九頭龍
大野隆一は、祭りの準備が始まると、落ち着かなくなる。
町内の秋祭り。子どもの頃から参加し、四十代からは実行委員を務めてきた。太鼓の手配から神輿の巡行順、出店の場所まで、長い間、祭りのことなら何でも知っているつもりだった。
ところが、ここ数年、少しずつ様子が変わってきた。
若い人たちが中心になり、会議の進め方も、祭りのやり方も変わってきた。昔からの決まりを見直し、子どもたちが参加しやすいようにするらしい。
それ自体は悪いことではない。
頭では分かっている。
ただ、何十年も祭りを支えてきた自分に、相談もなく話が進んでいくのは、どうにも面白くなかった。
「まあ、俺も年を取ったってことか」
そう口にしてみたが、妻には聞こえていなかった。
その日、隆一は久しぶりに「根の庭」に立ち寄った。
五つある温室のうち、奥の温室に入ると、棚の上に妙な植物があった。
太い株元から、灰緑色の肉厚な枝が何本も伸びている。枝はまっすぐ上に向かうものもあれば、横へ這うように広がるものもある。先端は丸みを帯び、どこにも棘がない。
「なんだ、これは」
奥から緑川雄三が出てきた。
「九頭龍だよ」
「くずりゅう? ずいぶん大げさな名前だな」
「そうかい。見た目はなかなか立派だろう」
隆一は鉢の周りを回った。
枝が何本も分かれている。ひとつひとつは太く、表面には少し粉を吹いたような色合いがある。よく見ると、枝の先には小さな枯れた花柄が残っていた。
「サボテンか?」
「いや、ユーフォルビアの仲間。南アフリカのケープ地方の植物だよ。棘がないから、名前のイネルミスも『武装していない』って意味なんだ」
「こんな格好で、棘がないのか」
「見た目ほど物騒じゃないんだよ」
緑川は笑った。
「ただし、切ったり傷つけたりすると白い汁が出る。肌につくとかぶれることもあるから、扱うときは気をつけないとね」
隆一は、もう一度枝を眺めた。
「枝がずいぶん広がるんだな」
「株元から枝を出して、少しずつ広がっていく。成長はゆっくりだけどね。枝先には小さな花も咲くよ」
「こんなところに花が咲くのか」
「よく見ないと分からないくらい小さいけどね」
隆一は値札のない鉢を見た。
「これはいくらだ?」
「一万五千円」
「結構するな」
「気に入らなければ、買わなくていいよ」
「そう言われると、余計に気になるな」
隆一は少し考えたあと、鉢を持ち上げた。
「これにする」
緑川は、育て方を説明した。日当たりと風通しのよい場所を好み、水はけのよい土に植えること。暖かい時期は土が乾いてから水を与え、寒い時期は水を控えること。寒さと、冬の冷たい土が湿った状態を嫌うこと。
「冬は室内に入れた方がいい?」
「そうだね。寒さには強くないから、暖かいところで休ませてやるといい」
「分かった」
鉢を抱えて店を出ると、秋の風が少し冷たかった。
家に帰ると、妻が玄関まで出てきた。
「また買ったの?」
「九頭龍だ」
「何、それ」
「植物だよ」
「見れば分かるわよ」
妻は鉢をのぞき込んだ。
「タコみたいね」
「どこがだ。九頭龍だぞ」
「タコの方が分かりやすいじゃない」
隆一は返事をせず、居間の窓際に鉢を置いた。
妻はしばらく眺めていたが、すぐに台所へ戻っていった。
その夜、祭りの実行委員会があった。
会議には、若いメンバーが何人か加わっていた。中心になっているのは、岸本悠斗という三十二歳の男だった。地元の電気工事会社に勤めていて、子どもの頃から祭りに参加している。
隆一も悠斗のことは知っていた。昔、太鼓を教えたこともある。
「今年は、子どもたちの太鼓を少し増やしたいと思っています」
悠斗が資料を見せながら話した。
「今までは大人が中心でしたけど、子どもたちにも参加してもらえるようにしたいんです」
「太鼓の順番を変えるのか?」
「はい。巡行の途中に、子どもたちが叩く時間を入れようと思っています」
「それだと、全体の進行が遅れるんじゃないか」
「時間は調整しています」
