アンボンゲンセ
根の庭の五つの温室のうち、入口から二つ目の温室には、パキポディウムが並んでいる。
丸く膨らんだ幹に棘を生やしたもの。細長い幹の先に葉を広げたもの。どれも同じ仲間とは思えないほど姿が違う。
その中に、ひときわ存在感のある株があった。
パキポディウム・アンボンゲンセ。
灰色がかった幹は、下の方が太く膨らみ、上に向かって少しずつ細くなる。そこから伸びる枝には、長く鋭い棘が並んでいる。
荒々しい姿をしているが、花は意外なほど上品だ。淡い白色で、中心には薄い黄色が差す。
ただ、この花を見るまでには、ずいぶん時間がかかる。
成長は遅く、若い株ではなかなか花を咲かせない。大きく育てるにも、年単位の時間が必要だった。
その日、根の庭を訪れたのは、四十歳の男性、藤井直人だった。
広告制作会社でカメラマンをしている。企業の商品撮影やウェブ広告、最近では動画の仕事も増えていた。
独立して七年。仕事はそれなりに順調だったが、ここ一年ほど、以前のような手応えを感じられずにいた。
新しい機材を買い、撮影の技術を磨き、SNSにも作品を載せる。反応の多い写真もあれば、ほとんど見られない写真もある。
若いカメラマンが次々と仕事を獲得していくのを見ると、焦ることもあった。
植物を育て始めたのは、仕事の合間に立ち寄った園芸店で、パキポディウムを見かけたのがきっかけだった。
不思議な形をした幹に惹かれ、気がつけば何鉢か集めていた。
根の庭には、ネットで見つけてから何度か足を運んでいる。
「こんにちは」
温室の奥で、緑川が長いホースを巻いていた。
「おや、いらっしゃい。今日はカメラは持ってないの?」
「今日は買い物です。カメラは置いてきました」
「珍しいね。いつも何か撮ってるから」
「仕事じゃないと、あんまり撮らないんですよ」
「そうなの。好きでやってるんだと思ってた」
「好きですよ。好きなんですけどね」
「なんだか歯切れが悪いね」
「そういう年頃なんです」
「四十で?」
「四十だから、です」
緑川は「そうかい」と笑った。
直人はパキポディウムの棚へ向かった。
いくつかの鉢を眺めたあと、棚の奥に置かれた株の前で足を止めた。
「これ、アンボンゲンセですよね」
「そう。よく分かったね」
「写真で見たことがあります。実物を見るのは初めてです」
緑川は鉢を少し手前に引いた。
「いい形だろう」
「いいですね。幹の太り方が独特だなあ」
直人はしゃがみ込んで、横から眺めた。
「これ、かなり大きくなるんですか?」
「自生地では一メートルを超えることもあるよ。鉢植えだと、そこまで育てるにはずいぶん時間がかかるけどね」
「これでも、まだ若いんですか」
「まだまだ。アンボンゲンセは成長が遅いからね」
直人は幹の表面に目を近づけた。
「この棘、長いですね」
「触らない方がいいよ。見た目より鋭いから」
「分かってます。前に別のパキポでやりました」
「刺さった?」
「指に。しかも、抜けなくなって。家で一人で騒いでました」
「誰か呼べばよかったのに」
「そんなことで人を呼べないでしょう」
「奥さんとか」
「いないんですよ」
「それは失礼」
「いえ、別に。棘くらい自分で抜けますから」
直人は笑いながら、指先を見た。
「写真で見るより迫力がありますね」
「花はきれいなんだけどね。白くて、中心が少し黄色い。なかなか咲かないけど」
「何年くらいで咲くんですか?」
「株の大きさや育ち方によるから、一概には言えないね。すぐに見られるものじゃないよ」
「そうですか」
直人はもう一度、株を眺めた。
「育てるのは難しいですか?」
「簡単ではないね。日当たりが好きで、暖かいところで育てる。夏の成長期は、土が乾いたらしっかり水をやる。秋になって葉が落ち始めたら、水を減らしていく。寒さには弱いから、冬は暖かい場所に置かないといけない」
「冬も気を使うんですね」
「そうだね。寒いところで土が湿っているのはよくない。水を切ればいいというものでもないけど、温度を見ながら慎重にね」
「うちだと、冬は室内に入れるしかないな」
「それがいいと思うよ。日当たりも確保してあげて」
直人は鉢の値段を尋ねた。
「これは、いくらですか?」
「二万八千円」
「なるほど」
直人は少し考えた。
「思ったより手頃ですね」
「そう? 高いと思う人もいるよ」
「いや、これだけの株なら」
緑川は笑った。
「値段の感じ方は人それぞれだからね」
直人は財布を取り出しかけて、もう一度鉢を見た。
「これ、買ってもいいですか?」
「もちろん。だけど、置き場所は大丈夫?」
「日当たりのいい窓辺があります」
「冬は?」
「室内に入れられます」
「じゃあ、いいんじゃないかな」
