても、直子の気持ちは晴れなかった。
最近、会社では会計システムの入れ替えが進んでいた。若い社員が中心になって新しい運用方法を考え、作業の手間は確かに減っている。
直子も、そのことは認めていた。
ただ、長年の経験から気づくこともある。新しい仕組みだけでは拾いきれない細かな問題だ。
「前のやり方にも、意味があったのよ」
そう言ったとき、若い社員は少し困ったように笑った。
「そうですね。でも、今回はこの方法で進めてみたいんです」
直子は、それ以上何も言わなかった。
言わなかっただけで、納得したわけではない。
帰宅すると、夫が夕飯の支度をしていた。
娘は数年前に家を出て、都内で暮らしていた。夫と二人の暮らしになってから、食卓に並ぶ食器が減った。
その娘が、今度は大阪の会社へ転職するという。
電話で聞いたとき、直子は思わず声を上げた。
「大阪? そんな遠くへ行くの?」
「うん。仕事も決まったし、部屋も見つけた」
「相談くらいしてくれてもよかったのに」
「もう大人だよ」
娘の言い方は、少しそっけなかった。
直子は、娘のために何かしてやりたいと思っていた。部屋のことも、仕事のことも、生活のことも。けれど、娘は自分で決めていた。
電話を切ったあと、直子はしばらくスマートフォンを握ったままだった。
寂しいのだと思った。
それを口にするのは、なぜか難しかった。
秋の休日、直子は久しぶりに「根の庭」を訪れた。
塊根植物や多肉植物が並ぶ店内は、相変わらず土の匂いがした。緑川雄三は、奥の棚で鉢を移動させていた。
「いらっしゃい。今日は何を探してる?」
「特に決めていないんです」
直子は棚をゆっくり見て回った。
そのとき、目に留まったのが、青緑色の奇妙な植物だった。
一本の柱のように伸びるのではなく、頭の部分が横に広がっている。幾重にも折り重なった稜が、波打つようにうねっていた。細かな棘が不規則に並び、全体は扇を広げたようにも見える。
「これ、何ですか?」
「ホリダの綴化だね」
緑川が近づいてきた。
「普通のホリダは、柱みたいに育って、稜が縦に並ぶんだ。これは生長点が帯状になって、横へ広がる。だから、こういう形になる」
直子は、植物の頂部を覗き込んだ。
同じ方向へ伸びるはずの稜が、途中で折れ曲がり、隣の稜と重なっている。規則的なようでいて、どこか不揃いだった。
「変わった形ですね」
「綴化は、同じ種類でも一つずつ違うよ。きれいに扇になるものもあれば、もっと複雑にうねるものもある」
緑川は、隣に置かれた普通のホリダを指した。
「こっちはこっちで、いい形だろ」
直子は二つを見比べた。
普通のホリダは、まっすぐに伸びていた。綴化の方は、どこへ向かっているのか分からない。
それでも、目が離せなかった。
「育てるのは難しいですか?」
「日当たりと風通しは大事だね。水は土が乾いてから。寒さと湿りっぱなしには気をつける。ユーフォルビアだから、傷つけると白い乳液が出るよ。触るときは注意して」
直子は頷いた。
値札には、一万八千円と書かれていた。
少し迷った。
普段なら、買う前にもう少し調べる。相場を確認し、育て方を比較し、納得してから決める。
しかし、その日は違った。
「これ、ください」
緑川は、少し笑った。
「いいのを選んだね」
直子は、その言葉が嬉しかった。
家に持ち帰り、窓際の棚に置いた。
鉢の位置を少しずつ変えながら、光の当たり方を確かめる。土の乾き具合も気になった。水をやりすぎないよう、何度も鉢を持ち上げてみる。
綴化の稜は、見る角度によって表情が違った。
正面から見ると、扇のように広がっている。横から見ると、折り重なった稜が小さな山脈のようだった。
直子はスマートフォンで写真を撮った。
会社では、相変わらず細かな間違いが気になった。