「去年までのやり方で、特に問題はなかっただろう」
隆一が言うと、悠斗は少し間を置いた。
「問題があったというより、もう少し参加しやすくしたいんです」
「参加しやすくするのはいいが、祭りは遊びじゃない。時間も安全もある」
「そこは分かっています」
悠斗の声は穏やかだったが、引く気はなさそうだった。
隆一は、少し苛立った。
昔なら、若い者はまず先輩の話を聞いたものだ。自分だってそうしてきた。ところが今は、こちらが話している途中でも、自分の考えをはっきり言ってくる。
会議の最後に、悠斗が言った。
「大野さん、昔の太鼓の掛け声を教えてもらえませんか。今の子たちにも、少し伝えたいんです」
「今のやり方でやるんだろう?」
「はい。でも、昔のものも残したいんです」
「都合のいいところだけ残すんだな」
思わず口にすると、悠斗は苦笑した。
「そう言われると、耳が痛いですね」
隆一は、それ以上何も言わなかった。
帰宅してから、妻に会議のことを話した。
「若い人が中心になって、いろいろ変えようとしているんだ」
「いいんじゃないの。子どもが参加するなら」
「簡単に言うけどな。長年やってきたことには、それなりの理由があるんだ」
「あなたも昔、年寄りに同じこと言われてたんじゃない?」
「俺は、ちゃんと聞いていた」
「そうかしら」
妻は笑いながら、食器を片づけた。
隆一は言い返そうとしたが、やめた。
窓際の九頭龍に目をやる。何本もの枝が、思い思いの方向へ伸びている。どれか一本が中心になっているわけでもない。株元はひとつなのに、枝の向きはそれぞれ違っていた。
翌週、隆一は悠斗から送られてきた祭りの巡行案を見た。
写真付きの資料だった。新しいルートでは、子どもたちが太鼓を叩く場所が増えている。だが、道幅の狭い場所を通るようになっていた。
「ここは危ないな」
隆一はすぐに電話をかけた。
「悠斗、資料を見たぞ。神社の裏の道、あそこは人が集まると危ない」
「そうですか。現地をもう一度確認します」
「確認じゃなくて、変えた方がいい。あそこは昔から人が詰まるんだ」
「分かりました。大野さん、一緒に見てもらえませんか」
少し意外だった。
自分の意見を押し通すのではなく、こちらに声をかけてきた。
「いいよ。いつ行く?」
二人で現地を歩くと、確かに狭い道の先に段差があり、見物客が集まれば危険だった。悠斗はスマートフォンで写真を撮り、ルートを変更することにした。
「やっぱり、昔から見ている人の話は違いますね」
「昔から見ているだけじゃない。何度も失敗してきたんだ」
「それも含めて、教えてほしいんです」
隆一は、少しだけ気分がよくなった。
その日の帰り際、悠斗が言った。
「太鼓の掛け声の件、今度教えてください」
「覚えているかどうか分からんぞ」
「大野さんが忘れていたら、誰も覚えていないですよ」
「うまいこと言うな」
隆一は笑った。
家に帰ると、九頭龍の鉢の土が乾いていた。暖かい日が続いていたので、鉢の様子を確かめてから水を与えた。
枝の先には、以前から残っていた花柄がある。小さな花が咲いた跡らしい。枝の間には、株元から伸び始めたばかりの細い枝も見えた。
「お前も、少しずつか」
そう言って、鉢を元の位置に戻した。
祭りの練習が始まった。
隆一は、悠斗に頼まれて太鼓の掛け声を教えることになった。
集会所に行くと、小学生が五人ほど集まっていた。太鼓を叩く順番も、掛け声も、まだぎこちない。
「違う、そこはもっと間を取るんだ」
隆一は何度も声をかけた。
「もう一回!」
子どもたちは、少し疲れた顔をしていた。
「大野さん、最初はこんなものですよ」
悠斗が横から言った。
「いや、最初だからこそ、ちゃんと教えないといかん」
「分かります。でも、あんまり厳しくすると来なくなっちゃいますから」
「昔はもっと厳しかったぞ」
「僕も覚えてます。大野さん、怖かったですから」
「お前は、特に言うことを聞かなかったからな」