緑川が鉢を持ち上げようとすると、直人は少し慌てて言った。
「あ、ちょっと待ってください。写真を撮ってもいいですか?」
「いいよ」
直人はスマートフォンを取り出し、何枚か撮影した。
正面から一枚。少し斜めから一枚。棘の並びが分かるように、幹の上部を近くから撮る。
撮り終えると、画面を確認した。
「やっぱり実物の方がいいな」
「写真だと、棘の感じが分かりにくいからね」
「そうなんですよ。写真って、実物をそのまま写しているようで、全然違うんです」
「そういうものかね」
「光の当たり方で、幹の色も変わるし。形だって、見る角度で印象が違う」
直人は画面を緑川に見せた。
「これ、さっき撮ったんですけど、なんか平面的でしょう」
「そうかな。よく撮れてると思うけど」
「いや、実物はもっと奥行きがあるんです」
「じゃあ、写真もまだまだだね」
「厳しいなあ」
直人は笑った。
鉢を包んでもらう間、直人は温室のベンチに腰を下ろした。
「緑川さんは、ここで何年くらい植物を育ててるんですか?」
「ずいぶん長いね。何年だったかな」
「そんなに長いと、育て方も分かってくるんでしょうね」
「分かることもあるけど、分からないこともあるよ」
「そうなんですか」
「同じ種類でも、株によって違うからね。毎年同じように育てても、同じようになるとは限らない」
直人はうなずいた。
「仕事も似たようなところがありますね」
「仕事?」
「写真です。以前うまくいった撮り方が、次もうまくいくとは限らない。相手も違うし、光も違うし」
「じゃあ、毎回初めてみたいなものだ」
「そうかもしれません」
直人は少し間を置いてから話し始めた。
「最近、仕事が減ってきてるんです」
「そうなの」
「前は、撮影の依頼が来たら、どう撮るか考えるのが楽しかったんですけどね。今は、納期とか予算とか、次の仕事につながるかとか、そんなことばかり考えてしまって」
「忙しいんだね」
「忙しいというより、落ち着かないんです。若いカメラマンがすごい写真を載せてると、つい見ちゃうし。自分より後から始めた人が、大きな仕事を取っていたり」
「それは気になるね」
「気にしないようにしてるんですけどね。見なきゃいいのに、寝る前に見ちゃうんですよ。見たところで、いいことなんて一つもないのに」
「寝る前はやめた方がいいね」
「分かってるんですけど」
直人は苦笑した。
「この前も、昔から付き合いのある会社から、撮影の仕事を別の人に頼むことにしたって連絡があって」
「それは残念だったね」
「ええ。担当者からは『また別の機会に』って。便利な言葉ですよね、あれ」
「そうだねえ」
「その日は、家で一人で飲みましたよ。別に酒が好きなわけでもないのに。翌朝、頭が痛くて、何やってるんだろうって」
緑川は笑わなかった。ただ、包みかけた鉢をいったん置いた。
「仕事がなくなると困るしね」
「そうなんです。生活もありますし。機材のローンもまだ残ってるし」
「それは現実的な話だね」
「でしょう。好きなことを仕事にできて幸せですね、なんて言われると、たまに腹が立つんですよ」
直人は自分で言って、少し笑った。
「すみません。愚痴ばっかりですね」
「いいよ。ここは植物を見るところだから、愚痴くらい出るよ」
「そんな場所でしたっけ」
「今、そうなった」
二人は笑った。
直人はベンチの端に置かれた小さな鉢を眺めた。
「自分では、まだやれると思ってるんです。でも、周りから見ると、もう違うのかもしれない」
「藤井さんは、写真を撮るのが好きなんだよね」
「はい」
「じゃあ、撮ればいいんじゃないの」
「仕事がなくてもですか?」
「仕事じゃなくても、撮れるだろう」
直人は少し考えた。
「撮れますけどね。仕事じゃない写真って、何を撮ればいいのか分からなくなってるんです」
「何でもいいんじゃないの」
「それが一番難しいんですよ」
「そうなのかい」
「仕事だと、撮るものも、撮り方も決まってますから。自分で好きに撮っていいとなると、逆に何も浮かばない」
緑川はアンボンゲンセの幹を見た。
「この株も、何を撮っていいか分からない?」
「いや、これは撮りたいですよ。形が面白いし」
「じゃあ、撮ればいい」
「そうですね」
直人は少し笑った。
「緑川さんは、植物を育てていて、飽きないんですか?」
「飽きないね。まあ、枯らすと腹は立つけど」
「腹が立つんですか」
「そりゃあ立つよ。大事にしてた株が腐ったりするとね。自分のせいだと思うと、しばらく見たくなくなる」
「緑川さんでも、そういうことがあるんですね」
「あるよ。何でもうまくいく人間なんていないだろう」
緑川は、鉢を持ち上げて棚の上に戻した。