新しいシステムの運用資料を見ていると、以前なら指摘していた箇所が目につく。若い社員が作った資料は、必要な情報が簡潔にまとまっていた。
それでも、直子には気になるところがあった。
「この確認欄、誰が最終的に見るの?」
若い社員が答えた。
「課長が確認することになっています」
「確認する人が休んだら?」
「その場合は、代理の人が見るようにしています」
直子は、資料をもう一度見た。
確かに、以前よりもよくできていた。
それを認めるのは、少し悔しかった。
「……じゃあ、代理の人も明記しておいた方がいいわね」
「そうですね。追加します」
直子は、まだ何か言いたかった。
しかし、言葉は出てこなかった。
その日の帰り道、娘からメッセージが届いた。
大阪の部屋が決まったという。窓からの景色を撮った写真も添えられていた。
直子は写真を拡大した。
部屋は思っていたより小さかった。キッチンも狭い。駅からの距離も気になる。
あれこれ言いたくなった。
けれど、娘は自分で決めたのだ。
直子は、しばらく考えてから返信した。
「部屋、決まったんだね。落ち着いたら写真を見せて」
返事はすぐに来た。
「ありがとう!」
それだけだった。
直子はスマートフォンを置いた。
もっと話したかった。
新しい仕事のこと。引っ越しのこと。大阪での暮らしのこと。
聞きたいことはいくらでもあった。
けれど、娘からすれば、もう報告は済んだのだろう。
直子は、少しだけ腹立たしかった。
その気持ちが、娘を心配しているからなのか、自分が置いていかれるように感じたからなのか、よく分からなかった。
家では、夫が夕飯を作っていた。
「今日はご飯、ちょっと柔らかくなったな」
夫が茶碗を見ながら言った。
直子は、一口食べた。
確かに、少し水が多い。
いつもなら、炊くときの水加減について言っただろう。次はこうした方がいい、と。
直子は箸を動かした。
「……まあ、いいか」
夫は、聞こえたのか聞こえなかったのか、何も言わなかった。
ホリダ綴化を買ってから、何週間かが過ぎた。
直子は毎朝、鉢を眺めていた。
新しい部分が伸びたのかどうか、よく分からない。毎日見ているせいか、昨日との違いはほとんど感じられなかった。
それでも、先週撮った写真と比べると、頂部の輪郭がほんの少し広がっているように見えた。
大きな変化ではない。
直子は、写真をもう一度見た。
綴化の稜は、まっすぐには伸びていない。折れ曲がり、重なり、隣の稜に押されるようにして広がっている。
それでも、全体としては一つの形になっていた。
直子は、植物に向かって小さく笑った。
「ずいぶん、ややこしい形ね」
誰に言うでもない言葉だった。
会社では、若い社員が新しい運用方法を進めていた。
直子は、資料を確認する。
気になる箇所は、まだあった。
すべてが正しいわけではない。自分の経験が役に立つ場面もある。
それは、変わらない。
ただ、全部を自分のやり方に戻す必要もないのかもしれなかった。
直子は、指摘を一つだけ書き込んだ。
残りは、しばらく様子を見ることにした。
帰宅すると、窓際のホリダ綴化に夕方の光が当たっていた。
青緑色の稜が重なり、折り目の奥に影ができている。
直子は、鉢を少し回した。
正面から見た形と、横から見た形は違う。
どちらが正しいというわけでもない。
娘から、またメッセージが届いた。
「大阪、思ったより楽しいよ」
直子は、すぐに返信しなかった。
心配なことは、まだたくさんある。
それでも、娘が自分の暮らしを始めていることは、少しだけ嬉しかった。
直子は、スマートフォンを置いた。
ホリダ綴化の稜に、最後の光が残っていた。
折り重なった青緑の輪郭は、きれいに整っているわけではない。
けれど、直子はその形を、もう少し眺めていたかった。