「そうでしたっけ」
「太鼓のばちを持ったまま、走り回っていただろう」
悠斗は笑った。
「覚えてるんですね」
「忘れるわけないだろう」
そのとき、子どもの一人が太鼓を叩き損ねた。
隆一は、思わず大きな声を出した。
「だから、そこは違うと言っているだろう!」
子どもは驚いて、手を止めた。
悠斗がすぐに声をかけた。
「大丈夫。もう一回やってみよう」
隆一は、少し気まずくなった。
昔は自分も、先輩に怒られながら覚えた。だが、今の子どもたちは違うのかもしれない。
練習が終わると、悠斗が太鼓を片づけながら言った。
「大野さん、今日はありがとうございました」
「まだまだだな」
「ええ。でも、少しずつよくなってます」
「お前は、ずいぶん気が長くなったな」
「昔、大野さんに怒られたおかげですかね」
「それは、褒めているのか?」
二人は笑った。
祭り当日。
子どもたちの太鼓は、思ったよりもうまくいった。途中で少しばらついたが、最後まで叩き切った。巡行も、変更したルートで問題なく進んだ。
隆一は、少し離れたところから様子を見ていた。
子どもたちの顔は、どこか誇らしげだった。
祭りが終わり、片づけも一段落した頃、悠斗が近づいてきた。
「大野さん、今年はありがとうございました」
「今年は、よくやったよ」
「ありがとうございます」
「ただ、あの太鼓の順番は、もう少し工夫できるな」
「そうですね。来年、また考えます」
悠斗は素直にうなずいた。
その夜、若い実行委員たちに誘われて、隆一は久しぶりに打ち上げに参加した。
若い人たちの話題は、仕事や子どものこと、車のことなど、祭りとは関係のない話も多かった。隆一には分からない話もあったが、思ったほど居心地は悪くなかった。
「大野さんって、会議でよく『俺たちの頃は』って言いますよね」
悠斗が笑いながら言った。
「悪かったな」
「いや、僕もそのうち言うんでしょうね」
「お前は、まだ早い」
「そうですかね」
隆一はビールを飲んだ。
自分も若い頃、年上の人たちのやり方に不満を持っていた。もっと自由にやりたいと思っていたし、古いやり方を変えたいとも思っていた。
それなのに、いつの間にか、自分が変えられる側になっていた。
「まあ、俺も昔は、先輩のやり方が面倒だったからな」
隆一が言うと、悠斗は少し驚いた顔をした。
「そうなんですか」
「当たり前だろう。俺だって若かったんだ」
「大野さんにも、そんな頃があったんですね」
「失礼なやつだな」
周りから笑い声が上がった。
帰宅すると、妻はもう寝ていた。
隆一は居間の明かりをつけ、窓際の九頭龍を見た。
枝の先に、小さな花がいくつか咲いていた。白っぽい花は、近づいてよく見なければ分からないほど小さい。
「咲いてたのか」
隆一はスマートフォンを取り出し、写真を撮った。
緑川に送ろうかと思ったが、時間も遅い。明日にしようと、携帯を置いた。
それから、しばらく九頭龍を眺めていた。
太い枝は、あちこちに伸びている。一本一本、向きも形も違う。それでも、同じ株元から伸びている。
隆一は、鉢の向きを少しだけ変えた。
数日後、根の庭を訪れた。
「この前の九頭龍、花が咲いたよ」
「おお、咲いたかい」
「小さいけどな。写真も撮った」
隆一がスマートフォンを見せると、緑川は画面をのぞき込んだ。
「いいねえ。ちゃんと咲いてる」
「気づいたら咲いていた。もっと早く見ておけばよかった」
「そんなもんだよ。毎日見ていると、かえって気づかないこともあるからね」
緑川は温室の奥にある自分の九頭龍に目を向けた。
こちらも枝先に小さな花をつけていた。
「こっちも咲いてるね」
「そうなんだよ。派手じゃないけどね」
緑川は少し腰をかがめて、花を眺めた。
「まあ、見てる人は見てるんだね」
そう言って、緑川はまた別の鉢に手を伸ばした。
隆一は、もう一度、自分の九頭龍の写真を見た。
小さな花は、画面の中でも目立たなかった。
それでも、ちゃんと咲いていた。