「このアンボンゲンセも、いつ咲くか分からないよ。来年かもしれないし、もっと先かもしれない」
「咲くまで待つんですね」
「待つというより、育ててるだけだね。花を咲かせるために、毎日引っ張るわけにもいかないし」
「それはそうですね」
「まあ、咲いたらうれしいけどね」
緑川はそれ以上、何も言わなかった。
直人はアンボンゲンセをもう一度見た。
長い棘。灰色の幹。枝の先に残った葉。
写真に撮れば、きっと見栄えのする植物だろう。けれど、撮影しただけでは、この株がどれだけの時間をかけて今の姿になったのかは分からない。
「これ、やっぱり買います」
「うん。大事に育ててよ」
「花が咲いたら、写真を撮りに来てもいいですか?」
「もちろん。咲くまで何年かかるか分からないけどね」
「その時は、またカメラを持ってきます」
「楽しみにしてるよ」
緑川は鉢を紙で包み、棘が当たらないように周囲を丁寧に保護した。
「車まで持っていこうか?」
「大丈夫です。自分で持っていきます」
直人は両手で鉢を受け取った。
「ありがとうございました」
「こちらこそ。またおいで」
直人は温室を出た。
車に鉢を置き、運転席に座ると、スマートフォンを取り出した。
仕事用のSNSを開く。
新しい投稿がいくつも並んでいた。知り合いのカメラマンが、大きな広告撮影を担当したという報告もある。
いつものように、少し胸がざわついた。
直人は画面を閉じた。
代わりに、先ほど撮ったアンボンゲンセの写真を開いた。
何枚か見比べて、一枚を選ぶ。
仕事用のアカウントではなく、個人のアカウントに投稿した。
文章は短くした。
「パキポディウム・アンボンゲンセ。花が咲くのは、まだ先らしい。」
投稿してから、しばらく画面を見ていた。
反応はまだない。
「まあ、そんなもんか」
独り言を言って、スマートフォンを助手席に置いた。
その夜、直人は仕事机の脇にアンボンゲンセを置いた。
撮影用のライトを当ててみる。幹の陰影が浮かび上がり、棘の一本一本がくっきり見えた。
カメラを取り出そうとして、やめた。
今日は、撮らなくてもいい。
窓辺に移し、鉢の向きを少し変えた。
翌朝、直人はいつもより少し早く起きた。
アンボンゲンセを見ると、葉の先に小さな水滴が残っていた。昨日の夜、窓を少し開けていたせいかもしれない。
直人は鉢を持ち上げ、土の状態を確かめた。
水をやる必要はなさそうだった。
そのまま、元の場所に戻した。
それから数日後、以前から付き合いのある制作会社の担当者から連絡があった。
急ぎの撮影で、予定していたカメラマンの都合がつかなくなったらしい。
「藤井さん、今週の金曜日、空いてますか?」
「はい。大丈夫です」
「助かります。ちょっと商品の撮影なんですが、お願いできますか」
「もちろんです」
電話を切ったあと、直人は机に向かった。
久しぶりの仕事だった。
うれしかったが、すぐに次の仕事のことが気になった。これでまた声がかかるとは限らない。そう考え始めて、いったんやめた。
まずは金曜日の撮影だ。
そう思って、機材の準備を始めた。
撮影当日、現場に着くと、担当者が申し訳なさそうに言った。
「急にお願いしてすみません」
「いえいえ。声をかけてもらえて助かりました」
「やっぱり藤井さんにお願いしてよかったです」
その一言が、思っていた以上にうれしかった。
直人は帰り道、コンビニに寄って少し高い缶ビールを買った。
家に帰ると、アンボンゲンセが窓辺に置かれていた。
「お前は、相変わらずだな」
そう言って、缶を開けた。
それから数か月が過ぎた。
アンボンゲンセは、葉を広げ、夏の間に少しずつ幹を太らせた。
秋になると葉が黄色くなり、やがて落ちた。
直人は水やりを減らし、寒くなる前に室内へ移した。暖房の風が直接当たらない、日当たりのいい場所を選んだ。
葉がなくなると、少し寂しい姿になった。
ある朝、直人は鉢を見て言った。
「今年は、これで終わりか」
返事はない。
もちろん、あるわけもない。
直人は少し笑って、コーヒーを飲んだ。
その日の午後、仕事の打ち合わせが一件入った。
以前なら、帰り道に同業者のSNSを開いていたかもしれない。けれど、その日は駅前のカメラ店に寄り、前から気になっていた古いレンズを眺めて帰った。
買うほどの余裕はなかったが、久しぶりに楽しかった。
根の庭では、緑川が温室の奥で鉢の整理をしていた。
棚の空いた場所に、新しいパキポディウムを一つ置く。
隣には、アンボンゲンセの小さな株が並んでいた。
緑川は二つの鉢を少し離して置き、しばらく眺めた。
「こっちは、まだまだだな」
そう言って、鉢の向きを少し直した。
温室の外では、冬の風が吹いていた。




